第一章 八子ケ峰心中 Tweet Pocket 一、序 ある新聞の囲み記事に、つぎのような一文が掲載されていた。 「秋も深まる十月中旬のX日、下関警察署に妙な通報があった。 関門海峡の壇の浦を見下ろす赤間神社の境内から、月のない夜の午前一時頃になると、平家滅亡の物語が、悲しげな琵琶の音と語りで「……おごれる者久しからず……ただ春の夜の夢のごとし……」 と、陰々滅々と枝葉を揺する風に乗って聞こえてくる。 怯えた付近の住民からは子供がノイロ-ゼになるなどの苦情が警察にも寄せられた。その不気味な声は、戦いに破れて彷徨う平家一族の怨霊との約束を違えて耳を切り落とされ、未来永劫に平家一門の盛衰を語り継がねばならない宿命の琵琶法師・耳なし芳一の声だという。ただ、その内容が気になる。 琵琶法師の語りが、平家物語の途中から新関門海峡大橋の難工事で、事故や過労で死亡してボロ屑のように海に投げ捨てられた作業員やアジア系労働者などの恨みを語り、大型工事の受注と労働賃金の搾取で巨利を得たと噂される地元の代議士を糾弾している。 耳なし芳一の像は、境内西側の壇の浦源平合戦記念館の前にある小屋の中にあり、芳一の霊は、幼くして関門海峡に逝った安徳天皇や平家一門と共に静かな眠りについている。その眠りを何者かが妨げたことによって、芳一の霊が蘇ったとの説も出ていた。 はじめ警察では取り合わなかったが、頻繁に苦情の電話が続くので地元交番の巡査部長がある夜、地元町内自治会役員を伴って調べに行った。すると、赤間神社下の階段を登って最初の門を潜ったところで全員の耳に、冷たい夜風に乗って琵琶の音と重く沈んだ語りが確かに聞こえてきた。それを聞いて身体中に悪寒が走った自治会の役員が、金縛りにあったのか足が竦んで動けなくなったのだ。巡査部長が介抱していると、やがて琵琶も語りも絶えて風が収まり役員も元通りに回復したので、全員があわてて逃げ帰ったという。 翌日、巡査部長が改めて赤間神社に調べに行くと、宮司もその噂は知っていて「この不況や庶民の苦しみも知らずに奢り高ぶる人へのメッセ-ジかも知れませんな」と、真顔で応じた。結局、この噂の真偽はいまだに確かめられていない」 この記事に興味をもった東京神田錦町に本社のあるエル社の月刊エル誌専属の契約ライタ-・戸田友美は、その赤間神社に電話を入れ、「怪談など信じませんが…」と切り出して聞くと、座間由紀という巫女頭がその後の経緯を話してくれた。 「あれから数日後の昼間、交番のお巡りさんと自治会の役員さんが来ましたので、宮司とわたしが立ち会いまして現場を調べたんです。そうしましたら、耳なし芳一の小屋の裏のケヤキの枝に小型スピ-カ-が置かれていてビックリしました。コ-ドが木の幹を伝わって地上に垂れていましたが再生機はどこにもありませんでした。結局、警察の方も、悪質なイタズラだと言って怒っていましたが、犯人は分からずじまいです」 「テ-プの内容は、真実なのでしょうか?」 「さあ、わたしには分かりません」 この話を元カレの佐賀達也に話すと、元刑事の直観なのか「嫌な予感がする」と言って眉をひそめた。この一言が友美の頭にこびりついて残った。 二、情死 信州蓼科高原の八ヶ岳連峰の山々は、早朝から降る例年より半月も早い新雪で白く覆われている。 十月下旬の遅い午後、エル出版のライタ-戸田友美は、アジア系不法入国者が諏訪郡の一部に隠れ住んでいるという情報で取材に来たが、その実態がさっぱり掴めないまま、少し失望しての帰路、奥蓼科の友人宅に立ち寄った。 友人の沢野千恵子夫妻が経営するログハウス風のレストラン・ブル-ベリ-は、通称メルヘン街道と呼ばれる茅野から佐久に抜ける国道二九九号線沿いにあり、旅行客や常連の憩いの場になっている。