三十四 遊説
代議士は選挙が近くなると、地元に戻って地盤の強化に努めるのを常とする。
公金横領疑惑をめぐる検察庁の水面下の捜査も、樺沢誠一郎総理の身辺にまで及ばなかったが、民意は現内閣への不信を露にし、北朝鮮の拉致問題の長期化や改革路線の緊縮財政の失政で、いまや支持率も急落、ごく近い将来の内閣総辞職による解散から総選挙へのシナリオは誰にでも見えていた。解散の足音は確実に近づいている。
笹木多三郎も国会の閉会を待って富士見に帰り地盤の強化を図ることになる。現役議員が選挙で破れたときの惨めさは体感した人間でなければ絶対に分からない。笹木多三郎も若いときの県議時代にそれを経験しているからだ。それが嫌なら選挙だけは勝たねばならない。笹木多三郎にとって勝利の打ち出の小槌は妻の久美子だった。
今後の数年間の代議士生活の保証を考慮すれば五億円など安いものだ。これは愛情などではない、あくまでも議員として生き残るための戦略の一環なのだ。
結局、第一秘書の向後の意見を取り入れて、妻が経営する高原中央信金から笹木多三郎の個人保証で全額を借入れて五億円をつくった。この出費は痛かったが、島岡に責任を被せて公金からくすねた隠し金と、長年にわたって蓄積した不法な多国籍労働者からの搾取金で埋めればいい。
第二秘書の久保伸太郎に事務所を任せた笹木多三郎は、朝早く特急あずさで上諏訪駅に到着し、上諏訪大手町に設営した仮事務所に直行した。ここには、前日から来ている第一秘書の向後清一が準備を整えて待っていた。久美子は、早くも精力的に後援会組織を動かして、蓼科グランドホテル温泉会館で夫の故郷入り歓迎会と政策演説会を開く準備までしているという。
笹木多三郎は、向後の運転する車の出迎えを受けて直ちに有力者巡りを始めた。
茅野市生まれの多三郎は、諏訪の地が好きだった。東洋のスイスと呼ばれるこの風光明媚な湖畔の景勝を心底愛していて、よりよい豊かな生活環境への町づくりを公約に掲げ、景気浮揚のための公共事業の拡大を謀っていた。ただ、この年はどうも様子が違う。文化人風の県知事が民意を反映させた透明な県政をキャッチフレ-ズに、土建屋を殺すかのような政策をとり続けていて快くない。それが一般の喝采を受けているとしたら笹木の敵は一般大衆ということになって、奇妙なパラドックスの中で戦うことになる。
向後と久美子が企画した笹木代議士の日程は、車の道筋と時間までを綿密に打ち合わせて全くムダがないスケジュ-ルに組まれていた。
この日の久美子は妖しいまでに輝いていた。
遅い午後、高原中央信金が主催するパ-ティ会場では、地元放送局の人気女子アナの司会で、漫才や奇術、歌謡大会が続けられていた。
会場の空気は、主賓の笹木代議士の到着を待つまでもなく、地元で圧倒的な人気と信用を得ている久美子を中心に、三百人以上の高原信金の本支店役員および幹部と重要取引先が、和食、洋食、中華など豊富な料理を盛ったバイキング形式の洋食と、それぞれ好みの飲み物を手に円形テ-ブルを囲んで談笑している。次々に壇上に上がる来賓の祝辞などには誰も耳を傾けてはいない。それでも必死の自己PRと並の祝辞が延々と続く。
予定時刻を過ぎても笹木多三郎は現れない。有力有権者まわりで遅れる可能性もあることを司会者から知らされているだけに代議士の遅刻を疑問に思う者もいないし、代議士そのものが忘れられていた。そして、ついに笹木多三郎は会場に現れなかった。
三十五 事故
茅野から蓼科の歓迎会会場に向かう代議士の乗った車が、国道一五二号線の芹ヶ沢の先から左折して、一九二号の道に入ろうと横谷川にかかる鳴沢橋にかかったときだった。
向後はいち早くシ-トベルトを外していたが、橋際に停まっているダンプが早くも動き出したのを見て目を疑った。殺意を感じたのだ。
「まさか!」、これでは逃げる間がない。
急発進した大型ダンプが、猛烈な勢いでスピ-ドを上げて反対車線に飛び出し、向後の乗った乗用車の助手席めがけて激突したのだ。避ける間もない一瞬の出来事だった。
向後がハンドルを切ろうとした瞬間、鉄塊と鉄塊が激突する凄まじい轟音が響き、助手席がダンプの左前部に潰されるのが視界に入り、安全ベルトを外していた向後は運転席からはじき飛ばされて橋桁のコンクリ-トに激突し、肩と腰に打撃を受けた向後は……これは演技なのだ。ここで一一〇番……と、必死で携帯をとり出そうとしたが虚しい努力だった。真っ赤な血が流れる手が携帯に触れたとたんに力が抜け、意識が遠のいた……。
