三十 不安
二台の車はコンビニに立ち寄り、握り飯やパンと飲み物を仕入れて東京に向かった。
ラジオのニュ-スでは、早くも信金強奪事件の展開を報じている。
「本日、午前十一時二十分過ぎ、長野県諏訪郡富士見町の富士見町公園内を散策中の警備会社勤務の男性と女性記者の二人連れを、拳銃で脅している男がいるとの一一〇番通報が近くの住民からありました。ただちに富士見町交番に勤務する樋口巡査部長・二十七歳と甲斐巡査・二十歳が駆けつけ、凶器を持った男を格闘の末に逮捕しました。
男は所持していた免許証から東京都港区赤坂に住む出張ダンス教室主催の鴨井恭二・三十五歳と判明、鴨井は、世間を騒がせた連続信金強盗殺人事件の犯行を認めましたが、共犯者についてはバ-で知り合った名も知らぬ男を雇って犯行に及んだと証言しているもようです。警察では、奪った大金のありかを追求中です」
友美の携帯電話に赤城から連絡が入った。友美が運転中だから達也が出る。
「なんだ?」
「鴨井が捕まりました!」
「よかったな、オレは不愉快だけど」
「鴨井は公園内を散歩中のアベックを脅してたそうですね? どこの男女だか、よくもまあ真っ昼間から公園に……そう思いませんか?」
「なにを言いたいんだ?」
「まさか、先輩と友美さんじゃ……?」
「だったらどうなんだ?」
「なにも富士見まで行って、イチャつくことないでしょう?」
「朝からイチャついちゃ悪いって法律でもあるのか?」
携帯の声が聞こえたから、運転中の友美が怒り、電話をひったくって怒鳴った。
「いい加減にしてよ。真相はネっ!」
「進藤さんから聞いてます。友美さんが、鴨井を拳銃で殴り倒して射殺しようとしたとか……内緒ですが、いま長野県警内限定で恐ろしい女だって評判が広がってるそうです」
「なにが内緒よ。そんなのウソです、頭に来るわね」
「キレルと危険ですから、運転も先輩に替わってください!」
達也の手に携帯は戻ったがもう遅い、確かにスピ-ドが上がっている。
エンジン音が大きくなり、友美には赤城の声は聞こえない。それを察した達也が、あとで説明するのが面倒だから大声で復唱する。
「そうか、加山の机の下から採取した髪の毛のDNA鑑定の結果が、久保家のゴミ捨て場から出たティッシュに付着した体液と一致? なんだ、そんなものまで長野から預かってたのか? これで状況証拠は揃ったな……令状はないが踏み込むぞ。加山の居場所を確定しておいてくれ。困ったことになった? なにがだ?」
赤城がなにかを言っている。今度は達也が復唱しないから友美は推察するしかない。
「その通りだ。島岡殺しと信金強奪事件は関連してないのは分かった。あの現場の野次馬の三人が? なんだと、大阪の関西電設の連中は川村土木の社員? 転送電話で、赤城の連絡を受けて下関から新幹線で? 分かったぞ! 宿の男女もグルで、あのヤツらが島岡と狭山を殺したんだ。殺害現場から押さえた髪の毛などで充分犯人は特定できるな? あとは絞り上げれば十人のうち五人はゲロっちゃうさ。あとは黒幕を暴くだけだ」
走行車線を左に落とすと、友美にも赤城の声が聞こえた。
「ちょっと待ってください……」
赤城との会話がしばらく中断して、新たな情報が入った。
「向島署がガサ入れしたら、加山が野沢靖子と心中死体で発見されたそうです」
「なに! 心中だと? くわしく説明してくれ。わけが分からん」
「すぐラジオをつけてください、ニュ-スでも扱ってます」
「ニュ-スだと、どこのラジオだ?」
周波数を合わせながら、達也が友美を見た。
