第二章 華厳の滝

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1、放瀑停止

華厳の滝の神秘な滝つぼをカメラで撮るということはそう容易なことではない。
国立公園でもあり、当然環境庁に届出が必要となる。日光国立公園管理事務所へ提出する撮影計画書には、撮影準備から撮影終了までの詳細な日時、人員配置、機器設営等の図入り明細書もいる。
この時点でカメラ位置なども決めねばならない。ロケの全責任者でもあるプロデューサーの中森平治制作部長は幾度も下検分を重ねた結果、エレベーターで百メートルほど降下した有料観瀑台下部のテラスに第一カメラ、滝つぼ上の岩場に第二カメラ、ダイバーによる水中カメラを第三とし、さらにトリムコントロール方式による水
中無人カメラ“プロフェッショナルロボ”を第四カメラとして計画した。さらに地形探査機も滝つぼに入れる。
撮影本番時刻は、平成X年四月X日(月)午前四時から午前八時までとする。
以上が環境庁に提出した文面の抜粋である。
滝つぼ近くの岩場への撮影隊用テントは前日の日曜日夕刻、一般観光客の邪魔にならないように配慮しながら、山岳家の協力を得て設営する。これはかなり危険な作業になる。
早朝滝が止まるのは午前五時半で再放瀑は七時半、この二時間に番組の成否が集約される。この時間は絶対に延長できない。
人跡未踏の華厳の滝の滝つぼの底には一体何が秘められているのか。戦後のある年には一年間に三百人以上の人命を吸い込んだ魔の滝にはえもいわれぬ妖気が漂っている。
人骨なども出るかも知れない。遺骸の発見もあり得る。この場合を考慮して日光警察署からも警察官の立ち合いがある。これには急遽、羽根警部補が警視庁の赤城と参加することになった。
警察署に申し出て却下されたのは、撮影用巨大クレーンの運搬だったが、これはいろは坂の急カーブを徐行しながら運ばねばならず、一時間ほどの全面ストップと同じになることが判明し、署長の裁量でストップがかけられたのである。次長が何気なく漏らした。
「政治家に働きかければ多分認可されるかも知れませんよ」
中森部長は納得したように礼を言った。今回はそれが分かれば目的を達している。
日光市の観光商工課はおよび腰だった。
市の古いデータには滝つぼの深さ二十メートルという記録も残されている。しかし、精霊が宿るという滝つぼ探査に成功したアドベンチャ-は過去になく、失敗して後狂い死にした者もいるという。ロケの成果を見守って協力態勢を組む、と観光商工課の担当者は冷ややかにその姿勢を伝えた。
ロケから放送日の五月X日までは十日ほどある。その間に協力PRを打つというのだ。
土木課は全面的な協力を約束した。
中禅寺湖から流れる大尻川を塞き止める。大尻橋に次いで華厳の滝寄りにかかる二荒橋に近い日光土木管理事務所の機械設備を操作して、華厳の滝に舞い落ちる流麗な流れを二時間、観光客のいない早朝に止めるのだ。
水の少ない厳冬期ならまだしも雪解け水の入る四月ではこの二時間が限界だった。
この二時間の間に撤収しないと大惨事になる。その昔、男体山の大噴火により塞き止められて出来た湖から永遠の時を経て流れ落ちる壮厳な滝、しかも那智、袋田と並ぶ日本三名瀑の一つ華厳の滝を止めようというのだ。
これがもしも天に唾する行為であるならば、必ずなんらかの祟りもあろう。しかも、その聖域にカメラを持ちこもうというのだ。
しかし、中森に迷いはなかった。
彼は、ある目的を持って敢然と挑むのだ。
これは序曲に過ぎない。今まで培って来た自分の歴史観の集大成がこれから始まる。
そのために執念を燃やして製作現場に携わり続けて来た。誰の為でもない。自分自身を歴史に刻むのだ。
スタッフは総勢約五十名。
タレントが観瀑台担当の西隆太郎、滝つぼ担当の歌手のいずみりんどう、それにマネージャーが付いて合計四人。
製作スタッフは、中森を責任者として監督代行を下請け会社の星野健一が務め、ディレクターの原田を含む演出部四人、台本作家、効果、水中班、音響、照明、撮影班、学者の他に登山家が六名、さらに技術スタッフには専門技師がつく。それにドライバーを含めて約五十名の集団が、わずか二時間の滝つぼ探検に従事する。
この世紀のイベントを肉眼で見て、リアルタイムでその興奮を体感しようとする雑誌記者、地元関係各団体の担当者、役員などの他に警察、漁協、観光協会関係者なども参加し、かなりの人数が華厳の滝に集結する。
当日の朝が来た。雲は切れている。
四月下旬の夜明けの四時はまだ暗い。
吐く息が白い。山にはまだ雪が残っている。
ホテル前に広がる湖は銀色のさざ波を黎明の中にきらきらと揺らいで光らせた。
中森は腕組みをして、湖を囲む奥日光の山々を眺めた。右手の湖畔遊歩道彼方の対岸に千手ヶ浜がある。いずれ、あの湖底にもカメラを入れるのだ。その時が正念場になる。
中森に私利私欲はない。
ある関西の有名タレントが参議院への立候補を断念したときのコメントが耳に残る。
「娘に『お父さんも政治家になったら悪いことするから』こういわれたのです」
目に涙を溜め断腸の思いで記者会見をした旧知の仲であるその芸人に、中森は今までにない親しみを感じた。たとえ、それが本当の理由の数十分の一の真実であったとしても許せた。
それに引き換え、党幹事長にまで昇り詰めた海堂敬作の何と偏狭で貪欲なことか。かつては地元の希望の星であった身が、幾度か訪れた総理への夢破れ、ついに地元の文化財となるべきものにまで我欲の触手を伸ばしている。
そのためには関西の広域暴力団との関わり合いすら恐れないのか。確証はないが・・・。
中森は、灰色の空に黒く映える黒檜岳から湖の南岸に目を戻し、八丁出島の方向から目の前の遊覧船発着所まで視線を戻した。
やがて朝陽が昇るとこの湖一面のさざ波は黄金に染まる。最深部172メートルのこの静かな湖に眠り続けている黄金伝説に気付いたのは果たして吉か凶か、中森にはまだ知る由もない。
「部長。出かけますよ!」
マイクロバスの窓から顔を出して監督代行の星野が喚いた。一睡もせずビールを浴びながらディレクターの原田やアシスタントたちと滝つぼロケの作戦会議をした疲れなど素振りにもない。
日頃中森と接触のない星野は、なぜ中森が華厳の滝にこだわりを持つのかは知らない。
原田はこういった。
数年前、ある音楽事務所に所属するアイドル歌手がビルの屋上から飛び下り自殺をした。
妻子ある俳優に熱愛の末捨てられたと女性誌は書き立てた。真相は明らかにされていない。
ファンの少年少女、成人までもが次々とそのアイドルを追うように死を選んだ。
そのアイドル歌手が生前、中森を人伝に聞き、紹介状持参で訪ねて来たのを原田は知っている。
超常現象などの分野では中森が斯界有数の権威であることを聞いて教えを乞いに来たという。中森の許には多くの芸能人が訪れる。
医師志望だった中森は心理学や精神医学など生化学的方面に造詣が深い反面、超常現象と呼ばれる霊能力現象や占いなどオカルト的なものにも興味をもつ側面をもっていた。
