「歴史こぼればなし」にようこそ。宗像善樹です。
今回は、私の一文と、ご寄稿頂いた安司弘子講師の前回からの続編と二本立てとなります。
このように新しい試みも試して参りますので今後共宜しくお願いします。
「歴史こぼればなし」担当講師・宗像善樹。
-異聞:彰義隊隊員 伴門五郎の生涯-1
宗像善樹
私は、最近になって、少年時代に聞いた、母方の祖父の話を頻りに思い出します。
祖父の名は岡村静(おかむら しずか)といい、私の手元にある古い戸籍原本の系譜を辿ると、出生は明治九年(1876)八月弐六日、出生地は埼玉懸北足立郡尾間木村大字尾間木四拾参番地、続柄は『岡村保太郎・?男』、『族稱・平民』とあります。
そして、昭和拾弐年9月7日付蕨町役場戸第七七五號によると、明治三拾六年八月拾弐日に、本籍地を埼玉県北足立郡蕨町大字四千七百八拾参番地へ移しています。祖父27歳のときです。
祖父は、榎本武揚が、「日本の国力を高めるためには、国内農業の発展が不可欠」であり「日本の農業を発展させるためには、農民の教育が必須」であると考えて明治24年(1891)に設立した「徳川育英会育英黌・農業科」の流れを汲む「私立東京農学校」に入学し、卒業した向学心旺盛な人物のようでした。
祖父が生まれ、育った北足立郡大間木村の『岡村家』は豪農の名主で、幕末・明治期に蕨村の名主『岡田家』と親戚関係にあり、このことから、私が幼少のころに祖父岡村静から「内緒の話だよ」と何度も念を押されて、一緒に寝た布団の中で密かに聞かされた話が、蕨村の名主『岡田家』出身の『彰義隊隊士伴門五郎』についてでありました。
上記のことが動機となって、長じた私は、伴門五郎に関する史料を読み漁った時期がありましたが、門五郎の最期の様子については明確な記録がなく、僅かに『上野の戦争で、火炎の中に姿を没し、行方はようとして知れない』という記載があるのみでした。
例えば、「さきたま出版会」刊行の「幕末維新・埼玉・人物列伝」には、『伴門五郎(ばん もんごろう)・彰義隊第一等の英傑と呼ばれた男。生=一八三九(天保十)、没=一八六八(慶應四)、出=足立郡蕨宿(現・蕨市)、享年30歳』と記載されており、また、門五郎の戦死の様子については、上記資料の末尾に『山崎有信の「彰義隊戦史」にわずかに、《ここに於いて杖策(阿部)輪王寺宮の御先途を見届けんとして落ち行きたり、この時伴門五郎の如きは火に投ぜり》とのみ記されています。
つづく
戊辰白河戦争エピソード
幕末に詠まれた歌-3
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)
たぎり立つ時代の転換期。幕末には多くの歌や辞世が詠まれました。
今回は歌で見る戊辰の悲哀を紹介します。
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都(つ)由(ゆ)跡(と)知流(ちる) 伊笑智母奈謄(いのちもなど)香(か) 遠羊(お)蹄(し)加良(から)武(む)
蚊禰而佐佐宜之(かねてささげし) 和我美登於(わがみとお)毛(も)倍(え)婆(ば)
梅雨と散る 命もなどか 惜しからむ
かねて捧げし わが身と思へば
土佐藩 辻精馬
白河市本町の長寿院。土佐藩墓群のなかに、和歌が漢字だけで刻まれた墓標があります。「都由跡知流」は、「つゆとちる」の万葉仮名です。
辻精馬は、土佐の村の庄屋で、二十二歳の徒士格の郷士。西郷の羽太村で戦死。この歌は、みずからしたためた遺詠です。
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今さらに 云ふ言の葉も なかりけり
御国の露と 消ゆるうれしさ
長州藩 野邑伝
長寿院の野邑の墓にこの遺詠が刻まれています。彼は、長州藩の元藩士でしたが、戊辰戦争では大田原藩に仕官しているので、墓の傍らの灯篭には、「大田原藩」と見えます。
白河では長州兵として戦死。