「夕べ、笹木洋子と加山のマンションに行ったって言ったな?」
「ええ、十一時過ぎでした。でも、加山は一人でしたけど……」
電話をそのままにして、ラジオの周波数をまわすとニュ-スが入った。
「本日、午前十時五十分ごろ、警視庁と向島警察署の捜査員が、連続信金強奪殺人事件の参考人として任意同行を求めるために、港区乃木坂三の三の乃木坂マンション七階七〇八号室に住むタレントの加山憲一さんをたずねました。室内からテレビの音声が聞こえるにも係わらず中からの応答がないため、管理人立ち会いで鍵を開けて室内に入ったところ、奥の寝室で、加山さんと女優の野沢靖子さんが裸で抱き合って死んでいるのが発見されました。加山さんの死因は、シアン化合物服毒による急性中毒死で、野沢さんは加山さんに首を締められ、頸動脈圧迫による窒息で死亡したものとみられます。警察の調べにより二人の死亡時刻は昨夜〇時前後と発表されています。
加山さんと野沢靖子さんは、共に東竹映画に所属していたこともあり、AV映画での共演で再会したのをきっかけに親密な交際になったこともあるようです。その後、加山さんは事業の失敗などで五億円近い借財があるこが判明、婚約した笹木洋子さんとの結婚への障害となりましたが、一部の債権者からの情報ですと、加山さんの代理人窓口になった洋子さんとの間で、一部返済・残額放棄の条件で和議が成立しているとのことです。
警察では、洋子さんからの婚約破棄の発表を知って悲観した加山さんが死を急ぎ、仕事の不振などで将来への不安を抱えていた野沢さんが同情して死の同行を求めたものか、あるいは加山さんが無理心中で道連れにした場合もあるものとみて捜査を進めています。
なお、加山さんの所属する港区赤坂四丁目の鴨井興行の社長・鴨井恭二は、信用金庫強盗殺人事件の主犯として長野県警諏訪署の警察官に逮捕され、犯行を自供していますが、共犯者については、臨時雇いで名前も知らない男だと強調しています」
「変だな……これは明らかにコロシだが、野沢が加山を殺す気なら、致死量〇・二グラムのシアンでも飲み物に混ぜて飲ませて、自分は逃げることもできたのに、抱き合って死んでるってことは、野沢には殺意がなかったんだ。それに、自分も死ぬ気なら一緒に毒を飲むさ。明らかに急に毒が廻ってきた加山が断末魔の苦しさに女の首を絞めたんだ」
電話を切ると携帯のベルが鳴る。友美への電話だが達也が出る。
「友美はいま運転中、代理の佐賀が……デスクの加川さん? 鬼のデスクで名前が沢男、人呼んで鬼沢、なんて友美が言ってます。いいニックネ-ムですな、用件は?」
相手が怒って切った。
「気が短いオヤジだな、挨拶したら切りやがった。どうしたんだ?」
三十一 誘拐事件発生
「加山が死んだんじゃ進藤はご用済みだ。その先のサ-ビスエリアで停めてくれ」
「あのまま、あなたの車で帰ってもらったら?」
「オレのバンでか? 東京には誰が運ぶんだ?」
「廃車して貰うのよ。あんなボロバン、ロシアだって船積みを断るでしょ?」
「冗談いうな。あと二年ぐらいは乗れるぞ」
大月のSAで休憩して、赤城との交信の内容を話すと、進藤は東京へ行って経過を調べるという。進藤が買ってきた十六茶缶を飲みながら三人で話し合う。進藤が車の中で思いついたという仮説を口にした。その端正な顔が、かなり疲れ気味の様子に見える。
「戸田さんは、笹木洋子と加山のマンションに二人で行ったと言いましたね?」
「ええ、洋子さんも、まさか女が寝室にいたなんて気づかなかったようです。部屋を出てから玄関先で二人の熱いキスまで見せつけられました」
