二十三 聞き込み
晩秋のある寒い夜、赤城から「新しい情報があるから……」と招集がかかって、達也と友美に多田も加わって築地の寿司店「越後や」の小座敷に集まった。新鮮な魚介類のネタとビ-ルと酒を前に情報交換がはじまった。会計は調査費としてメガロガに後請求で回すことに了解がついているから遠慮する者もいない。
「白鶴を一升、熱燗で半分、半分は冷やで頼むよ!」
焼酎の角瓶にボトル・ウイスキ-も取り寄せて、ビ-ルで乾杯し、さっそく並べられた料理に箸をつける。空腹だった友美もウイスキ-のお湯割りを一息に空け、ハマチとホタテにマグロの刺し身とエビの天麩羅を口にすると、身体も温まった。
冷や酒の入ったコップをテ-ブルに置いて、赤城が口火を切る。
「八子ヶ峰と信金強殺事犯は、笹木という共通のキ-ワ-ドがあるので、捜査内容がクロスします。酔っぱらう前に頭の中を整理して聞いてください。まずDNA鑑定ですが……
白樺湖畔の客のタバコに付着した唾液と、八子ヶ峰で死んだ島岡・狭山とは合致しませんので当然ながら、これは別人です。それと、荒川土手の盗難車から出た強盗殺人犯のものとみなされるタバコも、残念ながら佐賀先輩の見込み違いで、合致しませんでした」
「それで、白樺湖と信金強盗とは別人なのは分かった。そうすると、似たような洋服まで用意して偽装してコ-ヒ-を飲んだのは誰なんだ?」
「まだそこまでは特定できません。しかし、死体が解剖で調べられた場合を考えて、空腹なのにコ-ヒ-だけにして、わざわざ目立つように立ち寄り、被害者の車を使って偽装してるんですから、この二人が島岡・狭山殺人の重要な脇役であることは明らかです」
「この二人がが死体を運ぶということはないかしら? コ-ヒ-タイムを終えた二人が、指紋を付けないように手袋をして、島岡さんの車で八子ヶ峰に登って、トランクから死体を出してあの位置に置き、車も放置して歩いて帰った……なんて」
「それはありません。車に死体を運んだとしても、山から徒歩で帰るのは無理です。死体を先に運んで倉庫に寝かせた犯人グル-プ数人が、ニセ者の二人を乗せて一緒に山を降りたんです。それと報告が遅れましたが、先輩が気づいた二人の靴底の土から、長野県警の協力で犯行場所が割れました。科捜研の分析と長野県警の地質調査の結果、細かい淡水産貝の殻入りの湖岸土砂で、犯人グル-プは、九人以上と判明しています」
「どこだ?」
「高島城下諏訪湖東岸の埋め立て地で、人目につきにくい場所の土でした。その場所の足跡から男八名、女一名の足跡が出ましたが、男女各一名は島岡・狭山両名のものですので、殺人現場の犯人は、男七名ということになります。足跡や抵抗した土砂の崩れから同時に拉致された二人は、そこで殺されて八子ヶ峰に運ばれたものと推察されます。現場から髪の毛、タバコの吸殻など採取してあります」
「犯人は九人以上って言わなかったか?」
「現場の犯人は七人ですが、あとの二人は、衣類を汚さないために、島岡の車で待機したものと思われます。それがコ-ヒ-を飲んだニセ者です」
「石を抱かせて湖に沈めるか、山に埋めればバレないのにな」
「二人を心中死体にして、横領事件を押しつけたかったんでしょう?」
「と、いうことは黒幕は、やはり建設族議員かその上の連中だな?」
「怪しいのは笹木ですが……その前に、友美さんが撮った写真について報告します。あの時、友美さんが近くまで行ったが、彼らは会話をしなかった……国籍不明で中国人じゃないかと推察しましたね? でも、あの三人は日本人観光客でした」
「身元が分かったのか?」
