二十六 愛の証し
夜、友美と洋子は赤坂東急のレストランで、軽い食事を楽しんでいた。ロゼワインで乾
杯したときから、加山への疑念を口にするタイミングで悩んでいた。会食を楽しんでいる
洋子に、婚約者を中傷する話題に触れるのは気が重い。だが、言わねばならない。
「この頃、加山さんとはどう?」
「彼は頑張ってるわ。さっきも電話をしたら、忙しくて時間がないんですって」
「この時間に、もしかして別の女性と一緒だったとしたら?」
「戸田さん! そんな酷いこと言わないでください」
「もしかしてって言ってるでしょ。彼が、忙しいかどうか確かめてみたくないの?」
「それは、確かめたいけど……」
「聞いた話ですど、加山さんは以前から野沢さんという女性と親しいみたいですよ」
「野沢さんは魅力的な女性で、加山からは、鴨井さんの恋人だと紹介されてます」
「魅力的だから心配なんですよ。気になりませんか?」
結局、食事もそこそこに、二人は赤坂から乃木坂へ移動することになった。
乃木坂の坂上から青山寄りのバングラディシュ大使館横のマンションに近づくにつれ、洋子の表情が硬くなっている。友美は、車を玄関前に寄せて洋子を降ろした。友美自身も加山が在宅かどうか半信半疑だったが、ここまで来たら賭けるしかない。
しゃれた洋館風のマンション前で、七階の窓の灯を眺めて、洋子がつぶやく。
「部屋の灯が見えるわ。憲一さん……疲れてないかしら」
洋子が上を見上げ、こう言ったときには友美も内心ホッとした。
「私は車で待ってますね」
「いえ、上まで一緒に行ってください。戸田さんにも確認して頂きたいんです」
車を路肩に停めて友美も同行することにする。
ア-チ型の門内に入ると広いエレベ-タホ-ルがある。いつの間にか繍入りの淡いピンクの手袋をした洋子が、七階をプッシュした。
「この手袋も憲一さんのプレゼントなんです」
友美は七階のホ-ルに残り、洋子だけが廊下を進んで、七〇八号室のベルを押す。
長く待たせてから、インタ-ホンに加山の声が出た。
「どなた?」
「憲一さん。洋子です」
「なんだ洋子か? 急に来るにしても電話ぐらい出来ないのか。ちょっと待て」
覗き窓から洋子の姿を見たはずなのに、ドア-がなかなか開かない。友美が、ホ-ルから顔だけ出してのぞくと、それに気づいた洋子が笑顔で手を振って応じた。
やがて玄関の鍵が内側から開く。
ナイトガウン姿の加山が、とがめる表情で洋子を見た。
「急に、どうしたんだ?」
「急にあなたの顔が見たくなったの」
洋子が中に入ってドア-が閉まった。
足音を殺した友美がドア-に近づき、周囲に人影のないのを確認してからレンズの小穴を覗くと、室内の一部が小さく見えたが二人の姿はない。声がかすかに聞こえた。
「なにか飲むか?」
「それじゃ、コ-ヒ-を頂きます」
加山が動く気配がある。暫くして洋子の甘い声が聞こえた。
「あなた済みません。レモンティ-に変えていただいていいかしら?」
その時、エレベ-タ-の扉が開く音がしたので友美はドア-から離れ、マンションの住人なのか、年配の品のいい女性とすれ違って頭を下げ、さり気なくエレベ-タ-ホ-ルまで下がり、階段側から顔だけ出して様子を見ることにした。
玄関先に二人が姿を現した。
洋子がガウンを着たままの加山に抱きついて甘え、相手がとまどうのも構わずに深いキスを求めてた。加山がはげしいキスを振りほどこうとしたが、洋子が舌をからまたのか強く抱きしめたまま離さない。洋子が少し身体を傾けたので、二人の顔が横向きになって友美の視界に入った。長いキスで加山の喉がゴクリと動くのまで見えた。
