「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
1.咸臨丸渡米の経緯と準備ー9
『くそ、おもしろくもねぇ。俺を低く見積もりやがって』
勝は、城中という場所柄を弁えず、内心を隠そうともせず、ぞんざいな口調で言った。
「でえじょうぶだよ、木村さん。俺たちには、海軍伝習所の仲間や頼りになる塩飽(しわく)や長崎の水主(かこ)がたくさんついてるよっ」
軍艦奉行木村摂津守にとって、頭の痛い問題が残された。
それは、「是非、渡米したい」という勝麟太郎の宿志を果たしてやることはできたものの、その処遇は、木村が幕府に願い出たとおりにはならなかったことだった。
木村は、このときの次第を次のように『日記』に記している。
『抑(そもそ)も此の航海は、今度我国より遣わさる使節の海路の警備及び航海練習のため、我が軍艦を派出せんとの議により此事に及びたるなり。然るに西洋諸国にては軍艦に一定の規則ありて、乗組の士官をはじめ夫々相当の位階俸禄を付与し、服章其の他庖厨(ほうちゅう)の事に至るまで、平日よりの準備至極行き届きたるものなるに、我邦は創立日猶浅く、開港の約は巳に結ばれしも尚鎖港攘夷の論囂然(ごうぜん)として鼎の沸くが如く、政府の方針も確定せしに非ざれば、軍艦の規則など設けんこと中々思いも寄らず、和蘭より取り入れたる一、二の軍艦ありといえども空しく近海に碇泊して、僅かに運輸用に供するのみ。されば乗組士官も一定の人員なく、僅かに十口或は五、七口の俸米を給するのみ。(注:口は口米(くちまい)のこと。一口米は一日に米五合、五口は一日に米二升五合をいう)。然るを此輩をして万里の波濤を冒し生命を賭するの航海をなさしめんとす。至難の事に非ずと云わんや。
余は出航前此事を政府に上言し、応分の俸給位階を定め、其規則を設けんことを乞いしに毫も省せられず。さればとて余が輩若し此行を辞せば外に代るべき人なく、我国海軍の端緒を啓かんとするの盛挙も忽ち瓦解せんこと、真に千載の遺憾なれば、そは此行を首尾能く終わり後の事と定め、一死を決して其命に従い、乗組の人々にも懇々慰論し、早々に其準備をなして発纜(ぱつらん)(出帆)の運びに至りしなり』
草創期の幕府海軍にはまだはっきりした海軍としての、体制、職制が整っていなかった。そのため、勝麟太郎の正式な職名は船将(艦長)ではなく、軍艦操練所の教授方頭取のままだった。
また、勝の俸給は、伝習所時代の百俵扶持から二百俵十五人扶持と二倍になったが、木村への加増とは比べものにならかった。
勝麟太郎は、高く自己評価していた己の才覚を無視した幕府の役人たちを恨んだ。
「奴らは、俺の才智、能力に見合った処遇をしなかった」
これが、勝麟太郎の幕府に対する抜きがたい不平、不満となり、咸臨丸の往路航海における船の上での木村摂津守への八つ当たりとなり、ひいては、上官である軍艦奉行木村摂津守への勝の無礼な態度が、日本人士官から激しい反発を買う原因にもなった。
勝麟太郎のこの態度は、サンフランシスコに上陸するまで変わることはなかった。