「まず、友美さんから借りたネガで延ばして、あちこち流しましたが、本庁と関東近県の警察や公安にはいません。地元の長野は進藤さんから該当者なしの返事が来ました。暴力団関係は私の仕事ですから、一目でこの三人が違うのが分かります。政治屋絡みも、衆参両議員の秘書グル-プを調べましたがダメでした。ひょとしたらと思って笹木議員事務所にもまわしましたが、向後秘書は見たことのない顔だと言います。それで、友美さんにお願いして、月刊エル誌だと遅いので週刊誌を頼み、写真を掲載してもらった結果、あの三人の身元が分かりました」
「長い前置きだな。早く結論を言え」
「情報の宛て先は私個人にしました。三人の身元と近況を携帯電話に……薄謝進呈としました。すると、すぐ反響がありまして十五件の情報が集まりました。うち数件はガセネタでしたが、七件がそれぞれ彼らの勤務先に関する情報で、二件が住まいや家族のこと、一件が梅田の麻雀屋、一件が事件の当日に三人が泊まった諏訪の旅館からです。名前も判明し本人達からも苦情の電話が来ました。生意気に肖像権の侵害だとか言うから警察に訴えろ、オレが受け付けるぞ、と言ったら誰も文句を言わなくなりました。彼らは、大阪市内の関西電設会社十人の社員旅行で、一台の大型ワゴン車で諏訪に来ていて、朝山、木津、工藤という三人が、蓼科にドライブして事件に遭遇したと言います。すぐ、諏訪署の堀井刑事に旅館をお願いしたら、部下をとばしてウラをとってくれて、たしかに関西電設の男十人が上諏訪湖畔旅館に二日宿泊で来ていて、そのうちの三人が乗って来たワゴンで夕飯前の観光に出ているのが確認できました。宿帳のコピ-も取ってあるそうです。
その情報が分かった朝十一時にすぐ関西電設に電話したら、営業社員は外出中で全員は揃わないと言うので、新幹線で夕方六時に梅田駅から三分ほどの、景気の悪い組事務所みたいにガランとしたマンションの一室の事務所に行って来ました。宿帳に載っていた十人全員がいて、写真に写っていた朝山ら三人も免許証などで確認しましたので間違いありません。指紋も採取しました」
「時間的なアリバイはどうなる?」
「チェックインが四時頃で、夕食宴会が五時から六時三十分まで……そこから麻雀をしたり、外出したりと自由行動ですが、従業員の証言だと、島岡ら二人が殺害された午後十一時前後に廊下を通ると、部屋から賑やかに大勢の手拍子で歌ってる声や、麻雀のパイの音が聞こえていたそうで、ほかのお客さんに迷惑だから注意しようと思ったそうです」
「島岡との接点は?」
「関西電設は配線工事の会社で、橋梁も笹木とも接点がありません」
「女はいなかったのか? コ-ヒ-を飲んだあの女だ」
「別行動の男女も、諏訪に泊まっています」
「なんだ、いたなら先に言え」
「順番に説明してるんです……堀井刑事の部下が、あの周辺の宿を当たったところ、それらしい男女の足取りが掴めたそうです。もっとも、諏訪署ではあくまでも心中として裏付けを追っていましたから我々と見方は違います。それによると、あの二人が泊まった上諏訪景勝ホテルのフロントでも、フリ-で来た紺ス-ツの男と赤いハ-フコ-トの女がマスクをしていたので、風邪ひきの客と記憶していただけで顔は覚えていません。記帳には品川区戸越の柴岡正彦と妻となっていて、女の髪は少し茶系だったと言います。駐車場には島岡の白いクラウンもあったそうです。ホテルのチェックアウトは朝十時ですが、その二人は、翌日の午後五時に超過料金を払って外に出るまでの間、一歩も部屋を出ていませ ん。
ホテルの防音設備は基準通りだそうですが、仲睦まじいのか部屋から洩れる声で顔が赤らむほどだったらしく、従業員が交代で聞きに行ったとか……」
「とんでもないホテルだな。従業員教育はどうなってるんだ?」
「それが、朝、客からチェックアウト延長の電話があった時に、朝食の案内をしたそうですが、朝も昼も抜きですから、体力を心配して様子を伺いに行ったらしいです」
「結局、そいつらが心中したことになるのか? 死体には情交の後がなかったぞ」
「そんなの、使うものを使えば……」
