二十 それぞれの思惑
「その1」
千代田区神田の錦町マンションにあるエル出版では、友美と鬼の加川デスクが机を叩いて大声でどなり合っている。いつものことだから周囲の社員は誰も気にしない。
「バカもの! 密入国ルポ、心中事件、今度は信金強殺事件に変更だと?」
「いけませんか?」
「いつもこの手で予算を食いつぶしてるじゃないか!」
「不良外人が絡んで下手すると国家転覆です。取材費をケチらないでください!」
「ダメだ。出来高払いだって言っただろ」
「じゃ、やめますか?」
「誰がやめろと言った。やる以上はな、警察を出し抜いて来い!」
「いいんですか?」
「その代わり、経費は節約だぞ、いいな!」
友美が素直に頷いた。
「その2」
千代田区永田町の日枝神社裏、国会議事堂駅に近いレンガ色の永田町パレロワイヤル、
その三階三〇六室の警備会社メガロガの会議室では、他の社員を無視して達也と社長の田
島源一が向かい合って口からツバを飛ばして議論している。
「一介の警備会社が、警視庁の裏金で信金事件の捜査なんて変でしょうが!」
「何度言わせる。これは、あくまでも例外なんだ。この話は、当社顧問の谷口先生からの
たっての依頼だぞ。しかも佐賀がご指名なんだ。嬉しくないのか?」
谷口元警視庁副総監は、警備会社メガロガの顧問なのだ。
「こんなことが一般にバレたら警察の威信が一気に失墜しますよ!」
「だからといって、このまま放置するとピッキング強盗から信金強盗、銀行襲撃、やがて
は暴動が起こって政府も転覆しかねない。何としても中国人を含むアジア系密航者の犯罪
を防ぐんだ」
「そんなの警察の仕事ですよ」
「しかし、警察より先に犯人を特定すれば当社は儲かる」
「利益より正義です!」
「正義より利益だ! いや、その両方だな。危険だが、生命保険には入れてある」
「受取人は?」
「ワシだ」
「冗談じゃない。すぐ友美名義に変えてください」
「籍も入れてないくせに、それに別れたら他人だぞ」
「あいつの親に一人娘との結婚を反対されたから、少し距離を置いただけです」
「バツ一だから信用されてないんだ!」
「そんなに信用ないなら、こんな会社辞めます」
「仕事と一緒にするな。まあいい、友美さんの名義に変えておく」
こうして達也も本格的にこの事件にまきこまれた。
「その3」
赤坂の雑居ビルの九階の一室、ドア-には金看板で「鴨井興行事務所」とある。
タレント事務所とは名ばかりで、出張ダンス教室主宰の鴨井恭二と秘書を兼ねたAV女優の野沢靖子、机を借りているタレントの加山憲一と、三人だけの事務所だった。その四
LDKの奥の部屋では、鴨井恭二と加山憲一が争っていた。
テ-ブルの上から百万円の束をバッグに詰めていた加山が鴨井を睨む。
「……五億の半分は二億五千万だろ? 二億じゃ少ないじゃないか?」
「今回は情報提供者がダブった。それに一人殺したからな。黒世会の組織はそんなに甘く
ないぞ。金で解決しておかないとかならずオレ達を狙って来るからな、その前に充分に呉
の葬式料を出して和解しとくんだ。おまえだってまだ死にたくないだろ?」
「少しあてが狂った。同級生のよしみで、あと何回か手伝ってくれ」
「いい加減にしろ。まだ殺生や危険な思いをしたいのか? お前がどうしても金が欲しい
って言うから手伝ったのに、まだオレを危険な目に合わせるのか?」
「もう少しで資金のメドがつく。俳優としても頑張るから」
「冗談だろ。仕事なんか芸能スキャンダルのインタビュ-だけじゃないか? 早く入籍し
て娘の財産を巻き上げろ。早くしないと、あの偏屈な代議士に娘と別れさせられるぞ」
「だから、あと何回か手伝ってくれって頼んでるだろ」
「もう終わりだ。こんな悪事はオレの性に合わん」
