1. 咸臨丸渡米の経緯と準備-1

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皆様、お元気ですか?
「歴史こぼればなし」担当講師の宗像善樹です。
今回から以前私が上梓した「咸臨丸の絆:軍艦奉行木村摂津守と福沢諭吉」(海文堂刊)の改訂版を連載いたします。
新たな題名は、「咸臨丸物語」―軍艦奉行木村摂津守と福沢諭吉の絆ーです。
前作を読まれた方も、新たにな読者も、ぜひ、ご愛読ください。


「咸臨丸物語」
―軍艦奉行木村摂津守と福沢諭吉の絆ー

宗像善樹
目次

はじめに

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

1. 咸臨丸渡米の経緯と準備
2. 福沢諭吉の乗船実現
3. 咸臨丸乗組員の決定
4. 咸臨丸の往路航海
5. 咸臨丸、サンフランシスコに到る
6. サンフランシスコにて

第2章 咸臨丸、帰還す

1. 木村摂津守の無念
2. 咸臨丸の出港
3. 咸臨丸、ハワイに寄港

第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉

1. 福沢諭吉の激怒
2. 今泉みねの話
3. 木村摂津守と福沢諭吉の最後の会話

木村摂津守の家族

あとがき
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はじめに

慶応義塾大学の創始者・福沢諭吉は、二十七歳のとき、徳川幕府の軍艦奉行・木村摂津守喜毅(号は『芥舟(かいしゅう)』)に願い出て咸臨丸に乗船、アメリカへ渡ることができたことから、木村喜毅を終生「木村様」として報恩の念を持ち続け、木村喜毅は四歳年下の福沢諭吉の能力を認め、終生「福沢先生」と敬った。
もし、木村喜毅が明治新政府の要請に応じて出仕していれば、二人の間の逸話も後世にいろいろと紹介されたことだと思う。
だが、木村喜毅は幕臣としての生涯に徹し、歴史の表舞台から姿を消した。
そのため、木村家で語り伝えられてきた福沢諭吉との生涯の固い絆と交友秘話はあまり知られていない。
幸い、筆者の身内が木村芥舟の娘『清(せい)』の孫及び曾孫という関係にあることから、清が生前孫に語り聞かせた『太平洋往路航海における咸臨丸船上での事件や出来事の実相』と、帰国後の『木村喜毅と福沢諭吉の生涯に亘る深い親交の逸話』を知ることができた。
そこで私は、信頼できる文献や資料に加え、清や木村一族が語り伝えてきたこれらの『実相』と『逸話』を織り込んだ歴史物語を著し、世間に紹介しようと思い立ち、本作品を完成させました。
併せて、幕末期に、アメリカ・サンフランシスコへの日本国初の太平洋横断航海という快挙を成し遂げた咸臨丸乗組員の努力と苦闘を、読者の皆様に知っていただければ、この上もない喜びであります。

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

1. 咸臨丸渡米の経緯と準備-1

安政六年(1859)十一月二十四日、江戸城桔梗の間において、老中より木村図書喜毅(ずしょよしたけ)に対して、次の如き内命が下された。
時の徳川将軍は、十四代家茂(いえもち)、数え十四歳。(以下、特に記載がない場合は数え年齢)
大老井伊掃部頭直弼(かもんのかみなおすけ)が列座するなか、平伏する木村図書に向かって老中松平和泉守乗全(のりやす)が仰せ付けた。
「亜墨利加国江為御用被差遣候間、可致用意候」
(慶応義塾図書館編『木村摂津守喜毅日記』より。
以下、『日記』と記す)
続けて、松平和泉守が和らいだ口調で話しかけた。
「かねて聞き及びのことであろうが、この度、我が国とアメリカ国との間で締結した修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカへ使節団を送ることに相成った。
使節団の一行は、ハリス殿の好意によってアメリカ軍艦ポーハタン号に乗船し、サンフランシスコを経て首都ワシントンへ送ってもらう」
松平和泉守が一息つき、大老の井伊掃部頭に目をやった。
大老が促した。
「続けられよ」
「はっ」
和泉守が居ずまいを正し、頭を低く垂れた。
「上様におかれては、木村図書に特別の思し召しがお
ありでござる。
それは、我が日本国の軍艦を、使節団の海路を警備するための護衛艦として別船を仕立て、木村図書を軍艦奉行として差し遣わし、彼地(かのち)へ向かわせよ、との御沙汰である」
和泉守が付言した。
「なお、ご大老のご意向は、別船に乗り組む者たちの選抜、編制は、木村図書に一任するとのことでござる」
松平和泉守の話が終わり、井伊掃部頭が大きく頷いた。
平伏して話を承った木村が、井伊掃部頭に申し出た。
「おそれながら、別船の教授方頭取には勝麟太郎義邦を推挙致したく」
長崎海軍伝習所時代に一緒だった勝麟太郎が抱いている宿志『何としても渡米したい』という夢を実現させてやりたいと、敢えてその場で申し出た。
木村は、勝が以前より、その時々の外国奉行の水野筑後守や永井玄蕃守に何度も書状を送り、別船が仕立てられる場合は是非とも乗船してアメリカへ渡りたいと、密かに画策していたことを承知していた。
井伊掃部頭が、即座に応じた。
「すべて図書に任せる」
そして、言った。
「上様におかれては、彼地(かのち)における木村とその一行の行動はすべて木村の判断に委ねよ、という御沙汰がおありでござる」
これを聞いた木村図書は、『ポーハタン号で行く使節団の一行と護衛艦の咸臨丸が、無事サンフランシスコへ到着、合流できた暁には、木村も使節と共にワシントンへ上がるか、あるいは、咸臨丸に乗ってそのままサンフランシスコから日本へ戻るかの判断如何は、彼国におけるそのときの状況を見極めて判断してよいものと、自分に一任され、広い裁量の範囲が与えられた』と、心得た。
「畏れ多いことでございます」
喜毅は、徳川将軍家の木村図書への全幅の信頼を感じて両手を畳につけ、深く頭を下げた。