私の著作『史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説』の装丁のチラシ案も届きました。
さすが装丁の第一人者・幅雅臣さんの制作です。表紙といいおおいに気に入りました。
ここでお見せしたかったのですが、掲載用写真に抜けず残念ですがまたにします。
ということで今週の「こぼればなし」も花見村長の続編でお楽しみ頂きます。
「歴史こぼればなし」担当講師・宗像善樹。
静御前の墓-3
花見 正樹
吉野で捕えられた静御前も哀れでした。
吉野で義経と離れ離れになり、従者に持ち物を全て奪われて山中をさまよいます。
静は粉雪舞う山中をさまよい、藤尾坂下の蔵王堂の軒下で飢えと寒さで震えているところを吉野山の修行僧に発見され、役人に渡された結果、素性が知られ、鎌倉に送られます。
文治2年(1186)3月、静は母の磯禅師とともに鎌倉に送られ、安達清常の屋敷に入ります。
役人の厳しい調べに、静は京都では隠し通していた事実を言わされます。
「義経さまは山伏の姿になられまして、大峰に入ると申されて僧に送られて山に入りました。わたしも後を追って一の鳥居の辺りまで行きましたが、女人は大峰に入れませぬ、と僧に叱られましたたので、やむなく、豫洲さま家臣の供侍3人の方へ向かったところ、3人は待っていたかのようにわたしを襲い、持ち物金銀全てを奪って逃げてしまったのでございます。蔵王堂に迷い着きましたところを発見されてよかったと、安堵しております」
それ以上は何を聞かれても知らぬ存ぜぬで、義経の子を孕んでいることもあり折檻もならず、役人も困り果てます。
春爛漫の季節、頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参拝、静女が白拍子に戻って舞いを見せます。
今までは頼朝がいくら命じても、病気とか、豫州(義経)の妾として晴れの場は恥辱とか逃げていました。
政子がみかねて、「天下の舞の名手がこの地に来て、近々帰るのに、その芸を人に見せないのは残念」などとおだて、頼朝も「八幡大菩薩に供えるのだから」と言って静を説得したことで実現したのです。
義経との別れからまだ日が浅く、気が重いと固辞した静女も今は覚悟を決めます。
文冶2年4月8日、静御前は鶴岡八幡宮社前で舞いますが、静は、義経を恋い慕う歌を口すさみます。
しずやしず しずのおだまきくりかえし 昔を今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき
歌の意味は、倭文(しず)の布を織る麻糸を、まるくまいた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、昔が今になればいいのに、と、静は、自分の名の静を「倭文(しず)」にかけて義経を想って舞い、さらに「吉野山の白雪を踏み分けていずこかに消えたあの人が恋しい」、と歌ったのです。
この歌を聞いた頼朝は激怒し、静を殺そうとします。
この場は、妻の政子が「私でも、あの様に謡います」と取り成して命を助けます。
「いずれ殺される罪人がさまで恋しいのか?」と、頼朝の怒りは収まりません。
この時、静は義経の子を孕んでいました。
それを知った頼朝は「女なら助けるが男は殺す」と家臣に伝えます。
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以前、NHKの大河ドラマ関連の「義経紀行」というドキュメント番組で、新潟県栃尾市にある静御前の墓が紹介されたのを見ました。
その番組では、いま歴女の間で人気の佐藤継信、忠信兄弟の母乙和御前にゆかりの深い羽黒神社の伝説も一緒に紹介されていました。
栃尾に伝わる話は、義経を追って平泉を目指してこの地にきた静は、越後から八十里越を越え、会津に抜けて、奥州藤原へと想いながらこの地で力つきたというものです。
私は、この八十里峠越の山道を、戊辰戦争の悲劇の一人・河井継之助絡みで取材したことがあるだけに、この話も信じたくなるのです。