先日、宗像大社沖津宮の在します沖ノ島が世界文化遺産に登録される見通しとの報道がありました。
正式に確定するのは7月初旬の予定ですが、あとは文化庁の働きで中津宮、辺津宮も、と念じるばかりです。
今週中には、私の著書『史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説』の最終打ち合わせを出版元の右文書院・三武社長とします。
そこで今週のピンチヒッターは村長・・・材料には困らない様子ですのでお任せしました。
一言加えますと、上記書籍の「序文」は私、「あとがき」は花見村長です。
発刊日が決まりましたらこの場でお知らせします。ご期待ください。
「歴史こぼればなし」担当講師・宗像善樹。
巴御前の消息
花見 正樹
私は信州が好きで信州辰野に支店(H化学)を持ったこともあり、義仲&巴も好きです。
この一文は、既刊の拙著の一部をばっすいしたものです。
巴御前(ともえごぜん)は、平安時代末期の信濃国木曾谷の武将・中原兼遠の娘です。
兼遠には男4人女3人の子の子がいて、巴は3女、末っ子でした。
男子は後の樋口兼光、中原兼好、今井兼平、落合兼行で木曾四天と称される豪の者がいます。
巴は温厚な姉たちと違って、幼い時から兄や3歳上の駒王丸(義仲)と棒で打ち合う武芸好きな女の子でした。
巴は色白で大柄ながら美貌、文武両道に優れた女傑です。
駒王丸の父・源源義賢は身内の争いで源義朝(頼朝の父)に殺され、遺児の駒王丸も殺されかけます。
まだ1歳の幼子を抱いて乳母でもあった兼遠の妻が木曾まで逃げ伸びて匿って養育していたのです。
冶承4年(1180)、義仲26歳の4月、平清盛が安徳天皇を即位させるという政変がありました。
それに不満を抱く後白河法皇の皇子・以仁(もちひと)王が全国に平氏打倒の檄を飛ばします。
それに呼応した源頼朝が、8月に伊豆で、木曽義仲が9月に信濃で挙兵します。
木曽義仲軍は翌年、信濃に攻め込んで来た平氏の大軍を迎え撃って撃破します。
寿永2年(1183)、義仲の叔父(父の弟)源義広が頼朝との戦いに敗れて木曾に逃げ込みます。
義仲がこれを匿ったことで、義仲は7歳上の頼朝と対立します。
義仲が長男・義高を人質として送ったことで和議が成立、頼朝と義仲は平氏との戦いに力を合わせます。
5月、木曽軍は倶利伽羅(くりから)峠で、木曽を襲う10万の平維盛(これもり)軍と激突します。
義仲軍の敵の半分以下の兵力を本隊と分隊の二つに分け、分隊を平氏軍の背後に回らせ、断崖近くで夜襲をかけます。
闇夜に逃げ場を失った平氏軍は次々と谷底へ落ち、およそ8万の兵と馬の死体が深い谷を埋め尽くします。
木曾軍は地の利を生かして完勝、夜が明けるとさらに掃討が続き、残った平氏軍も壊滅します。
この戦いで激戦で捕虜にした平氏の瀬尾太郎兼康を義仲は「失うに惜しい武将」として命を救い自由にします。
しかし、その瀬尾太郎は再び義仲に敵対して木曾軍に多大な被害を与えます。義仲は瀬尾を攻めて自害に追い込みます。
瀬尾太郎の見事な奮戦ぶりを見た義仲は「さすがは瀬尾太郎」と、その主家への忠義心を高く評価します。
平家一門は義仲の追撃を恐れて九州へと都落ちし、義仲は後白河法皇を保護して平安京に入ります。
都の人々は横暴な平家を追い出した義仲を、飢饉に苦しむ京の人は救い主の太陽とみて朝日将軍と呼び歓迎しました。当時の京の都は人口約15万、そのうち4万を超す餓死者と道端に倒れた飢えた人々の地獄絵図でした。そのために義仲軍は窮民どころか、兵糧の補給も出来ず、腹を空かせた兵たちが民家を襲い略奪を始めて軍律も乱れ、民衆だけでなく後白河法皇や公家達も最初の歓迎から一変して「木曽の野猿」と馬鹿にします。
義仲は、人も馬も飢えた義仲軍を、何とか都から脱出させたいと考えます。
秋になり作物も少しは収獲が上がり飢饉が去ると都は少し落ち着きを取り戻します。
高い官位を得て貴族の装束に烏帽子姿の義仲は、牛車の乗り方も知らず、貴族の生活習慣も理解できなかったようです。
法皇は平氏追討を義仲軍に命じて京から遠ざけてから、頼朝に接近して義仲追討を命じます。
これを知った義仲は7千の兵を引き連れて京を襲い、法住寺を本陣にした2万の公卿方の武士や僧兵を打ち破ります。
義仲に従って戦場に出た巴は、色白で長い黒髪を風になびかせて華やかな甲冑に身を固め、縦横無尽の活躍で敵を蹴散らし、巴が放つ強弓は次々に敵をなぎ倒します。さらに、馬上から振るう薙刀は人も馬も一撃で倒し、敵味方の武士の喝采と注目を浴びました。この戦で勝った義仲は、法皇を拘束し政権を掌握すると一気に役人や高官・高僧を追放して人事を一新します。
寿永3年(1184)1月20日、源義経と範頼の率いる義仲討伐軍8万が京に迫ります。
そこで、義仲軍本隊7千は宇治川に布陣して義経隊6万と戦い、木曾分隊3千は瀬田で源範頼軍2万を迎えて戦いの火ぶたを切ります。
宇治の橋は壊されていましたが、義経隊の佐々木高綱と梶原景季(かげすえ)の一番乗り離争いをきっかけに全軍が渡河を開始して、宇治川の合戦が始まります。しかし、多勢に無勢で義仲軍は敗北します。
思えば義仲の戦闘は、つねに味方は小人数で敵の大軍と戦ってきました。
義仲は主従わずか13騎で逃げますが琵琶湖南岸で樋口二郎兼光たちと合流、約300騎が集結します。
「死なば一緒」と義仲軍は、義経軍6千騎を率いる一条次郎隊に突入、大いに暴れ、敵陣を突破した時には300騎が50騎に減っていました。その50帰でまた次の義経軍に突入して暴れ、それを繰り返すこと5度にして最後に5騎が残りました。
かつて5万人で上洛した義仲軍がわずか5人、その中に今井兼平とその妹・巴がいます。巴は強運でした。
27歳の巴御前は、荒馬の春風に乗って、派手な鎧を着て大型の弓を放ち、大太刀を自由自在に振るって多くの敵兵を倒していて敵陣に躍り込むと兼平らもそれに続いて突撃します。巴も遅れじと敵のど真ん中に斬り込み、武将の体に愛馬ごと体当たりして引き掴んで斬って捨てます。その後は乱戦となります。
もはや、これまでと覚悟を決めた義仲が巴に駆けより強い口調で「長く生きよ」と、巴の愛馬春風の尻を刀の背で叩いて、戦場から離脱させます。義仲の愛を感じとった巴は涙ながらに愛馬を駆って東国に落ち延びて行きます。
この戦いで義仲は、近江国粟津(あわづ)のぬかるみで義仲は額を射ぬかれて死にます。樋口兼光の無事を確かめようと振り向いた瞬間を狙われたものです。享年30歳、鬼神と聞こえし木曽義仲を討ち取ったるは、石田次郎と記録にあります。
巴の消息は、古書のどこにも見当たりません。
木曽には、巴が越後の国に落ちのびて尼になり、終生、義仲の菩提を弔った、と伝説がありますが、あくまでも噂です。