世界文化遺産に登録される見通しとなりました宗像大社の恩恵で、私は遠い縁なのに友人知人の問い合わせや祝福も多く、私も多忙な日々となっております。私の著書『史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説』の最終打ち合わせも終え、原稿は出版元の右文書院にまわりました。少し落ち着きましたら私の一文をここに載せます。
それまでは、ピンチヒッターの村長にお任せすることにしました。 宗像 善樹
静御前の墓-1
花見 正樹
私の住む埼玉県久喜市の旧栗橋町には、けっこう立派な静神社があり静御前の墓があります。
奥州平泉に落ちた義経を必死で追って力尽き、この地で倒れて無念の死を遂げたとされ、櫛と衣装が残されています。
栗橋には昔、利根川越えの栗橋関所があり、水陸の要衝の宿場町として栄えたそうですが今は何もありません。
しいて上げれば、体長1メートル超のコイ科の巨大魚・ハクレンのジャンプが利根川で見られることぐらいです。
ですから、町おこしとなれば静御前に頼るしかありません。
そこで、町役場の教育委員会から私に白羽の矢が立ち、静御前の物語を書けないか? との打診です。
この話は、栗橋町が久喜市に吸収合併されて栗橋町そのものが消滅したために、無事にご破算になりましたが無謀な話です。
なにしろ、静御前は北海道にも墓があり、義経は蒙古に渉ってジンギスハーンに化けたぐらいですから、書けば書けますが。
そこで調べてみると、静御前の墓の傍らには、義経の招魂碑、生後すぐ頼朝に殺された男児の供養塔まで揃っているのです。
栗橋町の伝説では、義経を追う静御前は、文治5年(1189)5月に現在の茨城県古河市下辺見(しもへいみ)で義経の死を知り、古河の高柳寺(現光了寺)で出家しますが病に倒れ、同年9月15日に22歳の若さで亡くなったとされているのです。
墓は、利根川を挟んで栗橋と古河の双方にありますが、とくに本家争いで揉めた形跡もありません。
古河で亡くなった静の墓がなぜ栗橋に?
そんな単純な謎は、簡単に書き換えが可能です。たまたま栗橋に名医がいるのを知った高柳寺の住職が、静の境遇を憐れんで関所の役人も買収して静を栗橋まで連れてきたが、静は栗橋までたどり着いてこの地で死んだ。しかし、これでは少々説得力がありません。
高柳寺の住職が、度の疲れで救いを求めた静の美貌に懸想して、栗橋に囲おうとしたが静は病没して坊主の夢は消えた。これは書けません。たちまち古河のお寺から苦情が舞い込みます。
とにかく、栗橋の町おこしに必要ですから、何が何でも静は、栗橋まで来て力尽きたのです・・・ここまで来ると、まるで町ぐるみの集団詐欺で、私もその片棒を担ぐところだったのです。
これが史実に基づくのであれば、私ではなくとも書けるはずです。なにしろ立派な町おこしの一環なのです。
栗橋では、毎年9月15日に「静御前墓前祭」なる追善供養があり、10月の第3土曜には「静御前まつり」が賑やかに行われます。
と、以上のような事情で、源平時代に少々興味をもった次第です。
ここで、簡単にですが、改めて静御前を紹介します。
静御前は、平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた白拍子(遊女)です。
母は、磯の禅師という白拍子で踊りの名手でした。
義経が静と初めて会ったのは、住吉の神泉苑の池の畔で行われた後白河法皇主催の雨乞いの儀式でのことでした。
100人の僧の読経では何の効果もなかったので、改めて容姿端麗で舞の上手な白拍子を選び、雨乞いの舞を謡わせます。
すると、他の誰もがだめだったのに、静が舞うと、にわかに雨雲が低く垂れこめて雨が降り始めて乾いた田畑を濡らし始めたのです。今年もまた雨が降らずに飢饉かと諦めていた百姓はいっせいに外に出て狂喜乱舞で大喜びです。
この白拍子の舞の考案者が、かの悪名高き怪僧・信西こと藤原通憲(みちのり)です。私は好きですが・・・
信西(しんぜい)については、前々回の「歴史こぼればなし・平清盛と信西」をご覧ください。
つづく