加山の手を離さずに洋子が嬉しそうに甘える。
「あなたを信じてよかったわ」
「あたり前だ。オレたちはもうすぐ夫婦なんだからな」
洋子が名残惜しげに手を離す。
「あなた、おからだ大切にね」
「洋子もな……」
爽やかな顔でエレベ-タ-に乗った洋子が、友美に礼を言う。
「戸田さん、ありがとう。憲一さんは一人でした。これで彼を信じられますね?」
友美は、納得できないが仕方なく頷いた。
ゆっくりと車を動かすと、洋子の視線が七〇八号室の寝室の窓に走った。それに気づいた友美がさり気なく視線を上げたときは、人影はなくカ-テンだけが揺れていた。玄関にいた加山がわざわざ見送ったのだろうか。
玄関先にまで加山を連れ出して、親密さを友美に見せつけた洋子の意図を読み取ろうとしたが無駄だった。助手席で手袋を脱いでいる洋子の表情からは変化が読み取れない。
洋子が、それまでの沈黙を破って唐突に友美に話しかけた。
「あの人は仕事に熱中してるみたいでした」
「加山さんは本当に一人でしたの?」
「もちろんです。でも、好きですけど、あの人との婚約を破棄します」
「どうしたんです、急に?」
「戸田さんのおっしゃる通り、憲一さんが友人の秘書の方と本気で愛し合っているとしたら、自由にしてあげたいんです」
「でも、その人と愛し合ってるかどうかまでは知りませんよ」
「いいんです。わたし、一度決心するともう止まらないんです。戸田さんの会社から、すぐマスコミ関係に婚約破棄を流して頂けますか?」
「いいですよ。出版社は、ファックスを登録先に一度に流せるシステムですから……」
「では、すぐお願いします」
「よかった……これで洋子さんは加山との縁が切れます」
「戸田さん、それはどういう意味ですか?」
「とにかく、洋子さんはこれで自由です」
友美が車を左に寄せ、携帯電話を取り出す。
「デスク? 急のことですが、笹木洋子さんが婚約を取消しました。いまからすぐファックスを流してください。文面を言います。
この度、笹木洋子は加山憲一さんとの婚約を破棄します。お互いに信頼と愛情は変わりませんが二人をとりまく不安定な諸事情によって、結婚を断念しなければならなくなりました。今後一切、二人は関係ありません。これを本人がつくった文章に直して、二時間前の発表にして主要マスコミに流してください」
「独占すれば特ダネになるじゃないのか?」
「なにケチなこと言ってるんですか。こんなの特ダネにしないでください。そのうち、ちゃんと大ネタの原稿入れますから」
洋子がフッと大きく息を吐いて時計を見た。
「ありがとう。あら、もう日付が変わってる」
「わたしが誘ったことで、迷惑かけたみたいわね」
「そんなことないわ。用事を思い出したのでロアビルの近くで降ろしてください」
「あなたが住んでるマンションは、その近くでしょ?」
「ここからでも歩いて行けるんですがだが……」
六本木の交差点を過ぎて停車したが、部屋を確かめるために洋子を尾行するつもりになっていた友美は、洋子が一度振り向いて手を振るのを確認してから車を路肩に寄せた。
二十七 愛欲の果て
玄関の鍵をロックした加山が、ソフア-でタバコを一服していると、寝室から出て来た靖子がキッチンに立って、加山が煎れておいたモカをカップに入れ、ブラックのままトレイに乗せて運んで来ると加山に密着して座った。
「あなた、本気であの娘が好きになったのね!」
「あんな小娘なんか……」
「本当に、あたしのことが好きなの?」
「あたりまえだ。いつかタレントも悪事からも足を洗って、まじめに貿易商社でも始めたいと思ってるんだ。そうなったら、社長夫人のお前だって新しいベンツに乗れるぞ」
