三十九 報告
季節は巡って春五月、明日から大型連休で温泉だの海外旅行だのと周囲が華やいでいるのに、達也は仕事だという。今年もまた友美は淋しく一人で旅に出る。
それでも、達也から夕方六時なら時間がとれる、との電話で、神田の喫茶店ミラ-ジュで待ち合わせ、先に来てデ-トコ-スを考えながらコ-ヒ-を喫んでいた。
「もうすぐ、赤城もくるからね」
マスタ-の多田が、勝手に赤城を呼んだらしい。
こうなると、二人だけのデ-トを楽しむ機会など、ますます遠のいてゆく。
人の噂も七十五日……ましてや百八十日も過ぎると、八子ヶ峰事件や信金強殺事件もとっくに世間から忘れ去られている。だが、友美の取材はまだ完結していない。
崖から転落して死亡したはずの元建設省事務次官の倉橋清吉が、公金横領の濡れ衣を晴らすべく法廷に立つ用意があると名乗り出た。しかし、警察はこの人物が神経疲労による妄想症であるとみなして相手にせず、各警察署にはそのように手配されていた。
連続信金強奪事件で起訴された鴨井恭二は二件の殺人は自分の犯行であると言い張って加山憲一を庇っている。しかし、富士見町信金事件での呉は左利きの加山にスパナで殴られて殺害されたのは間違いない。荒川土手下で射殺された大岩の件は、重傷を負った警備員が目撃していだけに、二人のうちどちらが拳銃を撃ったのかは断定できない。鴨井は結局、懲役二十年を求刑され、懲役十五年の判決で控訴せず、小菅刑務所に収監された。
情報提供者については捜査の結果、鴨井が巧みに女性達から情報を引き出して犯行に利用していたことが判明したために、その氏名および経緯は公表されていない。
笹木洋子は、加山の変死についても関与を否定、元婚約者の加山憲一が信金強盗の共犯であることも知らずに大金を預かったと言い、加山の負債を交渉で値切って利益を得たことも詐欺罪には当たらないと主張して認められ、証拠不十分で起訴にも至らない。
秘書の向後清一は、事務所の資金を一部私用に流用して渡米する寸前に警察に足止めされたが、全額返済によって犯罪性は認められないとされた。
女性月刊誌エルは、保険詐欺、金銭詐取、加山憲一殺人容疑などで、笹木洋子を告発したが、父を失って悲嘆に暮れるフィギアスケ-ト・世界選手権準優勝の栄誉に輝いた元五輪選手を中傷誹謗するのかというFAX、メ-ル、投書の山で、デスクは連載の中止を決断した。スク-プ記事が政府や警察の発表と利害が反したときの反動の恐ろしさは、「殺し記者」と呼ばれる事件専門の記者を経験した者にしか分からない。取材からみた真実と警察が決定した真実とが食い違うからだ。国家機密や閣僚の隠蔽した不正や悪事を暴くには、多少の危険は覚悟しなければならない。事実、友美は車に跳ねられて腕を骨折した過去もあり、友美の取材に深く係わった達也などは銃弾を浴び、防弾チョッキで一命を取り留めたこともある。取材によっては命がけなのだ。この一連の事件での勝ち組は誰だった
のか、その勝者の現在の生きかたは正しい選択だったのか?