「バカ! 明日死ぬヤツが受胎の心配をするか? しかし、その時点までは島岡と狭山はそこにいたってことだな?」
「諏訪に頼んでもムダなので部下を連れて日帰りで行って来ました。ホテルも暇で、係の従業員と掃除係以外は、まだその部屋には誰も入っていません。ゴミは始末して有りませんでしたが、二人が触れそうな物や場所はすべてニンヒドリン検査やらテ-プ、ヨ-ドガス、何でも使って探しました。その結果、数少ない指紋や体液の痕跡をDNA検査で照合したところ、島岡と狭山ではなく、白樺湖畔に寄ったあの二人と判明しました」
「で、その二人の身元は割れたんだな。関西電設の社員か?」
「関西電設には女性従業員がいません。二人の身元は不明です」
「なんだ偉そうに……まだ分からないんじゃないか」
友美が疑念を挟んだ。平家物語をテ-プで流した事件を思い出したのだ。
「その関西電設の団体旅行ではテ-プが流れていて、部屋は空っぽってことは?」
「なるほど、あり得ますね。そうなると関西電設も……明日、部下を不意に朝一で関西電設を襲わせます。多分、電話は転送だったような気がします。私が行くまでにヤツらは何処からか現れたのかも知れません。だとすると、事務所は空っぽのはずです。電話局も調べさせ、情報にあった数人の住居も調べます」
「なるほど、インチキ会社のよくやる手だな。あとの情報はどんなのがあった?」
「考えたら本人達の都合のいい内容ばかりでしたが、ガセネタだと思った一件が気になります。それは、あの三人が川村土建の社員じゃないか? という電話です。それも確かめてみます。つぎに、捜査は足、靴底を減らすのが名刑事だと言いますが……」
「あら赤城さん、そんなに歩いてるんですか?」
「私じゃないですよ。向島署の刑事が毎日歩き回って重要な手掛かりを聞き込んで来ました。今回の墨田の現金輸送車強奪の犯行に使われた車は、犯行時刻の三時間前の午後二時ごろ、江東区錦糸町駅前の有料駐車場から合鍵を使って盗まれています。この車は、荒川区町屋のガ-ド下に乗り捨てられてありました。犯人は、この車から別の車に大金を積み替えて逃げたものと思われます。その付近の聞き込みで、犯人のらしい不審な古いグレ-のベンツが近くの葬儀会館の駐車場に長時間、無断駐車されていたことが分かりました。
葬儀屋の警備員がナンバ-を控えていたので、荒川署の刑事が調べたところ、偽造ナンバ-でした。いま警視庁では、ベンツの所有者全員を調べまくっていますが、中古で色を塗り替えた上に偽造のナンバ-プレ-トとなると、雲をつかむような状態で、まだまだ時間はかかりそうです。前に、佐賀先輩が富士見で見たグレ-のベンツも偽造ナンバ-でしたから、間違いなく、その時の二人連れが信金を襲ったヤツらで、先輩は本ボシを見逃したことになります。しかも、その一人は銃刀法違反ですよ……」
全員の非難の視線に達也がたじろぎ、あわてて言い訳をする。
「仕方ないだろ。ハジキなんか見慣れてるから、気にもしなかったんだ」
「信金事件の現金輸送は東関東特殊警備会社で、時間までを正確に知っていたのは、担当役員の石浜さんと、重傷を負った矢野と死んだ大岩しかいません。
この二人がSAに立ち寄った時も一緒に行動していて、携帯を使って誰かに連絡した形跡もないし、一度も離れていないという証言を信じれば、まず、石浜さんが疑えます」
「一課出身の石浜先輩には、オレも多田も剣道で散々しごかれたが、麻布署でのあだ名は石頭金吉、あの人だけは百パ-セント信用できるぞ」
「そうなると、犯人が『用済みだからな』と、言われて殺された大岩だけになりますが、死人に口なしで、内通者の割り出しはこれでジ・エンドです」
「大岩の素行調査はやったのか?」
「大岩の場合は、元小岩署交通課の巡査長で、交通違反見逃しの収賄がバレて懲戒免職になり、石浜先輩に拾われて警備会社に入っています。その上、ギャンブルと浮気問題で夫婦仲がこじれて別居、家裁に離婚係争をもち込み慰謝料と養育費でもめたそうです」
