幕末に詠まれた歌-1

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「歴史こぼればなし」にようこそ。担当講師の宗像善樹です。
沖ノ島(宗像大社)世界遺産登録決定おめでとうございます・村長。
「歴史の舘・歴史こぼればなし」担当の開運道講師・宗像善樹です。
皆さまのご支援で長年の夢が叶いまして、宗像善樹著「史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説(1600円+税・右文書院刊、幅雅臣装丁)は、お陰様で2刷り(2版)4千部まで伸び、全国有名書店での発売、本HP「出版案内」からのAmazon発売などで順調に売り上げが伸びているようです。皆様に心から御礼申し上げます。
当然ながら友人知人が押しかけて我が家で祝杯を挙げ、言うことは皆さん同じです。
「印税10%と聞いたから、ガッポリ入ったろう?」です。
「ハイ」と答えたいところですが、印税はまだです。出版社を信頼してこれからを楽しみにしているところです。
今回の「歴史こぼればなし」は、安司弘子講師の一文となります。
これからも宜しくお願いします。「歴史こぼればなし」担当講師・宗像善樹。


戊辰白河戦争エピソード

幕末に詠まれた歌-1

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

たぎり立つ時代の転換期。幕末には多くの歌や辞世が詠まれました。
今回は歌で見る戊辰の悲哀を紹介します。

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戊辰白河悲歌(エレジー)

うらやまし 角をかくしつ 又のべつ
心のままに 身をもかくしつ

会津藩家老 西郷頼母
西郷は、主君の京都守護職受諾を諌めて以来、恭順・非戦をつらぬき、藩内で孤立しました。にもかかわらず、白河口の総督に任命されて惨敗。籠城のさいには、夫人をはじめ一族二十一人が自刃し、函館まで闘った弟は獄死。
〈自由自在に自身の角も身も隠せるカタツムリが羨ましい〉と嘆くこの歌の碑「蝸牛歌碑」は、頼母が指令した、あの稲荷山防塁跡に平成十九年に建てられました。

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思ひきや わが身の上と しら河の
関路をやがて 越えぬべしとは

会津藩主義姉 照姫
照姫は、会津藩と縁戚の上総国飯野藩に生まれ、会津藩主の養女となりましたが、のち
藩主に姫が授かったので、他藩に嫁ぎました。
これは、彼女が離縁して江戸藩邸に戻り、会津に引き揚げる途中に白河で詠んだ歌です。
この「しら河」には、知らなかったをダブらせています。

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老いぬれど 又も越えなん 白河の
関のとざしは よしかたくとも
会津藩 新島八重
山本八重は、鳥羽伏見で弟が、会津戦争では父が戦死。
敗戦後に八重は、薩摩藩に捕らえられ、解放されてのち、京都府政のブレーンとなっていた兄、山本覚馬を頼り母と共に京都へ。
同志社大学創始者となる新島襄と結婚し、教育や社会福祉活動に尽力しました。
この歌は、帰郷する会津への心情を、「白河関」に託しています。

 

戊辰白河戦争エピソード

幕末に詠まれた歌-1

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

たぎり立つ時代の転換期。幕末には多くの歌や辞世が詠まれました。
今回は歌で見る戊辰の悲哀を紹介します。

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戊辰白河悲歌(エレジー)

うらやまし 角をかくしつ 又のべつ
心のままに 身をもかくしつ

会津藩家老 西郷頼母
西郷は、主君の京都守護職受諾を諌めて以来、恭順・非戦をつらぬき、藩内で孤立しました。にもかかわらず、白河口の総督に任命されて惨敗。籠城のさいには、夫人をはじめ一族二十一人が自刃し、函館まで闘った弟は獄死。
〈自由自在に自身の角も身も隠せるカタツムリが羨ましい〉と嘆くこの歌の碑「蝸牛歌碑」は、頼母が指令した、あの稲荷山防塁跡に平成十九年に建てられました。

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思ひきや わが身の上と しら河の
関路をやがて 越えぬべしとは

会津藩主義姉 照姫
照姫は、会津藩と縁戚の上総国飯野藩に生まれ、会津藩主の養女となりましたが、のち
藩主に姫が授かったので、他藩に嫁ぎました。
これは、彼女が離縁して江戸藩邸に戻り、会津に引き揚げる途中に白河で詠んだ歌です。
この「しら河」には、知らなかったをダブらせています。

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老いぬれど 又も越えなん 白河の
関のとざしは よしかたくとも
会津藩 新島八重
山本八重は、鳥羽伏見で弟が、会津戦争では父が戦死。
敗戦後に八重は、薩摩藩に捕らえられ、解放されてのち、京都府政のブレーンとなっていた兄、山本覚馬を頼り母と共に京都へ。
同志社大学創始者となる新島襄と結婚し、教育や社会福祉活動に尽力しました。
この歌は、帰郷する会津への心情を、「白河関」に託しています。