学識もあり献身的で寡黙な中森への相談は秘密厳守という面でも安心だったのだ。
そのアイドル歌手の暗い呟きを、丁度所用で事務所に来た原田がドア口で聞いたのだ。
「華厳の滝がもっと近ければいいのに・・・」
その娘への思い入れが華厳の滝なのか。
監督代行の星野が碑に刻まれた文を読む。
「華厳の岩頭に露と散った幾多の霊に対し、此処にこの像を捧ぐ」
花を捧げ、手を合わせて一行が黙祷した。
過去、数え切れないほどの生命がこの滝に露と消えた。さまざまな事情がその一つ一つの人生に刻まれている。その苦しみ、痛みに思いを馳せる人はここで手を合わせ万感の思いで目を閉じる。あの時、自分だってと思う。
生と死はまさしく隣り合わせにある。
観瀑台に出ると歓声が上がった。
ほの暗い谷に豪壮な滝音が響き、白い垂直な流れが霧をまいて落下している。有料観瀑台は瀑風で濡れていた。
「滝つぼ班が先に下段のテラスへ急いで!」
滝音に負けないように星野が声をからす。
売店のある下段観瀑台の板張りの床の東側に約八十センチ四方に切り抜かれた引き蓋があり、金具を持ち上げると岩場に下りる通路となって空間が広がる。機材を運び、人が下りる。登山家グループが先に下り、前日張ったロープを再点検し安全を確認した。
「さあ、下りていいですよ!」
床下の空間から下へ緊急用の金属性の梯子があり、つぎつぎにスタッフが下り、機材がリレーされ岩場から滝つぼに運ばれた。
機材の総重量は三百キロにもおよぶ。
スタッフの一人が荷を担いだまま岩盤の上に倒れた。それでも片手でしっかりとロープを?んでいたので滑落は防いだ。
「どうしたんだ!」
星野が観瀑台からメガホンを用いて怒鳴った。倒れた男が叫んでいるが、声が遠い。
「足場が濡れて滑るんです」
「しっかり足元を見て歩け!」
「飛沫で目が開けてられないんですよ」
滝つぼ班のレポーターを務める、いずみりんどうが床穴に足を入れた。顔色が蒼い。
「じゃあ、行ってきますよ」
「あ、いずみさん」
星野が軽く声をかけた。いずみが顔を上げた。寒さでか唇が震えている。
「滝が止まったら、今落下している本滝のあのまうしろに入ってみてください」
「えっ!」
いずみが長身の顔をめぐらせて滝を見た。
「あの滝の裏側ですか?」
「そうです」
「そのとき、間違って放瀑されたらどうなります?」
「即死です」
星野が断言した。毎秒三トンの水量なのだ。
「でも安心してください。コンピュータ制御だそうですから七時半までは安全です」
「万が一、それを過ぎたら?」
「一秒も待てません」
「嫌な予感がするな・・・」
片足を梯子に掛けたまま傍のマネージャーの顔を見上げ、いずみが睨んだ。
「だからこの仕事断われって言ったのに、お前が受けちゃったんだからな」
「分かってますよ。ごちゃごちゃ言わないで一曲歌うつもりで行って来てください。生活がかかってるんですから」
「お前の生活なんか知るもんか。死ぬのはオレなんだぞ」
「その時は今乗ってるシボレー、ボク貰います」
「誰がくれてやるもんか。畜生、絶対に死なないぞ」
「そうしてください。まだ稼げますから」
「うるさい。吸血鬼。一曲歌ってくるぞ」
元気が出たのかいずみが岩場に下りた。
「早くしてください。後がつかえてます」
星野が追い討ちをかけてがなり立てた。
昨夜は発電機を用いて四基の照明で夜の滝を映したが、今朝は夜明け前の暗い谷のシーンをそのまま撮影することになる。
準備が着々と進みテストが始まった。
西隆太郎が観瀑台で発声練習のために大声を出した。滝音に消されて自分の声に自信を失うらしい。寒いのか替え上衣の襟を立てた。
「西さん、大丈夫でしょ。今日はピンマイク使いませんから。時計合わせしましたね」
星野が手持ちマイクを西に渡した。
西が大声で実況テストを始めた。
それを見てカメラ班もモニターをセットし、カメラリハーサル通称カメリハをスタートさせる。モニターの前に星野と中森が座った。
滝つぼ班はまだ準備が整っていない。
「滝が止まると滝つぼ班がマイクを独占しますので、西さん、早目に行きましょう」
星野がハッパをかけ西をあおった。
「カメラをまわして、本テスでどうぞ」
西が心得たように滝をバッグにして顔を向けた。
樹木がはっきりと見えて来た。滝の手前の崖にミツバツツジの花がピンクの色をほんのりと現している。夜が明けたのだ。
西隆太郎のトークが滝音にかき消されながらスタートした。襟もきちんと直っている。
「奥日光の名峰男体山の噴火によって川が塞き止められ出現した中禅寺湖から流れ落ちる華厳の滝・・・ この滝は一万五千年もの間、絶えることなく山上から牙を剥いて岩を叩き川となって大蛇のごとく谷間をくねって麓を潤して来ました」
「ハイ、カット」
星野が迫力のある声で喚いた。
「西ちゃん。頭に今の時間を入れてつぎのシーン頼みます。ハイ、ローリング、スタート五秒前!」
西隆太郎が大きく息を吐く。寒い。谷底の朝は寒い上に滝しぶきがさらに熱を奪う。
「今、私の時計は午前五時十分を刻んでいます。日光華厳の滝は九十七メートルの落差を毎秒三トンという圧倒的な流量で自然の営みを絶えることなく繰り返しています。
この幅七メートルにおよぶ本滝は、滝つぼ上部約三十メートルに突き出た集塊岩の裂け目から地下水路を経て溢れ出る十二の小滝を加えて、末広がりの壮大な瀑布となり、天下にその名を轟かす華厳の滝となるのです」
「ハイ、カット!」
星野が中森の目を見た。お互いに意思の疎通は完璧なつもりだった。星野が右手で二本指を出し軽くハサミの真似をし、中森が頷いた。余分な部分は後でカットするという了解だ。
「よしっ。取材の連中を入れろっ」
星野がADに手を振ると、ADがトランシーバーで怒鳴った。
取材班、関係者の中に混じって達也と友美、警察関係で赤城、羽根警部補が同行している。
「そこし押してますね」
星野が時計を見て、中森に声をかけた。
五時半には滝が止まる。
滝つぼ班の準備が整ったと合図があり、カメラがいずみりんどうのヘルメットと完全
防水防寒の登山服姿を映し出した。全身が濡れて顔のアップでは頬の震えまでが迫った。
「よしっ。二カメはそのままいずみさんを追ってて!キューを出したらビデオまわしてください!もうすぐ本番行きます」
録画撮りなのはお互い承知だが、限られた時間内での短期決戦だけに誰も二度撮りなど考えていない。場合によっては生命を失うこともある。モニター画面を通じてスタッフの真剣な表情、きびきびした動きが伝わって来る。
「すっごい迫力だな!」
「さすが名瀑だけあるぞ!」
押し寄せた取材陣および関係者が感嘆の声を上げた。エレベーターは一基三十名定員で二基あり、地下から百メートルを一分で一気に岩盤の下に潜り、そこからトンネルを経て谷側に出て、さらに階段で観瀑台に出る。
そこからは滝を見上げることになる。
ギャラリーが増えたことで西隆太郎が見違えるように元気になる。多分、まだほの暗い谷間の夜明けで見た女性記者を絶世の美女と思い込んだのに違いない。挙動にそれが出る。