「そのディ-プキスは、何秒ぐらいですか?」
「わたしと佐賀の一番長いキスの約十倍、二十秒ぐらいかしら」
「おい友美、オレ達のキスは二秒だって言うのか?」
達也は進藤からも無視される。
「二十秒ですか。アメでも何でも充分に口移しできる時間ですが、あの洋子さんが、まさか……いや、絶対にあり得ないですな」
「ひょっとしたら、進藤さん、洋子さんを疑ったんですか?」
「いや、疑ったわけではないんです。わたしは洋子さんのファンですからね」
「あの銀盤の女王がか……? あり得るぞ」 達也が深刻なかおをした。
「友美。いまラジオで加山の代理人になった洋子が借金を値切ったと言ったな?」
「それがどうしました?」
「富士見で五億、墨田で四億、全部で九億だろ。情報料を引いて二人で分配しても、加山の取り分は約四億……利息分と少しだけ債権放棄させれば充分に清算できるな? 一部返済か? 残額がどの程度なのかな?」
「すぐ調べてもらいましょう。こんな時の赤城さん頼みですから、いるかしら?」
電話がデカ部屋につながって赤城が出た。かなり焦った声が筒抜けに聞こえる。
「よかった。用があるんです。そこに先輩がいたら出してください!」
携帯が、友美から達也に移った。
「なんだ。そっちの用は? こっちが電話したんだぞ」
「内密ですが、笹木代議士の奥さんが誘拐されて、五億円の身代金が請求されてます」
「大声で、なにが内密だ。また五億円か? 金額の符丁が合いすぎてないか?」
「代議士秘書から、谷口元副総監経由で、先輩に救出指令が出たようです」
「それで、この誘拐は公開かね?」
「非公開です。田島社長が先輩を探してて、わたしに連絡を頼んで来たんです」
「オレの携帯はバッテリ-切れで一ヵ月になる」
「そんなの自慢しないでください」
「それより仕事だ。頼みがある。加山の借金を、笹木洋子が返してるそうだが、値切り額と返済状況を調べてくれ」
「分かりました。あとで時間がとれたら、何割返済で何件払ったか調べます」
「完済状況もだ。それで奪った金の残高が分かれば隠し場を追求できるからな」
「それも調べてみます。じゃ、田島社長に電話を忘れんでくださいよ」
仕方なく、メガロガに電話を入れると田島が怒鳴った。
「恥をかいたぞ。富士見町交番の巡査と巡査部長が主犯を捕まえたそうだな」
「事件は解決したんだから、いいじゃないですか?」
「だから、つぎの仕事を指示してる。笹木多三郎代議士の久美子夫人が有力者まわりで、車を降りて支持者と握手中、背後から襲われて車に乗せられ拉致された。身代金五億円が要求されてるんだ」
「うちらの仕事は要人警護で、誘拐被害者救出は警察の仕事でしょう?」
「それが、笹木議員事務所から谷口元副総監経由で、佐賀に名指しで来た仕事なんだ」
「どうして指名なんです?」
「知るもんか。とにかく今すぐ笹木久美子の身辺警護を命ずる。分かったな!」
「無茶言わんでください。どこに行けば?」
「だから、捜し出して警護するんだ。警察にはまだ届けていないそうだ」
「ということは、救出が最初の仕事ですな?」
「まあ、そういうことだ」
「応援は?」
「長野県警を使え。コネはあるだろ?」
「ここに一人、長野県警本部の進藤班長がいます。で、窓口は?」
「笹木議員事務所側は第一秘書の向後清一……お互いに知ってるそうだな?」
「八子ヶ峰で会ってます。相手は?」
「臼井とかいう、うすっ気味の悪いヤロウで毎回、携帯の番号を換えて来やがる。じゃ、向後に電話してくれ。いま地元を笹木代議士と飛び回ってるはずだ」
