幕末に詠まれた歌 安司弘子

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 戊辰白河戦争エピソード

   幕末に詠まれた歌

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

たぎり立つ時代の転換期。幕末には多くの歌や辞世が詠まれました。今回は歌で見る戊辰の悲哀を紹介します。

 

戊辰白河悲歌(エレジー)

 

うらやまし 角をかくしつ 又のべつ

      心のままに 身をもかくしつ

この歌は、自刃白虎隊でただ一人生き残った飯沼貞吉の父時衛が、息子貞吉のために請い西郷頼母が詠んだ。

会津藩家老 西郷頼母 

西郷は、主君の京都守護職受諾を諌めて以来、恭順・非戦をつらぬき、藩内で孤立しました。にもかかわらず、白河口の総督に任命されて惨敗。籠城のさいには、夫人をはじめ一族二十一人が自刃し、函館まで闘った弟は獄死。

〈自由自在に自身の角も身も隠せるカタツムリが羨ましい〉と嘆くこの歌の碑「蝸牛歌碑」は、頼母が指令した、あの稲荷山防塁跡に平成十九年に建てられました。

 

思ひきや わが身の上と しら河の 

関路をやがて 越えぬべしとは

会津藩主義姉 照姫

照姫は、会津藩と縁戚の上総国飯野藩に生まれ、会津藩主の養女となりましたが、のち

藩主に姫が授かったので、他藩に嫁ぎました。

これは、彼女が離縁して江戸藩邸に戻り、会津に引き揚げる途中に白河で詠んだ歌です。

この「しら河」には、知らなかったをダブらせています。

 

老いぬれど 又も越えなん 白河の 

関のとざしは よしかたくとも

会津藩 新島八重

山本八重は、鳥羽伏見で弟が、会津戦争では父が戦死。

敗戦後に八重は、薩摩藩に捕らえられ、解放されてのち、京都府政のブレーンとなっていた兄、山本覚馬を頼り母と共に京都へ。

同志社大学創始者となる新島襄と結婚し、教育や社会福祉活動に尽力しました。

この歌は、帰郷する会津への心情を、「白河関」に託しています。

 

去年の夏 来ましゝ君が をくるまの

       轍を又も みるよしもがな

会津藩 山川浩 

山川浩(大蔵)は、藩主松平容保が京都守護職に就任すると同行。樺太の国界問題では、ロシアに派遣されています。戊辰には日光口を指揮。戦後、陸軍少将。男爵。

晩年、白河に来て、松平楽翁公の別荘があった桜山に住んでいます。

ある夏の日、旧会津藩主松平容保が、車でこの別荘を訪れました。この歌はそれを懐かしんでいますが、「お車の轍」は、あの戊辰の日々に二人が過ごした艱難の轍でした。

 

さくら山 君が名残りの 言の葉の 

花やいくよに さき匂ふらむ

会津藩 高木盛之輔

高木は、維新後検察庁に勤務し、検事として白河にも駐在しています。

山川浩が白河の「桜山」でつくった歌を『さくら山集』として編纂。市内松並にある会津藩墓所の「田辺軍次君之碑」の撰文も書いています。

高木の妹は、照姫の祐筆で、白河戦争で新選組を率いた山口二郎(のち藤田五郎)の妻となった高木時尾です。

 

夢よ夢 夢てふ夢は 夢の夢

浮世は夢の 夢ならぬ夢

幕府老中 小笠原長行

小笠原家は、奥州棚倉から肥前の唐津へ国替えしています。

長行は白河藩主の阿部正外とともに、老中職として、対外危機と反幕の状況下で幕政を担いました。

幕府が崩れると、江戸を出て、白河・棚倉・会津から函館へと流転しました。

 

都(つ)由(ゆ)跡(と)知流(ちる) 伊笑智母奈謄(いのちもなど)香(か) 遠羊(お)蹄(し)加良(から)武(む) 

蚊禰而佐佐宜之(かねてささげし) 和我美登於(わがみとお)毛(も)倍(え)婆(ば)             

梅雨と散る 命もなどか 惜しからむ

かねて捧げし わが身と思へば

土佐藩 辻精馬

白河市本町の長寿院。土佐藩墓群のなかに、和歌が漢字だけで刻まれた墓標があります。「都由跡知流」は、「つゆとちる」の万葉仮名です。

辻精馬は、土佐の村の庄屋で、二十二歳の徒士格の郷士。西郷の羽太村で戦死。この歌は、みずからしたためた遺詠です。

 

今さらに 云ふ言の葉も なかりけり

御国の露と 消ゆるうれしさ

長州藩 野邑伝

長寿院の野邑の墓にこの遺詠が刻まれています。彼は、長州藩の元藩士でしたが、戊辰戦争では大田原藩に仕官しているので、墓の傍らの灯篭には、「大田原藩」と見えます。

 

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長寿院の官軍墓地 入り口で迎えるのは大久保利通・岩倉具視・木戸孝允が寄進した二基の灯籠

 

白河では長州兵として戦死。

 

石柱に 官軍墓地と 彫り深し

武運つたなく 果てしみ骨ら

土佐の高知の女性

昭和末に長寿院の「官軍墓地」をお詣りに来られた松本ふじ子氏の歌。

この「石柱」は、「慶応戊辰殉国者墳墓」と彫った石柱を指しています。

 

進み出て 績(いさお)を尽くした この神の

     今は偲びて たつる石ぶみ

大垣藩・酒井元之丞の妹

明治三十九年になって、酒井の妹かつが、甥と一緒に、大垣軍が駐屯した白坂宿の兄の戦跡を訪ねて来ました。銃隊隊長だった兄、元之丞を慕って捧げた歌を碑に刻み、兄が戦死した跡に建立しました。

 

義のために つくせしことも 水の泡

打ちよす浪に 消えて流るる

新選組 横倉甚五郎

武州多摩郡出身。天然理心流を修め、局長近藤勇の隊士募集に応じて新選組に入隊。

鳥羽伏見から歴戦し白河では歩兵指図役として戦い、函館まで転戦し、降伏ののち獄死。手記『元新選組連名』がある。

 

早き瀬に 力足らぬや 下り鮎

新選組隊士 安富才輔 

白河では隊長山口二郎に次ぐ助役として奮戦しました。

会津に転戦し土方と合流。函館戦争では土方の最期を看取りました。

これは土方に手向けた追悼句。日光口で負傷し、療養していた土方は、六月二十四日、白河戦線で復帰し、会津街道上小屋宿に泊陣しました。

 

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「田辺軍次君之碑」(松並 会津藩墓所内)

5月1日の大敗は、西軍の道案内をした大平八郎にある、と怨みを持つ元会津藩士田辺軍次は、

会津藩再興の地・斗南(下北半島)からひと月をかけて白坂宿に至り復讐を遂げました。