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いよいよ全国発売になりました。
「史料にみる宗像三女神と沖ノ島伝説」
1600円+税 右文書院刊 幅雅臣装丁
書店にない場合は、予約ご注文をお願いします。
男勝り才女・春日局
(1579年~1643年)
宗像 善樹
春日局(かすが の つぼね)の本名は斎藤福(ふく)、天正7年(1579)生れです。
安土桃山時代から江戸時代前期にかけて大奥で活躍した女性で、3代将軍・徳川家光の乳母です。
「春日局」とは朝廷から賜る称号の一つです。
父は、明智光秀の従弟で重臣でもある斎藤利三で、母は美濃国曽根城主・稲葉一鉄の娘です。
松平信綱(のぶつな)、柳生宗矩(むねのり)と共に家光を支え、江戸城大奥の基礎を築いたことで知られています。
さらに、朝廷との交渉においても幕府の前面に出て交渉役を務めるなど、政治的手腕も発揮し、徳川幕府の政権安定化に尽しています。
父の斎藤利三は明智光秀と共に本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉と山崎の戦いで敗れ、捕らえられて処刑されます。
福は母方の親戚の公家・三条西公国家に養育され、書道・歌道・香道などを学び、その後、伯父の稲葉重通の養女となり、小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となります。
稲葉正成は、関ヶ原の戦いで主君・小早川秀秋を説得して家康軍に寝返って勝利に貢献した功労者です。
将軍家の乳母に推薦され、夫と離婚する形をとって2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代の乳母になります。
乳母に任命されたのは、家柄及び公家の教養、夫・正成の戦功などが高く評価されたようです。
さらに、福と正成の息子・稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられて、元和9年(1623)には老中に就任、やがて相模国小田原藩主となります。
寛永3年(1626)の家光生母(崇源院)の死後は、大奥の公務を全て取り仕切り、家光の側室選びなども含めて、将軍の権威を背景に老中をも上回る権力を握って大奥に君臨します。
寛永6年(1628)に、家光の病気治癒祈願に伊勢神宮に参拝し、そのまま上洛して朝廷への拝謁を図ります。
しかし、武家の娘の身分では御所に昇殿できませんので、血族である公家・三条家と猷妹の縁組をして、公卿三条西家・藤原福子として後水尾天皇や中宮和子に拝謁し、従三位の位階と「春日局」の名号を賜り、その後さらに従二位に昇格します。
なお、この従二位は、平時子や北条政子と同格の位階となります。
その後も、家光を援けて江戸城に君臨して、寛永20年(1643)9月14日に逝去、享年64歳、波乱の人生を終えます。 墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺にあり、辞世の句は、
「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」
天下が二つに割れての騒乱から徳川3代で国を統一し、徳川264年の基礎固めをしたのは春日の局の力です。
そして、今日の歴史こぼれ話の結論は、「女性は強い!」。
内助の功どころか、日頃夫婦に用いる「主人、家内」、これが逆転しつつある我が家の実情をみる思いがしました。