「大岩はどこに住んでた?」
「別居してからの大岩は、江東区東砂のアパ-トで一人暮らしでした。奥さんと男の子一人は、葛飾区四つ木の西渋江小学校裏のアパ-トに住んでます。保険も事件絡みということでストップしていて、大岩から送られる小四の男の子の養育費もなくなりましたから、生活は大変らしく、家で玩具組み立ての内職をして、夕方から立石駅前のスナックに出勤して、深夜帰宅のようです。名前はたしか……大岩由里だったと思います」
「貧しい生活は辛いぞ。明日はわが身だからな……」
達也がしみじみと呟いた。
二十四 ご霊前
木枯らしの吹く寒い日だった。夕刻、ラフな服装の上にコ-トを着た達也が菓子折りを片手に、葛飾区四つ木の路地裏を歩いていた。破れたトタン塀で囲まれた工場の敷地の間の入り組んだドブ板を踏んで奥に進むと、電信柱に目指す番地があり、表札がわりに「四つ木有楽荘」と、板看板のある木造アパ-トがあった。
達也は、二階への階段を上がって行き、渡り廊下風の軒下を通って「大岩由里」と、手書きの表札がある部屋の前で立ち止まった。水商売なら、まだ家にいる時間のはずだ。
すると、ランドセルを背負った男の子が勢いよく階段を駆け上がって来て、ドアの前の達也に声をかけた。
「うち大岩だけど、オジちゃん刑事さんだろ? 父ちゃんも警官だったんだ」
「お母さんいるかな?」
戸を開けて、家に入って大声で叫ぶ。
「母ちゃん、お客さんだよ。腹へった、なんかない?」
ランドセルを放り出し、菓子パンを口にして外へ走り出す。
「遊んでくるよ。このオジちゃんだと一時間だね!」
出勤姿の大岩由里が、電話での約束通りに待っていてくれた。進められて部屋に入り、挨拶をして仏壇に向かう。菓子折りと気持ちばかりのご仏前を上げ、線香に火を点けて成仏を祈る。由里が首うなだれて涙を拭いた。
改めてお悔やみを述べると、由里の口から愚痴が出る。
「別居しなければ、殺されることもなかったのに」
「別居の原因はなんです?」
「女性関係です。優しい人でしたから、すぐ惚れられて……」
「親しかった女性はいたんですか?」
「いつも誰かと関係してたようです」
「大岩さんの交遊関係を、知ってる範囲で教えてください」
「転職後はよく知りません。あの人が共犯なんでしょうか?」
由里が悲しそうに目を伏せる。
「心当たりがあるんですね?」
「転職後ですが、サトミという人とのデ-ト時間や場所を書いたメモを度々見ました。問い詰めたら、何でもないって言い張るんです」
「水商売か、同じ会社の女性を調べてみましたか?」
「それも考えて、出入りする飲み屋にも聞きましたし、会社の人にも聞きましたがサトミという女性はいませんでした」
「ご主人に来た年賀ハガキを見せてくれますか?」
「別居する前の分ですが……」
年賀ハガキを見ていて、ふと目が止まった。年賀状の差出人の石浜孝吉と並んで、後妻の名が里美とある。だが、達也は首を振った。
「残念ですが、カン違いでした」
さり気なくそれを返した達也は、気を落とさないように、と言って部屋を出た。
階段を降りると、少年がポツンと寂しそうに立っている。
「もういいの?」
「ありがとう。もう用が済んだよ」
「オジちゃん、終わるの早いんだね……母ちゃんも喜んだ?」
達也はその意味を計りかねたが、ポケットにあった五百円玉一個を手渡す。
「喜んでくれたよ。大きくなったら、坊やも警官になりな」
「うれしいけど、シュウワイザイになるんだって……」
硬貨を達也に戻すと、嬉しそうに階段を駆け登り、上から手を振って叫んだ。
「オジちゃん、悪いことしちゃだめだよ!」
達也も大きく手を振って歩き出し公衆電話を探した。
そして夜七時、築地で石浜に会って軽く寿司をつまみ、銀座に流れた。
