「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
1.咸臨丸渡米の経緯と準備ー6
ちなみに、徳川幕府の目付は、若年寄の管轄の下、江戸城本丸と西の丸におかれた。定員は十名、役高は一千石。その権限は、旗本、御家人の監察や、諸役人の勤怠など政務全般に及んだ。有能な人材が任命され、後々奉行に昇進する者が多くいた。老中が政策を実行するに当たっても、目付の同意がなければその政策の実施は不可能であり、将軍や老中に直接、面と向かって不同意の理由を述べることもできた。
まさに、「目付にその人を得ると得ざるとは、一世の盛衰に関する」と評される程のものだった。
木村が、目付の業務内容について次のように詳しく書き記している。
『監察の職たるや位階甚だ高からずといえども其の権限頗る盛んにして、都(すべ)て閣老へ直ちに接待して事を論じ、又緒向より出たる緒願・緒伺書等の可否を一応必ず監察にて評議し、其の議上る(たてまつ)也。』
ともあれ、勘助の空前の抜擢は旗本すべての羨望の的となった。
安政三年(1856)十二月、二十七歳の勘助に本丸目付のまま長崎表御用取締の命が下った。
取締御用の業務内容については、『大要』によると次の通りである。
『此の御取締御用というのは、正徳年中(1711年)に始まり、毎年御目付は一人ずつ交代して長崎奉行の職務を監察し、公事訴訟の裁断に立会い、南蛮通商の事を視察し、或は其謀議に参じ、専ら土地利病(りへい)を考え、江戸に差立てる公状は奉行と連署し、又奉行事故ありて事を視る能わざるときには、之に代わりて兼理するの重任なり』
幕府から命を受けた木村は、勘助改め図書を名乗り、安政四年(1857)二月、長崎に下り、長崎海軍伝習所取締及び医学館学問取締を本務としつつ、上記のような奉行との協力業務も行った。
ところで、長崎海軍伝習所の開設と閉鎖の経緯は次の通りであった。
嘉永六年(1853)にペリー提督が率いる黒船艦隊によって江戸湾が蹂躙され、挙句に鎖国を破られ、開国を強要された徳川幕府は、海防体制強化の重要性に目覚め、必死になって力を注いだ。
まず、西洋式軍艦の輸入を決め、さらに、オランダ商館長の勧めにより幕府海軍士官を養成する機関の設立を決めた。
続いて、安政二年(1855)、長崎西役所(現在の長崎県庁)に海軍養成機関を開設し、幕臣や雄藩藩士から候補を選抜し、オランダ軍人を教師に仰ぎ、蘭学や航海術などの諸科学を学ばせ始めた。これが、長崎海軍伝習所の始まりである。
オランダからは、ペレス・ライケン以下の第一次教師団、後にヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ以下の第二次教師団の派遣を受けた。さらに、練習艦として蒸気船「観光丸」の寄贈も受けた。
伝習所の目的は、オランダに発注した蒸気船二隻(後の「咸臨丸」「朝陽丸」)の乗組員の養成にあった。そこで、安政2年に第一期生として幕府伝習生三十七名が入所した。
翌安政三年には、第二期生として長崎など開港地の沿岸警備要員の養成のために、長崎地役人などの幕府伝習生十二名が加わった。
さらに、近代的な海軍兵学校においては若年の段階からの士官養成が必要として、若手中心の第三期生二十六名が入所した。
また、幕府伝習生以外に諸藩からの伝習生の受け入れも行われた。薩摩藩・肥後藩・筑前藩・長州藩・佐賀藩・津藩・備後福山藩・掛川藩などから合計百二十八名が伝習生として参加した。
特に、福岡藩と交替で長崎の警備に当っていた佐賀藩は、藩主の鍋島直正が西洋の学術、海軍に非常な関心を抱いており、また、早くから鉄製砲鋳造の必要性を感じていた。
嘉永年間には反射炉をはじめとする鋳造砲設備を整え、さらに、長崎海軍伝習所が開設されると、造船技術習得のために、四十七名の藩士を海軍伝習生として送り込んだ。