「だったら、英語も勉強しなきゃあね。外国で暮らすぐらいは鴨井の金で充分なのよ」
「そうか、なにか仕事を探して外国でまじめに暮らすか。それもいいな」
コ-ヒ-を飲んで寝室に戻り、また靖子の求めに応じて愛欲のおもむくままの激しい交わりが続いた。それは愛などという生易しいものではなく、情念が絡み合ったオスとメスとの本能の戦いになる。幾度めかのクライマックスが続いて男と女が上と下に変化した瞬間、加山はヤケに喉が渇くのを感じ、いつもの自分と違った激しい心臓の鼓動で苦痛を感じた。(のど飴か、コ-ヒ-か?)一瞬、疑問を感じた加山が下から靖子の裸体を突き飛ばそうとして顔を突いた。まったく突然のことで事情が分からない靖子が、とっさに覆いかぶさるようにして加山の首を締めると、反射的に加山の両手も靖子の首を閉め上げた。
加山の手をどかそうと焦る靖子は呼吸もできない。
加山の恐ろしい形相を見た靖子が、恐怖におびえて声にならない悲鳴を上げた。
口から血を吐いた加山が目を剥いて死んだ。加山の両手の指先が靖子の首に、生への執念からか深く食い込み、その手を必死に外そうと焦る靖子の両手の力が失せて行く。
死亡時の筋肉の硬直には凄まじい力がかかるのか、とても女性では動かせない。
呼吸も出来ずに苦しみもがいた靖子は、自分がおかれた状況すら理解できずに、長く伸びた朱色のマニキュア爪を、自分の首を締めたまま死んだ加山の首に突き立てた。
髪を振り乱しあられもない恰好の靖子は、身体中を高圧電流が貫くかのような衝撃の中で断末魔の痙攣の末に崩れ落ち、加山の身体に重なって息耐えた。
こうして、哀れにも獣道をさまよった男と女の命が情念を残してはかなく消え、寝室の中には、烈しい嵐の後の不気味な静寂が訪れていた。
二十八 心変わり
早朝の中央高速料金所を過ぎると、車の数も激減して、快適なドライブになる。
昨夜は笹木洋子とのドタバタ騒ぎでほとんど眠っていないが、富士見町に入っても疲れはまったく感じない。
最初の訪問先は久保家、地図は教わってあるし和菓子の土産もある。原の茶屋先の大平地区の閑静な緑地帯の中にある、久保宅の駐車場に車を入れ、玄関のチャイムを押す。
「月刊エルの戸田です。取材でお伺いしました」
「どのようなご用件で?」
「先日、お邪魔して取材させて頂いたお礼のご挨拶に参りました」
「それはまあ、少しお寄りになります?」
社交辞令と分かっていても、遠慮なく頭を下げて応接室に進む。友美が菓子折りを手渡すと、礼を言いガウンの下のレオタ-ドの言い訳をする。軽快な音楽が流れていた。
「ごめんなさい。こんな姿で、この頃は美容健康法にエアロビクスなんです」
「ご主人の職場が変わられたそうですね?」
「どこでも同じだそうです。慣れた仕事ですから」
「妙なことを聞いて御免なさい。奥さまは、あの大金が運ばれて来るのを事前に知っていましたか?」
「夫は家では一切仕事の話をしません」
久保夫人が毅然と言い切って友美を見た。その顔を見つめて、嘘を言っていないと友美は判断して話題を変えた。
「奥さまは、ダンス教室に通っていましたね?」
「以前は、町民センタ-のエアロビクス教室に行ってました」
「なぜ、ダンスに変更なさったんですか?」
「ダンス教室を始めた久美子さんには義理もありますし……」
「久美子さんって、笹木久美子さんですね?」
「うちも明石家も、笹木とは縁続きですから、つい名前で呼んでしまいます」
「ダンスの時間は昼間ですね? 昼間なのに男性会員も集まるんですか?」
「商店主、会社役員、団体役員などで、不足分は久美子さんが集めます」
