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私の著作『史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説』の装丁のチラシです。
それにしても、さすが装丁の第一人者・幅雅臣さんの制作です。
神秘的で幽玄、思わず自分が著者であることを忘れるほど見事です。
世界遺産への正式発表は七月初旬になりますが、沖津宮だけは当確なので一安心です。
ただ、文化遺産としては三姉妹揃っての宗像大社三宮ですから、中津宮、辺津宮も一緒に、と願うばかりです。
今週も何やら多忙、「歴史こぼればなし」は今週も村長に丸投げになりました。
来週は、白河便りでお馴染みの安司弘子講師の寄稿です。
と、いうことで私の出番はまだ先になりそうです。
「歴史こぼればなし」担当講師・宗像善樹。
|山口県阿東市です。
静御前の墓-4
花見 正樹
「しづやしづ しづのをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
閏7月29日、静女は男子を出産します。
頼朝が宣言します。
「これは義経の嫡子である。父は関東に背き謀反を企て逃亡中。将来に禍根を残す恐れがある以上は災いを絶つは必定ぞ」
頼朝は、安達清常に、由比ヶ浜に沈めるよう命じます。
清常が赤子を受け取りに近づくと、静は赤子を衣にまとい抱き臥して泣き叫んで離しません。
数刻は我慢した清常が遠慮がちに催促すると、見かねた磯禅師が静から赤子を取り上げて渡します。
政子が赤子の助命を嘆願しますが頼朝は断り「自分も父を殺した男に助命されたが仇を討ったからな」と言います。
政子は、静女とその母・磯禅師の行く末を憐れんで、多くの金品を持たせて、二人を京に帰します。
その後の静御前の消息は不明、いや、あまりにも多すぎて・・・
ほんの一部を列記します。 上のポスターは、恥ずかしいのですが地域社会のPRでご勘弁を(花見)
北海道乙部町・姫川での投身自殺説。なんで北海道? 義経が北海道に渡った説に呼応したものです。
神奈川県鎌倉由比ヶ浜への入水説。これはありそうな気がします。
岩手県宮古市鈴久名にある鈴ヶ神社。この付近での病死説。これは???です。
茨城県古河市の光了寺には巌松院殿義静妙源大姉という静の戒名、過去帳には1189年9月15日に他界とあります。
奈良県大和高田市の磯野は磯野禅尼の里で、静御前も母の里に戻って生涯を終えたとします。
長野県大町市美麻大塩(旧美麻村)での死亡説。巨木「静の桜」が有名。静御前の墓、磯禅尼の供養碑があります。
福岡県福津市での死亡説。豊後国・臼杵に落ち延びた静女は臼杵太郎を産み、ここで病死か上洛したとする二説あります。
香川県東かがわ市、讃岐国井閇郷高木(現木田郡三木町井戸高木)の長尾寺で静女は尼になって生涯を終えます。
そのたに、栃木県那須での死亡説では、弓の名手・那須の与一が墓守をしたオマケまで付いています。
さらに、調べれば調べるほど静御前終焉の地は増え続けますので今回はこの辺で打ち止めにします。
私の中で由緒正しきは、埼玉県久喜市栗橋駅前にある静御前の墓(死亡は茨城県古河市)です。
理由は、私の住む栗橋地区にはそれ以外に何もないから仕方ありません。
これを否定されますと、栗橋では年に一度の夏祭り(静祭り)も出来なくなってしまうのです。