 

2、白骨散乱

 

「夜明けの滝をここから見るのは初めてだ」
栃木県庁から派遣されたという環境観光課の職員が達也に興奮気味に話しかけてくる。
無料展望台からは夜明けの滝を見下ろすことは可能だが、エレベーターの営業開始は午前八時だから有料展望台には早朝は入ることができない。誰もが夜明けの滝を見上げるのは初めてなのだ。友美と同時に寺崎という女性記者も感嘆の声を上げた。
滝つぼは、急勾配の岩盤の谷を昇り詰めた位置にあり、有料展望台下段のテラスからは滝つぼすら目線より上にあるように見える。
滝は空から降るように轟々と岩を叩き、しぶきは谷風に乗って展望台に降り注いだ。
「寒いわね」
友美が達也の腕にしがみつく。
赤城が達也の顔を見て笑った。
羽根警部補が眠そうに目をしばたいている。
昨夜遅く大沢忠刑事を訪ねて来た赤城を交えて行き付けの「おしの」という小料理屋で飲み明かしたのだ。
赤城は昨夜、日光にいる大沢を電話で探した。
大沢忠刑事に、友美と達也の話を伝えると、「あの落伍者めが」と、赤城と同意見を吐く。
「達ちゃんの彼女じゃ仕方ねえ。赤城もすぐこっちへ来て手伝え。忙しくなるぞ」
こうして赤城直孝も深夜、日光へ来たのだ。
大沢は、「刑事は面が割れたら商売にならんからな」とか理屈をつけて華厳の滝駐車場の覆面パトカーで眠りこけている。
観瀑台に後ろから来た男を見て赤城が羽根警部補に囁いた。友美の先にやせた男がいる。
「横手竜二、通称コヨーテの竜です」
友美は小声で挨拶し昨夜の礼を伝えた。危機を知らせてくれたバーテンがその男だった。
「ヤクの売人かね?」
羽根警部補が聞く。
「なかなか本性を出さんのですよ」
かなりの距離での群れに紛れた小声の会話は滝音にも消されて竜二に届くはずもない。
竜二が振り向き赤城を見て冷笑した。
西隆太郎が調子づく。
「幾多の謎を秘めるこの神秘の滝が今、そのヴェールを脱ぐ時が刻々と迫っています。
199X年4月X日月曜日、午前5時30分、この、世界に知られる華厳の滝がその営みを閉ざします。
滝上にある水門が閉じられ、中禅寺湖から流れる多量の水が眠りに入るのは二時間、午前7時半に再び放瀑が開始されます。
毎秒三トンの水が二時間止まりますと、平均川幅四メートル深さ五十センチとして約十キロにおよぶ総量二万トン以上の水が、滝下の渓谷大谷川から一時的に失わせることになります。
そしてまた、戦後の混乱期には滝上の崖に身を投げる人が列を成したという悲しい伝説も残るこの滝には、過去数百人を超す尊い生命が吸い込まれて消えたといわれます。
この滝が静寂に包まれたとき、苦しみに耐えてさまよう無数の魂は、しばしの安らぎを得ることができるでしょうか。
過去、幾度も学術的調査が行われ、年々滝口の岩が崩れ落ち、滝が湖に近付いていることが判明しています。最深二十メートルの記録が残されているこの滝つぼも、今では崩壊した岩で埋まり十メートルほどの深さになっているといわれます。
過去、滝つぼ探査の計画は幾度もありました。しかし、その都度なんらかのアクシデントもあり完璧に目的を達したことはありません。私たちは今、初めてこの聖なる滝の底に入ります。」
ここで、西隆太郎が手を上げた。
「のどがカラカラ。なんで緊張するんだろうなあ。カミさんもいないのに・・・」
取材の記者たちが声を上げて笑った。西が恐妻家で妻の目を盗んでは浮気をし、それがバレての家庭騒動など、毎度お馴染みだからだ。
一息入れた西が時計を見てマイクを握る。
「間もなく五時半ジャストになります。この歴史に残る世紀の瞬間を私たちはこの目で見、貴重な体験を共有することができるのです」
女性記者同士が耳打ちする。
「少しオーバーすぎない?」
「いいのよ、あの局だから」
「いよいよ滝が止まります。今、三十秒前です。滝が止まると主役は、こちらに替わります。現代科学の粋を集めた水中テレビロボ“RTV100”です」
編集で挿入になるためかモニターには機器は映らず、カメラが切り替わって画面には滝つぼに近い岩場に設営した機材用テントの脇に立ついずみりんどうの姿を映し出している。
マイクを持ってステージに立つときの雄姿などみじんもない。ヘルメットから水滴が落ちている。手にはめた軍手の白さが際立つ。西が叫んだ。
「あっ。ただ今、滝が止まります。水量が極端に減少したのがお分かりになったと思います。途中の岩の割れ目からもかなりの水が流れ出ていたことも判明しました。最上部からの水は殆んど停止したようです。
それではマイクを滝つぼに待機するいずみりんどうさんに移します。いずみさん。それではよろしくお願いします」
カメラが切り替わってモニターはマイクを持って立ついずみりんどうの姿を映す。カメラテスト時の寒々として自信のない姿勢は消え、ステージ上同様の明るい表情がある。
「いずみりんたろうです。
私は今、那智、袋田と並んでわが国三名瀑の一つといわれる日光華厳の滝の滝つぼ近くに立っています。つい数分まえまでは滝のしぶきでびしょ濡れでしたが、今は霧雨。私の声もようやくマイクを通してみなさまに聞こえるようになったはずです。
今、科学班が遠隔操作により上下左右最深百五十メートルまで潜水可能な高速潜行型無人テレビロボットを滝つぼに深く潜らせ、滝つぼ内を撮影すべく準備中です。
その間に、私がみなさまに華厳の滝の地上部分をご案内しましょう」
いずみが気を取り直すようにヘルメットの位置を改め、岩場にしがみついた。足場が滑るのか軍手をはめた両手だけが先行して、思うように身体が岩を登らないようだ。
その姿をカメラが追い、モニターにアップで映し出した。姿勢は滑稽だが誰も笑わない。
その後に続くシーンが気になる。
いずみは本滝の中心部に向かった。頑強にそびえ立つ大きな岩盤の裏側は正面からは見えない。その岩盤を叩く滝がその裏側をどのように変えているのか。
展望台からいずみりんどうに続いて岩場をよじ登るカメラマンと助手の姿が見え、モニターにはカメラが映し出す風景が動く。
滝は止まったとはいえ、水流は水道の蛇口から勢いよく流れ出る程度の水がすだれ状に舞い落ち、いずみとカメラ班を叩く。防水カバーを叩く水の音がそのままモニターに響いた。
画面は、暗い空洞を映し出している。
「今、本滝の裏側にある洞穴を発見しました。長い年月の間滝の水に叩かれ割られた岩岩は、鋭い刃先のように尖ってゴツゴツしています。その奥に暗い洞穴が見えています。
男体山の噴火で噴き上げられた熔岩は、その形成の段階で性質を変え、この華厳の滝の断崖は下から集塊岩と安山岩の組み合わせで噴火の都度積み上げられ火山灰層として固まったものです。
私の真上にある大岩盤の上部にある安山岩が崩されたため、瀑流はこの硬い岩で叩かれて滝つぼに落ちます。
あの百メートル近い頭上の滝からとび下りた人はこの集塊岩の大岩盤に叩きつけられて骨を砕かれて即死し、滝つぼに舞い落ちます。」
いずみが背をかがめ岩陰に消えた。
カメラが洞穴に入ろうとするいずみを映し出し、頭上から落ちた岩が激しい音を立てた。
いずみの足がすくんでいる。
ADがレポートを進めるようにと手を激しく振った。
いずみが気を取り直して一気に喋った。
「一万年以上もの昔から滝の裏側に砕けた水流が岩を磨き上げたのでしょうか、岩塊が幾重にも重なり合い砕き合ってまるで大きな針の山です。素足だと確実に傷つくでしょう。
あっ。落盤です。洞穴の天井から氷柱のように尖った岩が下を向いていて、人が通ると落ちるようになっています。これ以上は入れません。一歩足を踏み出すと上から岩が落ちます。洞穴の奥からは風の影響か不気味な震動音が聞こえてまいります。足がすくみます」
中森が立ち上がって双眼鏡で見つめる。
「星野君。洞穴の形を報告させろ」
星野がそれを聞き、トランシーバーで呼びかけた。
「その洞穴はどんな形ですか?」
「あっ。待ってください!」
いずみが一度外へ出て、絶壁の両側を見た。
「滝つぼの南側には、花崗斑岩が割れ目をつくっています。まるで細く陰険な魔物の目を見るようです。
北側の壁は、比較的新しい噴出岩の絶壁で目はありません。片目の魔物ともいえます。
そして洞穴は、大きく開いた怪獣の口のように赤黒い岩がごつごつと段差をつけて奥に続き、入口上下の尖った岩は鋭い獣の牙そのものです。滝を舞い落ちる自殺者の多くは一度中断の大岩盤で叩かれ即死し、瀑流に隠れたこの表面の岩に激突し、流れによってはこの裏側に吸い込まれたに違いありません。
昔から、華厳の滝への投身自殺は身を隠すといういい伝えがあるほど自殺者の遺体が出なかった謎が解けたような気がします。
この洞穴は魔物の食道なのでしょうか。
それにしてはこの澄んだ清流、緑濃い山々、新緑に映える鮮やかなピンクのミツバツツジ、そしてこの荘厳にして雄大な華厳の滝。
私が見た風景の表と裏、これは全て大自然によって生じた奇跡でしょうか。それとも」
中森がさり気なくモニターを切り替えた。
画面は、無人の水中カメラが映し出す滝つぼの水中シーンに変った。
静まり返って、モニターに集まった人の群れから溜め息が出た。レポーターのいずみが何を言いたかったのか全員が分かっていたからだ。日光は昔から修験者の棲む山だった。
「もしも、これが人工的なものだったら」
これは今、誰しもが抱いた疑問だった。
そうなると、「誰が?」「なんのために?」「いつ?」「どうやって?」と、限りなくクエスチョンが続く。中森はそれを避けたのだ、と達也は思った。
時間はかなり迫っている。急がねばならない。折しも太陽が光を投げ、山の上は明るい緑に包まれている。空の青さがまぶしい。
谷はまだ暗い。水中をゆっくりとカメラが進む。達也と友美はモニターを見つめた。
音声は、編集時に同時録音となるがサービス精神旺盛な西隆太郎がナレーションを流している。陸上二台水中二台のカメラが動く。
「この冷たく澄んだ水中を今、重量三十一キロの水中テレビロボがトリムコントロールによって滝つぼの中を映し出しています。
F1.6,3.7ミリの広角レンズは、どんな小さな生物でも見逃すことなく発見することでしょう」
透明度の高い滝つぼの上層部には小魚一匹はおろか、水中生物らしきものの姿は何一つ見当たらない。上下左右にカメラは動く。
モニターラックは、大勢で群がって見守る観瀑台と、水中カメラを操作する技師のいる滝つぼ際のテント内の双方に各一台設置されている。カメラは自在に滝つぼを探った。
深度計が五メートルを越えたところで最初に岩に触れ、カメラの画面が揺れた。崩れた岩が進路を妨げている。無理に進めると数千万円もする高価なカメラが岩に挟まれたり傷ついたりする。思ったより荒い岩が多い。
