マリちゃん雲にのる&佐藤義清の出家

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宗像善樹
「史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説(右文書院)」に続いて、私の4作目となる「愛犬マリちゃんの思い出 マリちゃん雲にのる」が、本年8月21日に『日本橋出版』から出版されることになりました。
茲に、ご報告を兼ねて作品を紹介させていただきます。

この作品は、『開運道』を主催されている作家で開運研究家の花見正樹先生のホームページのなかの『日本文芸学院』に『投稿作品』として掲載させていただいている『童話・マリちゃん雲に乗る』『エッセイ・みゆきちゃんと母』『エッセイ・戦後を生きた人人の心延え』の3作品をひとつに纏め、加筆して一つの物語にした作品です。
ご一読、ご講評いただければ幸甚に存じます。
なお、本はamazon.co.jpでネット販売されますので、お知り合いの方に紹介して頂ければ幸いでございます。

[愛犬マリちゃんの思い出 マリちゃん雲にのる]
著者コメント・あらすじ
今から66年前の昭和26年(1951)、児童文学者の石井桃子さん(1907一2008)が『ノンちゃん雲に乗る』と題する童話を発表、その年の文部大臣賞を受けました。
物語は、物がなく、お金もない、貧しい時代だったけれど、平和で、穏やかな戦後の昭和の家庭を描いたもので、世間の大きな話題になり、大人から私のような小・中学生まで、多くの人々が夢中して読みました。伝説の美少女・鰐淵晴子主演で映画にもなりました。
物語の舞台は、作者の石井桃子さんが幼い頃に遊んだ浦和の町にある『調の宮神社(つきのみやじんじゃ)』の境内や池が使われています。当時、同じ浦和で生まれ育った私は、子ども心に、大人になったら「雲の上の話」を書いてみたいと思ったものです。空の上には、夢がいっぱいあるだろう、と想像したからです。
時は移り、今は平成。昭和のときと違って、次第に閉塞した社会になり、私たちは、昭和の時代にあった何か大事なものを失ってしまいました。
また、いくつもの大きな震災があり、噴火があり、豪雨災害がありました。凶悪な犯罪事件も頻繁に起きています。阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震、さらに日本各地での地震。大型台風や集中豪雨などの自然災害。
これらに巻き込まれ犠牲になるのは私たち人間だけでありません。動物たちも例外ではありません。
そこで私は、毎日暗いニュースが報道されることが多い昨今、大人から少年少女までを対象にした「ほのぼのとした物語」を提供しようと思い立ち、「マリちゃん雲にのる」を書き上げました。
内容は、我が家の家族四人と突然亡くなった愛犬マリちゃんとの思い出を中心に、東北大震災や事故などで命を落とした動物たちへの鎮魂をこめて、雲の上に行ったマリちゃんが示した傷ついた仲間の動物たちへの優しい思いやりと救援活動を通して、現代の日本人が失ってしまった、まっとうな人間なら「助けよう」となるべき気持ちを呼び戻そうとする犬のマリちゃんの、雲の上での懸命な努力と、これを見たお天道さまや星たちに深い感銘を与える空の上のファンタジーです。
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宗像善樹著「史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説(1600円+税・右文書院刊、幅雅臣装丁)は、全国有名書店で発売中、本HP「出版案内」からAmazonでも購入できます。村長。

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佐藤義清の出家

花見 正樹

私の好きな武人の一人に佐藤義清(のりきよ)という人物がいます。
北面の武士として武勇に優れ、弓馬術もこの人の右に出る人はいなかったと伝えられています。
以前にも触れたことがありますが、残念なことに誰に聞いこの名を知る者はいないのです。
ただし、この人の別の名を口にすると、今度は誰一人としてこの名を知らぬ者はいないのです。
別名は「西行」、西行法師の名でよく知られていますが、花と月、自然の風景をこよなく愛した漂泊の歌人でもありました。
では、なぜそんな西行が好きなのか?
それは、22歳の若さで出家して世捨て人になった佐藤義清の人間的弱さに同感できるからかも知れません。
「世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都はなれぬ我が身なりけり」
「世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」
「いつの間に長き眠りの夢さめて 驚くことのあらんとすらむ」
「鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てて いかになりゆくわが身なるらむ」
「花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に」
「常よりも心細くぞ思ほゆる 旅の空にて年の暮れぬる」
どの歌にも心細い旅の空の孤独が滲み出ていて、とても好んで出家したようには思えません。
西行というと殆どの人は、妻子を捨てて出家した、と言いますが、必ずしもそうとは言えません。
これでは西行が薄情な男とか見えませんが、出家後のことは弟に頼んだ上に、出家後も京に戻る度に、我が家を覗

義清の祖先は藤原鎌足で、裕福な武人の家に生まれた義清は、幼い頃に父と死別し、17歳の若さで官位のある皇室の警護兵・兵衛尉(ひょうえのじょう、)となり、御所の北側を警護する北面の武士(院直属の精鋭部隊)に選ばれています。
義清の同年の同輩には、平清盛というライバルがいましたが、歌会や武術でも義清のほうが清盛より上でした。
義清は、疾走する馬上から弓で的を射るのが得意で、それを仲間に指導したのが後に「流鏑馬(やぶさめ)」となって伝わっています。当時、北面の武士として採用されるには文武両道に優れた上に容姿端麗でなければなりません。
このように文武両道に秀でた佐藤義清が、なぜ出世の道も妻子も捨てて出家したのか?
今までに伝えられているのは次のような理由です。
1、仏に救済を求める心から。
2、急死した友人から人生の無常を悟ったから。
3、皇位継承をめぐる政争への失望から。
4、自分自身の性格の弱さを修行によって克服したいから。
5、さる高貴な女性との失恋から

ここで、1,2,4は、最もに思えますが唐突に出家するほどの理由ではなさそうです。
では、3と5は?
その後、西行36歳の保元元年(1156)に都にて朝廷内の権力争いが発生して、平清盛を味方につけた後白河天皇が、源氏を味方につけた崇徳上皇を破って、以後30年間もの長期に渉って後白河法皇は5人の天皇を操って天下を収めます。
その政争の渦から逃れただけでも義清の出家の意義はあったと言えます。
つぎの5の「さる高貴な女性」が問題です。
若い義清が歌会で知り合って恋仲になったのは、白河上皇の養女で白河の子(将来の崇徳天皇)を宿したまま鳥羽天皇に嫁ぐことになる絶世の美女・待賢門院(たいけんもんいん)藤原璋子(たまこ)です。二人は人に隠れて逢瀬を重ねますが、二人の行く末を案じた璋子からの申し入れで別れることになります。
さて、この悲恋のために官位も妻子も棄てて出家という世棄て人になれるものかどうか? これは死ぬほど激しい恋をしたことのない凡人には分かりかねるところです。
「よしや君 昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせん」
この歌は、西行が崇徳上皇の墓に詣でた時に詠んだものです。
崇徳上皇は、保元の乱で後白河法皇に破れて讃岐に流され、「無念!」と叫んで死に、大怨霊になることで知られています。
西行は、かって自分が愛した女の息子の墓に詣で、鎮魂の祈りを捧げたのです。
西行の遺した歌は2090首、自分の望む死は次の歌にあります。
「願はくは花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃」