神代の代から存在するという日本最古の神社「宗像大社」の執筆も順調、本家本元の宗像大社の協力もあって、内容も充実し筆者も意気軒昂、担当する「歴史こぼればなし」にも好影響を及ぼしています。
前回からの村長の寄稿が3話完結と聞いていましたが、前々回から始まった安司弘子講師の「白河編」の原稿が届いていますので、村長の寄稿を2話と3話をまとめて掲載して頂きました。
それでは今週も歴史の中の一こまを存分にお楽しみください。
「歴史こぼれ話」担当講師・宗像善樹
平清盛と信西-2
花見 正樹
久寿2年(1155)7月、3歳で皇位に就いていた近衛天皇が17歳でご逝去されると、当然のように相続争いが始ります。
信西は、美福門院の猶子守仁親王(二条天皇)の即位まで、その父・雅仁親王を即位させる案を持ち出します。
自分は裏方に回り、関白藤原忠通(ただみち)主導の形で、強硬に反対派の崇徳上皇・藤原頼長組を抑え込み、自分の恩人でもある雅人親王を強引に即位させ、後白河天皇とします。
信西は、後白河天皇からみれば乳父ですあら、さらに重用されることで権力も持ち国事にも口を挟むようになります。
こうしてこの世は、後白河天皇、藤原忠通を表看板に、信西が裏で操っての我が世の春になります。つい数年前には現世に失望して僧籍に入ったばかりの信西の180度の転換して得意の絶頂をご想像ください。
これを面白くなく思った崇徳上皇と藤原頼長は、反後白河天皇派の豪族を集めて武力蜂起して反乱を起こします。
これが「保元の乱」です。
ときに保元元年(1156)7月、信西は天皇方の参謀として活躍し、さまざまな策で崇徳上皇軍を打ち破ります。
この時、信西は過去の友情から、敵將である藤原頼長が崇徳上皇に別れの挨拶に忍ぶ場を知りながら部下に捕縛を止めさせるという温情を見せています。当時、頼長と忠通は犬猿の仲で、保元の乱はこの二人の戦いでもあったのです。
しかし、戦後の処置は素早く苛烈で、源為義や平忠正ら主だった上皇方の武将は迷わず処刑されています。とくに、悲劇的なのは、賊軍の大将とされた源為義で、天皇側についた我が子・義朝の手によって斬首され草葉の露と消えました。
その他、崇徳上皇は讃岐、源為朝は伊豆大島に流され、藤原頼長は頸を矢に射られて逃亡中の奈良で力尽きて息絶えます。
(この源為義は、八幡太郎義家の孫、為朝、義朝の父、頼朝・義経の祖父にあたります)
平清盛は、義母が崇徳上皇の子息の乳母だったにも拘わらず、一族を率いて後白河天皇側について戦い、後白河天皇に大勝利をもたらしまた立役者になります。その恩賞もあって清盛は、貴族として国政に関与するようになり異例の出世を遂げ、大いに面目を施します。
その後、戦後の処敵方の所領などを没収して天皇直轄領や経済基盤の拡大を図り、全国に、国の支配者は天皇であることを宣言します。
一人の王あれば、他に権威は不要、と定めた「保元新制」の発布です。
この荘園や貴族、寺社などを規制した、天皇主権の新制度は、後白河院政の基本政策として、約束通りの二条天皇の即位後も、後白河上皇院政として続けらますが、この平和も長くは続きません。
舞台は間もなく一変します。
平清盛と信西ー3
花見 正樹
「平治の乱」の勃発が、また世の中の束の間の平安を木っ端みじんに砕くことになります。
後白河上皇は信頼する信西に、政務については丸投げで任せていました。
その一方で後白河上皇は、美男子と評判の下級公家・藤原信頼(のぶより)を人目も憚らず異常に寵愛し、正三位権中納言などという誰もが驚くほどの高位の官職を与えたりしています。(あさましきほどの御寵愛なり『愚管抄』)
ところが、藤原信頼は上皇の寵愛をいいことに、さらに、近衛大将へと任用を求めます。
それを知った信西が強硬に申し出て、後白河上皇に、唐の第九代皇帝・玄宗が、大宗の治を用いての善政を忘れて、絶世の美女・楊貴妃に溺れて国を滅ぼした故事を描いた長恨歌絵巻を献上して上皇の、行き過ぎた信頼寵愛を諌め、信頼の過度な出世を阻止します。
これを知った信頼は信西を恨み、すでに検非違使として軍権を握っていた信頼は、源義朝や源頼政ら源氏の武将を煽って反逆を企てます。
それに便乗して、信西ら後白河上皇派の院政に不満を抱いていた二条天皇側の藤原経宗、藤原惟方らもこれに加わり、上皇側の源師仲や藤原成親らも上皇と信西を裏切って、上皇側武士の棟梁・平清盛が熊野詣に行った留守を狙って決起します。
暴徒は院御所三条東殿を襲って、後白河上皇とその姉の上西門院を捕え、内裏の御書所に幽閉してしまいます。
信西は御所を逃れましたが、反逆派の武士達は後白河院屋敷内の使用人や婦女子を皆殺しにし、信西の姿を必死で探します。
やがて、京都の南、山城国田原荘近くに隠れていた信西が、源光保率いる追手に捕えられて殺され、その首は、獄門に梟首された、と、平治物語絵巻に伝えられています。さらに、信西の息子たちは皆流罪にされて失脚しました。
その後は、二条天皇を擁した藤原信頼が、天皇の名で人事や政務を行い、後白河上皇側を厳しく処罰しました。
「平治の乱」の結末は、これでは終わりません。
その後の平清盛との戦いによって、蕗藁信頼や源義朝も倒れ、その乱の後は、藤原経宗らが率いる二条天皇親政派が天下を掌握します。
藤原経宗らは徹底して後白河上皇を政治から締め出し、上皇の屋敷の桟敷に板を打ち付けて封鎖してまで上皇を排斥します。
怒った上皇は清盛に命じて、藤原経宗と藤原惟方を捕えて流罪とし、二条天皇親政派は失脚します。
後白河上皇は、この事件以後、態度を改め、唐の大宗に学んだ信西の残した新制によって院政を進めて民心を取り戻します。
流罪を解かれた信西の息子も戻り、信西を殺した藤原光保は薩摩に流されますが、信西殺害の罪によって誅殺されます。
NHKの大河ドラマ「平清盛」では悪役だった信西こと藤原通憲は、平清盛と共に後白河上皇を一途に支えました。
僧にして忠義を重んじた信西と、武士として道を貫いた平清盛は、よくも悪くも「保元・平治の乱」の主役です。
なお、信西が創始した白拍子の舞がなかったら、源義経と静御前の悲恋物語も無かったかも知れません。