「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
2福沢諭吉の乗船実現-2
福沢は、自分の努力が水泡に帰したと思うと同時に、英学の必要性を肌身で感じた。今までのように、オランダを介して日本に入ってくる知識で世界を知るのは不十分だと思った。長崎の出島に入ってくる西洋の知識、情報は、所詮、オランダという国を介して、オランダ人の耳が聞き、オランダ人の頭で理解されて日本人に伝えられた、いわば間接話法による西洋に関する伝聞の知識に過ぎなかった。
福沢は、日本人が直接自分の耳で英語で聞き、直接見なければ、正確に海外の情勢を把握、見極めることはできないことを悟った。
『自分で直接確かめないとだめだ』という思いを強くした。
このままでは、世界の趨勢を正しく理解できず、また、海外の列強に対抗できず、ひいては、西洋諸国の植民地にされてしまうという危機感を強烈に抱いた。
福沢の鋭い洞察力と柔軟な思考力が、敏感に動いた。
『これからの日本は、英学によって開かれる』
聡明な福沢諭吉は、その場で、蘭学から英学へ転向する決意を固めた。
英学に転じた福沢は、幕府御用の通詞森山栄之助に入門したり、蘭英対訳辞書を入手したりして勉強を始めた。しかし、英語の意味は辞書を片手にどうにかこうにか判るものの、発音とスペリングはどうにもならなかった。
福沢は、焦燥の日々を送った。
そういうとき耳に入ったのが、幕府軍艦咸臨丸の米国派遣であった。軍艦奉行は、木村摂津守であることを知った。
しかも、アメリカ人の船員も乗船すること、さらに、西洋の事情に明るく、アメリカに関する知見が豊富な中浜万次郎が通訳として加わることも知った。
英学を学び、英語に接し、西洋の事情を知ることができる千載一遇のチャンスだと思った。
『自分の目で直接確かめることができる』
何がなんでも咸臨丸に乗って、アメリカへ行きたいと思った。
そこで福沢は、日々親しく出入りしていた蘭学の総帥七代目桂川甫周(三十三歳)に頼み込み、桂川の義理の弟に当たる木村摂津守への紹介状を書いてもらった。
福沢の懊悩に気がついていた師の桂川甫周は、義弟の木村摂津守宛に細々とした紹介状を書き、愛弟子福沢諭吉に持たせた。
桂川家は、六代将軍徳川家宣から代々将軍家に仕える蘭学の奥医師であった。奥医師とは将軍やその家族、大奥の女性の診察や治療にあたる医師のことで、特に七代目桂川甫周は、外科の最高の地位である法眼(ほうがん)を務め、江戸築地の中通りにある桂川家は蘭学の総本山と見なされていた。
七代目甫周はオランダ流の外科を専門として、漢方医が多い奥医師のなかでは、ひときわ異彩を放っていた。
また、当時、日本人がオランダ人に接触することが厳しく制限されていたなか、桂川家だけは、毎年、長崎出島のオランダ商館長が将軍に拝謁するため江戸城に赴いて来た際に、オランダ人と直接に対談することを徳川将軍から特別に許されていた。
そのため、桂川家には連日、海外の最新情報を求めて、柳河春三、神田考平、箕作秋坪、成島柳北、宇都宮三郎などの蘭方医や蘭学者がこぞって出入りしていた。
江戸に出てきた福沢諭吉も、日ならずして桂川の蘭学サロンに加わった。
ところで、逸話となるが、桂川甫周は、弘化四年(1847)、数え年二十一歳のときに十二代将軍徳川家慶の奥医師となり、次いで法眼に叙せられた。