いよいよ「史料にみる宗像三女神と沖ノ島伝説」の発売日が6月20日と決まりました。
大手書店でも、このチラシを見ただけで「売れる!」と太鼓判を押して頂いていますが、実際はどうなるか、胸ドキです。
7月初旬の世界遺産登録時に書店の棚に並んでいるのが理想的ではありますが、今から気にしても仕方ありません。
出版社(右文書院)もかなり力が入っていて当初の予定より増刷の模様とか、本の装丁を担当して頂いた幅雅臣さんも旅行先までこのチラシを持参して知人友人に配って頂けるとか・・・有り難いことと傍観しないで私も知人友人に自筆のDMです。
と、いうことを理由に、今週もピンチヒッター、安司弘子さんにお願いしました。
「歴史こぼればなしに」担当講師・宗像善樹
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「戊辰・白河戦争」ものがたり
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2、奥羽の咽喉
安司 弘子
古代、「白河関」は、大和政権の北方前衛の砦でした。
関が廃されてからも、能因法師の「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風の吹く 白河の関」の古歌に惹き寄せられ、西行も宗祇も芭蕉も子規も、みちの奥のみちの口の特別な歌枕・白河を訪れました。
中世・近世には「奥羽の咽喉」という表現でその境界性がとらえられています。
そして、江戸時代の終末。
「錦の御旗」を負う新政府軍(官軍・西軍)が「朝敵」会津をめざし、慶応四年閏四月(この年は四月の次が閏四月)白河に進攻してきます。
こうして、奥羽の玄関口白河で、会津戦争へのプロローグとなる東北での最初の先端が開かれました。
以来、「奥羽ののどもと」を狙って、はげしい攻防が繰り広げられ、締結したばかりの「奥羽同盟軍」は百日ものあいだ抗いつづけます。
白河での戦いの勝敗はその後の東北全体に及んでゆく戦争の帰趨を決しました。
戦後には、「白河以北一山百文」などと、侮りの言葉も流れ、仙台で発刊された地方紙「河北新報」はその由来から名付けられたと言われます。
3、白河藩のない白河城(小峰城)
この重大なとき、白河藩は存在しませんでした。
幕末の白河藩十万石を領したのは、「安祥譜代」7家の1つで徳川家光の時代に老中職を務めた阿部豊後守忠秋以降、最も多くの幕府老中を輩出した名門譜代大名の阿部家。城主は阿部正外です。
彼は和宮降嫁や生麦事件の解決などに尽力したあと、白河藩主となり、老中にまで上り詰めていました。そして、最も困難な外交を担当したのです。
慶応元年、強大な武力を背景に兵庫(神戸)開港を迫る英米仏蘭四カ国との交渉にあたりましたが、勅許を得ずに開港を決断したことが朝廷の忌避に触れます。その責を負わされ、徳川慶喜から老中を罷免されて国許謹慎。家督は正静が継ぎました。そして翌年、棚倉に転封を命じられます。
白河は、「城を枕に討死」すべき藩主も藩士も存在しないという、きわめて異常な状況におかれました。
白河城は「空き城」となり、幕府が直轄。大政奉還後は新政府が支配し、城は二本松藩が、ついで仙台藩が管理を委託されました。平・三春なども衛兵を派遣します。
閏四月初め。
奥羽鎮撫使の下参謀・世良修蔵が、作戦工作のため、会津攻撃の拠点となる白河城に入りました。
世良は駐留する各藩に会津攻撃を強圧的に督促します。
けれども、大義のない攻撃命令に反発する諸藩は動きません。
奥羽列藩は、すでに、会津救解を嘆願する同盟結成に動いていました。
そこで世良は、総督府を白河へ移すべく、白石にあった奥羽鎮撫総督府に向かい、その途中の福島で仙台藩士らに暗殺されました。
もはや列藩の嘆願の段階ではなくなりました。