一度、カメラを浮かせ、岩に触れない位置でレンズを下向きにしてゆっくりと動かす。黒茶けた岩の透き間から深い底が見え隠れし、土を被った地底に白い骨らしいものが散乱している。その量は半端ではない。
「よしっ。危険なものはなさそうだ。カメラマンを入れろ!」
中森が怒鳴った。
水中カメラが浮上、回収され、代わって酸素ボンベを背負った重装備のカメラマンと、照明係を兼ねた助手の二人がウェットスーツに身を固めて滝つぼに沈んだ。
水温は二度。
「意外でした。多くの謎を秘めた神秘の滝の深淵に生物はいません。まったくの死の世界です。水の冷たさが生存を拒絶するのでしょうか。滝つぼの底には無数の白骨らしきものが岩の下で砕けています。無人カメラの探査によって危険がないのを確認しましたので、これから有人カメラが細かい指示に従ってこの深い神秘の谷底を探
ります」
西隆太郎が興奮気味にアドリブで続ける。
カメラマンが岩を避けながら巧みに水底を這うように、ゆっくりと映し出す。
カメラマンの手が土を払うと、岩が出たり骨が見えたりする。骨は、動物の場合もあり人骨とは限らない。魚類ということもある。
観客にも余裕が出て来た。
「その右の小骨を手に持って!」
などと、星野を通じて勝手な注文を出す。
西隆太郎が図に乗って喋る。
「今、水中カメラは浅い位置から水底調査を始めています。生物がまったく見当たらない華厳の滝の滝つぼに見た骨は一体、どこから来たのでしょうか。魚類だとしても、湖から流れ落ちる上部から約七十メートルの地点に突き出した集塊岸の大岩盤に叩きつけられ、骨まで砕けて即死することは間違いなく、大谷川の激流を昇りつめ
て辿りついた川魚にとっては餌がないということになります。
あ、カメラさん。その白い骨はなんですか?手に持ってみてください。明らかに人骨ですね。上腕部ですか。その辺りの骨を助手の方が用意した網の中に入れて持ち帰ってください。みなさんと一緒に供養しましょう」
星野が中森の意を汲んで的確な指示を出す。
「テレビロボの入らなかった滝の裏側の底を撮ってください」
カメラマンがゆっくりと淵底を泳ぎ、岩をめぐり、滝つぼ近くの底を映した。崩れ落ちた岩が重なり合って深い底を埋めている。大岩の裏側に水流で抉れた空間がある。カメラの目がその底を覗いた。
「あれは、足の部分じゃないか?」
モニターに映った白骨に全員が気をとられているとき、中森は薄く堆積したへどろ下に横に細長い箱のような物を一瞬だが確かに見た。
カメラマンが動いて長い白骨を写した。
「その骨を持ち上げて!」
同行の助手が骨を持ち上げるとずるずると長く続き頭の部分が見え、骨が踊った。
「大きな蛇か鰻みたいだな?」
星野が問いかけると、それまで沈黙を守っていたカメラマンがウェットスーツの中のくぐもった声で叫んだ。明らかに怖れている声だった。
「これ、まだ肉片が付着しています」
助手もそれに気付いたのか、あわてて手を離した。骨がゆらゆらと崩れるように水底に沈むのをカメラが追った。底は深い。
その時ほんの一瞬ではあったが、大写しになった白骨の裏側の奥深い空間を通して水底に重なり合った棺のような箱が再びのぞいた。
真新しい白骨に気を奪われて誰も気付かない。中森と達也だけが小さく頷いた。
暗い水底で褐色でしかなかった古い箱の中は中森の脳裏で山吹色の輝きを発している。
達也の見たのは古ぼけた棺桶に過ぎない。
中森の認識は違っていた。
昔は滝裏の洞窟にあたる位置になる。
家康が死して後も日光にこだわった理由がここにあったのだ。これが徳川の埋蔵金なのか。
「なんだ?その奥の岩の下。何がある!」
星野がモニターを見て叫んだ。
達也が目を凝らすと、奥の大岩の隙間に岩には見えない物がたしかにある。
カメラが深い位置の岩の下に入った。
滝つぼ脇のテント内でモニターを見つめるいずみりんどうの声が入って来た。
「なんで彫像があるんでしょうか?」
大岩の下に暗い割れ目がある。岩の間に身体を入れて水中カメラのレンズを向けるが、助手の照明がなかなか入らない。友美が叫ぶ。
「芸術品ね!」
周囲の岩と同じ暗褐色の魚体が浮かび上がった。微動だにしない。精巧な彫像なのか。
助手が岩に接近し照明を効かせた。
「一メートルをゆうに超えますね」
カメラマンの声に余裕が出たようだ。
達也の後方でモニターを見つめていた漁協の役員たちのひそひそ話が耳に入る。
中禅寺湖漁協の永田という役員が、大谷川上流を管理する今北漁協の桜井に声をかけた。
「やはり、いたな」
桜井が頷き、宇都宮市内で釣り具店“プロショップ半沢”を営む半沢栄吉に囁く。
「どうだ栄ちゃん。やるか?」
栄吉が頷き、永田とも目配せをした。
半沢栄吉は、鬼怒川漁協の役員をしている。彼らは、それぞれの漁協を代表して参加している。先ほどまでの予想は見事に外れた。
大きい滝には必ず主といわれる大きな魚がいる。
主は餌を優先的に捕捉するから体長も大きくなる。
「滝つぼの主は鯉だべえ」と、永田はいい、
「大イワナだ」と桜井はいった。
「大ウナギが棲みついてるだ」と半沢。三人三様の判断は、見事に覆った。
照明係の助手が間近に接近し、材質を確かめるように片手を伸ばした。
「よせっ。危ない!」
永田が大声を出した。
微動もせずに静止していた魚体が踊るように動いた。カメラは巨大な川魚の凶暴な目と鋸の刃を思わせる鋭い歯並びをアップで映した直後、朱色の水泡の中を舞うように回転した。カメラマンの手が離れたのだ。
「どうしたんだっ!」
どうなったのか誰にも分からない。
彫像だと思ったのは保護色で岩と同化していた巨大な川魚であり、それが動いたときに水中の二人のどちらかが傷ついたことだけが予測された。あわてて動いて鋭い岩角で傷ついたのか、それとも川魚に襲われたのか。
「早く岸に戻れ!」
滝つぼ班のスタッフ全員が水辺に出て必死に声をからしている。滝つぼ班の地上用第二カメラが水面を睨んだ。
二人が潜っていたのは深度4.5から5メートルと思われる。空気の泡に混じって血の色が広がっていた。透明度の高い滝つぼの淵の水中をあがきながら血を噴いたままゆっくりと浮上して来る。
星野が時計を見た。
「撤収まで残り十分!」
五分の余裕を見ている。滝の再放瀑まではあと十五分だ。モニターが水面近い二人を映している。達也の手を友美が強く握った。
観瀑台のモニター前の観客は、一瞬の静寂の後、騒がしくなった。
「漁協の人いますか?」
星野が振り向いた。永田が名乗り出た。
「今の魚は人を襲う種類ですか?」
「それなら、わしらより詳しい人がいるだ」
永田に手招きされて後方から水産庁の職員が前に出た。菖蒲ヶ浜にある養魚研究所の増尾という職員が重い口調で説明した。
「最初、岩陰の魚体を見たとき、レイクトラウトに見えたんです。レイクだと獰猛ですから小動物までは襲います。二十五年ほど前にカナダから輸入してこの湖に放したんですが、大きいのは人間並み、五十キロにもなります」
「それですか?」
「しかし、湖の最深部にしかいないはずですし、尾鰭がレイクほど割れていませんので、湖でもっとも勢力の強いブラウントラウト、褐色の鱒という意味ですがね、それかも知れません」
「赤系の斑紋が見えなかったですよ」
多少、魚に詳しい人もいる。永田が応じた。
「これだけでかいと尾鰭以外は赤点は消えちゃうんだよ。こいつは研究所の先生がいうとおりブラウンだべ」
永田は同意を得るように半沢と桜井を見た。
滝つぼを管理下におく今北漁協の桜井がポツリと口を滑らせた。
「餌付けしちゃえばブラウンだって肉を食うかも知れねえな」
中森がモニターから視線を上げ、きつい目で桜井を見た。
「いや。ブラウンは絶対に人は襲わねえ」
桜井があわてて言い直した。
モニターが水面に浮かぶ二人を映した。
助手がかなり手傷を負っているらしい。浮き輪が投げられた。
「時間がない。私が行きます」
星野が中森に告げた。
「その格好じゃ危険だぞ」
「平気です。ゴム底だし、山は慣れてます」
星野は今でも時折山歩きをするという。しかし誰も実際に同行した者はいない。滑る岩場は急ぐと危ない。中森が不安気な顔をした。
その危惧はとりこし苦労に終わった。
床下から岩場に下りた星野は、見事な足さばきで登山家の張ったロープ伝いに崖沿いの救助道を走るように進んで行く。自殺者を発見する度に布にくるんだ死体を運ぶため岩がこすれて道ができているのだ。
滝つぼ脇にたどり着いた星野は、ブルゾンから腕を抜きズボンも脱ぐと、ベルトを外し下着が脱げないようステテコの上から巻いた。
「なにをするんです!」
必死で止めようとするいずみやスタッフの手を振り切り、身を切るような滝つぼの水中に身を躍らせ、ロープ付きの浮き輪に向かって泳いだ。蛙泳ぎがモニターに映った。
星野は、浮き輪を二人に近づけ、ぐったりした助手を抱えて途方にくれながら水面を浮き沈みしているカメラマンから助手を引き取り、片手で浮き輪を抱えた。
スタッフが一気にロープを引くと、水を割って岸の岩場に着いた。カメラが追った。
カメラを失って身軽になったカメラマンもゴム製の大きな足鰭を蹴って戻り、スタッフに手を引かれて岩場に上がった。ウェットスーツを着用しても水温が低すぎると長時間の作業には耐えられない。体温の調整がきかなくなるのだ。
今はもう、失ったカメラを探す余力も時間的余裕のない。
身体が冷えたところで出血すると一時的に貧血で失神することがある。医療班が助手を囲み手当てを始めた。
星野はスタッフに背を向けて全裸になり、スタッフの手渡したタオルで身体を拭き、手早くズボンとブルゾンを身につけ、濡れたシャツを絞りながらスタッフに指示を与えた。
画面が星野の横顔をアップで捉えた。唇こそ紫色だがいつも通りの表情で気負った風もない。星野が帰路に着く。とぶように早い。
羽根警部補がモニターから目を離し、小声で達也に話しかけた。
「こいつはただ者じゃねえな?」
星野の正体を知る達也は返事に窮した。
「滝つぼ班、撤収準備願います」
中森が時計を眺めて叫んだ。放瀑の時間が迫っている。星野が床下から姿を現した。
すでに滝つぼから岩場に移ったスタッフに放瀑による身の危険はない。
星野が手短に報告すると中森が安堵の表情で頷き、西に目で合図した。
「二時間の間、しばしの休息を歴史に留めた華厳の滝も、あと数分でおとずれる再放瀑の瞬間を待つばかりです。
世紀の滝つぼ探検も無事にフィナーレの時を迎えようとしています。
新緑が谷を包み、美しいツツジの花が一万年以上もの間絶やさず落ちるこの清澄な流れに、鮮やかな彩りを添えています。ここからの映像は滝つぼ斑がお送りします」
西隆太郎がいずみに出番を振った。