「また臼井か……嫌なヤツだな」
知らされた番号で向後に電話を入れると、すでに富士見ニュ-ホテルに達也の宿を確保してあって、そこで落ち合うことになった。
「どうだ。進藤くん。オレはUタ-ンするが一仕事やっていかんか?」
「そんなの所轄の堀井に任せます。佐賀さんの死骸が発見されたら私が拾います。とりあえず、私は戸田さんの車に乗せてもらって加山の件を調べ、列車で長野に帰ります」
「そう言うな。富士見町経由、松本まわりでどうだ?」
「もう沢山です。佐賀さんと一緒だとロクなことないんで」
達也は、サ-ビスエリアの駐車場からは自分のボロバンに乗り、一度、途中で高速を下りてUタ-ンし、ふたたび富士見町に舞い戻ることになった。そこで、どんな危険が待っているのかは誰にも見当がつかない。
進藤の運転で、友美はのんびりと音楽を聞きながら帰京した。
三十二 奇妙な話
達也は富士見町に戻った。
富士見ニュ-ホテルの駐車場に車を入れ、常時積みっぱなしの下着や日用品の入った旧いボストンバッグ一個を手にホテルに向かう。部屋のカ-ドキ-を貰うと鼻唄まじりで六階の六〇三号室に入った。秘書の向後清一が打ち合わせに来る時間までには一時間ほどある。その間に、笹木夫人誘拐の経緯や地理を含めて自分なりに調査をする手もあるが、朝から忙しかった一日だったから疲労感も深い。まず、熱い風呂に入りたい。
部屋付きの風呂で熱い場に浸かって出てから、冷えた缶ビ-ルを一気に流し込むと、身体中の細胞が生き返った。
とりあえず清潔な下着に換えて、のんびりとテレビを眺めていると、連続信金強殺事件の犯人逮捕のニュ-スがまた流れている。街灯の照明が照らす落葉樹と紅葉が錯綜る冬枯れ近い富士見公園の夜景、富士見交番のズ-ムアップ、知った顔の二人の警官が緊張した表情で立っていて、女性レポ-タ-が見たようなウソを言う。
「うっそうとした富士見公園の樹林の中で、あの凶悪な殺人者は、勇敢な二人の警察官によって激しい格闘の末に倒されて逮捕されました。この総監賞にも値する大金星を上げたのは、こちらの富士見町交番に勤務する、二人のお巡りさんです。こちらが若干二十歳の甲斐巡査、こちらが結婚ホヤホヤ二十七歳の樋口巡査部長です。お二人に、その時の緊迫した状況をお聞きします。はじめに、お二人が鴨井恭二と対峙したときの様子からお知らせください……」
舌打ちしてスイッチを切ったところに、フロントから電話が入った。受話器に向後清一の声が響いた。
「ホテル内のレストランで食事をしませんか?」
承諾してそのままラフな服装のまま達也が降りると、向後清一は八子ヶ峰で会ったときの端正で神経質な青年の印象通り、ズボンの折り目の通ったス-ツ姿のきちっとした身なりで現れた。
食事は簡単な特製幕の内というセット料理にして、酒のさかなに魚類、貝類、肉類、野菜類と万べんなく取り寄せて、お互いに手酌を楽しむことにした。年齢を聞くと、向後は達也より二歳若いだけだという、残念だが見た目には達也より五、六歳は若い。
「八子ヶ峰の前に、どこかで会ってたかね?」
「何年か前の東日本剣道選手権で、面を二本取られました」
「そうか……準々決勝でか? 一本、小手をやられたな」
「佐賀さんは決勝で福島県警の武藤という機動隊長に破れましたが、あの試合は紙一重の勝負でしたね?」
(オレの面と相手の抜き胴が同時に……)達也は首を振った。過ぎたことだ。