「東南アジアの方もいましたね?」
「ええ……」
「その中の一人の呉さんが、先日、お亡くなりになりましたね?」
「呉さんはいい人でしたのに……」
「でも、強盗の仲間になってましたが?」
「騙されて運転手として使われた末に殺されたのです」
「笹木夫人は、みなさんに好かれていますか?」
「全員にです。とくに男性会員には絶大な人気がありますね」
「女性に人気のある男性は?」
「それは全員、鴨井先生ですよ」
「そんなに上手なんですか?」
「それは、すごいテクニシャンですから……ダンスも、いや、ダンスがですよ」
「鴨井さんてどんな人ですか?」
「本当に男らしい先生で、人に頼まれると嫌と言えないタイプでしょうか……一番弟子の久美子さんもダンス教師の資格をもっています」
「ダンスは何曜日の何時からですか?」
「火曜日と金曜日、午後三時から五時までの二時間です」
「会員の希望を聞いてたら、組み合わせに困りますね?」
「久美子さんがペア-を決めたら、絶対に反対出来ないシステムになってるんです」
「ダンス以外の目的の場合もですか?」
「男女とも別会費を払って別室に……あ、違います」
「しまった!」と、いう表情で久保夫人が口をつぐんだ。
これで、その教室がダンスの名を借りた男女交際の場だったことが判明した。
素知らぬ顔で質問を変える。
「あの晩、ご主人を拉致した強盗の一味に、呉さんもいましたね?」
「車の運転で外にいたそうです。呉さんなら絶対にあんな酷いことません」
「どんなことですか?」
久保夫人が顔色を変えて吐き捨てる。
「済んだことです。これ以上、いじめないでください」
「済みません。ところで、笹木さんのお宅はお近くですか?」
「富士見ヶ丘に立派な屋敷があって、久美子さんがお手伝いと住んでますが、東京の成城にも家があって、選挙のときだけご主人は東京から富士見に戻って来ます」
「笹木家の夫婦仲は、よろしいんですか?」
「あそこは一緒に住んでいませんし、政略結婚以来、それぞれが勝手なことをしてるんです。ここだけの話ですが、あの洋子ちゃんは、多三郎さんの娘じゃないんです」
「どういうことですか?」
「世間でいう不倫の子……本当に内密ですよ。お相手は多三郎さんの仕事仲間らしんですがね。洋子ちゃんは、久美子さんの夢を叶えるために、四歳のときから可哀相に、嫌なスケ-トを泣き泣きさせられて、あそこまで上り詰めましたが、かつて自分も五輪の金メダルを目指した久美子さんから見れば五輪五位では嬉しくないんです。
あの娘は子供の時から音楽が好きで、アキレス腱裂傷という致命的なケガで引退した時はホッとした表情で、わたし達には、将来、アメリカかカナダに音楽留学して作曲家になると言ってました。親子の情愛から見れば哀れなものですね」
そこで友美が長引く話の腰を追った。
「すみません。笹木さんのお宅と電話を教えてください。」
「今の話は絶対に秘密厳守でね。私からも電話しておきましょうか?」
久保夫人が怪しいと睨んだ友美のカンが、どうも外れたらしい。久保夫人の朴訥さが会話にも顔にも出ていた。礼を言って久保宅を謝し、富士見ヶ丘の笹木邸に向かった。
笹木邸はすぐ分かった。
立派な門構えの邸宅で旧家には珍しく開放的な明るい雰囲気が漂っている。庭も駐車場も広々として数十台は停まれる。この日も十五台ほどの車があった。車ごと玄関近くまで入って駐車し、玄関のベルを押すと、お手伝いさんなのか若い女性が出て、友美を広い応接間に案内した。
「ずいぶん賑やかですね?」
「今日は着付け教室ですが、小人数の女性だけですから閑散としています」