あれから半年、もう全ては過去になって忘れられている。
鬼の加川デスクからは、連日「つぎの原稿を早く出せ! さもないとクビだぞ」と、脅されるが、友美のワ-プロには、特ダネという名のタマゴが暗黒の世界から黎明へと巣立つべく熟成されつつはありながら、まだヒナには育たず、まだ空白のままだった。
相変わらずの不精髭で達也が現れ、羨まし気に友美を見た。
「旅行に行くのか? 羨ましいな」
冗談じゃない、達也が多忙だから仕方なく旅に出るのに……だが、顔には出さない。
「たまには息抜きしませんとね」
当然のように、二人の横に多田が割り込んで座った。
「海外旅行の打合せか?」
ごく自然に、自分たちが熱中したあの事件に話が戻る。
「洋子さんは、いま、悲劇の銀メダルなどと言われて、世間の同情を一身に集めていますが、その分、エル社とわたしは敵役になってしまいました」
「でもな、この勝負はまだ終わってないぞ……」
と、達也が嬉しいことを口にする。
「いいか、これからが本番だ。今度こそ徹底的に真実を書くんだぞ」
赤城が勢いよく入って来た。席に着いた早々に珍しく誘う。
「ここじゃゴ-ルデンウイ-クのム-ドが出ません。飲みに行きませんか?」
道一つ隔てた神田駅西口の小料理屋に移動し、いつものペ-スで焼酎の水割りに焼きとり、発泡酒におでんなどから始まって、飲めや歌えやになってくると、友美も絶好調になり機嫌も直って来る。そのうち、絡んで来る他のグル-プの客を達也が殴り飛ばして、顔なじみの店主から「帰ってくれ」と怒鳴られる。その二軒先のラ-メン屋でスタミナラ-メンなど食べるから顔までギラついてさらに元気になる。
「もう一軒行くぞ!」「そうしましょう!」
達也と赤城は喚くが、相変わらずスポンサ-にされた多田が「お開きにするか?」と、これでもまだ解散にはならないが、友美は思い切りよく手を振って三人と別れた。
銀座へ出て、夜景を見ながらブラブラしているうちに酔いが覚めた。
四十 西へ
マンションに帰った友美は、ハ-ブの香る薬用入浴剤でバスタブに身を沈めてアルコ-ルを抜くと、もう迷うことなどない。カメラ、ワ-プロと着替えの衣類などを積み、お気に入りの六枚のCDをセットした愛車に乗り、がら空きの都内から渋滞の東名高速に出てひたすら西へ西へと車を走らせた。
誰に聞いたか「狭山倉吉が徳山に……」と、この話を口にしたとき、友美を見た達也の表情が気になる。もしかしたら、達也は老人の居場所を知っているのではないか? 八子ヶ峰でさり気なく撮って伸ばした美穂と狭山倉吉の顔写真を、それぞれ十枚ほど複写して所持していた。どうしても会ってみたい。なにか胸が騒ぐのだ。
東名高速を走りながら事件の綾を解いてみる。
信金事件の幕は下りた。だが、八子ヶ峰事件はまだ終わっていない。黒幕が送り込んだ殺人者達は、何の罪にも問われず職場に復帰したと聞く。そうなると諏訪湖畔に拉致されて後ろ手に縛られ、上向きに口を開けさせられて薬剤と洋酒を無理やりに流し込まれて殺害された島岡忠彦と狭山三枝子、この二人の無念さは誰が晴らすのか?
この二人の殺害の実行犯は川村土建の幹部社員と作業員の暴力団構成員であり、黒幕は川村健吉と向後と洋子をおいて他にない。しかし、心中事件で解決されているだけに、もはや警察でも真犯人を暴く気などさらさらない。いままで優しかった警察関係者の目も、いまは鋭い記事を書いた友美を冷たく刺している。
八子ヶ峰まで島岡の車を運ぶ途中、オアシス・白樺に立ち寄った男女は、洋子と向後に特定されたが警察の公式な記録には残らない。ただ、コ-ヒ-を飲んだだけでは犯罪を構成しないから、というのがその理由だ。こうして、島岡・狭山三枝子殺しの犯人は完全に姿を消していた。