 

3、放瀑再開

 

「この神秘の滝にカメラを入れるという試みは成功裡に幕を閉じようとしています」
いずみりんどうが滝つぼの水面をバックにマイクを持ち、真剣な表情でこれからの放瀑の実況へのイントロをスタートさせた。
カメラが滝つぼ班をさり気なく映した。
防寒服に着替えた水中撮影班の男が立姿でポットから注いだのかコーヒーらしい飲み物を口に運んだ。カップから湯気が立ち昇っている。カメラがその足元で傷の手当てをしている助手を映し出した。傷口が見えた。
「撮っちゃいかん!」
星野の声に驚いたのかカメラをストップさせたようだ。星野がモニターに触れた。
観瀑台の第一カメラの担当者は放瀑のシーンに備えてテープを入れ替え中でモニターへの映像供給が途絶えている。
しかし、モニターの画面に映像がある。
「なんだこれは?」
ゆらゆらと画面が揺れていた。岩に当たる音がする。画面の片隅に手が見えた。五本の指が手招きするように上下した。一瞬だった。星野がモニターのスイッチを切り画面が消えた。星野の顔が蒼白になった。中森は医療班とトランシーバー交信中で気付かない。
星野が小声で指示し、滝つぼ班の映像が再び入った。ケガの手当てを終えた医療班の男が腰をかがめて淵の水で手を洗っている。
その手をカメラが追った。水の中で五本の指が揺れた。達也が星野の顔を見た。
星野が頷き、時計を見た。
「放瀑三十秒前!」
滝つぼ班のカメラが空を仰いだ。滝の落下口の両側に灌木が枝を出し、その下から剥き出しの岩が下に牙を向け垂直よりオーバーハング気味にそそり立っている。
星野がスイッチを切り替えた。
観瀑台の第一カメラが絶壁を遠景で捉えた。
ゆっくりとズームアップすると画面が滝の落下口をセンターに両側の樹木が腕を伸ばすかのように迫って来る。
「よし。これで行こう!」
二台のカメラの準備ができた。編集で双方の画を組み合わせればいい。
西隆太郎がマイクを握った。
「放瀑五秒前です。四、三、二、一・・・。
あ、溢れ出しました。二時間の間閉ざされていた中禅寺湖からの水がこれから大谷川の渓谷に舞い落ちます。
あ、ごらんください。虹が出ました!
見事な虹が華厳の滝をバックに浮かびました。すばらしい天の配剤、見事な風景です」
モニターは、滝つぼ班のカメラが映し出す空から襲う圧倒的な水量の瀑流を映し出していたが、誰も見ていない。音響も絞ってある。レポーターのいずみの絶叫も滝音に呑まれて聞こえないはずだ。全員が滝をバックに現れた虹の美しさに魅せられている。
荘厳かつ豪快な名瀑の見事さを再認識させられてか、全員の視線が滝に止まり声もない。
星野は一度立ち上がって虹を見たが、再び先刻まで中森が座っていたモニター前の折り畳み椅子に座りモニターのチャンネルを回した。一カメ二カメの映像はもう心配ない。
暗い画面が激しく揺れていた。音を絞ったスピーカーから岩を噛む激しい音が響く。
水中カメラは岩間に挟まれたのか不規則に振動し、レンズの前をすさまじい水流が横切る。対面の岩間に一瞬人の顔が髪を乱して揺れた。
達也が気付いた。星野の耳元で囁く。
「星野。この画はカットしてテレビ局に見せない方がいいよ。それと日光署の刑事が正体に気付いたようだが、も少し伏せとくか?」
星野が頷くと、画像は滝の全景に変わった。二人の会話は誰にも聞かれていない。
だが、画面そのものに気付いた者は何人かいた。羽根警部補とコヨーテの竜、戸田友美と若い女性記者寺崎香代子だった。
それぞれが素知らぬ顔で視線を滝に戻す。
ショーは終わった。ナレーションが続く。
「幾世紀にわたって轟く滝音が再びよみがえりました。調査するごとに滝つぼの深度や形状が変わるという神秘の滝の謎がすべて解明したとも思えません。
しかし、水清ければ魚棲まずの孔子語録にあるごとく華厳の滝の清冽な滝つぼには、虫も魚も姿を見せることなく、ただ一つの例外として巨大な川魚の姿を見るのみでした。
私たちは、この人跡未踏の聖域にカメラを持ち込みました。この地にやすらかに眠る多くの人の魂を騒がし、驚かせもしました。
そして、このすばらしい景観を損うことなく無事にロケーションを終了することができました。
朝陽さし込む奥日光華厳の滝は、今日もなにごともなく美しい姿を私たちの前に現しています・・・」

西隆太郎のナレーションは続くが誰も耳を傾けていない。ケガ人が帰って来るのだ。岩場を撤収した滝つぼ班の一部が、機材搬出の人員を残して崖道を伝い、観瀑台の床
穴から機材が押し上げられ、自分達も戻った。
質問が水中撮影班の二人にとんだ。
中森が一同を制した。助手が苦痛にゆがんだ蒼白な顔で仲間の肩にすがっている。
「本日、水中撮影においてアクシデントがありまして、みなさまにご心配をおかけしましたことを深くお詫びします。
隊員一名が魚の姿を見て驚いたときにあわてまして、鋭い岩角に足を打ちつけて傷つけ少々出血いたしましたが心配ありません」
「とんでもない。心配よねえ」
友美が達也に囁いた。
羽根警部補が中森に声をかけた。
「担架を用意してあるよ」
「いや、大丈夫です。軽傷ですから」
「軽傷でも部下が折角用意してくれた担架だ。歩くよりは楽だと思うが」
語尾が強い口調になっている。
「では、お言葉に甘えます。担架はどちらですか?」
「この階段上の観瀑台までなら歩けるかね」
軽傷のはずの助手が困った顔をした。
警部補が大きい声で上階で待機するレスキュー隊を呼んだ。滝つぼで異変が起きた段階で同行していた中宮祠前交番の佐藤巡査長が、警部補の意を汲んで駐車場に待機させた救助隊を呼んだのだ。
白ヘルメット白衣姿の隊員が「歩ける」というカメラ助手を背負って上のテラスの階段を上がって姿を消す。
「魚に噛まれた傷だな」
「傷口を調べればすぐわかるさ」
達也と話し、羽根警部補が後を追った。
羽根警部補が戻ると、星野が中森と打ち合わせをしていた。それらが達也の耳に入る。
「都合のわるいシーンはカットしましょう」
各漁協を代表して参加した三人はテラスの隅で声をひそめて話し合っている。
「一応、警察には一言断わっておく」
「それぞれ仕掛は工夫して持ち寄るだ」
「釣ったら役員召集して一杯やるか?」
「エレベーターは動くように話を通しておく」
彼らは、滝つぼの魚を釣るつもりらしい。
参加者がつぎつぎに姿を消して行く。
赤城が、立ち去りかけた横手竜二を呼び止めた。目を見つめ合う。
「横手。ここは、お門違いじゃないのか?」
「旅館組合の代理でね」
「ほう。旅館組合ね。どこのコネだ?」
「しゃべる義理はねえな」
「なんか企んでるのか?」
「よけいなお世話だ。お前に借りはねえよ」
「なんだと!」
「せいぜい出世しな」
ニコリともせず竜二が去った。友美が聞く。
「お知り合いなんですか?」
「佐賀先輩も苦い思い出のある相手ですよ」
羽根警部補が鋭い目で竜二を追った。
「とぼけないでください!」
女性の声に達也も振り向いた。
人に聞かれないように小声だった寺崎香代子の声がつい大きくなる。星野が困惑した表情で中森を見た。中森は知らぬ振りで機材搬出を手伝っている。
「お急ぎください。あと五分で一般観光客が入ってまいります」
係員が撤収の催促をする。
すでに観瀑台の人影はまばらになっている。
「あの女、しつこいな」
羽根警部補が達也に嘆いた。中森と星野を尋問するために女の去るのを待っているのだ。
友美は、谷を眺める振りをして耳を澄ます。
「あの指はスタッフのじゃなかったでしょ。カメラがガリガリ岩に当たっていたじゃないですか?」
「そうですか?カメラが離れた瞬間から録音を停めてしまったんでね」
香代子がチラと達也らを気にして小声になる。
達也ら全員が香代子に背を向け耳を澄ます。
赤城はすでに、友美と羽根警部補を引き合わせている。事情は最初から説明済みだ。
「水中のあの顔、女だったんでしょう?」
「なんのことです?」
「これ以上シラを切ると、書きますよ」
「どうぞ、なにもないんですからね」
「あなた方はいつもドキュメントといいながら、ヤラセをやるんだから」
中森がその一言を聞きつけ、片足を階段にかけたまま振り向き低い声で命じた。
「星野。その人の社名を控えとけ。場合によっては名誉毀損で争わねばならなくなる」
赤城と羽根警部補はそこで気付いた振りをした。寺崎香代子が沈黙した。
「監督にも同じことを聞くのかね」
羽根警部補が香代子を見た。彼女の表情に「しまった」という色が浮かんだ。聞かれたのを知ったからだ。
「監督さん」
香代子が中森をこう呼んだ。
「あのカメラ助手の噛まれた傷、深いんですか。それと何ヶ所ぐらいあります?」
中森が静かに佳代子を諭した。
「お嬢さん。この番組はサスペンスじゃないんです。岩に打つけたと本人が言ってるんですから」
「いいです。警察で聞いて病院に行って来ます」
香代子が羽根警部補を見た。
「刑事さん。先ほどレスキュー隊に指示した病院を教えてください」
「いや、病院は近くの交番の巡査が指示したから私は知らんね」
「いいです。上へ行ってから調べます」
赤城が口をはさんだ。
「なにを書きたいんです?」
「事実です。本当にあったことをそのまま書きたいんです」
中森が不思議そうに香代子を見た。
「私らも真実を報道しますが、なにか?」
「もういいです。見たままを書きます」
「どうぞ。そのために来ていただいたんですから」
中森は平然と上階への階段を上った。
寺崎香代子が去り際に警部補に聞いた。
「拾得品は先ほど見えたお巡りさんに?」
「どうぞ、彼はそこの交番の警官ですから」
「つまんないものですけどね」
友美が去りかける香代子と肩を並べて歩く。
「寺崎さん。スクープ記事は慎重にウラをとるんですよ」
二人は名刺交換をしている。
友美の口調には過去の失敗を思う自戒の念もあった。それよりも、その女が仕事熱心のあまり勇み足しないかという危惧の気持ちが強くこもっている。
「友田さんでしたね。私迷ってるんです」
寺崎香代子が小声でいいかけ、言葉を濁した。
「やはりいえません。私の初スクープだし」
星野を挟むように達也と羽根警部補が並んで一行から離れた。赤城がそれに続いた。
星野がモニターラックを担いだ。両手で支えても危ないほど重量がありそうだ。
「今の若い女性は?」
「女性週刊誌イブの寺崎香代子さんです」
「元気ですね。みなさん仕事熱心ですな」
「結局は仕事が好きなんでしょう」
「あんたらテレビ局の人もよく働くねえ」
「私は曙テレビの人間じゃないんです」
「そうだろう」
羽根警部補が頷いた。
「局の人は監督の中森さんと原田さんだけであとは全部下請けなんです」
「ほう。なんでそうなるのかね?」
「正社員だと勤務時間とかうるさいでしょ。私たちだと仕事で結果出さなきゃならんです」
「不満はないのかね?」
「とんでもない。今、これだけ仕事させてもらって不服だったら罰が当たりますよ」
少し間をおいて警部補が核心を突いた。
「それで監督をかばうのかね?」
「どういう意味ですか?」
「あの記者の質問をはぐらかしたね」
「確信のないことには応じないことにしています」
「いい心がけだ、同じ質問をします。あの死体は男?それとも女でしたか?」
「分かりません。ビデオも撮っていませんでした。カメラが落ちた時点で止めてしまっていたそうです」
「そんなに番組が大切なのかね?」
「当然です」
「どうも、あんたは我々と同業のような気がするな。違うかな?公安畑とか」
達也がニヤリと笑いながら助け舟を出す。
「だとしても、言えない立場ですよ」
「そうでした。失礼しました」
星野を先に行かせて、羽根警部補が達也と赤城に厳しい顔を向け、歩きながら話す。
「大沢君に聞いて、あまりバカらしいんで回収するため滝の上の遺書を取りにやった」
「それで?」
「なかったそうだ」
「そんなバカな?ビニールに包んで石を置いたのに」
「佐賀君、あんたウソを言ってないか?」
「とんでもない。一応元警察官ですぞ」
「現役だって悪いのはいるんだ」
「羽根さん。先輩は有言実行です」
赤城がムキになって弁解した。
「分かった。わるくとらんでくれ。職業柄、念を入れただけだ。すまん」
羽根警部補もあっけらかんと頭を下げた。
「と、なると、誰か後からその岩場に行ったヤツがいることになる」
「さっきの水死体がそこに行ったんだ」
「わざわざ他人の遺書まで持ってとぶか?」
「そうなると、誰かが持ち去ったことになるな」
「誰が?」
「さっき滝つぼにあった死体を運んだヤツか、それとも争ってつき落としたヤツだ」
「なるほど」
「そうか、佐賀君。わざと尾けさせたのかな。それで、襲って来た男を殺して滝に落としたか。死体の出ない滝に」
「なにを言うんだ」
「あり得ないな、やっぱり」
と、羽根警部補。
赤城が考え込んだ。佐賀達也ならやりかねない。襲われたら殺るだろう。あり得るのだ。」
しかし、その場合でもウソは言わない男だ。
「私が大沢忠先輩にガセを流してくれと頼んだのが昨夜。大沢先輩はあちこちに流したんでしょう。光徳入口角で交通事故にあった女が、華厳の滝にとび込んだって」
「そうか。それで敵は確かめに行ったか」
遺書の謎は解けたが死体の謎は解けない。
エレベーターが地上に出た。

