「勝さん、小栗さん、福沢先生の思い出」-1

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 第

 

木村芥舟の
「勝さん、小栗さん、福沢先生の思い出」-1

宗像善樹

木村家内で代々語り伝えられてきた話に「勝さんの思い出」と「小栗さん、福沢先生への想い」があります。

木村喜毅と勝麟太郎は、長崎の海軍伝習所で出会い、咸臨丸で一緒に太平洋横断航海を成し遂げ、明治期に入っても、その交流は続きました。
ただ、多くの歴史家は、2人の間には確執があり、その仲は芳しからざるものであったと、評価しているようです。
その発端は、万延元年の咸臨丸航海においての船上及びサンフランシスコ到着後の勝麟太郎の木村への反抗的な態度にあった、と指摘されています。
はたして、実際はどうだったのでしょうか。
木村芥舟は、明治34年(1901)12月9日に土手三番町の私邸で亡くなりました。享年満71歳でした。
勝海舟は、それより、およそ3年前の明治32年1月19日に亡くなりました。享年76歳でした。
勝海舟の没後、木村芥舟が最晩年に達したとき、芥舟が、咸臨丸太平洋横断航海の当時を回想して、しみじみとした口調で、勝海舟の思い出を懐かしんで家人に次のように語ったことがあるそうです。
『勝さんの若い頃は、内心に不満があると、勝さん独特の威勢の良い江戸弁で、自分の感情を相手にぶつけては、私や周囲の者を、ほとほと困らせたものです。
晩年になってからは、すっかり静かになりました。
あの頃に帰って、勝さんの威勢のいい啖呵を、もう一度、聞いてみたいものです。』

思うに、私は、木村芥舟という人の処世は、越後の良寛和尚の言葉といわれている、『俺が、俺がのが(我)に生きず、お蔭、おかげのげ(下)に生きる』のようなものであったと思われますので、後世の歴史家が言うような、勝海舟との気持ちの対立はなかったのではないかと、「咸臨丸の絆」執筆中に感じていました。

木村芥舟の人生最大の哀しみは、肝胆相照らした盟友の小栗忠順との早すぎる別れにあったようです。
また、生涯にわたり固い親交を結んだ福沢諭吉先生は、明治34年(1901)2月3日に三田慶應義塾内の私邸にて生涯を終えられました。
享年満66歳でした。
福沢先生の死に直面した芥舟は、激しい慟哭に襲われ、先生の後を追うかのように、その年の12月9日に亡くなるのです。

木村摂津守喜毅(芥舟)が、小栗忠順、勝麟太郎、福沢諭吉という3人の俊秀、英傑と幕末期の同じ時代の空気を共有して生きたことは、著者である私には、木村を含めた4人が非常に身近な存在に感じられ、彼らの息吹が私の頬に触れるようで、何とも、木村芥舟が羨ましく思えてなりません。
これこそが、まさしく、歴史研究の醍醐味といえるものなのでしょう。

つづく