銀座五丁目三原橋近いビル四階のクラブ「千絵」は、カウンタ-とイス席で定員二十人ほどの店に、十人ほどの客がいて賑わっていた。友美がよく仕事にも使うので、達也もなんとなく馴染みになっている。千絵の家が、友美と同じマンションにあって、退屈すると行き来をしてバカ話を交わす仲らしい。
奥のイス席では、食事を終えて立ち寄った達也と東関東特殊警備会社役員の石浜孝吉が水割りのグラス片手に、この場に相応しくない内容を小声で話し合っている。
「石浜先輩は、手引きをした大岩が、犯人に証拠隠滅のために殺されたという向島署の調査結果を信じますか?」
「信じるはずないじゃないか。ワシの部下だぞ」
「しかし、大岩は横から不意に撃たれてる。これは全く用心してなかったからです。しかも、犯人は、不要になった、という意味の言葉を残したそうですね? 大岩が、犯人に輸送時間だけを知らせた可能性はありませんか?」
「独自に内部調査を進めてるが、大岩は金額も知らないから。通常の現金輸送としか思っていなかったはずだ。矢野の証言だと一度も大岩と別行動をしていない。明らかに、大金の動くのを知らせたヤツは別にいるぞ」
「ひょっとして、ご家庭で仕事の話をすることは?」
「人の家庭にまで踏み込むのか? うちの女房なんかな、ワシよりコチコチだぞ」
「そうなると、リ-クしたのは警備会社側ではないと断言できますか?」
「決まってるじゃないか。それが仕事だ」
達也は、サトミ違いだったことを確信して安堵した。
「今回の件は、簡単そうで解けないんですよ」
「直接の内通者じゃなく、その先の交際や男女関係を調べるんだな」
「男女関係ですか?」
それからピッチを上げ、客が混んで来て二人は腰を上げた。
「割り勘にしよう」
達也が支払いを済ませて固辞するのに、石浜は几帳面な性格そのままに、きちんと小銭まで計算して手渡す。ドア-まで見送ったママが、心配気に達也に伝える。
「友美さんが明日の朝、また取材で事件のあった富士見に行くそうです」
「あいつは、いつも無鉄砲で困るんだ……」
歩道に出て、晴海通りを右と左に別れる。
「先輩、奥さんにもよろしくお伝えください」
「友美さんにもな」
石浜の家は墨田区亀沢にあり、土地は狭いが一応は二階建ての一軒家である。
石浜が自宅に着いて上着を脱いで妻の里美に手渡し、上機嫌に話しかけた。
「今日は剣道場の後輩だった佐賀と会ってな。気持ちよく飲めたよ」
上着をハンガ-に掛けながら妻が微笑んだ。
「よかったですね。お風呂沸いてますわよ」
「佐賀は、今度の事件の解明にかなり力を入れてたよ」
「あら、あの人も警察を辞めたのになぜですの?」
「警視庁出身で固めた佐賀の勤務先が、警視庁の上層部から委託を受けて、今回の事件の解明に乗り出したんだ。あそこはプロの集団だからな。とくに、内通者の割り出しに苦労してるそうだ。状況を考えても大金の移動を犯人に知らせた者が、間違いなく別にいるはずなんだ……」
「でも、あなたは関係ないんですから……」
「佐賀の彼女の戸田さんが何かつかんだらしく、明日の朝、前に事件のあった富士見に行くそうだ。彼女は凄腕の事件記者だからな」
「どうしてなの?」
石浜夫人が不安そうに眉をひそめた。
「お前にも、よろしくって佐賀が言ってたよ」
お茶を飲んだ石浜が風呂に入った。長湯の夫が下手な演歌などを歌いだすのを確かめた夫人が、二階に上がり声をひそめて電話をする。少し待たせてから相手が出た。
「あなたが信金を襲って大岩さんを殺したんでしょ? わたしが夫に聞いたことを、なに気なく口走ったのを利用して……お願いだから、もうこれ以上は事件を起こさないで。
それから、雑誌記者の戸田という娘さんが、なにかに気づいたらしく、明日の朝、富士見に行くそうです……あら、いま富士見? もしかしたら、先日の富士見の事件も、あなただったのね? 夫にあなたとの仲を知られたら離婚だけでは済まないのよ……」