すぐ、優雅な物腰の女性が和服姿で現れた。
「笹木久美子さんですか? 戸田友美と申します」
「久保さんからお電話頂いております。エル社の記者さんね?」
「この笹木邸が、カルチャ-発信地だとお聞きしまして」
「あら、そのような冗談を言いにいらっしゃったの?」
「奥さまは、ボランティア活動にご熱心と聞いております」
「気まぐれなだけですわ」
「洋子さんの世界選手権での銀メダル、おめでとうございます」
「オリンピックでは残念でしたが、でも、よく頑張りました」
「練習も大変でしたでしょうね?」
「小さい時から練習熱心な娘でしたから……」
「奥さまは社交ダンスがプロ級だそうですね?」
「好きなだけです……」
それでも嬉しそうな表情の目線が、壁際に並ぶ大型のサイドボ-ドに向いた。数え切れないほどの大小のトロフィ-や盾が雑然と密集し、賞状がびっりと壁を埋めている。見ると、笹木久美子の名でフィギアスケ-トの優勝賞状も数えきれない。
「奥さまもスケ-トを?」
「わたくしは膝のじん帯を傷めて諦めたんですの。これは、ほとんど娘のです」
よく見える位置には娘の名が目立つように並べてあるが、盾やトロフィ-も圧倒的に久美子の名が多く、それはダンス、スケ-ト以外の文化活動によるものが目立った。
だが、友美の目に一番つよく焼きついたのは、その脇に置かれた鉢植えの花だった。そこには、豪華で鮮やかなピンクの胡蝶ランがさん然と咲き誇っていた。
「きれいな花ですね?」
「あれね? 捨てるのを忘れてたの。持っていらした中国人の方が、急な災難でお亡くなりになって、それも、頂いた夜に亡くなられたんです。縁起でもないでしょ?」
「捨てるなんて……わたしが頂いて帰ります」
こうして、胡蝶ランの鉢は友美の車の後部座席に納まった。
明石宅に連絡しようと携帯電話を取り出したが、迷ったすえポケットに戻した。不意に訪問してみる気になったのだ。発進する前に達也からの連絡が入った。
「友美か? 朝、赤城から電話があってな。赤城の部下が鴨井興行から拝借してきた灰皿から出たタバコと、荒川土手の盗難車からの唾液とがDNA鑑定で一致したそうだ。
これで信金強盗は。鴨井と加山の二人ということになる。
とにかく、もう逮捕するだけだから深入りは止せ。赤城の情報だと鴨井がそっちに行ってるらしい。いま進藤も富士見に向かってるそうだ。進藤は、死んだ呉も笹木邸に出入りして久保・明石夫人らとも密接だったらしい。そうなると全員が鴨井とグルじゃないかと疑えるんだ。とにかく危険だから、すぐ富士見交番に行って待ってろ」
「待ってろって、いまどこにいるの?」
「高速を富士見に向かってるところだ」
しかし、友美は忠告を無視して明石宅に向かった。あくまでも内通者を暴くのだ。
玄関に現れた和服姿の明石夫人は、すでに久保夫人からの連絡を受けていたのか、急に現れた友美を見ても驚いた様子はないが、その態度にはどことなく落ち着きがない。
応接間に招かれて、友美が菓子折りを手渡して挨拶をする。
「ご主人の、支店長ご就任おめでとうございます」
「ごめんなさい。急用を忘れていたもので電話をします」
明石夫人が別の部屋に向かった。
会話までは聞こえないが、たしかに電話を掛ける気配がする。さり気なく室内を見回すと、応接室のサイドボ-ドの上に、小ぶりで愛らしい花を咲かせた真紅のカトレアが目に入った。ふと、プレゼントカ-ドが目に入ったので立ち上がって鉢に近寄り、送り主名に「亀田」とあるのを確認して席に戻った。呉は明石夫人にも花を贈っていたのだ。カトレアの花の横にアンティックな形のいい電話機がある。コ-ドが見えたからアクセサリ-で
