1.咸臨丸渡米の経緯と準備ー5

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

 

1.咸臨丸渡米の経緯と準備ー5
次に、嘉永元年(1848)十九歳で昌平坂学問所試験の乙科(若い学生を対象とする試験)に合格し、出世の足掛かりをつくった。
そうして、日本が鎖国を解き開国した翌年の安政二年(1855)二月五日、二十六歳の誕生日に、講武所出役(出役とは、江戸幕府の職制で、本職を持つ者が、臨時に他の職を兼ね勤めること)を命じられた。
講武所とは、番所調所(ばんしょしらべしょ)、長崎海軍伝習所と並んで、開国後に老中阿部正弘によって創設された新しい機関だった。番所調所、長崎海軍伝習所が、創設当初から兵書に関する洋書の翻訳、海軍軍人の養成を目的としたのに比べ、講武所は、当初は二百年余の太平に馴れきった旗本を鍛え直す武芸の道場であったが、最終的には洋式の陸軍軍人を育てる場所となった。
創設当初の講武所は、古来の剣・槍・弓術・水泳に加え砲術が主な修練科目だったが、幕末までの十数年の間に、砲術を主とする歩・騎・砲の三兵の陸軍が小規模ながら編制され、槍や弓は完全に廃止された。
あるとき勘助は、親友の岩瀬忠震から、講武所に勤める人たちの人物評価を内々に尋ねられた。
そこで、跡部甲斐守や土岐丹後守、久貝因幡守、池田甲斐守、稲葉兵部少輔、鵜殿民部少輔などについての忌憚のない人物評を答えたところ、勘助が下した評価内容は岩瀬が予め抱いていた人物評価とまったく同じであったため、勘介の人物眼に感じ入った岩瀬はその話をそのまま老中阿部正弘に報告した。岩瀬は当時、目付局にあって海防掛として辣腕を振るい、阿部正弘から高い評価と厚い信任を得ていた。
この人物考課の実施は、阿部正弘から岩瀬忠震に対する内々の指示によるものだった。
阿部は、岩瀬から受けた報告により木村勘助の正鵠を得た観察眼を高く評価して、早速に勘助を目付に抜擢した。
岩瀬忠震が陰に日向に、幕閣の中で勘助の引き立て役を演じた。
安政二年(1855)九月、二十六歳で西の丸目付に抜擢された。
異例の大抜擢だった。
後年、木村喜毅(芥舟)の長男浩吉が、父の顕彰のために編んだ『木村芥舟ノ履歴及経歴ノ大要』(以下、「『大要』と記す)を作成した際に、父芥舟から聞き取ったこのときの様子を次のように記している。
『安政二年九月十五日、前夕参政連名の奉書により五ッ半(午前9時)登営せしに、御座の間に召し出され、御直に西丸目付に任ぜられる旨仰せ渡されたり。従来両番より監察(目付)に任ぜられるは真に不次の特典にして希に見る所なり。我等如き両番格の小吏より昇るは古来いまだ其例なき所なり。』
両番から目付に登用された希な例としては、岩瀬忠震、永井尚志があるが、いずれも両番の番士の実務経験を経た後のことである。木村勘助のように、両番の実務経験もなく、いきなり目付の要職に昇る例は、徳川幕府始まって以来、空前のことであった。
さらに勘助は、翌年の安政六年二月、本丸目付を命じられた。このとき、浜御殿の役宅を出て、築地に居を移した。