この時すでに、助手席の笹木代議士は、凶器となった大型ダンプの前部に車体ごと潰され、頭部陥没と内蔵破裂という悲惨な状態で即死していた。
後から現場を通った車の運転手からの通報を受けて現場に駆けつけた地元の警官は、潰れた車の助手席で死亡しているのが笹木代議士と知って仰天し、大騒ぎになる。
蓼科グランドホテル温泉会館から笹木代議士歓迎会開催の届け出を受けた諏訪署からはその日の朝、茅野の分署に交通事故に注意するようにと通達があったばかりだった。
事故の瞬間を目撃した人は誰もいない。後に急停車した後続の運転手の目撃談だと、衝突後にダンプから降りた人はいない、と証言していることから、運転手は衝突寸前に車外に飛び出して逃げ去ったものとみられ、事件は過失致死ではなく計画的な殺人事件との見方が強まった。車内で意識が戻った向後に救急隊員が言った。
「手足の裂傷、肩の脱臼など全治三ヵ月程度ですが、一週間で日常業務につけますよ」
警察の調べによると、ダンプの近くに不審な黒い乗用車が一台停車していたという証言が得られている。ダンプを運転した男も犯行直後にその車で逃げたらしい。ダンプは、近くの運送会社から盗まれていたのが判明したが、新しい指紋は残されていなかった。
いつもは後部座席に座る笹木代議士が、遊説の場合に限って助手席に乗る。窓から手を出して握手をしたり、手を振るのに都合がいいからだ。これが仇になった。
ただただ仕事一筋に生きた笹木多三郎の生涯は、惨めな、凄まじい結末だった。
悲報は、直ちに蓼科グランドホテル温泉会館の会場にいた久美子に知らされた。
久美子は電話口で一瞬だけ顔色を変えたが、すぐ立ち直った。先刻、遠くから救急車やパトカ-のサイレンがかすかに聞こえたときから心の準備は出来ている。
優雅な和服姿の久美子が、祝辞の合間に壇上に上がってマイクを持ち、会場を埋めた来賓に向かって静かに呼びかけた。
「突然ですが、皆さまにご相談いたします」
ざわめいていた会場が静まり、壇上の久美子を見つめた。
「本日、この場に出席すべき笹木に重大なアクシデントが発生しました。したがって笹木の出席はありません……」
久美子が一呼吸の間をおいた。
「しかし、このパ-ティは日頃、中央高原信用金庫にご縁の深い皆様方をお迎えして開催されたものでもあり、笹木多三郎個人のためだけにお集まり頂いたものでもありません。
ぜひ、心ゆくまでお飲み物やお料理、語り合いのひとときをお楽しみください。
それから……笹木が、万が一にも選挙に出馬出来ないような最悪の事態が発生したときは、すべて私に任せると口癖に申しておりました。みなさまも、笹木と同じく私にお任せいただいてよろしいでしょうか?」
久美子の爽やかな口調に押されてか、まだ事情も知らないのに賛同の拍手が沸く。
深々と頭を下げた久美子が少し悲壮な表情をつくって拍手を制した。
会場が静まるのを待って、久美子がしんみりと語りかける。
「じつは、ただいま交通事故の知らせがありました。笹木の容体は、運転していた秘書の向後と共にかなりの重傷の様子でございます。本来は後継者として、第一秘書の向後清一を立てるのが筋でしたが残念です。したがって、今回は、まだ若年で未熟ですが、日頃から皆様の相談の窓口になっています第二秘書の久保伸太郎を擁して、笹木の意思を継ぐ立派な代議士に育てる所存でございます。総選挙の気配は目前に迫っています。いまは一刻の猶予もありません。勝つか負けるかで、利益の地域誘導には大きな差が出ます。
この選挙も、従来通りに私が陣頭指揮をとって戦いますので、みなさまの旧に倍した絶大なるお力添えを頂きたくお願い申しあげます。いま私情の涙をこらえてお願いするこの唐突な提案にとまどう方もいらっしゃるかと存じますが、異論なし、とのみなさまの賛同と励ましの言葉を賜りますれば、わたくしも、どんな事態が起きようとも勇気をもって対処する覚悟ができます。みなさま、如何でございましょうか?」
「異議なし!」「頑張れ!」と、拍手と声援が会場を圧し「ワシが付いとるぞ!」「いいぞ久美子!」などと、余分な酔声も混じって賑わいが最高潮に達した。
「ありがとうございました……」
