木村摂津守喜毅|
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第一話
「咸臨丸の絆」発表後の読者の反応
宗像 善樹
福沢諭吉は幕府の軍艦奉行だった木村喜毅に願い出て咸臨丸に乗船、渡米を実現させます。その恩から福沢は終生木村を「木村さま」と報恩の念を持ち続け、一方で、木村は福沢の能力を認め終生「先生」と敬います。
私は、木村摂津守喜毅(芥舟)という幕臣を知っている人は、幕末史を研究している人は別にして、殆どいないだろうと想像していましたが、作品発表後の読者の反応は私の予想通りのものでした。また、木村と福沢諭吉との間で生涯に亘る親交があったことを知る人もほとんどおりませんでした。慶応義塾のOBの方々も知っている人は稀でした。
ましてや、咸臨丸の太平洋往路航海での海の上でどのような出来事があったのかの実相を知る人もいませんでした。
そういう予想を前提にして、私は、信頼できる資料、文献を底本(ていほん)にし、それに、木村一族の内で代々語り伝えられてきた逸話を基にしてこの作品を書き上げました。
特に、木村摂津守の人間としての目線に焦点を絞り、彼の目線が、身分の上下や人種、男女の差別を超越して、個々の人間の価値と個性の尊重を大切にしていることを、この作品の最初から最後まで、一貫して述べました。それが、木村摂津守喜毅という人物の人生観、価値観、歴史観だと思ったからです。こういう人間性の木村摂津守がサンフランシスコ訪問時に取った行動が、アメリカの人々に深い感銘を与えることになったのです。
さらに、ご高齢の慶応義塾OBの方々などからもご意見を頂いています。
(1)
「福沢先生が木村邸を訪問するときの衣服は、紋付羽織 袴であったことは、古い塾生の間では知られていたことでありましたが、福沢先生が木村邸のかなり前で馬車から下りて、歩いて木村様の屋敷の門を入ったというのは、本当ですか?」(慶應OB)
―このことは、福沢先生の来訪を受けた木村家側の家族なら、誰でも目にしている事実であり、木村家内で代々言い伝えられてきたものです。(初出の逸話です)
(2)
「本に紹介されているような火事騒ぎが、本当にあったのですか」(歴女)
― 当時は、火事騒ぎが多くて、作品の中で紹介した火事騒ぎもありました。大柄の福沢先生が木村邸の屋根に上がり、消火活動のためどしどし動き回るので、部屋の天井がミシミシとしなり、木村の妻(弥重)がびっくりして、部屋から庭へ飛び出したことがあった、という木村家内の言い伝えが残っています。(これも、初出の逸話です。)
(3)
木村喜毅の人物像について(慶應OB)
「咸臨丸といえば、我が国が初めて太平洋横断航海に成功し、勝海舟や福沢諭吉が乗船渡航し、彼らは無論のことその後の我が国建国にも多大の影響を与えたことなどは知っており ましたが、木村摂津守喜毅という隠れた主役がいたこと、しかもその主役こそ、我が国の誇りたる武士道精神と清廉潔 白最高位の品格を併せ持った、現在の世では稀有かつ理想の人物であったことなど、恥ずかしながら全く知りませんでし た。」