戊辰戦争150年に向けて想うこと   安司弘子

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歴史こぼれ話、担当講師・宗像善樹よりご挨拶です。
「今日は4月1日、気分新たに新学期、そんな気分で再スタートです。この度、私の本家筋に当る九州博多の宗像神社の世界遺産推薦を受けて、私の執筆出番となり、この「歴史の舘」で「読み書き出版」のコーナーを持つ三武義彦氏の右文書院刊で歴史からみた「宗像大社(題未定)」を世に出すことになりました。と、いうわけで私はいま超多忙です。
そこで今日は、素敵な仲間をピンチヒッターに推薦して、歴史こぼれ話を続けさせて頂きます。
安司弘子さんは、福島県白河市在住の才女で、(全国)歴史研究会白河支部長を務めています。さらに、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事としても活躍されていて、白河の歴史に関しては生き字引と言っても過言ではありません。

もちろん、新選組関連ボスの大出講師、坂本龍馬シンパの小美濃講師、花見村長とも旧知の間柄ですから、ここを任せるのに誰も異存はありません。
これからも、私に代わって登場頂きますので、宜しくお願いします。

 

安司弘子です。これから宜しくお願いします。

 

戊辰戦争(明治維新)150年に向けて想うこと

安司 弘子(歴史研究会白河支部長)

 

平成27年8月29日、白河市の稲荷山において「戊辰戦争白河口の戦い記念碑」の除幕式が行われました。

稲荷山は、西郷頼母が会津藩総督として指揮を採った東軍の陣地ですが、ここには「蝸牛碑」が建立されています。

〈うらやまし 角をかくしつ またのべつ 心のままに 身をもかくしつ〉

これは、会津藩白虎隊土中2番隊の自刃隊士でただ一人生き残った、飯沼貞吉の父時衛が息子貞吉のために、西郷頼母に請い、頼母が詠んだ歌です。「つのも身も自由に隠せるカタツムリが羨ましい」と嘆くこの歌に、戦後の頼母と貞吉の切ない立場と心情が察せられます。

大敗北を喫した5月1日、総崩れで混乱の中なおも前に進もうとする頼母を諌め、馬首を北に向けて鞭打ち、退かせたのは貞吉の父で頼母の義兄にあたる時衛でした。

戊辰戦争は、日本列島が東西に分かれての激しい戦いでした。今でも多くの方々の心に影を落としていますが、それらの積年におよぶ葛藤も、近年になって少しづつ氷山の氷が溶けるように、ほぐれている気配を感じることがあります。

昨年秋、山口県美祢市において「恩愛の碑」が建立され、その除幕式に参列しました。これは、戦後、行き場のない飯沼貞吉が、長州藩第一大隊二番中隊長楢崎頼三によって養育された真実に基づき、二人の恩愛を顕彰する碑です。

地元の民間放送KRY山口放送では、これまで何度も、長州藩士楢崎頼三と白虎隊士飯沼貞吉の関係について放送しています。2015年5月28日に放映した「会津白虎隊の残映」は、日本民間放送連盟賞の中国・四国地区において優秀賞受賞、教養番組部門19番組のうち2位になり、山口県民に広く知られるようになりました。

また、戊辰戦争で白河で戦った長州兵たちが持ち帰ったという白河の盆踊りは、現在でも「白河踊り」として踊られ続けていて、山口県下80ケ所にも及んでいます。

2008年には、「明治維新140年記念事業白河踊りレセプション」が萩市で開催され、白河市長が白河市民とともに招かれ萩市民と一緒に踊っています。2013年には、野村市長率いる「萩市民号」40名が白河に来て、「白河踊り」で交流を重ねてきました。

白河は戊辰戦争がやって来たとき、直前に転封されて白河藩は無く、東西双方が要衝のこの地を奪い合う戦場として存在しました。地元民は、東西の別なく戦死者を葬り、墓や慰霊碑をたて、香華を手向けてきました。

いつか、この二つの碑、山口県美弥市における「恩愛の碑」と、白河の「戊辰戦争白河口の戦い記念碑」に込められた想いが通じ、会津と長州に恩讐を超えての交歓が得られますように。

 

村長からも一言
「戊辰戦争150年時に、今年4月で33年目の私がまだ山口放送に出演していましたら、必ず協力させて頂きます」