深々と礼をした久美子が目頭を抑えて壇上から降りると、パ-ティの続行を告げる女性アナの声が明るく響いた。
「これからもまだまだ余興が続きます。みなさま、充分に、おくつろぎください……」
耐える女の健気さか、ハンカチを握りしめた久美子は無言で会場を出た。
会館の玄関先で久美子を見送った後援者の一人は、自分で乗用車の運転席に座って、軽く頭を下げて答礼をした久美子の表情が、あまりにも穏やかで落ちつき払っていことに驚いたという。それがまた、久美子の気丈さとして美談になる。
先導に来たパトカ-に続いて久美子の車が動くと、会場から出た関係者の車が続いた。
その車の列は、まるで葬儀の列のようでもあった。
事故現場は悲惨で、現場検証の警察官が立ち入り禁止のテ-プ内で立ち働いている。
「ご主人の笹木多三郎さんに間違いありませんか?」
夫は潰れた顔で目を剥いて死んでいた。とても正視など出来ない。
「ハイ」と、答えて両手で顔を覆ってよろめいた久美子を、「もう結構ですから」と、面識のある地元の警官がテ-プの外に連れ出した。向後の姿が見えない。
「運転していた秘書は?」
「いま病院に運ばれました」
「生きていたんですか?」
「奇跡的に全治三ヵ月ぐらいだそうです。お車の中で、しばらくお休みください」
「そうします」
車の座席をリクライニングにして目を閉じた。
(まだ、生きていたのか……)
向後の裏切りに気づいたのは、彼が拉致事件のあとで久美子の寝室に泊まったときのことだった。充実した情事の後の甘い余韻が覚めやらぬ深夜、先に向後がイビキをかいて熟睡したのを見た久美子が喉の渇きを癒すためにキッチンに行こうとベッドから離れて寝室を出た。ところが、ふと和室の壁にかけた向後のブルゾンのポケットから携帯の頭の部分が目に入った。何気なく取り出すと電源がオンになっていて「不在あり」「留守番電話あり」のメモが残っている。メニュ-で着信履歴を見ると、多忙な秘書の激務を示すように全着信が二十件フルに入っていて、うち不在着信が九件あった。
二十件の着信電話番号をチェックして久美子は微笑んだ。久美子の見慣れた番号が多いのは当然だが、仕事関係に混じって久美子の携帯からの着信名が「女王」、自宅からの電話が「女王宅」と分けるてある。二十件すべての番号が異なるのは几帳面な向後らしく、不通知番号着信は消して、相手の明確な電話を新規入電順に一番号一件に整理してあるらしい。多分、これだと、とくに重要か常時連絡が必要な相手だけ限定で二十件、新規着信の度に古い記録が押し出されて消えることになる。ただ。その着順が気になった。
着信時間を見ると、向後が寝室に入ってからの二件が最新の不在着信で、久美子が暗記している川村の携帯電話が「たぬき」、洋子のマンションの番号が「姫」となっている。
洋子は私設秘書という形式だけのバイトで、月に数回は議員事務所に顔を出していて、向後とはウマが合うらしい。ただ、午前〇時を過ぎてからの連絡となると、緊急な用件以外には考えられない。どのような連絡が必要なのか? 留守電にすると、一件目が聞き慣れた川村のダミ声で「情報おおきに……ほなら、また明日」とある。二件目が娘の洋子で、「今晩、うちに泊まるって言ってたでしょ。嘘つき!」と聞こえた。この瞬間、久美子の全身の血が逆流して脳に噴いた。
「殺してやる!」
と口にして、向後の上着の裏にある短刀を探った。だが、これでは短絡過ぎる。
「冷静に、冷静に、冷静に」と、三回呟いて自分の声に耳を傾けると、ひらめきが出た。
夫の遊説日に向後と企んでいた計画の一部変更し、それを決行するのだ。
腹を決めたら気持ちが落ちついた。
冷蔵庫から出した冷たい麦茶の一気飲みで冷静さをとり戻し、ベッドに戻って彼を揺り起こして再びはげしく求め、(これが最後よ!)と、上り詰めながら心で叫んだ。
そしてこの日。太平総合保険の戸倉に任せたこの仕事は、成功率五〇パ-セントに終わった。この究極の計画も向後の悪運の強さに跳ね返されたのか……代議士が死亡の場合は久美子に三億で洋子に二億、向後が死亡だと久美子にだけ一億が入る。掛け捨てだが、事故傷害でも出るから損はない。ただ、戸倉の取り分が減るだけだ。
この結果が吉と出るか凶と出るかは、カンの鋭い久美子にもまったく分からない。
三十六 札束
新年も喪の中ではめでたくない。