「そう言うな。もう一回だけだから」
「考えとく。靖子、加山を下まで送ってやれ」
加山がバッグを持って立ち上がり部屋を出ると、別室で仕事をしていた秘書の野沢靖子が後を追う。エレベ-タ-のドア-が閉まると、待ちかねたように靖子が無言で長身の加山の首に手をまわし、舌を入れて熱いキスを交わし手を絡めて甘える。
「今晩はダメ?」
「忙しいんだ。しばらく鴨井の相手をしてろ」
「あの、スケ-ト娘を仕込んでるんでしょ?」
「気にするな。おまえのためにやってることじゃないか……」
「そうかしら? このままだと、あたし本当に鴨井の女になっちゃうわよ」
「それで、からだが持つなら勝手にしろ」
「そうね、鴨井じゃ物足りないかな……やっぱり待ってるわ」
九階の事務所に戻った靖子は、外出中の木札を出して鍵をロックした。室内灯を消して
まっすぐ鴨井に近づき、豊満なバストを押しつけてソフアまで鴨井を押し、そのまま倒れ
込む。ハイヒ-ルを脱ぎ捨てた足を絡ませて甘えながら、鴨井のベルトを緩める。
「あたしを一流の女優にするって約束したのに、どうなってるの? 加山があの娘と結婚
して大金持ちになったら、あの娘を消して、あたし、また加山のところに逆戻りよ」
「いずれ、オレとお前は一緒になる筋書きだ。安心しな」
身体を入れ換えて、靖子をソフア-に押し倒し背中のファスナ-を引き下ろすと、暗い
室内でもきめの細かい白い肌がむき出しになる。靖子が妖しげな微笑みを見せた。
「その4」
鴨井興行から近い乃木坂の自分のマンションに戻った加山は、応接のイスに二億円入り
の大型バッグを置き、その上に脱いだ背広を放り投げると、テ-ブルの上の電話から受話
器を持ち短縮番号をプッシュし、猫撫で声で語りかける。
「洋子さん? 大型貿易の口利き料が二億入ったんだ。いま、そっちのマンションに届け
るから、リストを見て金額の見合う相手と話し合い、借金を返してくれ。まだ大口の商談
が残ってるんだ。一日もはやく完済してご両親に結婚を許可させるからな……」
加山が電話をしながら汗を拭った。
二十一 取り引き
笹木議員事務所は、永田町の衆議院議員第一会館・五階五〇X室にある。
常勤の第一秘書・向後清一は自他共に認める笹木多三郎の後継者であり、親戚の久美子
夫人の推薦で第二秘書になった久保伸太郎も中大法科出身の英才で、父は高原信金庫の支
店長を勤めている。私設秘書には月に二度ほど遊びに来る笹木洋子、政策秘書となると名
義借りで誰も顔を見たこともない。
奥の応接では、笹木多三郎代議士、山口県下関の川村土木建設会社の陰のオ-ナ-であ
る川村健吉代議士、そして、建設省の外郭団体である東洋橋梁建設事業団の五島武理事長
が顔を会わせていた。とくに下関に生まれて大阪で育ち学生時代から稼ぐことを知ってい
た川村はとくに利に鋭い。
三人は時折、こうして集まっては業界の動向をダシに、どうやったら国民から絞った税
金から億単位の金を掠め取れるかを画策するのだ。五島理事長が昔を懐かしむ。
「まったく今の行革狂いの総理には参りましたな……公共投資の引き締めで、橋や道路が
工事中断のままですぞ。かつては、レインボ-ブリッジ、新関門橋、四国本州橋梁公団の
明石海峡大橋や諫早干拓の堤防の付帯工事と矢継ぎ早に見込み通りの金額で川村土木が落
札し、それを笹木土木が丸投げで請け負って大儲け、その逆もありましたが、ともあれ、
お二人の手腕は見事でした。それと、どこで集めるのか知らんが、東南アジア系労務者を
充分に集めての労働力超低賃金化人海戦術、あれじゃあ他社が尻尾を巻いて逃げるのも無
理ないですわ。それにしても、あの夢のような時代が懐かしいですな」
