七、高原信用金庫
友美の携帯電話が消音のマナ-受信で震えた。画面の発進先番号
を見ると、エル社内の友美の専用電話だから助手の志賀智子からに
間違いない。
「狭山三枝子は、事務所を退職してから、赤坂のクラブ『ミエ』の
雇われママをしていました。でも、その店の陰のオ-ナ-は笹木代
議士ですよ」
「なんですって……代議士が資金を? 高原信金から横流ししたの
かしら?」
「笹木代議士は婿養子で実権もありませんし、高原信金の理事長は
奥さんの久美子さんです。代議士は成城の別宅、奥さんは富士見の
本宅で夫婦仲もよくないそうですから、信金からの資金流出はまず
あり得ません。クラブの資金は代議士の個人的なお金です」
「智子さんは、代議士の夫婦仲まで調べたの?」
「笹木代議士のライバル議員の事務所に電話したら、秘書がペラペ
ラ喋りました。笹木代議士が自由にできるのは義父から譲られた笹
木土建だけです。代議士は兼職できませんので社長の名義は誰も知
らない弟になってますが、実際はワンマン会社です……」
「でも変ね、いま建設関係は倒産ラッシュで最悪でしょ、裏金は作
れないはずよ」
「つい数年前までは土建業界の好調二社は東の笹木、西の川村土建
と言われて、両社とも暴力団の総会屋に狙われてたそうです」
「その西の川村土建って?」
「会社は下関市で、社長は兄名義ですが、実質的なオ-ナ-は、悪
辣な仕事ぶりで知られる川村健吉代議士で、若い時に離婚して独身
だそうです」
「なんでこの二社が好調だったの?」
「でも、今は不調みたいですよ。それと、死んだ狭山千恵子は、秘
書を辞めてからも成城の笹木宅に出入りして代議士の身の回りを世
話してたみたいで、父親と一緒に住んでいた娘の洋子さんは、その
女に疎まれてか自分から望んでか、六本木のマンションを父親に買
って貰ってひとり住まいですって」
「豊かだからマンション買えたんでしょ?」
「それが……いま、笹木土建も議員事務所も国税庁の査察が入って
るそうです。でも、長野県内では、新知事になってからはダム工事
をはじめ、護岸工事や農道の橋、公共工事の発注が激減して、仕事
は壊滅状態だそうですから、可哀相ですよ」
「だからって、狸や狐しか通らない山の中を舗装しても仕方ないで
しょ?」
「でも、そんな会社がなぜ国税庁に狙われるんでしょうね?」
「だから調べてもらったのよ……ありがとう。役立ったわよ」
「早くいい記事書いて、わたしの給料も上がるようにしてください
」
電話を切ったところに、再検視を終えた中西警視が来た。
「笹木と川村がどうしたって?」
「人の会話の盗み聞きですか?」
「偶然に聞こえただけだよ。ま、気になるからだがね」
本部との連絡を終えた進藤が戻ってきた。機嫌のいい顔ではない
。
「狭山三枝子の身内は江戸川署の刑事が白パトで運んで来ますが、
島岡の細君は警視庁四課の警部補成り立ての赤城君が連れて来るそ
うです」
「赤城? なんでマル暴の四課の赤城が?」
「そんなこと知らんです。本人が来たら課長から直接聞いてくださ
い」
友美が気をまわした。
「笹木議員事務所や笹木土建が、国税庁や暴力団に狙われてるから
でしょうか?」
「なんで知ってるんだね?」
「いや、ちょっと……赤城さんは、それを追っているんだと思いま
す」
雪もようの秋の山は暗くなるのも早く、風も冷たいから寒さが身
に沁みる。
「これだけ協力したのに、ギャラもねえのかよう……」
頂上ホテル内の臨時本部に連れ込まれて調書を取られていた第一
発見者の若者達は、長時間の拘束からようやく開放され、捨てゼリ
フを残して夕暮れ近い山道を下って行く。
その車と入れ代わるように何人かを乗せた、疵だらけで見るから