六本木のロアビルに近いロイヤルマンション四〇五号室の玄関に「Y・SASAKI」
と、英文字の表札が出ている室内では、ス-ツ姿の笹木洋子が電話中だった。
傍らに大型のバッグが二つある。
「ケガはもう大丈夫? 父の葬儀も無事に済んで、あなたも後継者の久保君に地盤を譲っていさぎよく事務所を辞めたから、もう自由ね。母はあれから数日間寝込んだけど、近日中に臨時株主総会を開いて、笹木土建を川村土建に譲り、自分は、信金の業務に専念するらしいの。母は、あなたとわたしが数年後に川村の家に夫婦養子に入って、あなたが川村土建のオ-ナ-になり、いずれは山口から国政に乗り出す密約ができてるなんて夢にも思ってないでしょうね。あなたなら、川村後援会も全面的に応援することになるから川村の秘書で三年も修行すれば、当選確実ね。あなたなら必ず総理になれます。山口県は歴代総理をもっとも多く輩出している県でしょ? でも、その大事な一年を、わたしがロスでコ-チをしながら音楽を勉強するのに付き合って、政治学の勉強にアメリカで大学の聴講生
になるなんて嬉しいわ。でも、母はあなたの裏切りを許さないわよ」
しばらく、相手の喋りを聞いて、「あなたがそこまで母を信じてるなら、それは、それでいいのよ。スケジュ-ルだけど、今日は空港近くのホテルに泊まって、朝、こちらの分とそのお金を銀行に預けて、明日はロスの街を見下ろすビバリ-ヒルズの邸宅を下見するのよ、いいわね?」
だが「好事魔多し」の言葉通りに世の中そう甘くはない。
赤城の運転する覆面パトカ-が近づきつつあった。
車内には達也と友美、改めて長野から出張して来た進藤刑事が乗っている。
「大阪の関西電設が架空の会社なのを、見抜けなかった赤城は間抜けだったな」
「でも無理ですよ。赤城さんを騙すために相手も必死だったんですから」
「そうですよ。私だってまさかヤツらが下関に電話を転送していて、新幹線で出てきて私に会ったなんて、あの時は全然考えませんよ。それに、テ-プで麻雀とバカ騒ぎをエンドレスで流すなんて……でも、折角、川村土建のヤツらに辿りついたのに、警察では、心中で終わった事件に触れたくないと言うし、彼らの自供もとれないし、しかも、あの男女が誰だかは彼らも実際に知らないときている。まったく頭にくるな」
「黒幕が川村健吉だという確証もないから、どうにも出来ん」
「でも、勝負はこれからです。私は川村土建の十人組のことも書きますからね」
「やはり、ペンの力は頼もしいです」
「しかし驚いたな。あの笹木洋子がサラ金以上のすご腕で債務を完済するなんて」
「しかも、全部一割か一割以下の返済で、九割以上が債券放棄ですものね」
「債権者としては、一割でもゼロよりはいいですからね」
「こうなると、債権者と洋子のどっちが無法だか分からなくなるな」
「赤城さん。どうやって調べたの?」
「死んだ加山の借金先のリストの控えが鴨井事務所から出て、これで返済状況を問い合わせて驚きました。大東京興行からの金利込み六千万を六百万で和議成立、内藤金融の一億八千万が千五百万、どれもこれも一割か一割以下で完済証明書付きですからね」
「この交渉だと、プロの債権屋以上の凄腕だな」
「と、なると最低でも、二億ぐらいは隠してる計算になるぞ」
ロイヤルマンション近くの路肩に寄せて駐車して、全員がエレベ-タ-に乗って四階に上がった。花束を持った友美だけが、別行動に見せかけて後から行くことになる。
赤城がドア-をノックすると、会話中の声が聞こえた。
「ちょっと待って……だれか来たみたい」
会話を中断して、中から覗き窓に顔を付けた気配がある。
「どなたですか?」
「警察のものです。お聞きしたいことが……」
「お待ちください……」
洋子が小声になる。
「変なのが来たから、すぐ掛けなおすわね……」
来客を待たせたまま、あわてて大型バッグ二個を和室の押し入れの上段に運び、素知らぬ顔で玄関口に出て、ドア-をチェ-ン分だけ開いて顔を見せる。
「なにか、ご用ですか?」
赤城が警察手帳を見せた。
「お父上はお気の毒でした。盛大な葬儀でしたね」
「有り難うございます。そのことでわざわざですか?」
「先日、亡くなった加山のことでお聞きしたいんですが……」
「マスコミがうるさいので、葬儀には行きませんでしたが、お気の毒でした」