 

4、ニセ遺書

 

華厳の滝のエレベーターの改札ゲートを出たところに人だかりがしている。これから有料観瀑台に向かう人たちまで切符片手にホールの人だかりの後から首を伸ばして見ている。
「私は拾っただけなのに交番に来いとはなによ!」
改札を出たばかりの羽根警部補が人混みから声の主をのぞき見て顔をしかめた。
「また、あの女だ」
制服の警官が困った顔をしている。
「ゴミ箱にでも捨ててください」
寺崎香代子は紙片を渡すと、カメラ入りのバッグと三脚を担いで足早に去った。
「ちょっと待ってください」
紙片を渡された警官があわてて追おうとする。
羽根警部補が警官を止めた。女が叫んだ。
「みなさん。昨夜、この滝でとび込み自殺があったんです。女の人です」
帰りそびれていた取材各社が女と警官を囲んだ。紙片は羽根警部補に渡っている。
紙片はくしゃくしゃに丸められ破れて判読もままならない。ビニール袋に入れて岩の上に置いたという達也の話とも食い違う。
取材陣に解放された警官に警部補が聞く。
「佐藤君、これはどこで手に入れたって?」
「この先の第一駐車場の林寄りの東の角の金網の手前なんで気になるんです」
「なんでそんな場所へ行ったのかな?」
「車を停めようとしたんでしょうか?」
「車は、ロケバスも取材の連中もここに置いてるだろう。ほら、今、荷物を積んでる赤い車が彼女のだろ?」
「すると百メートル以上も遠い駐車場にわざわざ行って柵まわりを調べるのも変ですね」
「あの女、一応疑ってみるか」
帰り支度をしている寺崎香代子に近付く。
羽根警部補が声をかけた。
「お嬢さん。お手数かけて済みませんが、帰りに寄り道をして、ちょっとその紙切れを拾った場所まで車でまわってくれませんか」
「私が一緒に先に行ってます」
中宮祠前交番の佐藤巡査長が、寺崎の車の助手席に乗り込む。ふてくされた表情でトランクに三脚などを押し込んで運転席に戻った寺崎香代子は、口をへの字の結んだまま愛用の赤いフェアレディを急発進させた。
「こらあ。轢き逃げ未遂だぞ!」
羽根警部補が、タイヤをきしませて駐車場から国道を左折した車を苦々しげに見送る。

「ハイ。これ、昨夜のです。途中までですが、いざというときの証拠に」
友美が中森に挨拶し、カセットテープを手渡した。
曙テレビの一行は機材をそれぞれ積み込んでいる。登山用具、照明、撮影用機材、小型クレーン等が何台もの車輛に積まれてゆく。
「星野チーフ!」
羽根警部補の声に、作業中の星野が振り向いた。額から汗が流れている。
「水中カメラのビデオは借りられるかね?」
「私の一存では・・・」
星野が中森を見た。中森が振り向きもせず首を振った。
「ダメか。それでは頼んでおきますが、画面の中に異常なものを発見したときは必ず連絡をくれませんか。同業だと信じてます」
羽根警部補は、星野と名刺を交換して警察の車に急いだ。車はあるが大沢刑事がいない。
「あれですか?」
国道から駐車場に走り込んできた覆面パトカーの運転席に大沢刑事がいる。
「気になる連中を追ってみたんだ」
警部補と赤城がその車に乗り中禅寺湖方面に百メートル離れた大駐車場に向かった。
達也は友美を乗せてその後を追った。
寺崎香代子が蒼い顔をして立っている。
佐藤巡査長が金網を越えて藪の中に入り、腰までもある笹の根元を棒で突いていた。
「どうしたんだ?」
金網の外から羽根警部補が声をかけた。
「ビニール袋だけ見つけましたが、まだ何か遺留品などないかと思いまして」
と、佐藤巡査長。
「遺書はそのビニール袋に入ってたのか?」
羽根警部補の声に寺崎香代子が敏感に反応した。声が緊張している。
「やはり、自殺だったんですか?」
「いや。分からんな。本当に紙片はここで?」
「ハイ。私にこの金網は越えられません」
「何時ごろ来ました?」
「取材を始める前で、朝四時半頃です」
「なぜ、ここへ来たんです?」
「本当な滝の上から下を見たかったんです」
「あんた、その詮索ぐせやめないとケガするよ」
「あら、国家権力が弱い一般市民を脅迫するんですか?」
「権力なんかなにもないよ。それと誰が弱い市民なんだね?あんたは強いだろ」
「それより、やはり女性の自殺ですか?」
寺崎香代子は、念を押すように聞く。
「しつこいね。もう帰っていいよ」
うんざりした顔で羽根警部補が吐き捨てた。
寺崎佳代子は聞こえない振りをしてカメラを持ち、金網越しの捜査風景を撮る。
達也がポケットから小型カメラを取り出し寺崎香代子にシャッター押しを依頼して、金網をバックに羽根警部補と肩を組む。
「刑事さんも記念写真とるんですか?」
香代子の表情が少し和んだ。
「記事にするの、少しだけ待ってくれ」
警部補が頼むと香代子が素直に頷いた。
解放されてホッとしたのか軽快なエンジン音を残して寺崎香代子の車が、下りの第一いろは坂方向に姿を消した。
達也がカメラをハンカチでそっとくるんだ。
「佐藤君。どうだ。なにか有ったか?」
熊笹を分けて佐藤が姿を現し、白い手袋のまま金網をよじ登り、駐車場に下り立った。「ニンヒドリン検査なら指紋でますね?」
拾得物のビニール袋を羽根警部補に手渡しながら佐藤が伝えた。
「係長。人を引きずった跡がありますよ」
「なんだと?」
「血がこびりついてるところを見ると、昨夜雨が止んでから運んだんでしょう」
「そいつらが岩の上の遺書を見つけたのか」
友美が小さくなってぼんやり立っている。
「あっ。足がない!」
赤城が冗談をいう。取材陣の間ではすでに女性のとび込み自殺があったと噂が広まったのだ。友美が素直に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしまして済みません」
昨夜の雨は午後十時半頃には止んでいる。
羽根警部補が東京から車をとばして来た赤城を共助の大沢刑事から紹介されたのが午前三時。すぐに部下を滝上の岩場にとばしたが、そのときすでに遺書はなかった。
この短い時間の間に滝の上に誰かが入ったのか。しかも犯罪の臭いがする。
交番勤務の佐藤巡査長からの連絡で、日光署刑事の村田警部が部下と車で駆け付けることになった。それまでに少し時間がある。
曙テレビの中森と星野が歩いて挨拶に来た。
こちらも撤収の完了まで三十分ほどの時間があるという。
「熱いコーヒーでも飲むか?」
羽根警部補がいい、佐藤巡査長を見た。
「佐藤君。いい店。どこか知ってるか?」
「私は交番に戻りますが、この時間だと」
制服姿の警官が時計を見て歩き出した。
「和風のマイは十時からでまだだし、フレンドもラコも遠いし、日光彫の大黒屋の二階がいいでしょう」
車をそのままにして佐藤巡査長に続く。
羽根警部補、大沢、赤城両刑事。達也と友美、中森と星野が続く。星野が質問した。「本当に女の投身自殺があったんですか?」
問いに応えず警部補が笑顔を向けた。
「あの女の指紋は?」
赤城刑事がふと誰にともなくいう。
「さすがに元警視庁刑事。ぬかりないさ」
警部補が手を出し達也からハンカチにくるまれたカメラを受け取った。
「指紋だけだよ。中の写真はまずいからね」
友美とのツーショットシーンがあるからだ。

