4、会津軍白河城を乗っ取る

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宗像善樹です。
皆さま「歴史こぼればなし」へのご来場ありがとうございます。
宗像善樹著「史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説」の紹介事が、東京新聞に載るそうです。
7月9日、 ポーランドで開催されたユネスコの世界遺産委員会で、福岡県の「神宿る島」宗像・沖ノ島関連遺産群が、日本の主張通りに、遺産群を構成する8つの資産すべての登録が認められました。これで宗像神社は「世界遺産にふさわしい」と世界に認められたことになり、ライフワークとして私が続けてきたことも、やっと陽の目を見ることが出来ます。
宗像善樹著「史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説(1600円+税・右文書院刊、幅雅臣装丁)は、全国有名書店で発売中、Amazonでも購入できます。
これで私は、続いて発刊予定の仕上げに掛かれます。
皆様の温かいご支援に心から感謝します。宗像善樹

 

「歴史こぼればなし」コーナーは、今回、次回と安司弘子さんの連載となります。

4、会津軍白河城を乗っ取る

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

総督府の参謀世良修蔵が葬られた同日の閏四月二十日暁天。この機を逃すべからずと会津・旧幕兵が白河城を襲いました。
会津兵は先ず会津町に火を放ち、純義隊隊長小池周吾が搦手より、会義隊の将野田進は追手より攻め入り、三坂喜代助は脇曲輪の低い垣をよじ登って城内に入ると城門を開いて会兵を導きました。
城に駐在していた衛兵らは、会津に対する戦意が無く、本丸などを焼き退去しました。すでに仙台兵などは白河をひきあげており、城内には二本松・平・泉・三春の各藩と官兵数人が残留しているだけでした。
この白河城攻撃では、丸の内をはじめ会津町、道場小路が悉く焼け、小峰寺の住職は早鐘をついて町民に知らせたため狙撃されて亡くなっています。
以後白河には新選組などを含む諸藩が集結。
政府軍が会津進攻の砦とする戦略だったのに、白河は、敵対する同盟軍の「白河関」に逆転しました。
その後奥羽列藩同盟が成立します。
列藩の、戦わないための会津救解同盟は、戦うための軍事同盟に転向し、およそ百日に及ぶ攻防戦の始まりとなりました。
同盟軍が連合して戦うのは、白河戦線が初めてであり、終わりでした。