加山憲一の死も哀れだった。加山殺しの犯人は野沢靖子になっていて、洋子がキスの状態で加山に毒カプセルを飲ませたのではないかという友美の記事や証言は、洋子の否認によって棄却されている。疑わしきは罰せず……刑法の基準がこれならば、洋子は確かに無罪に違いない。こうなると証拠も証明するものもない。しかも、警察での取り調べはすでに完了していて、それを覆すには、ペンの力に頼るしかない。だが、これも無力だった。
なにか、自分を含めて、達也の口癖じゃないが「夢やぶれて」の感がある。
大津で高速を下りて、一泊目は青と白で外壁を統一した琵琶湖ホテルに宿をとる。
六階の部屋から眺めると、夕霞みの桟橋や波避けの堤防で子供たちが、ブル-ギルらしい小物が入れ掛かりで釣れるのを楽しんでいるのが見えた。
家族連れで賑わうホテルのレストランで一人わびしく、和料理と煮ワカサギで酒を重ねているうちに酔いが出て、部屋に戻ってバタンキュ-、夢も見ないでただひたすら眠ったから朝の目覚めは早かった。朝はバイキングで洋食をとり、また西へと旅立った。
神戸の分岐点から海側を走る山陽自動車に入ると渋滞は解消され、快適なドライブとなった。竜野のSAを過ぎると左の眼下はるかに相生湾あたりの海が広がっていて、気分も少し晴れてカ-ステレオから流れるサウンドに合わせて鼻唄が出る。
岡山で一般道路に出て、あちこちと廻って遅い昼食を倉敷の町のしなびた和食の店でとり、以前から希望していた大原美術館に寄り充分に心を癒した。夜は、以前から泊まってみたかったツタの葉の絡まる洒落たホテルに泊まり、ここではワ-プロで仕事をする。
朝八時の出発で午後になって山口県内に入った。
東京から約千キロほどのドライブで気は高ぶっているが疲労感はない。
やがて、車は徳山駅前の一八八号から国道二号線を右折、中国地方随一の動物園や山口放送の建物のある徳山市公園を過ぎ、高畑六丁目と表示のある角を右折して海岸方向に走らせた。カ-ナビが付いてないから直感とラフな地図だけが便りになる。
海岸線は、コンビナ-トと工場と荷揚げ場、鉄材などスクラップの野ざらし倉庫などに占拠され、海の水もどんよりと濁っている。飯場などはどこにもない。
それでも、片っ端から狭山倉吉の写真を見せて聞き込みを続けていると、五、六人の集まりの中で首をひねる者も出た。
「名前は違うが、そういえば一時、ここで働いてたが、いつ消えたんだろうな?」
「近くの徳山亭という和風レストランで、駐車場係りを募集して、そこで働いてたぞ」
「そういえば、このジイさんが徳山亭で車を掃除してるのを見たな」
その店に行くと、経営者の男性が出て来て親切に、転職先を知らせてくれた。
「名前は違ってたけど、本人に間違いないようだな。よく働くジイさんだったが、下関で働いてるという娘が迎えに来て下関に移ったよ。店は赤間神社のすぐ下の海際だ」
地図や電話番号を聞いて、とりあえず会ってみることにした。
ところが、下関市内ではその日、先帝祭りという行事が盛大に行われていて、車は渋滞して遅々として進まない。結局、途中のガソリンスタンドに駐車させてもらって歩くことにしたが、すでに遅い午後になっていた。群衆の中を泳ぐようにかき分けて国道九号線を二十分ほど歩くと、ようやく赤間神社の前にたどり着き、海際の「平安家」とある料亭の門を潜り敷石を踏んで玄関に立つと、本日休業の札がガラスに張られていた。玄関横の小庭を、竹ぼうきで庭を掃除している甚兵衛姿の小柄な老人が友美を見た。
「今日はね、すごい人出で店は休みですじゃ。用件は何じゃね?」
「この人がここで働いているとお聞きしました。狭山倉吉さん、といいます」
「あんた、どっから来たのかね?」
老人が目を細めて友美を見た。
「東京からですが……あ?」
倉吉だった。老人が用心深く友美を見て目を細めた。記憶がまだ残っていたらしい。