に汚ないライトバンが現場に到着した。友美の見慣れた達也のボロ
バンだった。
運転席から降りたずんぐりタイプで茶のジャケット姿の男は、新
婚ホヤホヤで警部補に昇進したばかりの警視庁捜査四課刑事の赤城
直孝だった。媒酌人は結婚してない達也と友美の二人だから、新婚
早々にすぐ別れるだろうと周囲の期待を浴びている。
その赤城が、取材陣や野次馬をかき分けてロ-プの内側に入る。
その態度で同業者と分かるらしく警備の警官がすなおに倉庫内に案
内する。
進藤も中西警視もお互いに親しい間柄だから、挨拶も軽い。ただ
、友美がいることに驚いた様子だった。
一人で先に入って、現場を荒らさないように歩行帯の上から女の
死体を拝んだ赤城が、改めて男の死体に手を合わせ瞑目して呟く。
「島村……かならず仇はとるからな」
小さな声だったが、近くにいた友美にはそう聞こえた。
「赤城さん、ご存じなんですか?」
「四課でしばらく一緒でした」
進藤がけげんな表情で赤城を見た。
「変だな……? なぜ警察出ってことを伏せてるのかな?」
「なるほど、だから、表沙汰にしたくなかったのか……」
と、中西もいぶかる。赤城が友美ら三人に向かって改まった。
「いま、島村夫人が落ちついたら佐賀先輩が連れて来ます」
「何だ、厄介なのが来たな」
「達也さんも?」
友美の目が大きく輝いた。
八、佐賀達也
中西が気をきかせて、死んだ女の顔に白布で覆おうとすると、赤
城が制した。
「島岡美穂さんは元婦警です。現状をそのままで見せてやってくだ
さい」
迎えに出た堀井に案内されて、長身で不精ひげ、革ジャンにジ-
ンズというラフな服装の元刑事佐賀達也が、痛々しげな島岡夫人の
肩を優しく抱いて倉庫内に入って来た。
その達也が、友美の顔を見た途端、恐ろしいものでも見たかのよ
うに目を見開き、本能的に島岡夫人から手を離した。あわてて赤城
が島岡夫人に近寄る。
不審な表情の達也に近寄り、友美が手を握った。
「なんで、ここにいる?」
「あなたこそ、どうして?」
心温まる風景だが誰も相手にしない、みな、島岡夫人を見ている
。
美穂がひざまずき、両手で夫の顔を優しく撫でて頭を下げ目を閉
じて拝んだ。気丈に耐える気持ちが無言の肩に出る。堀井が形式通
りに聞いた。
「あなたの夫、島岡忠彦さんに間違いありませんか?」
「間違いありません」
立ち上がった美穂が、狭山三枝子の死体にもひざまずいて手を合
わせた。無言だがその心の内の哀しみを誰もが察した。中西が励ま
すように声を掛ける。
「気を落とさないでください」
堀井が島岡美穂をうながし、赤城が付き添って遺体確認の書類の
作成と島岡の出奔時の事情聴取のためにホテルに向かう。友美も外
に出た。
地元のテレビ局がカメラを向け、インタビュア-が美穂にマイク
を突きつける。堀井が手を横に振り、美穂が軽く頭を下げた。
「話すことはなにもありません」
美穂は、調書作成を終えると用意された控え室に入って鍵を締め
ると、一人で肩を震わせて暫くむせび泣き、泣き終えると唇を噛み
しめ悲愴な表情で宙を睨んだ。
倉庫内では、片隅に達也を誘った進藤が声をひそめる。
「これは、心中事件として処理します」
「どういう意味だ?」
「公金横領と不倫の清算……多分、これで、国政に影響する政財界
を含むスキャンダルと警察庁を揺るがす元警察官の不祥事は消えま
す。その火種を消すにはこの現場での処理しかないでしょう。私ら
の立場で上の圧力に抵抗すれば、自動車事故か突然死です」
「結論が早すぎないか? 疑わしい点を調べるのが捜査だろ?」
「上部からの通達には逆らえません。でも、民間人の佐賀さんなら
別ですが……」
「オレに任せる、という謎かね? このままだと死んだ二人が浮か
ばれんからな」