5、ギャンブル

華厳の滝の深淵に一メートルを優に超すブラウンがいるという噂は、ロケのあったその日の内に関係漁協の間に広まった。
かつて、異常なほど水温の低い中禅寺湖には魚が棲みつかないといわれていた時代がある。明治年間、日光を避暑地として愛した英国人が魚釣りを楽しむために持ち込んだ鱒が繁殖した子孫の一つがこのブラウントラウトだった。
「元はといえば湖のものだべ」
中禅寺湖漁協の組合員がこういえば、滝つぼを管理する今北漁協は「元は元、今は今だ」と受け付けない。鬼怒川漁協は、大谷川の中流以下を管理している。大谷川で育って遡行した魚が育ったのだと主張する。
「いい機会だ。三漁協で腕くらべをやろう」
こうなると話は早い。
滝つぼロケが月曜日、その夜には各漁協ごとに会合がもたれ、代表選手がきまった。
翌朝の夜明けの五時から二時間、七時までと時間を切って各代表二人ずつ六人が腕を競う。釣り上げるまで週一ペースで続けるのだ。
観瀑台管理の職員にも釣りマニアがいて会社にエレベーターの早朝稼動を申請した。
友美がそれを知って取材するからもう一泊するという。達也も朝まで付き合う羽目になった。午前中には出社できるが、田島社長の怒声を覚悟した。
この話を聞いて羽根警部補が顔色を変えた。
「捜索が先だ」
しかし、誰も死体のあるのを確認した訳ではない。確かに笹薮に血の跡がありルミノール反応が出ているが、鑑識から正式な回答を得るまでに時間が要る。動物の場合もあり得る。
水中カメラの一瞬の映像は、錯覚ということもある。まだ捜査隊は出せない。
結局、羽根警部補はコンビを組み始めた大沢刑事と一緒にまた飲み明かして、魚釣り見物に出る羽目になった。
東武宇都宮駅前の通称東京街道を横切って一つ横道に入ると、渓流釣りマニアの溜り場でもある『プロショップ・半沢』がある。
宇都宮のビジネスホテルに宿を替えた達也は、友美を宿に置いて半沢の家に呼ばれた。
観瀑台で達也と半沢が意気投合したのだ。
達也もかなり渓流釣りでは鳴らしている。
鬼怒川漁協は本来が鮎の鬼怒川だけに、ブラウントラウトを釣れる役員となると半沢に頼らざるを得ない。夜、作戦会議が始まった。
それでも役員の大半が集まった。理由は簡単、みなギャンブルが好きなのだ。
「いくら出すだ?」
「各漁協、一回十万円。総取りで三十万だ」
「四週目に釣れたとすると、投資が四十万で回収が百二十万、利益八十万か?ソウル二泊三日でドンチャン騒ぎか。わるくねえな」
「よしっ。栄ちゃん。おめえ釣って来い!」
「弱ったな」
半沢栄吉が奥を気遣った。
「実はさっき、オヤジにこの話をしたら、えらく怒ってな。主に手を出すなっていうんだ。
昔、般若の滝で三尺近い大鯉を上げたうちのお客さんが新聞にも載って上機嫌だったらしいが、頭痛から始まって気が狂い一ヶ月もしない内に脳卒中で死んだそうだ」
「そんな例はあちこちで聞いたことがあるな」
「でもな、そいつは偶然てことだろさ。主を釣ろうが釣るめえが寿命が来れば人は死ぬ」
「じゃ、竹さんが出てくれ」
「オレはごめんだ。鮎しかやらねえ」
結局、半沢栄吉が常連客の中でブラウン釣りの名手がいるといい出し、この二名が代表選手となった。増山という観光バス会社に勤める五十男で大物釣りで定評がある。
達也がいつの間にか立会人に押された。
「今北漁協の連中は、七本桜の高瀬の家で今晩、酒盛りしながら作戦を練るそうだ」
「オレにも少しは釣らせろよ」
達也が酔って本音を吐いている。
結局その夜、達也は酒を飲んでいない半沢の妻にホテルまで自分の車で送ってもらう羽目になった。その妻をまた友美が送った。
翌日の早朝、友美と達也は滝に向かった。
夜明けの奥日光は刺すように寒い。
「夕べは、酒をのんでも眠れなかったよ」
大物狙いの興奮は誰もが同じらしい。エレベーター会社の社員が酒臭い息を吐きながら、全員にヘルメットを渡している。吐く息が白い。羽根警部補は大沢刑事を誘って来た。
エレベーターホールで集結した一同は、表面上和気あいあい冗談をいいながら装備を点検した。非番の佐藤巡査長も駆け付けた。
エレベーターで観瀑台に降り、選手は谷に入る。
一般の人には通ることのできない緊急用通路を経て、岩場に下りる。滝飛沫で濡れた岩をフェルト底の渓流用シューズでバランスよく通過した。一足滑ったらあの世行きだ。
道はないが、滝つぼへの最短コースは、何百回となく遺体収容に関わった人たちと亡骸を収納したシュラフを引いた跡が、岩の艶を消している。
ここには死者の歴史がある。
この滝だけは、上からとび込み生きて帰ることはない。滝つぼに落ちる前に突起した岩盤が待つからだ。そこで激突して即死だ。そして瀑流に巻きこまれて深い淵に吸いこまれる。そこからどうなるかは誰も知らない。
半沢と増山、永田と稲葉、桜井と高瀬という選手に立会人の達也が同行した。
「これは何だね?」と、半沢が指さした。
窪みになった断崖下の岩陰に紺のシートが丸く脹らんで霧雨と滝飛沫に濡れている。
全員が、それに気付いて表情を変えた。
「自殺かな?」
永田が声を出した。
「ちょっと、みんな下がって」
半沢の釣竿を借りた達也が、メンバーを制して腰をかがめ、ゆっくりと近付き釣竿の竿尻でシートの端をめくる。
股割れの靴下にわらじを履いた足が覗いた。
その足をさらに突くと、足が動いた。
稲葉が跳び退いて滑り、岩の上に竿を落とし片手を着いた。顔に恐怖の色が浮かんだ。

 

6、獲物

 

