「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
1.咸臨丸渡米の経緯と準備ー3
七代目の木村喜毅は、幼少の勘助のときから、このような別天地の中で徳川将軍の私的で自由な振る舞いを身近に感じて育った。
喜毅は、その一方で、浜御殿に出入りする薬草園や製糖、製塩、染織の各工場で働く農民、職人、商人たちを、幼少の頃より身近に眺め、時には親しく言葉を交わし、そういう日常を経験することによって、庶民の気持ちを理解し、彼らと同じ目線が持てる、幅が広い、懐の深い人間に育った。
このようにして、木村喜毅は徳川将軍家への恩顧を深く感じて忠誠を尽くす武士に育つとともに、他方で、相手の地位や身分、年齢にこだわらない生き方ができる人間となった。
内命の式が終わり桔梗の間から退出しようとする木村喜毅に、大老井伊掃部頭から、
「四日後に再度登城いたすべし」
との命があった。
命を受けた木村は緊張した表情で、江戸城の大廊下を歩いた。
身長五尺八寸(176センチメートル)の、この時代にしては大柄といえる、堂々とした武士の木村喜毅は、このとき三十歳。
ゆったりと歩を進めながら、十七年前の天保十三年(1842)三月十三日に江戸城へ初出仕したときのことを思い返した。
あのとき、勘助、数え十三歳(満十二歳と一ヶ月)。
父喜彦(よしひさ)に連れられて登城した勘助は、江戸御祐筆(ごゆうひつ)部屋縁側(えんがわ)において、閣老水野越前守より浜御殿奉行見習を仰せつけられた。
記録によると、幕府の規則上、城中に出仕できるのは十七歳以上からであった。
勘助は、前例のない若さで初出仕を果たしたことになる。
旗本の間では驚愕の的の初出仕だった。
さらに木村は、その八日後の三月二十一日に浜御殿に遊びに来られた十二代将軍家慶(いえよし)に始めて拝謁したときのことを想った。将軍 家慶五十歳、父喜彦四十六歳。
上様は、勘助を一目見るなり非常にご満悦になられ、勘助を側近くに召され、「よい子じゃ、よい子じゃ」とやさしく言葉をかけられ、勘助の頭を愛おしそうに撫で、両手で顎に触るなどして深く慈しまれた。
さらに、庭園内の茶屋に勘助父子を招かれ、上様手ずからのお酌で酒を給われた。
お目見えの後も、勘助は将軍家慶の寵恩を一身に受けた。
上様は、吹上御苑の鷹狩や駒場野での狩に木村父子を召され、「鷹を使ってみよ」などと一緒に終日鷹狩や狩を楽しまれ、昼には憩所で一緒に昼餐を美味しそうに食された。
また、吹上御苑で山王の祭礼と力比べ(相撲)をご覧になったときも、木村父子を同行させ、一緒に見ることを許された。
さらに、尾張公の戸山別業(別荘)、大川端の清水家(御三郷)別邸、芝浜の紀州公別館などにも木村父子に同行を命じ、庭園を散策し、「魚を釣ってみよ」と池の魚を釣ることを許された。
特に、木村喜毅の脳裏に鮮やかに残っている将軍家の特別の思し召しは、奥御能に招かれたことであった。