「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
2.福沢諭吉の乗船実現-1
木村が江戸城内において軍艦奉行を拝命し、摂津守を名乗り、咸臨丸乗組員の人選を一任された直後、木村摂津守の邸宅に福沢諭吉と名乗る中津藩江戸屋敷に住む若い武士が訪れてきた。
身長五尺七寸(173センチメートル)、体重十九貫(72キロ)と、木村喜毅に勝るとも劣らぬ体格の持ち主だった。
木村の義兄に当たる桂川甫周(ほしゅう)の紹介状を携えていた。
内容は、『福沢本人の強い希望があることから、是非とも咸臨丸乗組員の一員に加えてやって欲しい』というものだった。
福沢諭吉は、その前の年に、中津藩倉屋敷がある大阪から江戸に出てきたばかりだった。
二十七歳の福沢は、
「中津藩邸内で蘭学を講じている一介の若輩者にすぎません」
と、自らを卑下した言い方で自己紹介をした。
木村摂津守は、福沢の風貌、身のこなし、簡にして要を得た話しぶりからその非凡を察した。話を交わすうちに、福沢の学問と識見の高さを知り、並々ならぬ人物であることを悟った。
桂川甫周の紹介状は、福沢の現状と悩みを詳細に記した丁寧な内容のものだった。
福沢が稀なる逸材であることを見抜いた木村摂津守は、その場で福沢諭吉の願いに応え、四歳年下の福沢に向かって同じ目線で答えた。
「福沢さん。ぜひ、一緒にアメリカへ行きましょう」
福沢諭吉は子供の頃から『門閥制度は親の仇でござる』と心に決めて生きてきたが、このとき木村が示した丁寧で、親しげな態度を見て、今までの想いを抜きにして、目の前の門閥家の木村摂津守に対して何ともいえない親近の情を抱いた。
このときの出会いが、終生、互に「木村さま」「先生」と呼び合う仲の、切っても切れない固い絆の始まりだった。
この頃の福沢諭吉は、完全な自信喪失の状態にあり、また、人生の岐路に立たされていた。
福沢は、江戸に下ると同時に開港したばかりの横浜へ赴き、外国人に接してみた。
横浜へ行くまでは蘭学は万国に通じるものと確信していた。ところが、外国人居留地に入ってみると、それまで勉強してきたオランダ語が実地の役に何も立たないことを自ら体験して愕然とした。
商店の看板も瓶のラベルも読めず、話す言葉も全然通じなかった。
今まで死に物狂いになってオランダの書物を読み、勉学してきたが、現実には蘭学はまったく使い物にならなかった。
やっとのことで、居留地に住む知り合いのドイツ人と出会い、筆談で居留地の情況を教えてもらった。
そこで、居留地では英語が公用語として使われていることを初めて知った。