「たしかに先生のおっしゃる通り、川村くんの行動力と政治手腕、それと低賃金労働者、
先端技術は五島先生のお力添えで完璧ですからな。古い話ですが明石海峡大橋の件などで
も、神戸側のアンカレイジを十四万トンの引張力に耐えるように思い切って大きくして計
算したことなど、五島先生の指導する東洋橋梁建設橋梁技術部の示した見事な力学理論の
証明が成功につながったわけですからな」
「それは、お二人にこうして軍資金を出して貰ってるからです」
「軍資金なんて、これは感謝の気持ちです。先生のお蔭でこうして、ワシら二社は建設業
界大不況の中にあって生き抜くことができた。とにかく、五島先生には心から感謝してま
すよ。そうだな、川村くん……」
「まったく笹木さんの言う通りですわ。五島先生の指示通りの入札価格で他社を蹴散らし
て何度も落札して、大いに儲けさせていただいとります。うちの場合は、何と言うても労
働力という人的資源をがっちりと掴んでおられた笹木先生と組んだことが、大手ゼネコン
を差し置いて大仕事を成功させたものと思うとります。しかし、この不況、いまは土建業
はカンコ鳥です。われわれにも倒産の危機は近づいとるのです」
「いや、大丈夫。談合入札が厳しくなった昨今でも、あの低賃金の労働力がある限り、お
二人の会社だけが低価格落札で儲かりますからな。今までの実績を生かして、激減した公
民館や医療厚生施設などの受注を二社で独占して大いに稼いでくれたまえ」
笹木が秘書の久保伸太郎に言いつけて、用意した大型のバッグを運ばせた。
「お約束の物です。赤坂に宴席を設けましたが、ご多用とあれば仕方ありません。ご都合
の宜しいときにいつでも声をかけてください」
「では、ワシはこれで……寄るところがあるもんでな」
いままでの謙虚さと打って変わって、五島が横柄な態度で立ち上がるとバッグを重そう
に抱えて、挨拶もそこそこに向後が押し開いたドア-の外に出て立ち去った。
五島の足音が消えるのを待って、久保に運ばせたビ-ルで乾杯する。
「多分、あの先生は、昔から続いてる新橋のコレのところへ寄るんやろ……」
こう言って小指を立てた川村が「心配があるんやけど……」と、切り出した。
「ワイの会社が無事に来られたのは、あんたんとこで大量に斡旋してくれたアジア系労働
者の超格安労賃のお陰で人件費が大幅に浮いたからや。彼らが密入国か不法残留かは知ら
んが、ほんまに助かったわ。そやけど、あの斡旋の窓口は今後も大丈夫なんかね?」
「あれは、島岡が、彼らの生活支援のために作ったル-トだからな」
「あの連中は、ほとんどが不法滞在者だったから連絡も避けるし……ワイも何度か、現場
のボスに頼んでみたが、みな冷たく断りよるし、窓口は島岡以外には交渉できんシステム
になっておってどうにもならんかった。ただ、島岡に必要な人数、仕事の内容と日時を知
らせると、間違いなく必要な労務者が揃うとった。えらい信頼関係ですな。これからも、
向後はんで大丈夫かね?」
「ワシは、そんな細かいことまでは知らん。向後、どうだね?」
笹木が、入り口に近い秘書室に声をかけると、向後がポツリと言った。
「彼らとの連絡方法は島岡だけしか知りませんでしたが、先生の奥さんが外国労働者派遣
の契約に裏保証してるようでした」
「なんだったって? 家内が裏保証ってどういうことだね?」
「前金支払いの他に、死亡事故やケガなどのために保証金を預けてたようです」
「夫婦で知らんかったのか?」
笹木代議士が驚き、川村が呆れる。
「ともかく、久美子はんが組織とパイプがあるのを聞いて安心しましたわ」
向後が念を押す。
「ただし、間に島岡がいて、奥さんが彼らと接触する機会はなかったようです」