「武藤さんは日本選手権で勝ち抜いて日本一、カナダの世界選手権で優勝して世界一になって金メダルを胸に帰国し、総理から栄誉賞を頂いて名誉を飾った。あれで武藤さんは二階級特進だそうです」
「すばらしいことだな」
勝者が自分でもおかしくなかったのだ。敗北の辛さに浴びるほど酒を飲んだ夜がほろ苦く懐かしい。一階級特進で警部でも、今頃は警視庁で肩で風を切っている。
向後は、スポ-ツ、ギャンブルをイキイキと語り、肝心の誘拐事件など金で解決するつもりだからと気にもしていない。
「……私は地元の実家泊まりですが、明日の朝食はここでご一緒します。八時でどうですか? 九時に相手から電話が来ますが、作戦はそれから考えましょう」
ともあれ気楽に酒を楽しみ、その夜は久しぶりによく眠れた。
朝、革ジャンに警棒とナイフを収めて戦闘態勢を整えてから、早めにロビ-に降りてみると、すでに向後が来ていた。ラフなブルゾン姿で表情にも精悍さが出ている。
「今朝はジャ-ジを着たまま十キロほど走って汗を流し、実家で水シャワ-を浴びてきました。高原の朝は気持ちいいですよ」
向後は軽い足取りで先に食堂に向かった。
食事をしながら、ふと軽い口調で達也に質問を投げかける。
「渡した金を、その場で取り戻すのは大変ですかね?」
「運がよければ取り戻せるが、命の保証はないぞ。臼井は手ごわそうだからな」
「運に賭けます。じつは車に五億円積んであるんです」
「駐車場に? 積みっぱなしか?」
「金と交換で引き取った人質を佐賀さんが守ってください。私が金を取り戻します」
「武器は?」
向後がブルゾンの裏を見せた。縫い付けた網袋に手垢の染みた白鞘が見えた。これで打ち合わせが終わった。これでは作戦というほどのものでもない。
九時ジャスト、ホテルに入った電話を向後が短い会話で切り、達也に告げた。
「富士見公園に行きます。危険な目に合わせて済みません」
向後が達也の宿泊代を一泊だけで清算して、達也の車は駐車場に置いたまま、向後の乗って来たクラウンに向かう。向後はクラウンの後部トランクを開けて、達也に札束入りのリュックとボストンを確認させると、思い切りよく運転席に入ってエンジンをかけた。
朝の富士見公園には、ジョギングや散歩をしたり、軽い運動をしたりする人がいて、まばらながら、失業者の溜まり場のような雰囲気をかもし出している。
どこにでもいるホ-ムレスがここにもいて、リヤカ-に所帯道具を積んだ髭面の五十男がのんびりとタバコを吸っている。その周囲にも仲間が群れていた。
道路脇に車を停めて達也を先に降ろした向後が、また、ゆっくりと車を動かして曲がり角すれすれの位置に駐車した。これなら前をふさがれることはない。慣れたものだ。
「佐賀さんはボストンを一つ、お願いします」
向後はトランクを開けると、大型のリュックとボストンバッグを引き出して一度道脇においてからトランクの蓋を閉め、リュックを鉄柵に乗せてから中腰になって腕を入れ、ゆっくりと立ち上がった。達也も大型のボストンを左手に持った。合わせて五億円というとかなりの重さになる。
公園に入った向後は、石碑などを眺めながら、身代金の重みをはかるように一歩一歩と林との境界線に近づいて行く。
達也も周囲に気配りしながら五メ-トルほど後について歩いた。公園内に散っていた男たちが徐々に集まって来る。その数は約四十、その殆どがアジア系の外国人らしい。
様子をみるとゴルフクラブから野球のバット、包丁や鉄パイプなど、それぞれが武器を忍ばせている様子で、なかには拳銃がベルトから見え隠れしているのもいた。この四十対二の劣勢を向後はどう闘うつもりなのか?