はないのは確かだった。明石夫人はそれを使わなかったのは、友美に聞かせたくないところに連絡したからだ。危険が迫っているとしたら急がないと……。
席に戻った夫人に、さり気なく質問をする。
「奥様もダンスはお上手なんですか?」
「前にも申し上げた通り、ダンスはまるで出来ませんのよ」
「ダンス以外の楽しみを目的に参加する人もいるそうですね?」
「知りません」
「また、お聞きしますが、あの事件前に、ご主人から信金に大金があるのをお聞きして、誰かに話しませんでしたか?」
「話していません」
たとえば呉さん、日本名は亀田さんとかですが……」
「呉さん! そんな人、関係ありません」
「じつは私、呉さんが亡くなる日の夕方に取材で会ってるんです。別れ際に謝礼をお支払いしたら、呉さんは、これで愛する人に洋らんの花をプレゼントすると言いました」
「愛する人に……ですか?」
明石夫人の視線が真紅のカトレアにチラと走った。
「奥様は呉さんと関係ないとおっしゃったので遠慮なく申し上げますが、呉さんは笹木夫人に、豪華な胡蝶ランを贈っているのです」
「まさか! 胡蝶ランを笹木さんに……? 間違いでしょ?」
「私が頂いて、いま車に入っていますから間違いありません」
「あなたが、なぜ?」
「贈り主が死んだので縁起が悪いから捨てるというもので……」
「あの人が久美子さんにには豪華な胡蝶ランで、わたしには……」
明石夫人の表情が急速に険しさを増す。
「奥さん。本当に大金のこと誰にも話していませんか?」
「思い出しました。主人から聞いたのは事件の日の朝で、昼食会で久美子さんとダンスの鴨井先生とご一緒のときに何気なく話した記憶があります……でも、久美子さんはオ-ナ-なのにご存じなかったようで、とたんに不機嫌になりました」
「ご主人は東京暮らしだから、奥さんに情報が入らなかったんですかね?」
「でも、いくら裏金でも地元の支店までにも内密にされたら、怒りますよ」
ふと、明石夫人が壁の時計を見た。
「戸田さん、理由は言えませんが逃げてください。すぐ警察には連絡します」
やはり先程の電話は友美の来訪を誰かに知らせたのだ。どこで気が変わったのか……胸騒ぎを感じて、挨拶もそこそこに明石宅の玄関を出た。
どこかで車が停まったような音がした。
玄関脇の駐車場に乗り入れてある愛車のドア-を開けた瞬間、走り寄った頑強な体格の目出し帽の男が走り出て、友美の脇腹に拳銃を押しつけた。友美の表情に恐怖が走る。これが殺人者なのか?
「早ク車ヲ出せ、富士見公園ダ! ソコヲ真ッスグ……」
(こんなところで死ぬなんて……)
友美は、達也の忠告を守らなかった自分を悔いた。
二十九 富士見公園
平日の富士見公園は人影もまばらで、離れた位置にある伊藤左千夫、島木赤彦の歌碑などに何人かの人影が見えた。だが、そこからは目出し帽は見えないから、デ-ト中の二人が仲睦まじく散策しているとしか思えないだろう。友美は、抱えられるように雑木林の奥に連れ込まれた。林の奥には人影もない。
「あんたは自殺するんだ……」
低い声が通常の日本人に戻っている。
「あなたが鴨井ね? あなたと加山、信金強盗事件は二人の犯行ね?」
「だからどうした?」
「呉明基と大岩を殺したのも二人でしょ?」
「やかましい! そんなの中国人の仕業だ。お前はこれから死ぬんだぞ」
友美は突き飛ばされ、腐葉土の積もった樹林に転がされた。枯れ木を拾って抵抗したが拳銃で殴り倒され血を流す。覆面の下の男の目が残酷に光った。
「倒れた際に倒木に当たったように細工するから安心しな。どうせ自殺だ、殺してから拳銃を持たせるからな。これで完全犯罪だ」