「なら、そのル-トは、もう消滅しとるんか?」
「相手も生活がありますから必ず接触してきます。心配はありません」
「労賃の差益で稼いできたワイの会社としても、存亡の危機にもなる問題やからな」
「島岡が、こんなときに死んでしまって……」 笹木が慨嘆する。
「ま、島岡はんの犠牲で関係者はみな安泰や……飽きた女と一緒に、秘書に横領の罪を被
せて始末するなんて、笹木はん以外には出来んと、仲間うちではえらい評判や」
「なにを言う、まるで、ワシが島岡を始末したように聞こえるじゃないか。ましてや、あ
の女にだけは……心底から惚れてたんだぞ」
「女はあかん。あんただって、今の幹事長をはじめ何人もの実力者が女で総理を棒に振っ
たのをその目で見とるやないか。ワイは別だが」
久保が厚手の紙袋を運んで来た。
「じゃ、約束の五千万だ。気をつけて帰ってくれ」
用意した大袋を笹木が手渡すと、川村の頬が緩んだ。
二十二 向島信金事件
みぞれまじりの冷たく強い雨が降る晩秋の遅い午後、墨田区京島地区をゆっくりと走る
黒い乗用車がある。その車は、向島警察署のすぐ先の交差点を明治通りに入って左折し、
全都信用金庫京島支店の看板のある駐車場入り口から十メ-トルほど手前の左側で徐行し
て停まった。エンジンもワイパ-も作動させたままで何かを待つ。
運転席の加山が黒手袋のまま窓を開けて、バックミラ-の鏡面を拭いたが、雨粒ですぐ
曇るのを見てあきらめて窓を閉めた。鴨井はあわてる風もなく黒手袋の指でタバコをくゆ
らせている。加山もタバコをとり出すのを見て鴨井が言った。
「多分、この雨で渋滞も計算に入れると、あと二十分は遅れるかも知れんぞ。だが、一服
してる間も目を離すなよ。来たらすぐ火を消して仕事にかかるんだ」
それから何本かタバコを吸って、三十分ほど過ぎた。強い雨で車内をのぞかれる恐れは
ないから目出し帽は頭に折ってある。
男たちは、暗い車内で腕時計とバックミラ-を交互ににらんで現金輸送車のワゴン車が
現れるのを待つが、雨に濡れたバックミラ-はぼやけて視界が通らず、車も来ない。
「鴨井、諏訪の高原信金本店からという情報はたしかなのか?」
「当たり前だ。そろそろ来るはずだが、この雨だからな」
「たしか、四億円て言ったよな?」
「間違いない。笹木が自分の金を利ザヤ稼ぎに貸す金なんだ」
「都内の信金が、金利を払って地方の信金からたったの四億円を借りるのか?」
「どこの金融機関も、日銀には締められて今はワラをもつかむ状態なんだろうさ」
「ところで、この四億が入ったら、オレの取り分はいくらだ?」
「二割が情報料で、おまえは四割で一億六千万、これで何とかしろ」
「鴨井の分をそっくり貸してくれれば、借金のケリがついて笹木に籍が入るんだがな」
「なるほど、相談に乗ってもいいが高利だぞ。結婚したら倍返しだがいいか? そのぐら
いの価値はあるだろ?」
「現金・預金は知らんが成城の豪邸、広大な富士見の実家、こんど買った六本木のマンシ
ョン、軽井沢と中伊豆の別荘、高原中央信用金庫と笹木土建の持ち株、有価証券と国債な
ども含めた総資産は、洋子の口ぶりから察してざっと見積っても数千億かな。あのオヤジ
さえ消せば、思いのままさ……」
「老いぼれはオレが引き受けるが、母親はどうする?」
「二人も消したら、オレみたいな善人を世間の目が怪しむだろう。なんたって俳優ってえ
のは人気商売だからな。母親だって女だ、たらし込むから大丈夫だ」
「俳優って言うが、いつ映画や芝居に出てる? お前はただのタレントだろ?」
やがて、彼らが得ていた情報より五十分ほど遅れて警備会社の現金輸送用ワゴン車が彼
らの車の横を通り、徐行して目の前の信用金庫の駐車場に左折して入って行く。情報通り