久々に達也の心臓の鼓動が音を立てて騒いでいる。革ジャンのファスナ-を開き、内側に隠した鉄製警棒の握り部分のラバ-を少し引き上げて取り出しやすくした。たった二十五センチの三段式スチ-ル製特殊警棒が一振りすると六十五センチの長さに伸びて相手の骨をも打ち砕くのだ。ポケットには手慣れたスイス製のアルミノックス・ナイフも隠してある。これが何よりも心強い。
向後は、リヤカ-の横にいるボスと見た髭面の男の目の前にリュックを下ろした。達也も近づいて無言でボストンを置き、十メ-トルほど下がって周囲を睨んだ。
「向後だが、あんたが臼井さんかね? 約束の物だ」
髭面の男が無表情に手を振って指示し、周囲に集まった人だかりを遠ざけた。
「マズ、ソノ中ヲ見セナサイ」
向後が、口紐を大きく開き中を見せた。
「よく見ろ、リュックとバッグで五億円だ! 人質を先によこせ」
髭面の男が「フフッ」と笑って、周囲に聞こえないように声をひそめ、髭を少し剥がして向後に見せた。見ると顔に火傷の跡がある。
「向後君、しばらくだな……?」
向後が驚いて髭面の男を見た。遠巻きの連中にも達也にもその声は聞こえない。
「その声は……倉橋さんか? なぜ、ここに?」
「野辺山まで追跡されて追突されてな、崖から車ごと落とされたんだ。おかげで背中に大ヤケドさ。ともあれ瀕死の重傷で気絶していたところを、運よく崖上を通った人の車に発見され、運転手していた中国人の男がロ-プ伝いに降りて来て助けてくれたんだ。その直後に車は爆発して炎上した……」
「黒こげの死体が出たって聞きましたが?」
「都内で頼まれて逃亡中の密入国者を乗せてたんだ。ワシは病院で意識がない内に恩人の二人は姿を消していて、治療代も前払いで払ってくれたそうだ」
「狙われたのは、使い込みがバレたからですか?」
「ワシも島岡もビタ一文、私ごとに使っておらんぞ」
「じゃ、なんで、それを主張しなかったんです?」
「上は全部グルだった。この五億円ははな、世直し大事業の軍資金に使う。さ、これで内緒話は終わりだ。ここからのオレは臼井だぞ」
「いいでしょう臼井さん。今からは敵味方、場合によっては命を頂きます」
「結構、どうせ一度は死んだ身だ……」
「ともかく、金は渡した。久美子夫人は返してくれ」
髭面の臼井こと元公安刑事、元建設省事務次官の倉橋が手を振ると、遠巻きにしていた男たちが素早く集まってリュックとバッグを開き、紙幣の真贋を確かめ札束の数を数えてベンチに積み上げた。五億円の札束を数え終わった男たちを見て臼井が頷くと、再びリュックとバッグに五億円が戻った。
「女ヲ出シナサイ」
男たちがリヤカ-の青いビニ-ルを剥がすと、毛布の上に縛られて口にタオルを巻かれて横たえられている女性が現れた。それが笹木久美子だった。
男たちがロ-プをほどき、臼井が腰を落としてロ-ヒ-ルの靴を揃えると、両側から手を添えられて立ち上がった久美子がうつむいて靴の中にかたちのいい足を入れた。眩しいほどの艶麗さが、周囲のうす汚れた雰囲気を圧倒して輝いている。向後が涙ぐんで久美子の手を握った。
三十三 臼井と向後
「もう大丈夫です。こちらはボディガ-ドの佐賀さんです」
臼井が驚いた表情で達也を見た。
達也が倉橋とは知らずに話しかける。
「あんたが臼井か? 富士見で戸田友美と呉を合わせたとき、ベンツで鴨井と加山が見張りに来てたな?」
「鴨井? 知ランナ。呉ハ一人デ喫茶店ニ行ッタハズダ。結局、殺サレタガネ」
「あんたも一連の事件に関係してるのかね?」
「佐賀サントハ争イタクナイ。人質ハ返シタ。コレデ取引キ成立ネ……」
達也は、向後から任された久美子の肩を左手で引き寄せた。しっとりとした熟女の感触と香りが快い。ただ、そんなことを楽しんでる状況でもない。向後は五億円を取り戻すという。ここからが正念場だ。しかし、この女に気配りする周囲の空気が気になる。
