伴門五郎の生涯ー2

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万五郎さんが彫った石の蛙(カエル)  (右の写真は別の人の作品です)
異聞:彰義隊隊員 伴門五郎の生涯ー2

宗像善樹

そこで話題を本文冒頭の、私が祖父から聞いた話に戻しますと、私が布団の中で聞いた祖父の話の内容は略略、次のようなものでありました。
1.祖父は、門五郎を「万五郎さん」と呼び、「万五郎さんは徳川様へのご恩のために戦った偉いお侍さん」と説明した。
2.万五郎さんは、上野の戦争があった数日後の夜半、体中大けが、大やけどの状態で、「さらしもめん」に全身を巻かれて、棺桶(江戸時代の棺桶)に入れられ、棺に茣蓙(ござ)を被せられ、荒縄で荷車にしっかりと固定、載せられ、こっそりと祖父の実家の大間木村の土蔵に運び込まれた。
3.運び込んだのは、蕨村の岡田家の家人3人で、彼らは一様にみすぼらしい百姓姿に身を変えていた。
岡田家と岡村家が暗黙の裡に実行したこの東軍隊士の救出劇は、天領であったこの地方に住む人たちの、徳川家への報恩の念であったのだ。
4.尾間木村の岡村家は、すぐさま、敷地の一番奥にある土蔵の中に万五郎さんを匿い、実情を知る限られた岡村家の人間が手厚く看護した。小作人や近隣の者など外部の者には、万五郎さんの存在を極秘にした。さらに、名前を「門五郎」ではなく、「万五郎」と呼称を変えた。万五郎さんは一命を取り留めたものの、全身にやけどの跡が残り、手足も不自由な体になってしまった。
5.運び込まれた棺桶は、深夜に井戸の水できれいに血を洗い流し、そのまま土蔵の奥に置かれた。西軍の追求があったときに、万五郎さんを隠すためのものであった。
6.傷は治ったものの、単独歩行ができず、両指も満足に使えなくなってしまった万五郎さんは、近隣の目を避けて、万五郎が寝起きをした小さな居宅の横に聳えている欅の大木の下に座り、終日瞑想に耽り、あるいは、不自由な両手で石の彫り物をして、日々を送った。
7.当時青年期にあった祖父は、万五郎さんの世話をし、石の彫り物の手伝いをした。万五郎さんは、「徳川様の御代に帰るように」と願を懸けて『カエル』を懸命に彫った。
祖父は、そのカエルに丁寧に「やすり」をかけて、手伝った。
8.万五郎さんは、明治20年後期に亡くなった。突然の死であった。存在を消した万五郎さんを医師に診せることはできなかった。安らかな死に顔でありました。寿命を全うした万五郎さんの最期の言葉は、『とくがわさま』であった。
9.祖父は、万五郎さんの亡き骸を例の棺桶に容れて、いつもの欅の付近に、独りで密かに埋葬した。墓標は建てませんでした。満月でした。