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「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
1.咸臨丸渡米の経緯と準備ー4
昔から、表御能は、朝廷からの勅使の接待、将軍即位式など重要な儀式のときに、江戸城の大広間で演じられるが、その際は、大名をはじめお目見え以上の者などが皆拝見することを許された。
しかし、奥御能はまったく奥向きの、将軍の個人的な宴であって、ときには、将軍自ら能を舞われることもあった。拝見を許される者は、老中、若年寄、将軍の側に仕える近習に限られていた。表方の諸役人は主要な三奉行(寺社奉行、町奉行、勘定奉行)といえども決して拝見を許されなかった。
上様は、この奥御能に木村父子を二度もお招きになった。木村父子が奥御能を拝見できることは、真に世にも稀な恩典といえることだった。
また、ある年の三月、上様が浜御殿へ磯遊びに来られ、御苑内の海岸を散策されたとき、勘助を召して「案内いたせ」と命じられた。
先に立って歩いていた勘助は、海辺の岸の芝原の中にたくさんの石がころがっているのに気がついた。
そこで、上様の前跪(ひざまず)き、「この草道には石がたくさん隠れてころがっています。危ないので用心してください」と申し上げたところ、上様は侍臣を顧みて「よく気のつく子じゃ」と言ってお笑いになった。
そして、身を中腰にかがめられて、目を伏せて控えている勘助の肩に軽く手のひらを置き、やさしく勘助の顔を覗き込まれた。勘助は、将軍の手のひらの温もりから、家慶のやさしい人柄を心中深く感じた。
桔梗の間を退出して江戸城の廊下を歩く木村喜毅は、次いで、少年期に授かった教育環境とそこで知り合った人びとを思い返した。
勘助は、将軍家慶に初お目見えした年の三月から、昌平坂学問所に通い始めた。
学問所において勘助は、優れた学者であり、外交家でもあった林復齋(十一代林大学頭)に学んだ。
同門の先輩には、林晃(林復齋の子)、掘有梅、岩瀬忠震(ただなり)など当代一流の人物がキラ星の如くおり、勘助は彼らと共に朝夕切磋講習した。
後年、木村芥舟が、「生涯の知己として心を許した人物が二人いた」と述べている。
その一人が岩瀬忠震であり、もう一人が福沢諭吉だった。この二人の知己のうちの一人である岩瀬忠震とは、この時が最初の出会いだった。
昌平坂学問所に岩瀬忠震がいたことは、勘助のその後の人生展開に大きな影響を与えることになった。
単に正統の儒学を学んだという以上の大きな意味があった。並みの旗本の子弟では到底望めない先生、先輩たちだった。
彼らと親しくなれたことが、勘助が異例の速さで出世する契機となった。
これも偏に、徳川将軍家の覚えが目出度いことと、出自の良さによるものだった。
勘助は、弘化元年(1844)十五歳のとき、両番格、浜御殿添奉行を命じられた。奉行見習から昇進して副奉行に昇った。
勘助がいかに異例の若さで出世のスタートを切ったか、年齢が一回り(十二歳)先輩の岩瀬忠震が両番・番士として初出仕したのは三十一歳のときであり、勝麟太郎が両番上席格に進んだときは三十七歳であった。
勘助は、この両番格添奉行を約十年勤めた。