「あんたとは山で会っとるな? 佐賀さんの知り合いの……」
「戸田友美です。狭山三枝子さんのお父さんの倉吉さんですね?」
「ここじゃあ佐川だ。美穂さんは、ここでは座間美穂だがね」
「美穂さんもですか? でも、佐賀をよく覚えてましたね?」
「たまに、励ましに来てくれるでな。仕事の都合でとか言って酒もって来て、ここのオヤジとワシと美穂さんの四人で一緒に飲んで行きおるよ」
「佐賀がですか? あきれた……で、狭山さんは、ここで何してるんですか?」
「ここは美穂さんの伯父の店でな。美穂さんがワシを呼んでくれた、住み込みでじゃ」
「美穂さんも住み込みで?」
「いや、お母さんの面倒を見て、小野田の実家から姉さんと車で通ってるだ」
「お父さんは、お亡くなりになられたようですね?」
「ここの海で殺されたそうでな、可哀相に、いつもこの海を見て泣いておるよ」
「美穂さん、今日はお休みですか?」
「姉さんのところに行ってな。もうじき帰って来るじゃろ」
「近くにお姉さんがいらっしゃるんですか?」
「そこの赤間神社で巫女頭をやってられてな」
「巫女頭って、座間由紀さんですか?」
「なんだ、知ってるのかね?」
「以前ですが……平家物語の琵琶語りが話題になったとき、電話でお話ししました」
「耳なし芳一の像のあたりから声が出てたそうだな?」
「マイクがあって……この話、ご存じだったんですか?」
「ここのオヤジのイタズラだったそうじゃ。美穂さんの伯父じゃがね」
「イタズラ? あれは悪質でしたよ」
「警察でも、かなり絞られたって笑っておったよ」
門が開いて美穂が帰って来た。白足袋に草履、白い稽古衣に黒袴姿だった。
「あら、戸田さん!」
「覚えていてくださいましたか?」
「いつも、佐賀さんにノロケられてますからね」
「美穂さん、なにかお稽古ですか?」
「源平海峡祭りの余興で、船遊びをするんです。その後は源平弓大会ですが」
「美穂さんも出るんですか?」
「いや、試合には出ません。戸田さんは、そこの展望台で見ててください」
「ワシが、テレビ屋の隣りに場所を空けさせるでな」
「倉吉さんが、夜明けからテレビ局に頼まれて場所とりしてたんです」
「さ、ワシらは、舟に乗る時間じゃぞ……」
「狭山さんも、舟に乗るんですか?」
「美穂さんを乗せて、ワシは船頭役でな」
老人が人波を分けて料亭横の海に面した広場の海際に行き、テレビ局社員に友美を紹介して場所を確保して去った。プロデュ-サ-の男が友美に挨拶する。
「中国地方放送のキャスタ-だった戸田さんですね?」
かつて、他局にいた友美を覚えていたらしい。特等席だというだけあって海峡が一望できる最高の場所だった。以前は中国地方のテレビ局で活躍していた友美の血が騒ぐ。
近くにいる年配の女性に「観光客ですが……」と、言って行事の内容を聞いてみた。
「ここでの源平の決戦で、安徳天皇がわずか七歳でお亡くなりになったでしょ。その幼帝を祭るお祭りなんですよ。昨日は、このすぐ上の赤間神社で花魁(おいらん)道中がありましてね、今日は源平両船団での舟合戦、源平弓大会と続くんですよ」
あれこれ話している内に海上には船がひしめき、テレビの実況放送が始まった。
四十一 実況放送
年配の女性が小声で解説する。
「例年は録画でニュ-ス扱いなのに、今年に限って全国版の生放送ですって……」
友美の耳に、近くでアナウンスする女性レポ-タ-の声が聞こえた。友美の位置からはテレビモニタ-が目に入る。
「西に傾きかけた真っ赤な太陽が、船団の群れる海峡に淡い金波のゆらぎを映し、夕空には新関門橋が壮大な黒いシルエットをくっきりと描いています。源平の船合戦を再現する海峡祭りは、紅白の旗をなびかせた源平の船団が接近して入り乱れ、船べりを寄せては、歌舞伎役者よろしく踊るように刀を振るい矢のない弓を鳴らす、戦いのクライマックスを迎えております……」