「死亡する三十分ほど前に、あなたが戸田友美さんと一緒に、加山を訪ねたことが分かっています」
「ほんの数分寄っただけで、婚約も破棄してますし、もう私とは縁のない人です」
「その経緯も聞かせてください」
「あなた方に、プライベ-トな話をする気はありません」
後から来た友美が、花束を抱えた現れてドア-をノックし、約束通りの芝居をする。
「洋子さん、婚約解消祝いのお花持って来たわよ」
隙間からではカサブランカの花が大きすぎて入らない。
洋子が用心深くチェ-ンを外して花束を受け取ろうとしたとき、友美が洋子を押し退けて靴を脱ぎ、室内に入った。
「なによ、上がらないで!」
友美を気にしながらも、玄関口まで踏み込んだ赤城を必死で押し返そうとする。
「令状もないのに、家宅侵入罪と名誉棄損で訴えますよ。わたしが何を?」
「何をしたか、これから調べます」
洋子が押し問答をしている間に、友美が和室に入って押し入れのドア-を開け、大型バッグ二個を見つけ、その一個を強引に引き出す。それに気づいた洋子が振り向いた。
「なにをするの!」
走り戻ったが遅かった。大型バッグを奪い返そうと洋子が力を入れたため、バッグの口金が外れて蓋が開き、大量の札束が六畳間に散乱した。
洋子が髪を乱して友美に殴り掛かり、駆け寄った進藤がとばっちりで頬に一撃食らう。
友美に払い腰で投げ飛ばされた洋子が、札束の中に顔を埋めて突っ伏して泣いた。
進藤が夢中で札束を集める間に友美は小型カメラを出して、散乱した札束に洋子を絡ませて連写する。
赤城が手帳を取り出し、札束の中から新券の束を選び出して数字を合わせた。
「高原信金で新券はチェック済みだから……現金輸送車のにピタリです」
達也が同情する。
「あんたは多分、事情を知らないで加山からこの大金を預かったんだろう? でも、こいつは犯罪に絡んだ金なんだ。知ってることは正直に吐いたほうがいいよ」
赤城がおだやかに告げる。
「向島署までで結構ですから同行してください……」
洋子が涙をふいた。
「その前に、ちょっと化粧を直させてください」
バッグを抱えた洋子が寝室に戻り、姿見の前で髪の乱れを直そうとしたが、恥ずかしいのか背後を振り返り、さり気なく戸を閉めた。達也が声をひそめる。
「あの女、なにか細工するぞ。オレ達は少しガサを入れてみる。鍵は預かって戸締りして行くから、友美はあの女と下で待っててくれ」
しばらくして身づくろいをした洋子が姿を現した。
「先に出ましょう。鍵を貸してください。後でお返しします」
友美が洋子を誘って先に部屋を出た。
「なにか、隠したようだな。捜してみるか?」
赤城が本庁の上司に報告すべく携帯を出した。笹木洋子の向島署への護送、本庁捜査課による洋子のマンション内の徹底した家宅捜査の緊急許可をとるのだ。
白手袋をはめた進藤と達也が洋子の寝室に入って、ベッドの下から調べ始めた。
達也が鏡台を持ち上げると白い封筒が出た。進藤が取り出して封を切る。
「ありました。明朝十時五〇分の65のJAL65便でロス行きです」
「すぐ、搭乗名簿でペア-の申し込みを調べさせろ。相棒がいる可能性があるぞ」
赤城が部下に電話して、その便に乗る予約客の申し込みを調べさせた。
達也が先に部屋を出ると、赤城と進藤が重いバッグを一つづつ持って歩きだした。
三十七 生い立ち
六本木の混雑を避けて東京タワ-下から左折した覆面パトカ-は、芝公園から高速とは名ばかりの首都高に乗った。赤城が運転し達也は助手席、後部座席の真ん中が洋子で、それを挟むように進藤が左、友美が右に座っている。首都高は相変わらずの渋滞だった。
「あなたは、フィギアスケ-トで世界に大輪の花を咲かせましたが、フィギアってものすごくお金のかかるスポ-ツだそうですね? いつも心配してました」
「それこそ、よけいなお世話です」
「競技用と練習用のシュ-ズ、交換用エッジ代、修繕費、リンク使用料、外国生活のホテル代や食費、交通費、国際電話の料金、専任コ-チへの謝礼、衣装、合宿費、娯楽費、語学学習費、写真代、ありとあらゆる経費が毎日のように出て行くはずです」
「それがどうかしましたか?」