臼井が立ち上がった。その瞬間を待っていたように、向後がブルゾンの内側から抜いた短刀を右手に、臼井の首に左手をまわそうとした。臼井は軽く身をひねって逃れ、向後の顔面に鋭い風音を切って足を飛ばす。向後は身体を沈めてそれを避け、背後から中国人が振り下ろしたゴルフクラブを横にかがんで避けながら左手で握って奪い、思いっきりそれを振るう。顔面を割られた男の絶叫が響き、さらに肩を押さえた若い男が倒れ、三人目の男が頭を叩かれて血を吐いて倒れた。向後は、そのままゴルフクラブを投げ捨てると臼井に組み付き、今度はしっかりと首に手を巻き喉元に刃先を当てて周囲を睨んだ。
「こいつを助けたければ金をここに持って来い。すぐに立ち去れ、すぐにだ!」
全員が一瞬、たじろいだ。臼井が広東語でか、激しい口調で周囲の男たちを叱咤した。
雰囲気から察すると自分を殺してでも、この男を殺せと言っているのでもあろうか。あるいは、男たちが臼井を見捨てたのか。もはや誰もたじろがない。
全員がそれぞれの武器を構えて向後に迫って来る。臼井が、背後から羽交い締めにされ首に刃物を突きつけられた状態で叫んだ。
「コイツヲオレト一緒ニ殺せ! 奪ッタ金ヲ守ルンダ。コレデ革命ガデキル」
二人を囲む輪の殺気が徐々に高まってゆく。数人の男が拳銃の引き金に手をかけた。このままだと向後と臼井は蜂の巣状に撃ち抜かれ、達也もなぶり殺しにされるだろう。達也が怒鳴った。
「おい! こっちを見ろ!」
全員が達也を見た。達也の左手は笹木久美子の肩を抱き、右手に持ったナイフの切っ先を白い喉に突きつけている。本気なのは喉に血が滲んでいるので分かる。このままでは二人はなぶり殺しにされてあの世行きだ、多少の荒技はやむを得ない。達也はこの女をとりまく空気から、笹木久美子がこの連中の黒幕と見たのだ。
「武器を捨てろ! 捨てないと本気で殺すぞ!」
女が動くと喉からまた血が流れた。この達也の非情な行為と恫喝が効いたのか集団の殺気が一気に萎え、全員から闘う気が薄れて行く。向後の手を振り切った臼井が土に頭をすりつけて土下座し、日本人に戻って哀願した。
「その人は命の恩人だ。私ら全員の恩人なんだ、殺すなら私からにしてくれ」
「どういうことだ?」
「その人は倉橋さんです」
と、夫人が達也の耳元で囁く。
達也は、すぐには飲み込めなかった。
「お前達に日本を乗っ取る力なんかないんだ。さっさと国ヘ帰れ!」
達也が夫人にナイフを突きつけたまま周囲を見回して叫ぶ。
向後が驚いて達也を見た。達也は口から出任せで反応を見たのだ。
「乗っ取るって?」
「どこの馬の骨か知らんが、この臼井ってヤツがニセ外人に化けて、密入国者や不法在留外人を煽って国家転覆を図る振りをして、悪事を重ねてるんだ。この女を利用してな」
「どんな悪事を?」
「多分、窃盗団や強盗団を組織してるんだ」
「まさか、倉橋さんが?」
「おい、倉橋って、公金横領の倉橋か?」
「ワシも島岡も横領なんかしとらんぞ」
「じゃあ、教えてくれ。島岡美穂さんはどこにいる。連絡はとれてるんだろ?」
「いま、島岡美穂さんは実家のあった小野田市に戻って、下関の料亭で働き、狭山三枝子の父親も徳山の港湾で働いて、真実を暴くつもりらしい」
「下関と徳山にか? なにを探索してるんだ?」
「美穂さんの父の座間武吉さんは、山口の県会議員で私欲のない立派な方だったが、四国や九州への連絡橋や中国道などの公共投資に対して県の経済を圧迫するとする公共投資慎重派のリ-ダ-で、土建族からは目の仇にされていた。そして、ある夜、宴会後の酔った身体を車で運ばれ、数名の男に抱えあげられて関門海峡に投げ込まれて溺死した。目撃者はいたが暗い雨の夜のことで車の色さえ識別されていない。事件は迷宮入りだった」
「土建族の親玉は誰だね?」