源平に模した、勇壮な武者姿の紅白の船団が、目の前を通過し、船団の中に一際大きく造作も立派な朱塗りの唐船(からふね)が目の前を通過すると、岸辺に群がった大勢の観客が一際大きな声援を送った。友美もいつの間にか夢中で拍手を送っている。
「赤と黄の長い旗を風になびかせた、御座船(みざぶね)には、金糸を散りばめた甲冑姿の平家の武将と、華やかな十二ひとえの衣装に身を包んだ、女官達が見えています。
市民から選ばれた、それぞれの方々が役に成りきっていて、武将や女官に守られて、行年八歳にあらせられた、安徳天皇役の幼い少年も、緊張した面持ちできちんと正座して、見学する大勢の観衆の声援に対して律儀に目礼を返しています。
本日は、お公家姿の山口県知事、県会議員や教育委員会の皆様、地元出身の国会議員、各地からのご招待客の方々など大勢のお客様も参加されています」
年配の女性が友美に囁く。
「あの腹の出たのが知事で、その右隣がここの市長……その右隣のずんぐりタイプの赤ら顔が、作業員殺しと言われる非情冷徹な川村健吉って代議士よ」
小さな漁船が続々と続くと、それにも歓声が飛んだ。しばらく源平の船団がジグザグに併走したりで船祭りは最高潮に達している。そのとき、目の前に進んで来た漁船から、弓を小脇に抱えた白鉢巻きに稽古着姿の美穂が友美に手を振っているのが見えた。
「美穂さん!」
友美が叫ぶと、美穂に続いて、船尾でエンジンと舵を操る倉吉老が手を振った。美穂が手を振りながら何かを叫んでいる。声は聞こえないが口許からは「お元気でえ-!」とも「さよなら-!」とも思える。チラとモニタ-を見ると、画面に大きく勇ましく手を振る美穂が写っていて、カメラがその視線の先の友美をもアップで写し出した。驚いた友美がつい顔を上げ本能的にカメラ目線になる。
アナウンサ-が続ける。
「今を去る八百十年以上もむかしの寿永四年の春でした。旧暦の三月二十四日の正午頃からはじまった源氏と平家の決戦によって、幼くしてこの壇の浦の波間に没した安徳天皇の御霊(みたま)をおなぐさめするための、先帝祭も本日は二日目を迎えております。
紅白の旗をなびかせての源平両船団による舟合戦を迎え、いよいよゴ-ルデンウイ-ク最大のイベントもクライマックスに達しようとしています……」
赤間神宮下の国道九号線から海にせり出た展望台上で、友美の近くにいるアナウンサ-が絶叫する。その視線の先に美穂が乗る舟があった。
「白い旗をなびかせた源氏の小舟のへ先近くに立ち上がって、海風に黒髪をなびかせた白の稽古着に黒袴の女武者が、あたかも、実際に弓矢を放つように、きりりと弓を引き絞ります。あ、弦音高くいま矢が放たれました! あっ、三十メ-トルほど離れた賓客用の御座船から公家姿の男性が、胸に刺さった茶羽根の矢を手にしてよろめいています。これが芝居だとしたら素晴らしい名演技です。周囲から盛大な拍手がとんでいます。しかし、装束が血で染まり、帆柱につかまった男性の表情には苦悶が見えます。大変です、これは演技などではありません。いま、周囲が騒がしくなり悲鳴が沸いています……女武者が、また右手の小指の間に挟んでいた乙矢を弦につがえ、弓を大きく円を描くように引き絞り、全身に溢れる気力を弓に託した矢が、再び風を切って飛び出します。また同じ人の胸に矢
が突き立ち、男性が血を吹いて船べりから海中にもんどりうって転落します! 弓を腰に下ろした女性が御座船を見つめています。海に射落とされた男性は、周囲の叫び声から、当地出身の衆議院議員・川村健吉代議士のもようです。いま、女武者が海上に弓を投げ入れ、船頭の老人と二人で誰にともなく一礼しています。大変な事件が発生しました!」
