「咸臨丸物語」
宗像 善樹
第1章 咸臨丸、アメリカへ往く
1.咸臨丸渡米の経緯と準備ー2
この日、他の遣米使節者への派遣命令に先立って、木村喜毅ただ一人に「登城せよ」との内命があり、将軍家茂の意向が伝えられた訳には、徳川将軍家代々と木村家代々との緊密な関係が背景にあったからに他ならない。
木村喜毅は、天保元年(1830)二月五日に江戸浜御殿(現在の東京都立『浜離宮恩賜庭園』)内の役宅で生まれた。
幼名は勘助(かんすけ)、隠居後は芥舟(かいしゅう)と号した。
父は木村家六代喜彦(よしひさ)(幼名は又助(またすけ))、寛政十年(1798)生まれ。母は医師丸山岱淵(たいえん)の長女船(ふね)である。喜彦の子には、ほかに喜毅より一歳年上の姉久邇(くに)がいた。
木村家初代昌高(まさたか)は、三代将軍徳川家光の三男である甲府城主の綱重(つなしげ)に仕えた。
徳川綱重の子綱豊(つなとよ)は、宝永元年(1704)、五代将軍綱吉の養嗣子となって江戸城に入り、名を家宣(いえのぶ)と改めた。
このとき、木村家二代政重(まさしげ)は家宣に従い江戸に上り、吹上奉行支配となった。身分は御家人で、石高は百俵であった。
徳川家宣は、綱吉が没することにより、五年後に江戸幕府第六代征夷大将軍となる。
政重に続く木村家三代茂次(しげつぐ)は浜御殿奉行となり、木村家四代喜之(よしゆき)はこれを継いだ。
四代目の喜之は将軍家の御覚えも良く、命により紀州へ赴き砂糖の製法を学び、城内の吹上御苑に製造所を設けて、毎年、砂糖を製造して上様の御用に供した。砂糖の余分があれば、将軍家の許しを得て商人に払い下げて利潤をあげ、その収入を小納戸(理髪、食膳など将軍の日常の用務を担当する部署)に収めた。
喜之は、その功によって旗本に列せられた。
木村家五代の喜繁(よししげ)は、浜御殿奉行を務める一方、将軍の命を受け、朝鮮人参の栽培や荒廃していた伊豆の
楠(くす)の林の修復などの改革を実現し、大きな功績と収益をあげ、身分は布衣(六位相当)に進んだ。
喜毅の父の木村家六代喜彦も浜御殿奉行に精励する一方、四代喜之と同様、将軍家の家政の再建に尽くし、家禄をそれまでの倍の二百俵に加増された。
ところで、浜御殿のある一帯は、江戸時代初期には葦が生い茂る海辺で、将軍家の鷹場であった。
承応元年(1652)四代将軍家綱の治世のとき、甲府藩主の徳川綱重にこの地が下賜され、綱重は海を埋め立てて下屋敷を建てた。下屋敷は甲府浜屋敷と呼ばれた。
綱重の子の徳川綱豊改め家宣が六代将軍になると、甲府浜屋敷は将軍家の別邸とされ、浜御殿と改称され大幅な改修がなされた。
七万坪に及ぶ庭園内に、海水を取り入れて林丘泉水をめぐらし、鴨場や梅林を作り、これらの景勝を将軍が観賞するための茶屋が置かれ、江戸を代表する名園に仕上げられ、代々の将軍が浜御殿で鴨猟や釣りなどの遊を行った。
さらに木村家は、将軍家の用に供するため、敷地内に薬草園や製糖、製塩、染織などの各種工場を次々と新設した。
浜御殿奉行の役宅は浜御殿の中に置かれ、数多くの配下を持ち、庭園の維持管理のほか、これら各種工場の経営にも当たった。
当時、江戸城表(おもて)においては、将軍と臣下の間は厳重に隔てられており、上段に座す将軍に対しては、老中といえども額を畳みに付すほどに平伏し、わずかに頭を上げて言上できるのが通例であり、とても将軍を直視することなど許されるものではなかった。
これに反し、浜御殿では、将軍は自由気ままに振る舞い、近習の者と間近に接し、腹の底から心おきなく笑いあえる、将軍家にとって唯一の寛(くつろ)ぎの場であった。