「ただし、命が百あっても足りませんよ」
「命が惜しくてこの仕事ができるか……赤城には知らせるが、友美
には内緒だぞ」
進藤がこれまでの鑑識の見解と捜査の経緯を説明して、言葉を添
えた。
「二人は、湖畔の軽喫茶で休憩してからここに来てますが、別人の
偽装とも思えます」
中西警視が近づいて来て挨拶を交わす。
「邪魔者のお出ましか?」
「心中で妥協したと聞きましたが……本当はコロシですか?」
「ま、その通りだ……後ろ手に縛られて傷め付けられた上で顔を上
に向けられ、無理やり多量の睡眠薬とウイスキ-を服まされてるな
」
「司法解剖ですか?」
「いや、所轄は行政解剖で済ますそうだ。なにしろ心中事件だから
な」
「でしたら、ホトケさん二人を貸してください」
「どうするつもりだ?」
「検証が済んだら、預かって監察医務院に持ち込みます。胃の中に
未消化物が残ってれば足取りも……将来、事件化した時のために全
部調べておきましょう。古巣の新宿署に話をつけ、管内で突然死し
たホ-ムレスの死体として持ち込みます」
「氏名不詳、死因不明の変死体で司法解剖か?」
「どうせ年間約六千体、毎日でも十五、六体は運ばれてるんですか
ら、二体ぐらい紛れ込ませてもどうってことないですよ」
「解剖省略には、捜査に支障なし、死因明確、遺族の反対とか工作
が必要だぞ。こうなれば本事件は心中事件で決着だな。進藤君は島
岡美穂さんに芝居をさせろ。堀井刑事のメンツが立つようにな」
「分かりました。これから来る狭山三枝子の身内にも、解剖に反対
させます」
進藤が感心するように達也を見た。
「さすがに元捜査一課の凄腕刑事、いい手を考えますな」
それからの短い時間、達也と進藤は倉庫の内外をくまなく調べて
まわった。
九、芝居
警視庁江戸川署のパトカ-が到着した。
私服の刑事が、七十年配の老人と、キチッとした服装の三十歳前
後と見える男を連れて倉庫に入って来る。刑事が、酒臭い息を吐い
ている老人と男を紹介した。
「江戸川署捜査一課の楠田です。狭山三枝子の父親・狭山倉吉さん
と、笹木議員事務所第一秘書の向後清一さんをお連れしました」
「向後です。この度はお世話になります」
秘書の向後は落ちついた様子で一礼し、離れた位置から二つの死
体に手を合わせた。端正な顔で鋭い目の向後は、冷静な表情で現場
の様子を観察していたが、達也と目が合うと軽く会釈した。この瞬
間、この男とはどこかで会っている、と、達也は思った。
突然、老いた狭山倉吉が警官の制止を振り切った走り込み、狂っ
たように島岡の死体を蹴飛ばして尻餅をつき、そのまま娘の死体の
上に倒れ込み大声でわめいた。
「こ、こんな姿になりやがって……」
赤城が優しく老人の肩を起こした。堀井が静かに問いかける。
「狭山さん。この人は、あなたの娘さんに間違いないですか?」
「ちげえねえ……娘の三枝子にちげえねえとも」
老人が、自分の娘を確認したことで、調書に捺印をとれば心中事
件の幕は閉じる。
「ご苦労さん。向後さんも、島岡さんのことで少々聞かせてくださ
い。どうやら、これで一件落着です。進藤さんも長野にようやく帰
れますな」
堀井が安心したように、老人と向後を伴って仮説本部のあるホテ
ルに向かった。達也も堀井に同調して頷いたから、事情を知らない
赤城はますます面白くない。
遺体を包む作業が始まると、赤城が不満の表情で達也と進藤に近
づいて来た。
「このまま事件を心中で片づけて闇に抹消ですか?」
「ま、事情があってな」
達也と進藤が、赤城を、刑事たちのいなくなった倉庫の隅に連れ
て行く。
「まあ、いいじゃないか。県警本部の中西専任検死官が心中だと断
言したんだから」
「冗談じゃないですよ。後ろ手に縛られた証拠に手首の内側にチア