「以前の笹木家は裕福でしたでしょ? お母さんが理事長を勤める高原信金もつぎつぎに支店を出して、親族を役員に抜擢して我が世の春を謡っていましたし、政治家の笹木多三郎さんは社長はできませんが、陰のオ-ナ-として君臨していた笹木土建の業績も絶好調、大型の公共事業を次々に受注して下請けに丸投げして何もしないで大儲け、これがバブル時代の笹木家の姿でしたね。ところが、バブルがはじけ飛んでから状況は一変して、笹木一族の資産はブレ-キの壊れた車が、急坂を滑り落ちるように目減りしたのです。経営能力のない支店長ばかりの信金各支店は顧客離れも解約や、ペイオフ解禁を前にした取り次ぎ騒ぎも押さえられず、高原中央信金を支える大口顧客であた長野県下のゼネコンや土建業の大型倒産が相次ぎ、いまや、金融業界からも見捨てられた存在だったはずです」
「そんな言い方、ひど過ぎません?」
「地価が下がって担保価値が下落し、追い証を求めても何もない。信金も不況と金融破綻のあおりを受けて倒産寸前、笹木建設も公共投資の見直しで大不況、多三郎さん名義の物は何一つ残りません。成城の別宅も、六本木のマンションも競売寸前です。富士見の豪邸など久美子さんの所有物もいずれは同じ運命を辿ります……」
「でたらめです!」
「登記所で調べましたから間違いありません。でも、あなたを大資産家のお嬢さんだと信じた加山憲一が接触し来たことで、家庭内外の事情も一変しましたね?」
「どうしてですか?」
「多三郎さんは無関心ですから理解を示しましたが、お母さんは、突然の婚約発表に怒り狂って猛反対した、と見せかけて、借金返済を条件に婚約を認めました……でも、本心からあなたと加山を結婚させたかったのは久美子さんなのです」
「あなたに何が分かるんですか?」
「単純な彼は、五億円とも言われる借金返済を約束しました。そして借金返済を急ぐあまり、同級生の鴨井を仲間に引き込んで、とんでもない方法で金策に走って罪を犯した……
でも、手引きしたのは誰だと思いますか?」
「知りません」
「あなたのお母さん、久美子さんです。久美子さんと鴨井はグルだったのです」
「まさか、自分の会社の金を盗ませる人なんかいませんわ」
「あなたは加山が、お母さんが経営する信金から盗んだ金と知りながら預かり、彼に代わって債務の返済を代行し、一部の債権者が一割りでもいいから、と勝手に言いだしたのに味をしめて、全債権者と一割を基準に交渉して完済したんですね?」
「それって、いけないことですか?」
「そこで、浮気を理由に婚約を抹消……」
「ひどいわ……」
「その残金をプ-ルして、以前から交際中の男と駆け落ちする。その男のことも、ようやく推測がついてきました。お母上のお気に入りの第一秘書の向後さんですね?」
「いい加減な憶測をしないでください」
「誤算は、加山の収入が正当なものではなくて、強盗をしたり、強盗の仲間から金を借りたりしたことね。その金が大型バッグの中身でしょ?」
「知らないで預かったんです」
「保険会社を調べました。久美子さんは、今度、大型合併が噂される太平総合保険の大株主で、信金の取引先でもありますね? そこの諏訪支店長の戸倉さんが、ダンス教室の常連と聞いてますが?」
「ダンス教室のことなど知りません……」
「あなたはダンスのセンスも抜群だと、戸倉さんが言ってました。あなたの後援会の副会長で、外国での大試合には必ず応援に行ってますね? あなたは、加山に対して二億円の保険を掛けました。契約後一年未満の自殺ですと保険は支払われません。なのに保険会社を調べたら、すでに事故死と認定済みです。これでは早すぎますね。戸倉さんが調査員を説得して、警察の結論が出る前に加山を変死扱いにさせていましたね?」
「わたしの知らないことばかりです」
「調べてみたら笹木代議士にも、久美子さんが三億円、あなたが二億円の受取りで保険が掛けられていました。扱いはやはり太平総合保険です」
「心の貧しい人には、そのような見方しかできませんのね?」
「わたしの貧しいのは、財布の中身とバストだけです」
「ここまで調べておいて、なにが目的なの? お金?」
「わたしはルポライタ-、お金は記事で稼ぎますよ。目的は社会正義と特ダネです」
「貧しい人はすぐ正義などと言いだすのよ。今のが特ダネ?」
「核心に結びつかない真相など、全部ボツですよ」
「どんな真相があるの?」
「まず、八子ヶ峰事件から考えてみました」
「なにを?」
「八子ヶ峰事件の現場にいた不審な三人組の男も、島岡さんと狭山三枝子さんを拉致して殺害し、心中に偽装したのも川村土建社員または社員扱いの暴力団構成員でした」