不調だった取材の後だけに、ここに来るとホッとする。 友美が千恵子特製の手作りケ-キをハ-ブティで味わいながら店内に設置されたテレビを眺めていた。画面には、長野ビッグウエイブの氷上を乱舞するフィギアスケ-トの華やかでスピ-ディな練習風景が映し出されている。この冬にシドニ-で行われる冬季オリンピックの本番が近づいていて、汗ばんだ選手達の表情にも真剣さがうかがえた。 九十二年のアルベ-ルビル大会で伊藤みどり選手が成功させたトリプルアクセルという大技に、この日は五人の選手が挑み、十九歳の選手が二十回目の挑戦で一回だけ成功させたことで大騒ぎになった。その十年ぶりのシ-ンが何度も放映され、冬季五輪専属コ-チの笹木洋子の笑顔と喜びの声が画面いっぱに溢れていた。 笹木洋子は、先年の長野オリンピックではメダルに届かず五位入賞だったが、その直後の世界選手権ヨ-ロッパ大会では銀メダルに輝いて、その名を轟かせている。だが、それまでの猛練習が祟ったのか左足のアキレス腱を痛めて惜しまれたまま引退していた。絶調期に引退してコ-チに就任した洋子だけに、後輩に託す情熱も並のものではないが、選手達からは全幅の信頼を得ていた。笹木洋子が 喜びの声で語る。 「夢にまで見ていた三回転半が生まれました。これで日本も金メダルというわたし達の夢に近づいたことになります。今日のこの大記録は本番目指してがんばる他の選手達にも、大きな刺激になりました。これからも応援よろしくお願いします」 ハ-ブティの追加を運んできた沢野千恵子が、友美の目線を追ってテレビを見た。 「あら、友美さんがスケ-トなんて珍しいわね」 「だって、あの洋子さんとは知り合いなのよ。でも、たかが一回だけの成功で金メダルに近づいたなんて、言い過ぎよねえ?」 「それは違うでしょ。一回の成功が二回三回と続き、一人の成功が二人目三人目と続くのよ。なにしろ、あの洋子さんが専属コ-チなら日本勢の活躍は間違いないわね」 そのとき、外に長距離トラックが停まり、常連らしい運転手の青年が入って来た。 「いつものカキフライ・スペシャルランチ、大盛りね!」 その注文を夫に伝えようと立ち上がった千恵子に、奥の厨房から夫が応じた。 「聞こえたよ……でかい声だからな。カキ・スペの大だね!」 その声に頷いた青年が席につき、テレビを眺めて言った。 「まだテレビには出ねえだろうが、さっき、白樺湖のスタンドでガスを入れてたら、八子ヶ峰で情死があったって騒いでたぜ……」 何にでも興味をもつ事件記者の友美が、その一言に反応した。 「それ、どこなの? 何時ごろ?」 「聞いたのはついさっきだが、死体が見つかったのは午後イチで、現場は、白樺湖の上にある八子ケ峰の中腹らしいぜ」 「それ、どこ?」 青年に現場の地理を聞いた友美は、挨拶もそこそこに、スノウタイヤを履かせた愛車のアウディに乗り込み、雪道を駆って急いだ。 友美に取材意欲を沸かせたのは、トラック運転手が告げた「情死」という時代めいた古い響きだったのかも知れない。横谷の三叉路を右折してビ-ナスラインに入るとスズラン峠から八子ケ峰への道に入る。 標高一八三二メートルの八子・峰は、白樺湖を一望のもとに見下ろす絶景の地にあり、山頂に近い山腹に円型屋根のモダンな建物、八子・峰頂上ホテルがある。その眼下はるかに見える白樺湖に向かって、ロイヤルヒル・スキ-場のゲレンデが処女雪に覆われてなだらかに続く。まだシ-ズン前だけにほとんど人影もない。 三、通報 その二時間ほど前のこと……白樺湖を見下ろす小高い八子ケ峰山腹の八子・峰ホテルから五〇メ-トルほど上部の山側に、貸し出し用のスキ-やスノーボーなどを保存するホテル所有の簡易鉄骨平屋造りの倉庫がある。十月下旬の午後、例年より半月も早い初雪が舞っていた。