美穂を乗せた小舟が、海峡を埋めつくす源平の船団の中から、エンジン音を響かせて抜け出して行く。その舟は、潮が変わり流れが速くなった海上に白い航跡を残して対岸の田ノ浦の方角に姿を消した。
アナウンンサ-が気丈に実況を続ける。
「いま、船べりから大勢の人が熊手を出して、落ちた公家姿の川村代議士を引き上げようと懸命ですが、ゆらゆらと海中に沈み行くのを見ながらも潮が早いのか、誰もどうすることができません。いま、川村代議士の安否を気づかって身を乗り出して船べりから落ちた人がいます。それを救助する人が海に飛び込みました。海上は混乱しています。源氏の女武者を乗せた一叟の漁船が残したのは航跡の白泡だけではありません。混乱で収拾のつかなくなった源平の船団と海中に死体を残して去ったのです……」
悲鳴と移動で大騒ぎの中、友美の携帯が鳴り、達也が叫んだ「蓼科にでも行ったかと思ったら、そこで何してるんだ! 美穂さんに挨拶されて、画面にお前のアホ面が映ったから面が割れてるんだぞ。関係者と思われると厄介なことになる
……そこから早く逃げろ!」
「わたしは何も悪いことしてません。それに、胸を射抜かれて……」
「バカ。川村なんか死んだっていい。あの二人が心配なんだ!」
その時、二人の乗る漁船が消えた田ノ浦の島影から赤い炎が上がり、一瞬おいて爆発音が響き噴煙が吹いた。それが二度三度続くと、周囲の悲鳴で電話も聞き取れない。
「聞こえた? 炎と煙でひどい状態なの。美穂さん達が自決したのね?」
「警察に後始末は頼んでおく。事情聴取でグルだと思われると迷惑なんだ!」
「じゃ、このままズラかるわね」
友美は、騒ぎで混乱する現場から離れ、人込みをかき分けながら話を続ける。
「いま、どこにいるの? 携帯に公衆電話って出たわよ」
「どこでもいいだろ。明日四時、ミラ-ジュで待ってるからな」
電話が切れた。公衆電話の周囲が騒がしかったのが気になる。
四十二 最終稿。
給油と食事などで三回ほどSAで小休止しただけで、夕暮れの中国自動車道、夜の名神高速、夜明けの東名と一気に走りきった友美は、朝八時、千キロの距離を走り抜け、ようやく自分のマンションに戻った。身体も心も疲れ切っていて立っていられない。
テレビでは関門海峡でのセンセ-ショナルな殺人事件と、自爆して果てた犯人について新たな情報を挟んでは繰り返し報道している。川村健吉殺害の実行犯は、小野田市居住で犯行現場に近い料亭に勤める島岡美穂であると判明、その美穂の夫が長野県諏訪郡の八子ヶ峰で心中死体で発見されていることから、その事件との関連が取り沙汰されていた。
警察では心中として処理した八子ヶ峰事件での男女を、他殺であると発表した友美の月刊エル誌の記事を読んでの大論争があったのはまだ人々の記憶に新しい。さらに新事実が明らかになるにつれて、事件の謎は深まって行く。
アナウンサ-の声が上ずっている。
「川村代議士を狙った動機については痴情説や怨恨説など、いまのところ、情報が錯綜していて真相は誰にも分かりません。ところが、犯人と行動を共にした舵取りの老人が、同じ料亭に住み込む狭山倉吉と判明した時点で、局面はいま大きく変化しています。この関門海峡殺人事件の犯人が、八子ヶ峰で心中とされた島岡忠彦の妻・美穂と、狭山三枝子の父・倉吉と判明しました。そうなると、その因果関係については簡単明瞭な図式が浮かび上がって来ます。これは、平成の「仇討ち!」とでも表現すべきでしょうか? 問題は、なぜ川村健吉が狙われたか、に尽きると思います」
事件の推移も知りたかったが睡魔には勝てない。
熱いシャワ-を浴び、目覚ましを午後二時にセットしてベッドに倒れこむと、意識は深い闇に吸い込まれて途絶え、三段音のベルが最高音になるまで目覚めを知らなかった。