長野ナンバ-で車体に東洋通運のネ-ムが入っているから間違いない。二人は吸いかけの
タバコの火を備え付けの灰皿に押し潰して消した。
「目だし帽を被れ、武器の用意が出来たら発進させろ」
鴨井は上着の裏ポケットから拳銃をとり出して装弾を確かめ、運転席の加山は目配せを
した。二人は、帽子風に折ってあった目出し帽の裾を下ろして顔を隠した。
「ヤツらが降りる前に予定通りに、オレが車ごとやるから付いて来い」
車がすぐ先の信金駐車場に左折して入って行き、現金輸送車の横にまわって停まった、
非常警報設置のパネルが見え、裏口に近い位置に停まったワゴン車の助手席の内側で添乗
の警備員が車内でビニ-ルコ-トに袖を通そうとしているのが見える。
車から走り出た目出し帽の鴨井が現金輸送車の助手席側を急襲し、拳銃で助手席でコ-
トを着ていた警備員の顔を殴りつけ、抵抗するのを胸ぐらをつかんで押しつけて狭くなっ
た助手席に無理に乗り込み、運転手に拳銃を突きつけた。
「ハヤク車ヲ出セ。ソコヲ出テ左折ダ!」
信金の裏口内で現金輸送車の到着を待っていた社員が、車の音に気づいたのかドア-を
開けて姿を現し、のんびりと傘を広げている。
わずか数秒。異変に気づいた社員たちの罵声と騒ぎを背後に、二台の車は駐車場を出て
左折し、豪雨の明治通りを白ひげ橋方向に走る。抜き去る車も後続車も雨のせいでか現金
輸送車の目だし帽で拳銃を持った賊にも、それに続く盗難車にも気づく気配がない。
二台の車は、明治通りを曳き舟通り手前の交差点で右折し、荒川土手南岸木根川橋手前
から河川敷に下りた。やがて、八広運動場沿いに京成線鉄橋の下で停まる。冷たいみぞれ
雨の中だけに遊ぶ人影もなく、車も人も視界の中にはまったく見えない。
現金輸送車の助手席でがっしりした体格の主犯の男が拳銃を構えて、警備員を引きずり
下ろそうとすると、運転手の男がいきなりドア-を開けて外に逃げようとして転び、あわ
てて立ち上がった。それを見て、追尾して来た車の運転席から長身の男がとび下りて追い
つき、左手に持ったスパナで背後から頭を思いっきり殴った。短い声を発して倒れた運転
手は頭を抱えて呻いた。
主犯の男に引きずり出された警備員がもみ合うと、首領らしい男の手から拳銃がこぼれ
落ちた。長身の男がスパナを捨てて拳銃を拾うと、迷わずに警備員の頭を撃ち抜いた。
「モウ、アナタ用済ミネ」
撃たれた男は即死なのか声もなく、濡れた雑草の上に崩れ落ちると、朱色の血が雨で薄
まって広がった。ただ、この瞬間をスパナで強打されて倒れた運転手は見ていない。主犯
の男が拳銃を撃ったと感じて恐怖の中で意識を失った。
頭上を電車の轟音が響いて通り過ぎる。
犯人二人の乗った現金輸送車は、大型の布袋を何個か積んだまま雨の中に消えた。黒い
乗用車は乗り捨てられ、運転手の死体、苦しそうに呻く警備員を無情な雨が叩く。すでに
夕闇の迫る荒川土手南岸には近寄る人もない。
陰湿でうすら寒い闇が迫っていた。
夜、中央区湊のマンションの一室、友美がテレビ画面のニュ-スを眺めていた。
「本日、午後四時三〇分前後、墨田区京島二丁目の全都信用金庫京島支店に向かった東洋
通運の現金輸送車が、信用金庫の駐車場に入ったところを、待ち伏せしていた目出し帽を
かぶった二人組の男に襲われ、現金五億円を奪われました。
助手席にいた東関東特殊警備会社社員の大岩英二さん・三十八歳が射殺され、運転手の
矢野善吾さんは凶器で頭を殴られて全治三カ月の重傷を負っております。
重傷を負った矢野さんが土手際の民家まで這って、警察への通報を求めたもので、警察
では各主要道路に検問を設けて、犯行に使われた黒い乗用車を追っています。病床にある
