「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
1.咸臨丸渡米の経緯と準備ー7
海軍伝習所の教科内容は、軍艦の操船技術を学ぶ航海術だけではなく、造船術、機関術などの専門技術と、それらの技術習得の前提となる数学、物理学、力学、天文地理学などの諸学問であった。それに実地教育的な船具、運用術、砲術、などを加えたものが教科の全内容とされた。
軍医士官ポンペ・ファン・メーデルフォールトによる医学伝習は、物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学の嚆矢となり、ここの長崎養生所、長崎英語伝習所が、後の長崎大学の基になった。
また、同じく併設された飽浦(あくのうら)修繕船工場、長崎製鉄所は、その後の長崎造船所の前身となった。
しかし、安政四年(1857)四月に江戸築地の講武所内に軍艦教授所(2年後の安政六年に『軍艦操練所』と改名)が新設されると、同年三月に第一期の総監永井尚志以下多数の幕府伝習生が教員として築地に移動してしまい、長崎に留まった伝習所生の数は四十五名程に減った。
永井の後任として海軍伝習所の第二代目総監を勤めることになった木村図書は、オランダ人のライケンやカッテンディーケらと交友関係を持つことになり、国際人としての視野を広く築く機会を得た。
また、同年八月には、徳川幕府がオランダに建造を依頼、発注したヤパン号を長崎で受け取り、その後、ヤパン号を咸臨丸と日本名に改名した。
翌年の安政五年には、咸臨丸で五島、対馬、鹿児島などへ練習航海を行い、薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)に会い海軍事情を語り合うなどをして、人脈と人間の幅を広げた。
そうしているうちに、幕府が長崎海軍伝習所の運営方針を転換することになった。
それは、江戸から遠方の長崎で伝習所を維持し続けることは、幕府の財政にとって大きな負担となることから、幕府の海軍士官養成を江戸築地にある軍艦操練所に一本化することにしたのである。
こうして、安政六年(1859)二月、長崎海軍伝習所は閉鎖された。
同年六月二十五日、中仙道を経て江戸に帰府した木村図書は芝新銭座(しばしんせんざ)に居を定めた。
このような経緯を経て、木村図書は軍艦奉行、護衛艦の提督としてアメリカへ渡ることになった。