白河歴史挿話 1、道案内  安司 弘子

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今週はまた全国歴史研究会白河支部長・安司弘子さんの登場です。歴史こぼれ話管理人・宗像善樹。


白河は、古代大和政権の北方前衛の砦として「白河関」が置かれた要衝の地でした。その地理的重要性から、時代の分岐点で刻まれてきた、歴史の中のこぼればなしを是非知っていただきたいと思います。
しばらくは、来年、戊辰戦争・明治維新から150年の節目を迎えるにあたり、白河における戊辰戦争の片鱗をお伝えします。 安司 弘子(白河市)

 

 

 

 

 


1、道案内

安司 弘子

戊辰戦争からさかのぼること5年。
奥州街道白坂宿で豆腐製造販売のかたわら、居酒屋を営む「若野屋」の主人大平八郎は、村人達の伊勢神宮参拝に同行しました。しかし、伊勢に到着しないうちに旅費を使い果たし、かろうじてたどり着いた京都で、桂宮家の役人と知り合います。無一文の大平は、桂宮家での奉公を願い出て幸運にも雇われ、都の状況などを聞く機会も得たのでした。
京はまさに尊皇攘夷で湧き上がる幕末動乱のなか。
二年半の奉公ののち、大平は桂宮家家来と称し、駕籠に乗り、槍を立てて、勤王家となって帰郷しました。しかしすぐに、正月に鳥羽・伏見で戦さがあった(慶応4年=1868)ことを知り、桂御所へのご機嫌伺いと、姉の娘婿を桂宮家に奉公させるために3月、再度上京します。
そうしてふたたび自宅に戻った閏4月21日、白河城が前日に会津藩が占領したことを聞いたのです。
大平はすぐに、大田原に止宿していた薩摩藩の川村隊長(のちの川村純義海軍大臣)に面会。白河の状況などの諜報をもたらし、道案内も申し出ました。
さらには、宇都宮で新政府軍参謀の伊地知正治に会ったうえ、江戸まで上り、大総督有栖川宮を訪ねます。有栖川宮にも白河付近の図面を差し上げて、またも道案内を申し出ました。
こうして大平は、5月1日、川村遊撃隊の道案内人として、西軍のために大いに働き勝利に導きました。
東軍は、この1日で700人もの死者を出して、白河城を奪われる大敗を喫し、以後100日におよぶ戦いの、最大の激戦日となりました。
大平は、棚倉城攻撃の時にも薩摩軍に付属して働き、それらの功績を賞せられました。大平には感状が贈られ、鎮台日誌にまで掲載されて、その栄誉を誇っていたといいます。
新政府から五人扶持を賜り、白坂宿の人馬継立取締役などになって、非常な勢力を持つに至った大平でしたが・・・
戦後二年が経った夏のこと、みすぼらしく汚れた風体の若者が白坂宿にやってきました。この若者は元会津藩士の田辺軍次。
戊辰の敗戦で、会津藩は下北半島に斗南藩として三万石を与えられて再出発。しかし、そこは厳寒不毛の地であり、実高は七千石という一藩流刑に等しい処分でした。
この斗南から、田辺は食うや食わず、ひと月がかりで、ある目的のために白坂宿にやってきたのです。
それは、「会津藩が滅亡するに至った原因はあの5月1日の敗戦にあり。すなわち大平が道案内をしたことによる。」と思いつめての復讐でした。
田辺は、元会津藩の定宿だった「鶴屋」で大平を刺殺し想いを遂げます。そのあと切腹して果てましたが、駆けつけた村役人や大平の女婿直之助に斬られたともいわれています。その遺骸は、大平の遺族や宿の人々が、近くの観音寺に葬り小さな墓をたてて鎮めました。
旧藩体制に不満を持ち、時代の潮流に乗って重役としての立場を得た大平にとって、まさに想像外の出来事であり、遅れてやってきた災難でした。
市内本町、長寿院の墓域にはかつて薩摩藩の墓があました。大平はその墓前に灯籠を捧げましたが、旧薩摩藩が大正初年に小峰城内の鎮護神山に墓所を作って合葬した時、この灯籠は取り残されました。当時の薩摩藩との繋がりを示すように、今も長寿院の西軍墓域に建っています。
田辺軍次の墓は、のちに、元会津藩関係者によって別の場所に移されました。そこは、あの5月1日の悲惨な戦場だった会津藩の陣地、稲荷山の裾に合葬された304名の会津兵が眠る、会津藩の墓所でした。