先月19日から8月1日まで日本橋高島屋で開催された「世界遺産・沖ノ島展」での特設販売所において、拙著「史料にみる宗像三女神と沖ノ島伝説」の販売数は二百二十冊を超えて関係者を驚かせました。これも本書の装丁(幅雅臣氏)がずば抜けてよかったのと著者が宗像姓であったことも大きな要因だったようです。
私の手元には友人や読者の皆様から、次々に読後の感想などが寄せられていて、何とも嬉しい限りです。
その一部、F氏からの手紙をここに掲載させて頂き、お手紙やメールを寄せて頂いた皆様に感謝の一言を添えさせて頂きます。
なお、今週の歴史こぼればなしは、白河在住の安司弘子講師にお願いしました。
皆様、有難うございました。これからも応援を宜しくお願いします。
歴史こぼればなし担当講師・宗像善樹(よしき)。
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この度は、宗像様の新刊書(以下「ご本」といいます)をご紹介いただき有難うございました。
10年以上前に、その頃は神社伝承学に嵌っていて、畷をみては、彼方此方の神社を回っていました。宗像神社も宮崎宮、香椎宮、それに志賀島の海神社などと一緒に、福岡県の海岸沿いの神社をレンタカーで回ったことがあります。6月の初めの晴天で、暑い一日でした。もっとも、夜は、かつて一緒に働いたものが九州本部にいたので、中州で一杯飲んで一息つきましたが。
神社伝承学での小生の理解は、『書紀』などではアマテラスとスサノヲは姉弟となっいますが、出雲を根拠とするスサノヲが北九州に勢力を伸ばし、南部九州に根拠をおくアマテラスも北九州に勢力を伸ばし、その妥協としての両者の婚姻があり、宗像三女神が誕生、というものです。宗像神社を訪問した際、r汝三神、宜しく道中に降居して、天孫を助け奉り、天孫に柔かれよJという趣旨の扁額をみて大いに感激したものでした。
今日の尉心は、時代が少し下ります。天武が壬申の乱に勝利したのは、長子・高市皇子の活躍があったればこそです。その母親はrご本」にあるとおり、宗像徳善の娘です。その当時は、結婚ほ政略的なものが多いのですが、天武はなぜ宗像と縁を結ぼうとしたのかが今一つよくわかりません。
高市皇子は持統天皇にも信頼され皇親政治の重要な存在となりますが、徳善以後の宗像氏の活躍はどのようなものであったのでしょうか。また、天武は皇子のとき、大海人皇子といいました。「大」は美称かもしれません。
しかしr海人」一族に育てられたのでしょう。その海人一族と宗像海人一族の関係はどのようにつながっているのでしょうか。
また、先述の海神社の宮司ほ、今も「阿曇」氏です。阿曇氏は親 博 舟 親 博 舟 親
信州の安曇野で有名ですが代表的な海人族です。宗像海人族と地理的に近い安曇海人族はどのような関係だったのでしょうか。こうした海人族相互の関係がよくわかりません。
このあたりに非常な関心を持ちつつも、今のところ調べるに至っておりません。是非とも、宗像様に解明をお顔いしたいところです。
rご本」は楽しく読ませていただきました。宗像神社に関することを多角的に述べられ、宗像神社のガイドブックとして素晴らしいものと思います。宗像神社の横に置かれれば、参拝の皆さんは手に取られるものと思います。特に今年は、世界遺産の登録もあり時宜を得た出版のように思います。
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なお、宗像善樹著「史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説(1600円+税)は、本HP表紙の「出版案内」からAmazonでも購入できます。
続いて、宗像善樹著「マリちゃん雲にのる」の出版日が8月21日(月)に決まりました。内容など詳細は後日に。
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「戊辰・白河戦争」ものがたり
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)
8、五月朔日 大激戦
初戦に夜間強行軍で迫ってきた政府軍は、“奥羽の咽喉”を侵せませんでした。敗退した政府軍は、北関東に駐屯していた薩・長・大垣・忍の藩兵七百余名と砲七門を芦野宿へ集結させます。
同盟軍も、旧幕兵や新選組隊士らをふくむ会津兵のほか、仙台や棚倉・二本松藩兵ら二千余名と砲八門が白河へ出兵してきました
(出兵した藩・隊名や出兵数・戦死した兵や軍夫の数などは、初戦から終戦までの、どの段階での、どの資料によってかで異なります)。
五月一日、陽暦では六月二十日。梅雨のころで、じくじくと雨が降っていました。
午前四時を進発の期とし、小丸山丘陵を陣地とする政府軍の正面隊が、北方五・六百㍍先の稲荷山防塁を攻撃。このとき、地元の者を道案内として別働隊が西翼と東翼からひそかに迂回し、同盟軍陣営を包囲します。火力に劣りいまだ兵団として整わない混成集団の同盟軍は、この三方面攻撃によって総崩れとなり、昼下がり、各藩軍はそれぞれ白河からの退却を余儀なくされました。
政府軍は城と城下を占領し、以降、白河は政府軍の前線基地に反転しました。
この日戦死したのは、政府軍十三名、同盟軍六百十二名(六百八十三名の記録もある)、凄まじい数であり、偏りです。同盟軍の無残な敗北でした。
会津藩の副総督横山主税は、稲荷山で奮戦中弾丸にあたって斃れたが、猛烈な戦いの中遺骸を収めて退くに遑なく、従者が僅かに首を馘して退いたという。
軍事奉行の海老名衛門は、血戦するも為すべからざるを知って自ら腹を屠って死んだ。
棚倉阿部藩の一門であり、十六人組(十六ささげ隊)の勇将阿部内膳も討死。
会津藩総督西郷頼母は潰乱を制すべく、馬を馳せて決死に進もうとするが、義兄の朱雀一番士中隊小隊頭の飯沼時衛が轡を把って、「今は総督の死する時に非ず後図を計るべき」と誡め、馬首を北にむけて鞭打ち会津方面に走らせました。
戊辰戦争中、一日の戦闘で、戦死者数が最大なのは、この五月一日の合戦でした。