「わざわざ、わたしを殺しに東京から来たの?」
男の目が凶暴さを増した。友美の頭に銃口を向け、男が拳銃の引き金に指をかけた。友美が絶望の中で目を閉じて呟いた。愛する人を思うと意識しないのに涙が流れる。
「達也さん、さようなら……」
そのとき、石つぶてが風音鋭く樹幹を縫って飛来し、銃を構える男の後頭部にはげしい音を立てて命中した。
「ウワ-ッ!」
絶叫をあげて頭を抱えた男の手から拳銃が落ちた。友美が拳銃を拾って立ち上がると、うずくまっている男の横顔を凄い形相で殴った。男の横顔から血がしぶく。怒り狂った男が立ち上がって友美を襲うと、横に跳んだ友美が本気で男の胸を狙い、迷わずに拳銃の引き金を引き絞った。達也が「撃つな!」と叫んだ。
轟音が響いた。反動でか達也の声に動揺してか、弾は急所を逸れて鴨井の右腕を掠め、くぐもった悲鳴が鴨井の口から洩れた。
樹林を縫って走って来た達也が、迎え撃つ鴨井に飛び蹴りを見舞う。ひるまず反撃する男に数発殴られたが大外刈りで投げ勝ち、倒れたところを背後から全力で首を締める。
「殺人未遂で逮捕するっ。友美、早く一一〇番だ!」
呼吸ができずに失神した男から全身の力が抜けた。達也が目だし帽を剥がす。
「見てみろ。こいつが、信金強盗の主犯だぞ」
「多分、この人がダンス教師の鴨井です。怖かった……」
友美がしっかりと達也に抱きついて、しゃくり上げる。
達也はこんな時だけでも優しいから、友美は別れられない。
「どうして、ここが分かったの?」
「明石夫人からの通報を受けた本部が、進藤にここへ急行するように指示したが、間にあわないから進藤からオレに連絡が来たのさ」
気絶した男を前に抱き合っていると、梢をゆする風音にまじって叫び声が聞こえる。振り向くと、林の中の落葉を踏んでモタモタと走って来る進藤と警官二名の姿が見える。
「また、こんなとこでイチャついてるんですか?」
荒い息を吐きながら進藤が不服そうな顔をする。
「早く、息を吹き返す前にワッパを掛けろ!」
達也の指示で、若い警官が男に手錠を掛けてると、進藤が男の背後から活を入れた。後ろ手に手錠を掛けられた男が、パトカ-に運ばれ、全員がひとまず交番に向かった。
傷口の応急処理と、小一時間におよぶ調書作成に心身ともに疲れった友美が、先に調べが終わった達也が待っている交番内の控室に入って来た。
警備会社メガロガの田島社長への報告と、警視庁の赤城との連絡に忙しかった達也が、禁煙のシ-ルが貼ってある室内でタバコをくゆらせている。額に仮治療の包帯を斜めに巻いた友美がイスに座ったが、明らかに機嫌が悪い。達也が、大人げなく怒った。
「何度言ったら分かるんだ。殺されてもいいのか!」
「心配してるの?」
「バカ。そんな気になれるか」
「バカとはなによ。嫌なら放っといたらいいでしょ!」
友美が怒って、達也の胸をつかみ顔が密着したところに進藤刑事が入室して、あきれたという顔でクギをさす。
「署内では、いかがわしい行為はつつしんでください」
「誤解するな。なにもしてないぞ」
「言い訳はいいです。ともあれ、お二人のご協力で凶悪犯をスピ-ド逮捕できました。感謝してます。もっとも、明石夫人からの通報がなければ、戸田さんも今頃は地獄の一丁目あたりをヨタヨタと歩いていたところでしょうがね」
進藤が、改めて友美の顔を見た。