横の岩にウイスキーの小瓶が落ちている。
「なんだ、君は?」
達也が驚いたような、拍子抜けしたような声を出した。若い男が寝ぼけ眼を擦っている。
「おはようございます」
とぼけた青年だ。
「何をしてるんだ。こんなところで!」
「大物を釣りたいんです」
「今なんていった?」
全員が支度の手を止めて青年を見た。
青年が起き上がった。手に釣竿がある。
有料観瀑台で双眼鏡を握っている羽根警部補があきれ声を出した。
「あいつめ、松山一郎か。帰らなかったな」
(なぜ、あの人が?)
友美も驚いている。
エレベーター会社職員がふり向き、告げた。
「昨夜最終に入った男があいつです。竿を持ってましたからね。この下に隠れたんです」
昨朝のロケを上で見ていたに違いない。
やはり釣りキチという狂人はいるのだ。
「よく凍死しなかったな?」
達也の問いかけに一郎が雨衣を開いた。
温熱剤だ。鉄粉と木炭と食塩などがミックスされている寒の釣りの必需品だ。効能書きには平均温度五十五度で七時間持続と記載されている。それを全身に装着していた。
一郎が滝つぼに忍び込む前に装着した簡易温熱剤の効果はまだ持続しているはずなのに、山の上の谷間で滝しぶきを浴びては一たまりもない。その寒さをアルコールで埋めた。
酒が醒めるとさらに寒い。びしょ濡れだった。
一郎ものろのろと支度に掛かり始めた。
漁協の代表は持ち時間で競技を始めた。
投げる場所は滝の水が流れ落ちる真下だがルアーを引くときは、ゆっくりと滝の横手から裏側にまわるように人間も移動しながら誘う。半沢の記憶が正しければ、滝つぼの主の居場所近くまでルアーは引ける。
メキシコ製シェルのプラグやリップルポッパーという用具を半沢が試した。
反応はなく、交替で一時間を過ぎた。
準備やら、松山青年との遭遇やらでロスタイムも出ている。桜井が13フィート・203グラムのロッドにアブ社のトビーでアタックしてギブアップした。時間が惜しい。
すかさず稲葉が竿を出した。
持ちタイムは各十五分。めまぐるしく滝の流れに仕掛けが投じられていく。
瀑流真下からほんの少しずれた位置で岩に叩きつけられて落ちてくる獲物を待つのか、ブラウンの鼻先に餌を投じるのは容易なことではない。
六人それぞれの秘術をつくした釣技も空しく、時は過ぎた。
鬼怒川漁協組はフライとルアー、今来漁協はワカサギの生き餌、中禅寺湖漁協は生きたウグイを用いたりした。
滝からの流れが突出した岩から前に落ち、渦を巻いて裏にまわる。その流れに乗せるのだが、ウグイは狂ったように逃げる。
「さあ、時間だ。あきらめよう」
「来週、賞金倍額で勝負だ」
ラストチャレンジャーの高瀬が竿を立ててリールを巻いた。ウグイが宙で揺れた。
「ボクも竿を出していいですか?」
遠慮がちに一郎が誰にともなく声をかけた
「もう時間がないよ」
「じゃあ、一回だけでいいですよ」
「勝手にしな」
「そのウグイ、捨てるんならください」
「いいよ」
高瀬がお役ご免のウグイの背から針をはずし、まだ手のひらで元気に暴れるのを一郎に手渡した。三十センチ近いウグイだった。
そのウグイを一郎は無造作にプラグの釣針にかけ、竿をふりかぶった。
「おい、どこに投げるんだ!」
一郎のスイングでウグイは宙をとび滝つぼから五メートルほど上の瀑流に叩きつけられた。そこには岩がある。ウグイは毎分三トンの滝飛沫に吸い込まれて落ち、そのまま猛烈な勢いで竿をしぼり込み、一気に一郎を岩場から引きずり倒そうとする。
「危ない!」
帰り支度をしていた半沢がタックルしなければ一郎の姿は滝つぼの底深く消えたとしか思えない。手がロッドを離せば助かるのは当然だが一郎の手は必死で竿尻をつかみ、もはや死んでも離さないという気迫が周囲に伝わってくる。達也も一郎のベルトを?んだ。
全員参加のシーソーゲームになった。
竿の先で獲物の暴れる気配が手応えとなって伝わって来る。怪魚のパワーはすさまじい。
上から落ちる餌だけを狙っていたのだ。
「やったらしいぞ!」
有料観瀑台に二基のコイン式大型望遠鏡があり、フル稼働していた。時間外にかなり稼いでいる。万が一に備えて出動している佐藤巡査長と大沢刑事の声が際立って大きい。友美も興奮していた。
必死の攻防が続く。
滝しぶきが雨のように降る。
荘厳な瀑流は、大地を揺るがして舞い落ち、人間の魂をも奪って行く。
仏教用語の華厳は、全ての徳を修めることをいい、悟りを開き、功徳を得ることをいう。だからこそ、煩悩に破れて人はここに身を投げるのだ。
八人の狂人が水際で喚いた。
「竿が折れる。糸を身体に巻きつけろ」
「死んでも離すな!」
そのとき、ふっと抵抗がゆるんだ。全員が岩場に尻もちをついたり倒れたりする。
油断だった。敵は逆をついたのだ。
水面に渦がまき、白泡の中に尾びれが出た。
「沈むぞ。引き込まれるな」
一気にミリオネア製のリールが鳴り、糸が出て、立てた竿の穂先が水に浸ったまま止まった。重い手応えだ。これ以上は糸は出せない。
岩から岩に走られたら確実に糸切れする。
「さあ、時間切れだ。勝負だぞ」
達也の指示は的確だった。
達也が膝まで水に入り、内側から滝に背を向けて必死で一郎の握る位置の上を両手に握り、必死でロッドを立てた。
半沢が一郎の背後から腰を抱えて、その腰を増山が、さらに永田、稲葉、桜井、高瀬と全員で引いた。まるで綱引きだ。
「糸の太さは!」
「五号!」
「よしっ。思い切って引っ張れ。巻くのは無理だ。しゃにむに引っ張れ。引っ張り上げろっ!」
達也は少し滑れば滝つぼに落ちる。
一度、出かかったラインをがっちり締めて止め、あとは力比べだ。高瀬も水に入った。
竿先が強烈にぶれ、滝裏に引き込まれたとき抵抗が失せた。ただ無闇に重くなった。
じりっじりっと全員が水際から離れる。
ロッドは大きく円を描き微動もしない。
男たちの顔から汗が吹き出ている。
リールを巻く余裕はない。煽れないのだ。
「動いて来た。全然暴れないぞっ?」
「リールを巻け。抵抗がなくなった」
ゆっくりだが確実に獲物は揚がって来た。
「ついにやったね」
大沢刑事が嬉しそうに友美に語りかけた。
羽根警部補の額が汗ばんでいる。
「さて、賞金はどうなるんだ?」
「あの若いのが余計なことをして」
「まあ、痛み分けってとこかな」
「なんだか様子が変だぞ!」
双眼鏡から目を離さずに警部補が叫んだ。
岩場では全員が凍りついたように動かない。
ゆっくり重く糸に引かれて、ゆらゆらと黒い背広の男が水中にある。髪の毛が水藻のように揺れ、両手を広げたまま淵をまく流れに乗って大谷川の激流目がけて落ちて行く。
一郎が竿を離し、達也は水中で手を伸ばしたが届かない。
「揚げろ!引き揚げてくれ!」
羽根警部補の声は滝音に消されて届かない。
水死体は岩角に打たれて流れ落ちた。
観瀑台の真下の岩場で死体が止まった。
そのときにはすでに、応援に来ていた各漁協のメンバーや、羽根警部補、佐藤巡査長らが観瀑台のハッチから下りて駆け付けて激流を流れる死体をくいとめ、竿尻をつかんだ漁協側の応援団との協力で岩に上げた。全身の骨が岩で砕けている。
「とんでもないもの釣っちゃったな」
佐藤巡査長が鑑識の出動依頼を連絡した。
滝つぼの怪魚釣りは意外な結末に終わった。
砕けた顔でも判別はつく。
羽根警部補ですら面識がある男だ。
海堂敬作代議士のボディガード兼第二秘書として、第一秘書の内村雄太郎を補佐して来た工藤和彦だった。
「かつては、全日本社会人柔道大会で個人の部準優勝という工藤が、そう簡単に死ぬとは思えない。殺人か自殺かは鑑識の結果を待たねばならないがな」
「昨日の藪で見つけた血痕が人間なのは鑑識ですぐ判明したんですが」
「まあ、殺人に間違いないだろう」
羽根警部補が同行していた佐藤巡査長を見た。佐藤がニヤリと笑って答えた。
「捜索費用助かりましたね」
達也が大沢の顔を見てポツリと呟いた。
「工藤は一時期オレの部下だった」
「えっ。どこでだ?」
「新宿署の警ら課で巡査をしていたんだ」
羽根警部補がそれを耳にしてふり向いた。
「佐賀さん。工藤について知ってることを後で聞かせてください」
「あまり役に立つことは知らんですよ」
「それでも結構ですからぜひお願いします」
工藤の遺体が司法解剖のために運ばれた。
関係者全員が日光署へ移動することになる。
被害者が海堂の秘書だけに推測が割れた。
「上がきめることだ。捜査本部はなしだろ」
この羽根警部補の予想は外れた。
署からの連絡を受けた海堂敬作事務所からは、自殺として処理するようにとの圧力がかかったが、就任二年目の刈谷署長は、鋭利な刃物による胸部刺傷が死因との報告で、殺人事件として捜査本部を設けるよう命じた。
遺体の第一発見者として、華厳の滝に下りた各漁協代表一名ずつが参考人として調べられ、出勤前の一仕事どころか、半日を棒に振った。
達也は元刑事ということで協力者扱いになり、友美はスクープをものにした。
一郎は不法侵入だったが、前々日三本松の駐車場で眠っているところを不審尋問され、死体遺棄の疑いで拘留されたことでもあり、情状酌量で許された。
「特赦だぞ」
羽根警部補が恩きせがましく肩を叩いた。
「また、あのブラウンを狙います」
一郎が性懲りもなく宣言すると、鬼怒川漁協の半沢が感心したように、今北の桜井を見て宣言した。
「つぎの勝負には、うちの代表は増さんと、この松山青年で決まりだ」
帰りぎわに、警察署隣のミッキーハウスというレストランで昼食を共にしようと階段を下りながらの会話だった。友美も外に出た。
中禅寺湖漁協の稲葉が半沢をさえぎった。
「いや、根性が気に入った。ぜひ、うちの選手として賞金を稼いでもらいたいな」
二階で彼らを見送る羽根警部補が怒鳴った。
「もう、あんなバカな真似はやめろ!」
桜井が振り向いて大声を出した。
「今度は警察に内緒でやるから安心しな」
そのとき、玄関から大股で入って来た長身の男が、一団となって下りて来た男たちをはね除けて二階に駆け上がった。二階を見上げていて男に気付かなかった桜井がよろけて倒れ、階段から転がり落ちた。達也が抱き起こす。
「イテテ、なんだ、あの野郎!」
肩をしたたかに壁に打ちつけた半沢が上に向かって怒鳴った。
「そいつを傷害罪でひっとらえろ!」
稲葉がその男の顔を見ていた。
「あいつは内村の二代目だ。県会議長までやったオヤジの七光りでオレも肩を持ってたが、この態度をみたら嫌気がさしたぜ」
「あんなのが秘書じゃ、海堂も終わりだな」
二階で内村の声がした。
「絶対に、自殺に違いない。根拠はある」
「ほう。どんな根拠かね?」
羽根警部補のとぼけた声が聞こえた。
友美の横を一郎が通った。
「一郎さんは、東京へ帰るの?」
苗字を忘れている友美が一郎に声をかけた。
それが馴れ馴れしく聞こえ、達也が目を剥く。
「相棒の大橋が車で帰って、オレ電車です」
「じゃ、私たちの車に乗って行きなさいよ」
「いいの?嬉しいな。電車賃が助かる」
「ネ、あなた。いいわよネッ」
達也がいい気分なはずはない。それでも「あなた」と呼ばれた手前、頷くしかない。
「達ちゃん。近い内また会おうぜ」
二階から大沢刑事が手を振った。