ノ-ゼ状のかすかな圧迫痕が残っていたのを先輩だって見たでしょ
う? しかも、指先の死後硬直を無理に解いてますよ。それに島岡
の右頬の痣は殴打された跡です」
「大きい声を出すな。ここは警視庁管内じゃないんだぞ」
達也が声をひそめて赤城をなだめる。
「長野県警が心中でまとめたんだ。ここはおとなしく引き上げるぞ
。いいな!」
「よくないですよ」
苦虫を噛みつぶした表情の赤城が不満気に続ける。
「先輩が、そんな弱腰だと思いませんでした」
達也が、ポケットから土を包んだパラフィンの薬包紙二つ入りの
ポリ袋を出した。
「この土を科警研に持ち込んで分析してくれ」
「これをどこから?」
「島岡の靴の裏から剥がしたんだ。砂に混じったゴミの種類を分析
すれば、宅地か山か住宅地かなどが特定できるからな。男が1、女
の靴のは2と書いておいた」
「先輩もコロシだと?」
「誰が見たってコロシだが、上からの指示で全員がヘタな芝居をし
てるんだ。いいか、おまえが島岡の車に美穂さんを乗せて帰り、そ
の車を一日借りる……」
「都内ならタクシ-がありますよ」
「バカだな。汚れたからカ-クリ-ニングに出すとか理屈はどうで
もなるだろ。車の内外に付いた指紋、車内のヘア-など徹底的に調
べてからきれいにして返すんだ。あとは死んだ島岡と女の足取りを
徹底して探って、犯人を追い詰める」
「解剖は?」
「新宿署から電話させて監察医務院に持ち込み、外傷から胃の中も
調べる。ふつうの食事は三時間もあれば消化するが、具によっては
多少残るからな」
「医務院なら、本庁からの依頼にしますか?」
「ダメだ。政治的圧力で、おまえの首がぶっとんで嫁さんが泣くぞ
。友美にも言うな」
二人の話を聞いた進藤が説得役を買って出た。
「死体にメスを入れるってことですな? それも説得してみます」
「切る範囲は最小限にすると言ってくれ。美穂さんは分かってくれ
るはずだ。ジイさんには言えんだろうから、オレが後で悪者になっ
て謝る」
進藤が控室に行き、すぐ戻ってきて達也と赤城に告げた。
「狭山三枝子のオヤジは江戸川署のパトカ-で送り、遺体は一日遅
れでオヤジの自宅に届けることにしました。住所はこれです。美穂
さんは解剖を納得しました。今日は、赤城刑事が美穂さんを自宅ま
で送り、遺体は明日、車と一緒に届けると伝えてあります。いいで
すか、遺体は明日中には必ず両家に届けてくださいよ」
倉庫を出た三人は連れ立ってホテルのロビ-に向かうと、美穂が
しきりに真相を究明しようと、困惑する中西警視に説明を求めてい
ていた。
達也はさり気なく周囲を眺めた。サングラスをかけた背広姿の男
が三人、マスコミや野次馬の人込みにまぎれて、捜査の進展を見て
いるのに先程から気づいていた。その男たちを友美が小型カメラで
、離れた横の位置から写している。さらに、背後から接近した友美
が彼らに聞き耳を立てたが、会話が少ないのかすぐその場から離れ
るのが見えた。
肩を丸めた狭山倉吉が、進藤に慰められながら控室から出て来た
。その足取りの重い老人に美穂が近づき、優しく肩を抱いて何かを
語りかけている。
老人が驚いた目で美穂を見た。足蹴にした男の妻と気づいてバツ
が悪かったのでもあろうか……ふた言ばかり言葉を交わしてから美
穂が名刺を渡したところを見ると、どうやら和解した様子にも見て
とれる。
そこに堀井が近づいた。
「あとは、形式上の行政解剖があるだけですから……」
それを聞いた老人が怒って、大声でわめいた。
「おらが娘を解剖なんてとんでもねえ。そんな事は許さねえ!」
困惑した堀井が、美穂にも同意を求めると、意に反して美穂も猛
烈に反対する。
「これ以上、夫を苦しめないでください。解剖はお断わりします!