「免許証から鴨井恭二と判明しましたが、ヤツは重傷で、警察医が正当防衛にしては行き過ぎだと言ってます。後頭部の傷は佐賀さんが投げた石で出来たそうですが、あの頭の陥没した側頭部の大キズは何です? 息絶え絶えの鴨井の証言だと、戸田さんは拳銃で鴨井の頭を殴り、拳銃で胸を狙って撃ったそうですね? 幸いに弾が逸れて腕を貫通したからいいものの……いや、いけません。殺意が認められますから殺人未遂で逮捕します」
「殺意なんてとんでもない。脅そうと思って構えたら、弾が勝手に飛び出したんですからね。でも、逮捕されるんでしたら殺しておけばよかったわ」
「いや、あの男は、もう少しで即死だった……」
裏切った達也が恐ろしそうな目で見ると、友美が不満の表情で腰を上げた。
「先に帰ります。あなたはゆっくりしてください」
「殺人未遂犯が勝手に逃げないでください!」
「じゃあ、逮捕しなさいよ」
「それと、お二人に重要な用があったんですが……」
「何だ?」 達也が聞く。
「鴨井が乗っていたベンツの車検から、所有者は港区在住の野沢靖子と判明しました」
「鴨井興行のAVタレントか?」
「知ってるんですか?」
「赤城さんが調べたんです。鴨井の秘書もしてますが、以前から野沢は、笹木洋子の婚約者の加山とも親密だったそうです」
「野沢と加山が、ですか……?」
「夕べ洋子さんと、乃木坂の加山のマンンションに行きました」
「なんでだ?」 と、達也がとがめる。
「もしかして、加山と野沢靖子が一緒にいるかと思って……でも、加山は一人でした」
「それだけか?」
「……でも、その帰りに洋子さんは、急いで婚約破棄をマスコミに発表したんです」
「妙だな。共犯のノッポが加山だったんだぞ。てことは、洋子は、二人の犯罪を知っていたのかな? だから婚約破棄を急いだんだ」
「その可能性はありますね、大金が動いたんですから」
「いま、野沢との関係についても鴨井を締め上げてるところです。すぐ戻って、加山との関係についても口を割らせます」
「車内は調べてるか?」
「県警の機動鑑識が来ます。ベンツの車内から得られる指紋、毛、ゴミ、遺留品すべて採取して分析しますから、そうなれば共犯者の指紋も出ると思います」
「とりあえず、主犯がつかまってよかったな」
「よくないですよ。強盗殺人事件の凶悪な主犯が、しがない警備会社社員と女性雑誌記者に逮捕されたんですから、県警本部は面目丸潰れでパニックです。共犯者だけは長野県警で検挙せよ、と、ハッパをかけられてドヤされました」
「そんなの、交番の二人が逮捕したことにすればいいさ……」
「ほんとですか? 共犯もその手で頼みます。行きましょう!」
「殺人未遂の女記者を逮捕するんじゃなかったのか?」
「そんなことしてる間に、加山は向島署に挙げられちゃいます。こっちの始末は所轄に処理させて、まず、加山の検挙が先です」
そこへ、諏訪署の堀井警部補が入って来た。
「鴨井が犯行を認めました! 呉と大岩のコロシもです」
「よかったな」
進藤が達也の好意を伝える。
「鴨井の逮捕は、おたくの警官二人の手柄にしていいそうだ」
「ほんとですか!?」
「その代わり、佐賀・戸田ご両人の殺人未遂、傷害罪、銃刀法違反は見逃してくれ」
堀井は小躍りして喜んだが、達也は怒った。友美も面白くない。
「なにが殺人未遂だ。それより、昼飯も出てないじゃないか」
「こんなところで食べたくないです。築地なら寿司ですけど、ここでしたら小渕沢のインタ-を降りた北側の、キジなべ料理の梶川という店、そこへ行きましょう」
「ダメです。時間がありません。いま、部下にコンビニ弁当を買わせます」
「でしたら、途中で好きなもの買って、食べながら走った方が効率的ですよ」
友美の一言で、達也のボロバンを進藤が運転し、友美の運転するアウディの助手席に達也、という図式で三人は直ちに出立した。