「川村土建の川村健吉以外には考えられないが、確証は何もない」
まだ油断しない達也に、ナイフを突きつけられたままの姿勢で久美子が言った。
「証拠がないのに人を悪く言うのは止めなさい。笹木と川村は、三十年来の親友だったのに働き過ぎて稼ぎが目立ったから歴代の総理などの金づるに利用されて……島岡君と三枝子さんはその犠牲にされたんです」
達也が向後に告げる。
「こいつらを信用するな。金を何とかしろ! 早くここを出るんだ」
向後が久美子を見た。
「どうせ、奥さんと引き換えにする金です。どうしますか?」
達也には向後の言葉が理解できない。久美子が即答した。
「まず三千万は逃亡生活を強いられた倉橋さんに。一千万づつを、呉さんの実家へ、島岡さん、狭山さん、警備員の大岩さん……それぞれのご遺族に香典料の追加に。それと、今日ここに集まってくれた黒世会の人達の解散後の厚生資金に五千万……今日の日当は別に臼井さんから出ます。さらに、今後の入国者や留学生、蛇頭から逃げて来る人たちの救済資金に五千万、これを事務局長の臼井さん預けます。このバッグの二億円は向後さんが持ち帰って事務所に返してください。残りはわたしの教室で活用します。これで、わたくしの誘拐拉致問題は解決しました」
向後と臼井が納得してこの茶番劇は終わり、達也はナイフを収めて久美子を放した。
「喉の傷は三日で消える。仕方なかったが悪かった」
無言の久美子が達也を睨んだが、恐ろしい目ではなかった。
「倉橋さんも、これでどう? 革命なんて所詮は無理なんです」
「残念ですが、奥様さえ、それでよろしければ……」
達也は、臼井こと倉橋に対する敵意が消えたのを感じた。
「臼井さん、李に合わせてくれんかね?」
臼井の横にいた皮コ-トの男が達也を見て笑顔で応じた。
「李または安藤、本名は斉藤ですが、もうここにはいません。北朝鮮工作員の中に潜り込みました、と、多田さんに伝えてください。せっかく置き土産をしたのに、同業者を見破れないなんて元刑事が泣きますって……」
「そうか、あんたは現役の公安だっったのか? 斉藤も偽名だな?」
「ここからは言えません。今度は命がけになります」
「あの機械は、ここにもあるのか?」
「あります。鮫井代議士の事務所にも一台あります」
「役立ってるのかね?」
「鮫井事務所に、中国の蛇頭経由の北朝鮮工作員が五人引っ掛かかりました」
「警察庁に渡さないのか?」
「外務省対策に、責め上げて向こうの秘密を握ってから警視庁に引き渡すそうです」
斉藤が財布から十五枚の一万円札を出して、達也に手渡した。
「これ多田さんにお願いします。半分は、あの高価な機械でチャラにしてください。それと黒世会は解散させますが、後は知りませんよ」
臼井と久美子の軽い会釈を背に、達也は公園の外に向かった。
後に残ってバッグを持った向後の耳元に、周囲に聞こえない小さい声で久美子の魅惑的な温かく甘い息が囁く。
「あなたは、今度の笹木の選挙地入りの日にもう一仕事、これで完璧よ。この二億円は明日、あなたが持って帰って貯金しなさい。どうせ笹木が穴埋めするお金ですから。でも、今夜はわたしの部屋に泊まるのよ……いいわね」
頷いた向後がバッグを抱えて、先に公園を出た達也を追った。
ホテルの駐車場に向かいながら向後が達也に言った。
「佐賀さん。会社に内緒で謝礼を一千万、受けとって頂けますか?」
達也が哀れみの目で見た。
「あんたも腐った卵だったな。二億円はバッグに入ったままだから、こいつは計画通りなんだろ? メガロガには規定どおりに振り込んどいてくれ」
向後とは駐車場で別れた。達也は、帰ったら友美を呼び出して馴染みのラ-メン屋に行き、発泡酒で酔おうと思った。それで過ごせる自分に充分満足している。だが、この一千万の話は友美には絶対に聞かせられない。女の欲が怖いからだ。