」
とまどった掘井が、中西と進藤の顔色をうかがった。
「どうしますか?」
「本部の意向は?」と、中西警視がわざとらしく掘井の意見を聞く
。
「面通しも終わったし事件性も消えました。解剖なしでもいいかと
思いますが……進藤刑事、本部の見解は?」
「所轄で問題が出なければ、遺体は引き取って貰ってもいいと思い
ます……」
「あとは堀井刑事にゲタを預ける。本部の仕事はこれで終わりだ」
現場責任者の堀井が、ホッとした表情で遺族二人に解剖のないこ
とを伝えた。
こうして、遺体は達也の車で帰ることになった。
十、捜査打ち切り
雪が止み雲が切れ、西の空のわずかな空間から覗いた夕日が厚く
重なる雲を一瞬だけ茜色に染めて沈むと高原は急速に冷え、厳しい
寒気が平地の服装のまま出動している全員を襲った。こうなると、
誰もが早い解決を望んだ。
本部鑑識課のワゴン車は、小諸署管内での事件発生の報を受けて
移動する。
中西が窓から手を出すと、達也がその手を力強く握り返した。何
人もいない県警本部の専任検死官は超多忙なのだ。中西警視が窓か
ら手を振り車は雪道を去った。
進藤班の刑事達もようやく長期出張から開放され、このまま本部
に帰れる見通しになって元気を取り戻している。ホテルのロビ-内
に、残っていたマスコミ数社の取材陣が集められた。
諏訪署の高尾署長を代行して、堀井警部補が心中事件の経緯を説
明する。
「本日十月X日。午後二時過ぎ、八子ヶ峰ゲレンデ冬期用品保管倉
庫内で地元の青年が男女各一名の変死体を発見しました。死亡した
男性は、東京都品川区戸越三丁目X-Xの品川南マンションに住む
団体職員の島岡忠彦・三十三歳。女性は東京都港区新橋烏森二の四
のX、カ-サ新橋に住む狭山三枝子・三十九歳です。
二人は、バルビツ-ル系睡眠薬の錠剤百錠を服用。五百CC近い
ウイスキ-を一気に飲んでいます。睡眠薬の多量服用と洋酒の併飲
による急性薬物中毒で、男性が推定時刻午前二時三十分、女性がそ
れに約三十分遅れて午前三時前後に死亡しております。本件は、男
女の同意による心中事件とみて、ここに至った動機などについては
警視庁と協力して調査を続行します」
記者からの質問がとぶ。
「妻子ある男とその女の、不倫の清算ですか?」
「それも動機の一つと考えられます」
「男が女を殺害した、無理心中という可能性はありますか?」
「それはありません。男が先に死んでますが、ほぼ同時に同じ量を
服用しています」
「金銭絡みのスキャンダルはありますか?」
「今はまだ何とも言えません。今後は警視庁の調査で明らかになる
と思います」
「二人が、誰かに殺害されたということは?」
「今の状況から見て、そのような可能性はありません」
「この二人の家庭は、どうなってますか?」
「島岡忠彦には結婚二年の妻があり、狭山三枝子は独身で離婚歴が
あります」
山の冷気は時間の経過と共にきびしさを増し、夕風が肌を刺す。
ニュ-スや原稿の締め切りを考えて、マスコミも深追いしない。
各社の記者達は、すべてを納得したわけではないが競うように山を
降りて散っていった。
捜査本部の紙看板が破られた。残った所轄、機動隊の捜査課を含
む全員が頂上ホテルの食堂に集まった。事件は一段落したとはいえ
、まだ制服組もいるだけにビ-ルは禁止、ホテル特製の温かい天ぷ
らソバが振る舞われた。全員が夢中で食べたのも空腹と寒さという
状況からみて無理もない。
「お別れですな」
友美と離れた位置で、達也と赤城に進藤が真顔で心配する。
「プロの殺しなら、かなり手ごわい相手ですぞ?」
「なにか、気づいたことがあったら知らせてくれ」