涙声で哀願するのに冷たくあしらわれたのか、夫人の表情が急に険しくなる。
「あなた、遊びだったのね……だったら警察に訴えますよ」
電話を切った石浜夫人が泣き伏した。
二十五 それぞれの夜
「その一」
街路樹の落葉も、各地の雪便りが例年より早く、冬は急ぎ足で忍び寄っていた。
地下鉄銀座線の表参道駅から五分ほど東に歩いたところに木造アパ-トがあり、達也の住む部屋は階段から遠い二階の端にある。暖冷房の備えはないが別に困るわけでもない。
石浜と別れて部屋に戻った達也はジャケット、ズボン、靴下と順不同で万年床のままの折り畳みのベッドの上に投げ捨て、下着姿のだらしない恰好で冷蔵庫から発泡酒の缶を出して蓋を開け、吹き出る泡ごと旨そうに喉を鳴らして一気に飲みフ-ッと息を吐いた。これで一日の疲れが吹っ飛ぶ。じつに安上がりな身体だ。あとは焼酎のお湯割りで充分に身体は温まる。
軽く引き受けた心中事件の真相を解明できない間に、信金事件にも巻き込まれている。
収賄と贈賄、横領と脱税、強盗殺人、密入国と不法滞在、下手するとク-デタ-をも引き起こしかねない状況に国家の大事を感じるから中途半端にはできない。
達也は時計を見て、まだ午後十時前なのを確認して電話をかけると相手がすぐ出た。
「友美、また富士見に行くそうだな? 信金内部への手がかりがあって、調べる? 富士
見行きは危険だぞ!」
「でも、ダンス教室が気になるのよ」
「いいな、とにかく行くな、絶対に行くなよ!」
電話を切って発泡酒をあおり、一人ごと。
「やっかいなヤツだ。行くしかないか……」
「その二」
友美は不機嫌だった。
無料のボディガ-ドを引き受けて一緒に付いて行く、というならまだしも、ただ取材に行くな、と言うだけでは単なる営業妨害でしかない。もう我慢ができない。いまは夜の町へ繰り出してヤケ酒をあおるしか方法はない。この際、いい相手でも探して……。
見まわすと、ギラギラとタバコ臭いむさぐるしいモテない男ばかりが動き回っていて、気分よく飲めそうな相手はいない。手帳を眺めていると笹木洋子の携帯電話の番号が目に入った。以前から取材で会っているし、いまはバンク-バ-の合宿から帰って来ていて、最近でも折りにふれて相談に乗ったりしている。午後十時前なら宵のうちだ。電話番号をプッシュすると、すぐ出た。
「洋子さん? 戸田友美です。まだ時間があったら飲みません?」
「その三」
富士見駅の北側、この地には珍しい収容人員二五〇人の本格的な富士見ニュ-ホテルの一室、鴨井はこのホテルを定宿にして女を抱く。鴨井は、全裸の腰にタオルを巻き電話の声をひそめた。
「加山か? オレは富士見だが、急用があるんだ。いま、東京の女の一人から電話があってな、戸田とかいう女記者が何を嗅ぎつけたのか、明日の朝こっちへ来るそうだ。
明日はダンス教室はないがヤボ用で来ていたんで、始末するにはちょうどいい。あの女の訪問コ-スは分かってるし、久保、赤石、笹木、このどこに現れても携帯に連絡が入るようにして、始末しておく」
「ところで、急用って何だ?」
「そっちにも仕事ができた。石浜里美という墨田の現金輸送情報を流してくれたオレの女で人妻だが、こいつが警察にタレ込むって喚いてるんだ。その女は荒川土手でお前が殺った大岩って警備員ともデキててな、生かしておくと我々がヤバい。オレは殺生は嫌いだが今日から宗旨替えだ。もう用のない女だから命取りになる前に消すんだ。住所を言うから控えてくれ……墨田区亀沢三の五のXだ。頼んだぞ」
「分かった。明日の午前中には始末しとく」
「これで安全圏に入るな。仕事に使ったのは盗難車だし、オレ達の車は使わずに靖子のベンツを使った。偽造ナンバ-はその都度換えてるし、手袋使用で指紋も出ない」