「でも、この件はわたしと関係ありません」
「さあ、それはどうですか? 八子ヶ峰事件は、閣僚や官邸を巻き込んだ贈収賄スキャンダルの揉み消し事件の様相を呈していますが、元はと言えば、笹木・川村両代議士の極めて個人的な家庭問題から発してるんでしょ?」
「そんな個人攻撃は卑怯ですよ」
「本当はあなたは島岡さんが好きで、短い期間ですがお互いに愛し合ったこともありましたね? そして、将来は多三郎さんの地盤を継ぐ島岡さんと結婚して代議士夫人になろうと思ったんですね?」
「精神的な愛情だけです」
「……それが、島岡さんに好きな人が出来て結婚の話が出たので、母親と相談して島岡さんの結婚を破談にさせようとして失敗した。あなたは自分を裏切った島岡さんを許せなかった。久美子さんは、代議士の愛人だった狭山三枝子を殺したいほどに憎んでいた……そこに降って湧いたような公金横領騒ぎでしょ? あなたの言うことは盲目的に何でも許す実の父親に相談して力を借りて、二人を殺しました」
「そんな恐ろしいこと言わないでください」
赤城と達也は無言で聞いていたが、洋子ファンの進藤が憤慨する。
「いくら友美さんでも、それは言い過ぎですよ」
「男は黙っててください! これは女の戦いです」
これで、男たちはまた聞き役にまわった。
「ところで、あなたは、島岡さんから向後さんに乗り換えましたね?」
「そんな節操のない恋愛はしません」
「じゃあ、なんで愛情もない加山と婚約したんですか?」
「愛し合ったからです」
「お金のためと言ってほしかったですね。あなたは、向後さんが母の愛人だと知っていたから、向後さんのことは絶対に悟られないように秘密の交際を続けましたね」
「なんで、向後さんにこだわるんですか?」
隅田川が左手下にのどかな流れを見せている。
三十八 真相追求
「もうすぐ向島出口ですから結論を急ぎますね。お母さんは、あなたと向後さんのことをうすうす気にしていましたから、不倫の関係にあったダンス教室の鴨井を通じて加山をあなたに紹介し、二人の結婚の障害になる加山の借金を何らかの方法で解決しようと考え、鴨井に情報を流して、信金のお金を奪わせる手を考えました。ただ、大きな誤算が生じてしまったのです」
「なんです?」
「鴨井と加山が呉、大岩の二人を殺してしまったことです。しかも、その時奪った大金の一部があなたの部屋から出たんですよ」
「だから、預かっただけだって言ったでしょ!」
「じつは、笹木代議士は子供のときに重い病気のウイルスで子供のできない身体になっていたそうです。でも、あなたは久美子さんから生まれました」
「いい加減なこと言わないでください!」
「あなたは、中学生の頃、実の父親が違うことに気づきました。多分、それを伏せていた母親の不倫をなじったでしょうねね? 養子の笹木代議士は、笹木家の経済的援助で世に出た背景を考えると離婚など出来ません。そこで成城に家を購入し別居という選択肢を選びました。あなたも学校やスケ-トのことを考えて東京別宅に住みました。そこで、家に出入りし寝泊まりもする狭山三枝子という代議士の愛人を知り、心から憎むようになりました。あなたの本当の父親は別にいると聞いたわたしも、最初は半信半疑でした。でも、八子ヶ峰事件の現場にいた三人組が川村土木の社員であったのがヒントになって、川村健吉行きつけの永田町理容院から川村代議士の散髪後の髪を貰って、いま運転席にいる赤城さんに鑑定を依頼したところ、なんと川村健吉とあなたは親子関係にあるという事実が判
明したのです」
「なにを言うの? 比較するものが何もないのに……」
「洋子さんは、オアシス・白樺を知ってますね?」
「知りません」
「店のテ-ブルやスプ-ンから出た指紋とタバコの唾液などと、私とあなたが赤坂で、向後さんと佐賀が富士見で、それぞれ食事したときの食器を密かに借りて持ち帰り、これもDNA鑑定にまわして貰った結果、あなたと向後さんがクロと出ました。この時はとび上がるほど驚きました」
「ずいぶんと姑息な手をお使いですのね?」
「純粋なあなたは両親を憎み続けて来ましたね……でも、川村は、笹木代議士の友人ですから成城にも議員事務所にも出入りしますから、あなたも会いますよね。笹木代議士と友人である関係という理屈で、海外でもどこでも、あなたの後援会長として目茶苦茶に優しいのを不思議に思ったあなたは、母を問い詰めて、本当の父親が川村であることを知ったのだと思います」
