私の著作『史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説』の装丁をお願いした幅雅臣さんから表紙の2案が届きました。
1案も2案も素晴らしくて迷いに迷いましたが、1案に決め、次の機会に2案を活用させて頂くことになりました。
さすが、素晴らしい装丁で多くの作家・執筆者に信頼されている幅さんで、私は大満足です。
ゲラも刷り上がり、いよいよ印刷に入って最終コースに急ピッチです。
ということで今週の「こぼればなし」も花見村長の続編でお楽しみ頂きます。
「歴史こぼればなし」担当講師・宗像善樹。
兵庫県淡路島の墓です。
静御前の墓-2
花見 正樹
これには白河法王も「この者は神の子か?」と驚き、日の本一の舞の名手、とのお褒めの言葉を賜りました。
この会場にいて、静の舞を見て感歎しない者はいませんが中でも一目惚れで夢中になったのが九郎判官源義経です。
義経は熱い思いを静に伝え続けて、ついに愛を勝ちとります。義経26歳、絶頂期でした。
元暦元年(1184)8月、義仲は後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられます。
これは、静にとっても都に名高い源氏の賢将に見込まれていうことありません。
二人はたちまち恋に落ち、義経は静を妾にします。
義経はすでに、兄・頼朝の斡旋によって河越重頼の娘・郷御前を正室に迎えて、幼子もいます。
その上に、京一番の美女を愛妾にして我が世の春を楽しむばかりです。
元暦2年(1185)2月、義経は暴風雨をついて出撃、平氏の拠点屋島を襲って勝利します。
さらに、義経の編成した水軍は彦島から壇ノ浦に出て、海上での戦いで大勝利、ついに平氏を滅ぼします。
義経は、壇ノ浦の戦いで捕らえた平宗盛・清宗父子を鎌倉に護送し、自分も鎌倉に入ろうとします。
しかし、義経に謀反の疑いあり、との部下からの進言を真に受けた頼朝は、義経の鎌倉入りを許しませんでした。
頼朝が怒る理由は幾つかありました。頼朝の許可なく官位を受けたこと、軍監・梶原景時の助言を無視したこと、範頼の管轄である九州に手を出したこと、配下の東国武士達に厳しい処分を下したことなど、義経一人に功を奪われて恩賞に不満のある東国武士からの怨嗟の声が噴出していたのです。
ともあれ、義経は鎌倉郊外の腰越満福寺に留め置かれて、沙汰を待ちますが、義経は兄頼朝に対して自分が叛意のないことを示す手紙を家来に托して届けます。しかし、頼朝は許しませんでした。
こうして義経は、兄頼朝と対立することになります。
頼朝は、義経が連れて来た宗盛父子らを伴って京に帰るよう命じます。
頼朝は、義経の所領をことごとく没収し、梶原景時の嫡男景季を義経のもとに遣わし、かつて木曾義仲に従った叔父の源行家追討を命じますが、義経は「今、自分は病である。また、同じ源氏で身内の行家追討は断る」と言って使者を返します。
義経の病を仮病とみた頼朝は、義経討伐に土佐坊昌俊ら60騎で京の義経邸を襲わせます。
しかし、自ら応戦する義経に行家も加わり、追討軍はほぼ討ち果たされてssっ失敗に終わります。
義経は、捕らえた土佐坊昌俊から、この襲撃が頼朝の命であることを知ると、行家と共に京で頼朝打倒の宣戦布告をします。
しかし、義経に賛同する武士はあまりにも少なく、とても頼朝に太刀打ちできません。
逆に、後白河法皇が頼朝の圧力に屈して、義経追討の院宣を出したことで、義経の退路は断たれ層窮地に陥ります。
頼朝軍の襲来を避け、西国で再起を図るべく義経は、愛妾・静も含めて300人ほどで九州行きを決行します。
ところが、摂津国(兵庫県)大物浦から乗った船が暴風のために難破して、主従散り散りになり、義経らは摂津に戻されてしまいます。
これにより九州落ちをあきらめ、吉野に潜伏しますが、ここにも追手の手は伸び、静御前が捕らえられます。
義経は反鎌倉の寺社勢力の屋敷などを転々としたが、ついに京にもいられなくなり、山伏姿に身をやつして奥州の藤原秀衡を頼って逃げ落ちてゆきます。
それを追った静御前が、利根川を越えた古河の地で力尽きて倒れてこの世を去った史話は前回述べました。
私が、栗橋町教育委員会からの「静御前の墓を町おこしに」という依頼に躊躇したのには理由があります。
他県はすでに、静御前の墓を大々的に観光名所にまで格上げしているのです。しかも一か所や二か所ではありません。全国なのです。
下記写真は、兵庫県淡路市の淡路島静の里公園内にある「静御前の墓」です。しかも「義経の墓」まであるのです。
なんで、こんあところに義経の? は、どうでもいいのです。要は、観光名所になればいいだけですから。
説明によると、ここ淡路市は、義経との悲恋に泣いた静御前隠棲の地であり、戦乱の世に悲しくも強く生きた静御前の徳を偲んで、その霊廟を築き「静の里公園」としたそうです。さすがに、ここで没したとは書いてありません。これだと、もう何でもあり、という感じです。
次回もご期待ください。