不機嫌な顔の友美が近づき、切り口上で達也に別れを告げる。
「友人の家に泊まって、二、三日後に帰りますが、しばらくお会い
できません」
進藤には、無愛想な挨拶で妙にトゲがある。
「お二人とも上司の言いなりですか? 佐賀と違って、きっと出世
しますわ」
「出世に縁なんかないですよ」
赤城にはも手厳しい。
「あなたは、お嫁さんが大切ですからね」
笹木議員事務所・第一秘書の向後が、達也に近ずいた。
「近日中に笹木代議士のお嬢さんの警護を頼みますので、よろしく
お願いします」
達也は、意味が分からず曖昧に返事をしをした。
老人と向後を乗せた江戸川署のパトカ-が先に去った。
しばらくして、助手席に暗い表情の美穂を乗せた赤城の運転する
島岡の車、友美の白いアウディ、死体二体を積んだ達也の薄汚れた
ライトバンの三台が出発した。
闇の山道を三台の車のライトが輝き、赤城と美穂、達也、友美、
三台の車輛のそれぞれが窓を開けて手を振ると、進藤らが敬礼して
見送った。
友美が「また、お会いましょう……!」と、叫んだが、その語尾
は闇に消えた。
十一、裏切り行為
ビ-ナスラインとの三叉路で達也と赤城の車は左折して白樺湖か
ら大門街道への道を、友美は右折してスズラン峠方面へとライトの
点滅で合図して別れた。
いつもながら、達也とは一時の別れなのになぜか寂しい。FMの
スイッチを入れると甘い声の英語の歌が流れはじめたので日本語で
歌ってみる。「砂に書いたラブレタ-……打ち寄せる波に……消え
ていまは跡もなく……」、友美は舌打ちしてスイッチを切った。起
伏の多い暗黒の蓼科高原の雪道を友美の車だけが左右にブレながら
疾走する。
竜源橋からピラタスの丘入口を経て笹丸平を左折し、国道二九九
の通称メルヘン街道の石切場に出る。その道を八千穂方面に北上す
ると、さきほど世話になったばかりの沢野千恵子夫妻の経営するロ
グハウス作りの洒落たレストラン「ブル-ベリ-」に着く。
夫妻は舞い戻った友美を大歓迎で迎えた。もうすぐ訪れる冬にな
ると雪に閉ざされて店も休眠に入るから地元の人以外との交流がな
くなる人恋しい季節が来る。だから、親しい人との交流が嬉しいの
だ。祖母と一人息子は東京に泊まりで出ているという。
心尽くしの夜食の歓迎を受けながら、友美がこの日の事件を語っ
た。心中した男女が湖畔の店で食事をしたときの話をすると、夫の
健一が千恵子に向かって疑問を投げた。
「この話、変だよな……うちへ来る客が熱いコ-ヒ-をサングラス
のまま飲むか?」
「コ-ヒ-ならいるでしょ? ス-プだったら湯気で無理ですけど
」
「多分、顔を見られたくなかったんだな。白樺のマスタ-はしつこ
いヤツだから、一見の客でもよく覚えてるし、駐車場はナンバ-ま
で見えるように工夫してるんだ」
「電話で聞いてみる? そこも東京から移り住んだ夫婦で、夫とは
将棋仲間なのよ」
「お願いします」
健一が電話をすると、不機嫌な声でオアシス・白樺のマスタ-が
出た。
「なんだ、健さんか? これから一勝負やるか?」
「今晩は来客なんで将棋はダメだ、少し聞きたいことがあってな」
「なんだね?」
「昨日の夜、そこで食事をした客が八子ヶ峰で心中したんだってな
?」
周囲が静かだから会話は筒抜けで聞こえる。
「あんたも警察の真似か? また三人連れが来て調べて行きやがっ
た」
「三人連れ?」
「警察手帳を見たから間違いない。しかも今度は警視庁だぞ。髭ず
らのノッポとズングリ型刑事、婦警のオバさんの三人連れだ」
「あの人たち騙したのね、まっすぐ帰る振りして」
と、友美が渋い顔で呟く。
