勝海舟
「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
1.咸臨丸渡米の経緯と準備ー8
木村図書(三十歳)が江戸城に呼ばれてから四日後の安政五年十一月二十八日、木村は、ポーハタン号に乗ってアメリカへ渡る使節の面々及び教授方頭取勝麟太郎(三十八歳)らとともに、
「亜墨利加国江(アメリカこくへ)為御用罷越候付、御暇被仰出(ごようのためまかりこしそろにつきおいとまおおせいださる)」
と、アメリカへ向けての出立を正式に命じられた。
アメリカへの出立を正式に命じられた木村図書(喜毅)は、軍艦奉行に進み、摂津守を名乗り、従五位下に叙せられた。
木村摂津守喜毅は軍艦奉行として護衛艦に乗船、日本国初の太平洋横断航海の全責任を負うことになった。
正式命令の儀式が終わり部屋から退出した木村摂津守に、身長五尺一寸(156センチメートル)の小柄な勝麟太郎が足早に追いつき、辺り構わず声高に話しかけた。
「木村さんよ。俺たちは、これから、すごいことをやるのだ。俺たち日本人が、日本国の軍艦で、パシフィック・オーシャンを渡るのだぜ」
このとき勝は、『太平洋』のことを『パシフィック・オーシャン』と呼んだ。
それは、江戸時代には日本人が海を渡って海外へ出ることはなかったので、世間には『太平洋』という日本語はまだなく、鎖国が解けた江戸末期になってから、英語の『pacific ocean』という言葉が外国から伝わってきていたからだった。
『太平洋』という言葉が日本人の間で定着したのは、明治・大正期になってからといわれている。
木村摂津守が、力強く応じた。
「がんばろう。勝さん」
徳川将軍から命を受けた木村摂津守は、幕府軍艦を単独でアメリカ国へ差し向けることは、徳川幕府が海外の列強に対して仕掛けた大戦(おおいくさ)だと捉えた。木村の胸には、『必ず成し遂げねばならない』という緊張が走っていた。
胸の奥で反芻した。
『今回のお役目は、徳川の軍艦を率いてアメリカへ渡るという命がけ戦(いくさ)だ。なにが何でも勝たねばならない。そのためには、伎倆に優れた乗組員をそろえ、万端の軍資金を整えなければならない』
一方の、木村より七歳年上の勝麟太郎は、木村に声をかけたものの内心大いに不満だった。
予想外の幕府人事の発令だった。
勝は、別船の艦長として航海全般の責任者になるものと思っていた。
勝の狙いは、自分が総指揮者となって日本国軍艦をとりしきり、日本人だけで操船し、自力でアメリカへ渡り、渡航の成功を果たすことで、己の才覚を低いと見下している幕閣たちに見せつけることにあった。
そうすることで、門地の低さを補ってあまりある己の巨才を徳川幕府に認めさせようとしたのだ。
ところが幕府は、勝のもう一段上に、七歳年下の木村摂津守を軍艦奉行として据え、司令官(アドミラル)の役目を与えた。
年下の上司に仕えるはめになった勝の心中は、憤怒の思いで一杯だった。