即席のカレ-ライスで空腹を埋め、疲労の抜けないやつれ顔を薄いパックで隠して、喫茶店「ミラ-ジュ」に行くと、珍しく達也が先に来ていた。
「大変だったな」
「途中で仮眠しようと思ったけど、あの二人が哀れで眠れなかったの。誰が、美穂さんと狭山さんの骨を誰が拾ったのかしら?」
「骨は拾えん。あの小舟に多量のダイナマイトだと、何もかも吹っ飛んで、骨も肉もバラバラになり関門海峡の潮の流れに乗って魚の餌になるまで彷徨うのだ」
「あなたは時々下関まで行って、美穂さん達と会ってたそうですね?」
「ま、たまに関西出張があるときに足を伸ばしただけさ」
顔なじみのウエイトレスがコ-ヒ-を運んできた。
「マスタ-は?」
「さっき、東京駅から電話がありましたからもう戻ります」
「どこに出掛けたの?」
「新幹線で昨日の朝、休暇で観光だとか言って赤城さんと下関に行きました」
ウエイトレスが去ると友美が首を傾げて達也に聞いた。
「昨日の朝って、事件の前でしょ?」
「観光だから偶然だろ……お前だって偶然に現場にいたじゃないか?」
喫茶店内に一つだけある壁掛けテレビからニュ-スが流れている。画面では、美穂と倉吉老を一度に失った料亭-平和家の経営者・座間高吉が悲しげに語っている。
「姪の美穂は父と夫を、狭山老人は娘を川村健吉に殺されたと言ってました……」
このコメントで、レポ-タ-が勝手な憶測を交えて騒ぎを大きくしている。
この猟奇的な殺人のニュ-スは、昨夜から繰り返し取り上げられていた。しかも、川村健吉を殺害した島岡美穂の夫忠彦が、公金横領事件の疑惑を背負ったまま不審な心中死体で発見された猟奇的な事件と、かつて県会議員であった美穂の父座間武吉がこの海峡で無惨な溺死体で発見された過去との関連が取り沙汰されて、わずか半日でマスコミの報道には川村健吉に対する疑惑が色濃く出始めていた。
島岡美穂の死を賭けて正義を訴えた真摯な表情は、事情を知らない者にまで熱くなって伝わって来る。それでなくても、その女武者が舵取りの老人と共に自爆して果てているだけに、世間の人にも妙な共感を呼び「女武者・島岡美穂が悪代官川村健吉を誅伐す」との図式がごく自然に出来上がりつつあった。
アナウンサ-の声がやや興奮気味なのも、事件の大きさを物語っている。
「この事件の発生直後に、元警視庁関係者からの内部告発によりますと、旧建設省をめぐる二十億円とも言われる不明金は、川村健吉らを中心とする建設族議員の利権温存のための公金隠しであり、その利得は官房長官を通じて官邸にまで及んでいるといいます。
それが事実だとしますと、すでに死亡した元建設省事務次官の倉橋清吉と、元代議士秘書の島岡忠彦、狭山三枝子の死因についても新たな疑問が生じることになり、川村代議士殺害後に狭山倉吉と共に自爆して果てた島岡美穂は、夫の殺害の黒幕を川村健吉と確信しての計画的犯行とも憶測されます。とくに、共犯と見られる老人が、島岡美穂の夫と一緒に死んだ狭山三枝子の父と判明するに及んで、ますます謎は深まります。この事件の投じた一石の波紋は、どこまで広がるか予断を許しません」
友美は、最終稿の内容に思いをめぐらしていた。
数カ月前に連載した『八子ヶ峰事件謀殺説』では、心中とされた二人を拉致し殺害した実行犯は男七名、見聞役の男三名、二人に偽装して捜査の迷彩役を演じた男女二名の計十二名を仮名で記事にしたため、それと推察される川村土木の社員および下請け作業員、向後清一と笹木洋子からも名誉毀損で訴えられ、警察にも取り調べを受けていた。
やがて、多田が疲れた顔で帰って来た。
「料亭のオヤジと葬式の手配をしてたら、倉橋が来てな……」
「そうか、早かったな」
「倉橋から佐賀に伝言だが、順調に指示通り推移してる、とさ。どういう意味だ?」
「ま、市民権回復のために行動するってことだ。赤城は?」