その倉庫は、まだオフシーズンで平日でもあり管理人の姿もなく、倉庫前の広場には、車体を雪に覆われた乗用車が白い横 腹を覗かせて駐車していた。 スノーボーを屋根に積んだ四駆のワゴン車が、エンジン音を響かせて坂を登って来て急ブレ-キをかけて雪煙りを上げて停車した。 車内には男女四人の若者がいたが、運転席の窓を開けて乗用車を眺めた若者がぼやいた。 「なんだ? この初雪で、一番乗りだと思ったのにな……」 それを聞いて、助手席から降り積もる雪の中に降り立った男が笑った。 「こいつはスッポリと雪を被ってるじゃねえか……前からあったヤツだぞ」 自分たちの車から降り立った一人がその車に近づき、雪を足で払ってバンバ-を確かめた。 「品川XX二五〇〇か……この持ち主は倉庫の中かな?」 車から離れた若者が、倉庫の窓ガラスの雪を手で拭って内部を覗いて、叫んだ。 「変だぞ……早く来てみろ!」 離れた位置で、四駆の屋根からスノボ-を下ろしていた仲間があわてて走り寄り、倉庫内に視線を凝らした。 「あれは……?」 雑然と積まれたスノーボートやスキ-が並べられ、その間の五坪ほどの空間に、女物のハイヒ-ルが横倒しになっていて、その先に赤いハ-フコ-トの下からベ-ジュのスカ-トの裾が見え白い足が二本、その横にも男の足らしいものが見えている。それを見た若い女二人が悲鳴を上げて抱き合って怯えた。女友達に弱みを見せられない男達が、鍵の壊れていたドア-を引き開いて屋内に入ろうとしたが、間近に見た死体の酷さと鼻を突く死臭に気押されてか顔色を変えて立ちすくむ。 「男と女が死んでる……携帯を貸せ、一一〇番だ」 「山だから携帯じゃ無理だ。ホテルの電話から掛けてくる」 通報に走った男が、しばらくして戻ると口をとがらせた。 「第一発見者だから全員残ってろってさ、名前まで聞きやがって。 その上、そこにある車のナンバ-まで聞きやがる。二五〇〇なんて覚え易かったからいいけどな」 不服顔の四人が、警官の到着を待つために車に戻った。 間もなく、すぐ下の湖畔駐在所の巡査が車で現れ、四人の若者と現場に向かった。 この時点ではまだ、雪も小降りになりつつあるこの山腹は静かだった。 「男と女が、倉庫の中で死んでいる……」 この若者からの通報を受けた長野県警本部の指示で、十五分もしない内に白樺湖畔駐在所の巡査が軽の四駆で駆けつけ、慣れた手付きで用意した棒を立て、「立ち入り禁止・長野県警」の印字入り黄色テ-プを張りめぐらし、現場の保存に当たる。 さらに、その十分後には諏訪警察署の分署である茅野派出所から先遣隊のパトカ-二台が到着した。車から降りた制服と紺の作業服の警官が、ただちに放置してある車から建物入り口周辺の足元を荒らさないために、手際よくズック製の歩行帯を敷き捜査員の通路を確保した。 間もなく、諏訪署のパトカ-二台と鑑識班のワゴン車が現場に到着して、分署の同僚と合流した。現場の指揮は、捜査一課第二班の堀井警部補がとることになり、死体のある倉庫から五〇メ-トルほど下ったホテル内のロビ-の片隅に「八子ケ峰心中事件捜査本部」と手書きの紙が張られ、遺族や関係者との調書作成用に、作業机と折り畳みイスが並べられ、専任の制服の警官が一人、連絡係として 配置に着いた。 倉庫に近い位置にパトカ-一台が緊急連絡用の指令車として赤色灯を回転させたままにしてある。片通話式の無線を常時使用できるようにして、担当刑事一人が車内に残った。周波数一五〇メガヘルツのこの無線は、通信司令室に繋がっていて、いつでも連絡ができる。堀井が、倉庫前で全員を集めて指示する。 「心中であれ何であれ我々は事件性を考慮して現場検証を行う。死因の特定は、間もなく到着する本部鑑識課長の検死官に任せるが、それまでに状況捜査と予備検視を済ませておく。