「夕べの男女がコ-ヒ-を飲む間、サングラスを外さなかったんだ
ってな?」
「不倫だから顔を見られたくなかったんだな。それにしてもケチな
ヤツらだ。女がおなか空いたから何か食べましょうか? と言った
らな、男が何と言ったと思う?」
「そんなの分からん。何を言った?」
「胃に残るのはまずい。仕事が終わるまで我慢しろ、だってさ。そ
のまま死んだんだぞ。石田三成が切腹の前に柿を断ったのを真似し
たんだな。バカなヤツらだ」
「今日の三人もコ-ヒ-だけか?」
「今日の三人はチャ-ハン、スパゲッティ、サンドイッチとガツガ
ツ食べて、終わってからコ-ヒ-を飲んだんだ。ただ変なのは、髭
ずらの男がコ-ヒ-を飲むときにサングラスを掛け、それを交互に
渡してコ-ヒ-を飲んだ挙げ句、曇るから飲みづらいな、って言い
やがる。なにか、東京じゃコ-ヒ-を黒メガネで飲むのが流行って
るのか?」
「そんなの流行るものか、それで?」
「頭に来たぞ……女の刑事が、夕べの客の指紋が残ってるかも知れ
ませんね、なんて言いやがってな。結局、昨日の客が使ったコ-ヒ
-茶碗とスプ-ン、それに灰皿、タバコの吸殻までを探す羽目にな
ったんだ」
「そんなの無理だろ?」
「客が少ないから、コップやスプ-ン、灰皿もすぐ分かった」
「それを、どうするんだ?」
「洗剤でよく洗わんと指紋が残る場合があるそうだ」
「まさか出たんじゃないだろうな?」
「それが、ズングリ刑事がセロハンテ-プみたいのを出して、ペタ
ペタやったらな」
「出たのか?」
「クッキリとな」
「冗談だろ。保健所なら営業停止だぞ、カ-チャンを離婚しろ」
「洗ったのはオレだ……」
「しょうがねえな。で、どうした?」
「あとは、ズングリ刑事が、昨日の客が座ったイスの手で触れそう
な部分や入口のドア-の把手などからペタペタと指紋を採りまくっ
てな、テ-プが使えないところはスプレ-なんか出して、シュ-と
一吹きで指紋が紫色に出るんだ。その上、客のしゃべった会話や口
ぶりなんか、しつこく聞くんだ」
「それだけか?」
「飲み食い分とは別に、昨日の客が使ったコ-ヒ-カップとスプ-
ンとタバコの吸殻付きの灰皿を官費でお買い上げだ。一万円でいい
って言ったらズングリ刑事が一万円、無精ひげのノッポが気前よく
五千円のチップを置いてお帰りだ……」
「貧乏人のくせに五千円も……」と、友美が不機嫌に呟く。
「それじゃボッタクリだ。食器は全部、青空市で買った安物だって
言ってたろ?」
「そうかバレてたか。ま、原価は知れてるが警察への協力費だと思
えばいいさ」
友美が小声で、「夕べの男の左額に大きなホクロがあった?って
聞いて」と、頼む。
「夕べの男の額に大きなホクロがあったの覚えてるか?」
「さっきの刑事にも聞かれたが、ホクロなんて無かったぞ」
「あと、その刑事達に聞かれたことは?」
「車と服装だな。刑事がいう通りの白いクラウンで品川ナンバ-X
X二五〇〇で、女は真っ赤で派手なハ-フコ-ト風の上着、男は紺
のス-ツだったが、スカ-トだとか、靴、指輪、髪形だとかも聞か
れたが、全部覚えていたから答えたよ」
「昼間、地元の警察が聞き込みに来たときは、そんな質問は出なか
ったのかね?」
「白いクラウンで、赤いコ-トの女と紺背広の男が来たか、って聞
かれただけだよ」
「地元の刑事は、それを聞いて鬼の首をとったように帰ったのか?
」
「しかも、何も調べないでだぞ……」
しばらくグチと冷やかしが続いて電話が切れた。
「いまの話だと、後から行った刑事さんの方が、熱心そうね?」
友美が千恵子の言葉に頷いたが、それ以上に裏切られたほろ苦さ
が心を暗くした。