矢野さんの話によると、犯人は、たどたどしい日本語を話すアジア系らしい頑丈な約百七
十センチの男が拳銃を、コロンの匂う約百八十センチと長身の男が左手でスパナらしい凶
器を用いたとのことです。
高原信用金庫富士見町支店の五億万円強奪事件の犯人も、拳銃やスパナ風の凶器を用い
ており、この二つの事件は、手口からみても同一の犯人によるものと思われます」
友美は思わずパソコンの手を止めて、画面を見つめた。
赤色灯を回転させたパトカ-が、現金輸送車と死体のある河川敷に集結している。小雨
になった荒川土手下ではパトカ-や鑑識の車など警察の車両が群れ、夜を徹しての捜査が
開始されていた。それを遠巻きにしてマスコミ各社の取材班も数を増していた。
「さあ、仕事だ」
立ち上がった友美は、襟元にショ-ルを巻いて鏡を眺め「うん!」と頷き、傘を斜めに
月極め契約の青空車庫に走った。
新佃橋を渡り、四つ目道路から水戸街道に出て、一気に荒川土手に車を乗り入れる。
所轄の警視庁向島警察署の捜査課が総出らしく、大変な騒ぎになっていて、立入禁止の
テ-プ内側の殺人現場を、用意された野外用照明が明るく照らしていた。
本庁から出動した捜査一課数班に混じって、四課の赤城警部補も現場にいた。暴力団関
係者の犯行である可能性があるからだ。
非公式に信金事件調査を受けた民間会社メガロガの佐賀達也も、当然のように愛車のボ
ロバンでとばして来ている。雨が汚れた車を洗うから達也は雨が好きだった。
顔見知りの刑事と挨拶を交わす友美を見て、赤城が近づき経緯と状況を説明する。現場
の凄惨さの影響もあったが、青い傘のせいで友美の顔が青ざめて見える。
鑑識の写真班のフラッシュの下で、雨で流れた警備員の血が大きく広がって草地を朱で
染めながら窪みを流れたいた。
友美も小型カメラを取り出してシャッタ-を切り、何枚目かに犯人が乗り捨てた盗難車
と思われる黒い乗用車にカメラを向けた。そのとき突然、助手席側のドア-が開き、見慣
れた髭面の男が間の抜けた顔を出した。友美は思わずシャッタ-を切る。
至近距離の目の前で光ったフラッシュに怒った男が、顔を手で覆って怒鳴った。
「いい加減にしろっ! 犯人じゃねえぞ」
それが、達也だったから友美が驚いた。
「なにをしてるの、こんなところで……」
友美に気づいて照れ笑いを見せた達也が、短刀の柄でも握るように片手をジャケットで
隠した妙な恰好で降りて来る。入れ違いに所轄の刑事が車内に入った。
達也は、友美の傘の中に入って雨を避け、その背後にいて何やら達也に話しかける赤城
を挨拶抜きで手招きした。
「それ、なんですか……?」
「これだ、すぐ鑑識にまわしてオアシス・白樺から出た唾液と合わせてみてくれ。この事
件とは関係ないかも知れんがな」
達也はジャケットの下から白手袋の手で持った車の灰皿を、大切そうに取り出してポケ
ットのハンカチを探したが、いつも通り持っていないのに気づき、友美の肩口に掛かった
ダンヒルのショ-ルを目にして手をのばした。
「これ借りるよ。あとで、また買ってやるからな」
呆気にとられた友美は言葉も出ない。達也に買って貰った記憶などまるでないから無性
に腹が立つ。達也が灰皿を包みながら声をひそめる。
「いいか赤城……中に吸殻が十本ぐらいあるが、数センチしか吸ってなくて、火を消すの
に潰すように力が入っている長いのが二本ある。こいつは犯行寸前にあわてて消したって
ことで明らかに犯人のものだ。頼むぞ」
「こいつは証拠隠滅、窃盗、捜査妨害、公務執行妨害ですよ」
「所轄に任せたてたら、敵に高飛びされちゃうぞ。すぐ庁の鑑識で調べてくれ」
その夜、「現金輸送車強盗殺人事件捜査本部」の看板が向島警察署に出た。
続く。