「今朝から下関署に乗り込んで、川村土建のヤツらを一斉に呼んで調べてる。殺害現場の靴跡やタバコなどからも証拠は出てるし、多分、島岡殺しの自供が取れると思うよ」
「巫女の由紀さんは?」
「倉橋と何やら話してたが内容までは知らん」
友美は不服だった。自分の知らないところで状況は大きく動いている。
「みんなで何を企んでるの?」
多田が代弁する。
「美穂さんと狭山のジイさんの死をムダにしないためと、島村の恨みを晴らすためにも、川村の旧悪から洗い出して官公庁と政治家との癒着をあぶり出す戦略を考えたんだ。しかし、これには、友美さんのペンの力が一番大切なんだからね。頼みますよ」
「そうだったの……」
単純に喜ぶほどではないが、ともあれ友美の機嫌は直った。
「結局、裏で悪事の糸を引いていた川村健吉も、天罰には逃げ切れませんでしたね。一人勝ちかと思ってましたが……」
「一人勝ちは富士見の母狐さ。でもあの人も孤独だろうな」と、多田が同情する。
「夢破れて帰るべき家なし……か」と、達也が呟く。
「あなたの帰るところぐらいは、いつでも用意してあります」
いま、友美の心も迷走したこの事件の結末に揺れていた。もう一度、八子ヶ峰事件と信金強殺事件を検証して、まだ迷いは消えないが、この海峡での悲劇で結ぶのだ。
「あなたの顔を見てたら、なんだか落ち着きました。帰って仕事をします」
「なんだ、食事ぐらい一緒にできないのか?」
「原稿料が入ったらわたしが御馳走します」
友美は勢いよく腰を上げた。
地下鉄で銀座に出ようと神田駅の階段を降りかけたところでなぜか目まいがした。望まぬ結果ではあったがひとまず事件の幕が降り、今まで持続した緊張がほぐれて一気に疲れが出たのかも知れない。意識が薄れるのに耐えて人通りを避けて壁に寄りかかりていると携帯が震えた。反射的に応じると、死んだはずの美穂の声が低く聞こえる。
「美穂です。巫女頭の姉が戸田さんは怪談を信じないと言ってましたので霊界からなどと冗談は言いませんが、お別れに一言だけお礼を言いたかったので、お電話しました。
わたしはあれから何度も自殺しようと思いましたが、あなたが島岡の無実を月刊誌に掲載してくれて、その記事に励まされて生き抜き、思いを達しました。心から感謝しています……いま、佐賀さんに手配して頂いた貨物船に便乗して小野田港を出るところです。
行き先は申し上げませんが東南アジアのある国です。別名で家族三人、完璧なパスポ-トと移住先の住民票もあります。身分証明書上で夫になる倉橋さんと父の狭山さんが横にいて戸田さんによろしく、と言っています。なんだか本当の家族になりそうです。では、佐賀さんと末永くお幸せに……」
電話が切れた。
そこで意識が戻って発進先を見ると番号か非通知とあるべき位置に文字がない。いま、確かに美穂の声を聞いたはずなのに。これは夢なのか? いま電話を受けたことすらも幻覚と思えてくる。これは夢か、幻なのか?
友美は動こうとしたが金縛りにあったように身体が動かない。友美の身体中を恐怖が突き抜け背筋が寒くなった。仕方なく壁に寄り掛かって目を閉じると、駅周辺の雑踏に混じってどこからか琵琶法師の語りが聞こえて来る。
「おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし……」
この瞬間、怪談を信じないはずの友美が「美穂の霊」を感じた。
目を開くと迷いは消えている。美穂の言葉がどうであれ現時点では真実は闇の中だ。こうなれば迷わずに、関門海峡で自爆して果てたことにして二人を美しく悼んで記事を書くのだ。真実は、達也らが仕組んだ芝居には違いがないのだが……。
ともあれ、これで友美もようやく最終稿に突入できる。
元気を取り戻した友美は、ジ-ンズの歩幅も大きくさっそうと階段を降りた。
了