「ところで、鴨井が富士見で殴りかけた佐賀とかいう女記者のヒモは?」
「あいつは、黒世会をけしかけて殺らせる手だな」
「それなら完璧だ。また、いい仕事を見つけてくれ」
「もう卒業だ。帰ったらオレの分も貸すから、ケリをつけろ」
「それは有り難い。これですぐ入籍できる」
「明日、夕方六時に事務所へ来い。借金が消え、籍を入れてからが大仕事だぞ」
電話を切った鴨井はドア-を少し開けて寝室の様子をうかがってから、また携帯を短縮でプッシュする。舌打ちして三度ほどトライすると相手が出た。
「なんですぐ出なかった? いま誰もいないな? 大事な話だからよく聞け。加山が明日の夕方六時ごろ、オレに借金するために事務所に来る。だが、それまでの時間は、自分の部屋に待機するように言ってある。だからな、昼間電話して、ヤツのマンションに行って来い。そこで、いざとなったら、鴨井を殺せ、とか言って加山がおまえに預けた例の、 口紅ケ-スに入った毒カプセルを使って加山を消すんだ。もう、あちこちからボロが出て、必ずサツの手がまわる。もう猶予はならん。ヤツが生きてると道連れにされるぞ。それにしても、自分の毒カプセルで自分が死ぬなんて気の毒だがな」
返事はないが、相手が頷いた様子が感じられる。
「ワインにでも溶かせて飲ませちゃえば、イチコロだ。味が変だなどとぬかしたら精力剤だって言ってやれ。いいか、おまえが一緒にいた痕跡は一切残すなよ。カプセルの厚みが推定では二十分溶解になってたから、すぐ知り合いの喫茶店にでも行けばアリバイは完璧だ。オレもすぐ帰るからな。その後は二人で事務所にいたことにする。事務所の電気は点けたままで、有線のジャズでも流しておけ。いいな……」
携帯を切ると、ドア-越しの洋間のベッドから、恍惚状態の女の甘い声が呼ぶ。
「あなた……」
舌打ちした鴨井だが、スポンサ-のご機嫌を損ねないように元気よくベッドに飛び込むと、髪は乱れ化粧も化けの皮も剥いだ笹木夫人が喚き、日頃のおしとやかさはどこへやら淡いピンクの照明の中で欲望の化身となって抱きつく。ふたたび、ダンスで息の合ったステップを踏むかのようにリズミカルに激しく律動し汗まみれで絡み合う。絶頂に達した夫人の絶叫が廊下にまで響き、富士見の夜は淫らに更けてゆく。
「その四」
しゃれた洋館風の乃木坂マンション七〇八号室、三LDKのベッドル-ム。きめの細かいうるおいのある肌に、だらしなくガウンを羽織ったあでやかな靖子が、スイッチをオフにした携帯電話をベッドの頭部側の台に置いてある角形のトレ-に投げ入れた。
「聞こえてたぞ。カプセルのことまで喋ってたのか?」
加山が、タバコの煙と一緒に不快感を吐き出すと、靖子が楽しそうに笑った。
「いいじゃない、冗談で教えちゃったんだから。それにしても、絶倫のあなたに精力剤と偽って例のカプセルを飲ませろってさ。減欲剤があればいいなと思ってるのにね。
あんたが、事業に失敗しても、マスコミから袋叩きになってもモテるのは、ただアレが強いからだけなのにね。ウブな洋子なんてイチコロに決まってるわよ」
「鴨井にはもう我慢ができん。自分の相手をしてた人妻を殺せ、と言ったかと思えば、 オレを消そうとする。こうなれば、ヤツが帰って来る前に高飛びだ。オレの分は洋子が管理してるから財布分だけしかないが、鴨井の通帳はおまえが管理してるんだろ?」
「だめよ。お金は二億以上あるけど、彼を生かしておけば地獄の果てまで追ってくるわ。
返り討ちにする絶好のチャンスじゃなのよ。あたしが事務所にいて、指示通りにあなたを殺したっていえば、警察が来る前に逃げようとするでしょ? その前に、ドリンクに溶かしたカプセルを飲ませればシアンの毒で鴨井は一コロ。もう、小娘ともバイバイして、 あたし達は、香港でもヨ-ロッパでも、アメリカでもね……」
それぞれの思いで二人が微笑んだ。