「そんなの想像でしょう?」
「そうです。でも、ここからは真実ですよ。八子ヶ峰殺人事件は、国と内閣、川村健吉、久美子さん、川村土建の社員と実行犯や協力者が絡みますが、本当の黒幕は共通の敵を抹殺した向後清一と洋子さんで、川村はその後援者なのです」
「妄想で推測しないでください」
「お金の隠匿だけなら罪は軽いのに余罪があると大変ですよ。死刑なんて……」
一瞬、洋子の顔色が変わった。車は明治通りを右折して向島警察署に向かう。
「冗談です。車の中の話は忘れてください。警察でいくら真実を話しても、もう八子ヶ峰の心中事件は覆りませんし、母親を罪に落とすことも出来ないでしょ? あなたの出生のことも永遠の秘密でいいことです。多分、向後さんも身柄を押さえられと思いますが、凶悪な犯罪を犯したわけではありませんし、お二人はお似合いだと思います。あなたとわたしの友情も変わりません」
「感謝します」
「でも、わたしはライタ-です。書くために真実を追求してるんですよ」
向島警察署に到着したところで困惑顔の洋子をうながし、友美も外に出た。
洋子はしおらしげに下うつむいて歩いた。その頭の中には修羅がいた。
あの夜の出来事は、悪夢としか思えない。
ドア-を開けたナイトガウン姿の加山が、とがめる表情で洋子を見た。
「急に、どうしたんだ?」
「急にあなたの顔が見たくなったの」
洋子の視線が一瞬、靴箱の奥からのぞく見慣れぬ赤革のハイヒ-ルを捕らえたが、素知らぬ顔で甘える。洋子が中に入ってドア-を閉めた。女はやはり奥にいたのだ。
先に応接間に急いだで加山がム-トンを何かに被せ、いつもとは反対なのにそのム-トンの横に座ったので、洋子がいつも加山が座るシングルのチェア-に腰を下ろした。
「なにか飲むか?」
「それじゃ、コ-ヒ-を頂きます」
加山が頷いてキッチンに立つと洋子が素早く動いた。加山が被せたム-トンの下を覗くと、グッジの赤茶のハンドバッグが見える。以前、加山に鴨井の秘書だと紹介された野沢靖子が持っていたバッグに間違いない。口金を開けて中を覗くと手帳の横に、化粧セットの透明なポ-チが見え、以前、加山から見せられたのと同じ口紅ケ-スが見えた。
バッグから口紅ケ-スを取り出して蓋を開けて逆さにすると、加山が栄養剤だと説明したカプセル錠剤が一個手の中に落ちた。彼は、結婚して父親に会ったときにプレゼントする強力な栄養剤で二十分たつと胃の中で溶けると言った。栄養剤なら即効でいいはずだから、その時点で洋子は内容を察していた。
「あなた済みません。レモンティ-に変えていただいていいかしら?」
時間稼ぎをした洋子は、その錠剤を左手の指の間にはさみ、空の口紅ケ-スをバッグに入れ、口金を閉めてム-トンを被せる。洋子は席を移った。
加山が紅茶を運んで来た。飲むと口紅が付く恐れがあるから手を出さない。
「なんで手袋なんかしてるんだ?」
「料理番組にゲストで出て肌荒れの手がアップに……それが、いやだったの。でも、あなたの元気な姿を見たら満足しちゃったわ。デ-トの電話待ってるわね」
「なんだ、いま、せっかく注文の紅茶をいれたのに」
「その気持ちだけでとても嬉しいです。友達を待たせてるからこれで……」
「なんだ、誰かいたのか?」
「女友達よ。お願い、玄関の外まで送って……」
洋子が立ち上がって、明るく甘えた。
玄関を出ると、手袋で口を拭う仕種をした洋子が、ガウンを着たままの加山に抱きついて甘え、加山がとまどうのも構わずに深いキスを求めてた。はげしいキスを加山が振りほどこうとしたが、洋子が舌をからまたのか強く抱きしめたまま離さない。加山の喉がゴクリと動くのを感じたところで口を離して小声で謝る。
「ごめんなさい。のど飴をなめたままだったのを忘れて……」
加山の手を離さず嬉しそうに、友美に届くよう声を上げた。
「あなたを信じてよかったわ」
「あたり前だ。オレたちはもうすぐ夫婦なんだからな」
洋子が名残惜しげに手を離す。
「あなた、おからだ大切にね」
「洋子もな……」
閉まるドア-に背を向けた洋子が歌の一節を呟く。
「牡羊座は、サヨナラなんて恐くない……」
その声は友美には届かないはずだった。