本が完成しました。6月20日発売(1600円税別)です。
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紫式部の謎
宗像 善樹
紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の女性作家、歌人です。
「源氏物語」の作者と考えられています。
紫式部は、関白・藤原の道長の妾、との説もありますが、確たる証拠はありません。
紫式部は「源氏物語」以外に、歌人としても「中古三十六歌仙」「女房三十六歌仙」の一人として活躍しています。
小倉百人一首にも入選しています。
「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」
紫式部は、学者で詩人でもある藤原為時の娘で、藤原宣孝に嫁ぎ、一女(藤原賢子)を産んでいます。
夫の死後、一条天皇の中宮・藤原彰子に召し出され、そこに仕えていて「源氏物語」を書いています。
全回の「歴史こぼればなし」では、各地に墓がある「静御前」を紹介しました。
その点、紫式部の墓は京都市内にありますので問題はありません。
問題は、紫式部の本名、婚姻回数、没年、これらに様々な説があり、未だに決定的な定説が出ていないことです。
まず、氏名については、「藤原香子(かおりこ 、たかこ、 こうし)とする説が最有力ですが、あくまでも仮説です。
つぎが、香子を「よしこ」として女房名は「藤式部」とする説です。「式部」とは父為時が式部省の官僚(式部大丞)だったこ 幼名「もも」、紫の名は、源氏物語の作中人物「紫の上」に由来し、紫式部は後で付けられた、との説もあります。
では、その前の名は? それが香子だとするのですが、読み方は歴史研究家の皆さん別々のままです。
婚姻関係では、親子ほど年の差がある藤原宣孝との結婚が定説ですが、それ以前に紀時文との婚姻関係が存在したとする説があり、さらに、藤原道長の妾であった可能性もあります。
さて没年ですが、これはもう研究家夫々が勝手気ままに推論を出しています。
藤原実資の長和2年(1014)の日記に登場するのが紫式部の足跡の最後とされ、、西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文の「おなじ宮の藤式部、…式部の君亡くなり…」とある詞書と和歌の時期を巡っての論争が記録にありますが、紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録はどこにも存在しないようです。
今までに存在したさまざまな説からいくつかを抜粋します。
970年(天禄元年)説(今井源衛他多数あり)
972年(天禄3年)説(小谷野純一説)
973年(天延元年)説(岡一男説)
974年(天延2年)説(萩谷朴説)
975年(天延3年)説(南波浩説)
978年(天元元年)説(安藤為章他多数あり)
この他にも続々とありますが、きりがないので割愛します。
これ以降で有力なのは、与謝野晶子が「小右記」から得て主張した1016年(長和5年)説ですが、この後にも1017、1019、1025年説と百花繚乱、それだけ紫式部は人気があったという証(あかし)とも言えます。
なお、紫式部の墓は京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)、雲林院百毫院の南(小野篁墓の西側)の二か所がよく知られています。