まずホトケさん二人の身元が分かったら、遺体確認のための身内の手配、二人がここに至った経緯と足取り、死因と経過、死亡時間の特定、車両内外と建物のドア-とノブ、そこに転がっているビンとフタなどの二人が触れたと思われるあらゆる箇所の指紋を検出し、車の足元、床に残る足型から這いずった跡まで調べるんだ。指紋採取が必要と思われる箇所があれば、どこでも誰でも遠慮なく鑑識に申し出ること……遺留品は髪の毛一本までも確保する。なお、三係は至急、山を降りて道筋での足取りを追ってくれ。直ちに全員作業開始!」 「床は木ですが、ガイシャの位置確保はペンキでいいですか?」 「だめだ。床が汚れる、白テ-プで型取りしてくれ」 鑑識課の刑事が叫んだ。 「ホトケさんの背広から免許証が出ました。島岡忠彦、生年月日から見て三十三歳です!」 車係の刑事からも報告が入る。 「車検が出ました。所有者は島岡忠彦です。すぐナンバ-の照合をします」 「女のバッグから免許証……狭山三枝子、三十九歳です」 「島岡の財布の中から、笹木多三郎代議士秘書の名刺、それに遺書が出ました」 「早く見せろ……」 遺書に目を通した堀井が、免許証と死体の男女の顔を見た。 「不祥事を詫びての清算だと? 富士見町の島岡か、なにか手配が出てたな?」 「住所は東京都内ですが……」 「笹木は選挙地盤の富士見から島岡を雇ったんだ。こいつとは下っぱの運動員の買収などで何回もやり合ってるからな。たしか、こいつは何かで追われてたぞ」 「すぐ、調べます」 「本部に問い合わせてくれ。遺書の件もな」 遺書を手にして署への連絡に走った部下が、すぐ戻って堀井に伝えた。 「主任の言う通り、この島岡は公金横領で広域手配されています。 高尾署長がすぐ、本庁に連絡したところ、心中でまとめるようにと即決で指示が出たそうです……」 「即決って、まだ検死も検証も済んでないんだぞ?」 「ですから、警察庁から政治的に、その方向で鑑識を指導するようにとの伝言です」 「まだ調べが済んでないのに、随分と無茶な話だな。ま、いいか……」 「それと、佐久署にいた機動捜査隊がこっちに向かうそうです」 「心中事件なら所轄扱いだぞ。なんで本部の機動隊だ?」 「公金横領も絡んでますので、形式的にも本部の検視が必要かと思います」 「こうなりゃ、署のメンツが掛かってる。鑑識の手口係、指紋、写真、現場係のそれぞれに、心中事件で処置するように徹底させろ。 機動隊が来る前にだぞ」 すでに、立入禁止のテ-プの外には長野新報はじめ各マスコミに加えて、物好きな野次馬の車が続々と詰めかけていて、山腹の一画には時ならぬ喧騒が訪れていた。 山を下って白樺湖畔にとんだ刑事から一報が入る。 「湖畔のオアシス・白樺という軽喫茶に昨日午後八時過ぎの閉店間際に、赤いハ-フコ-トの派手な女と地味な紺ス-ツの男が立ち寄り、コ-ヒ-を飲んでます。二人共サングラスをかけていて、乗って来た車は品川ナンバ-XX二五〇〇のクラウン。以上を店の主人が証言しています」 「足取りはピタリだな。引き続き大門街道も当たってみてくれ」 すでに、車検の名義と男の死体から出た免許証の氏名も一致したし、女性の所持品とみられるバッグから身分証明書や免許証も出ていて身元は割れている。二人の死体からは多量のアルコ-ル分に加えて睡眠剤の成分が検出された。あとは、死に至った動機と移動経路の特定、親族の遺体確認を待つばかり。本部との連絡を密にしての結論は、心中事件として処理できる状況は揃った。もはや、本部機動捜査隊の協力など必要ない。 四、機動捜査隊 やがて、県警本部機動捜査隊の進藤秀男班長を含む私服四人の乗った覆面パトカ-と、主任検死官で鑑識課長の中西公太警視と鑑識課員を乗せた灰色のワゴン車が到着した。 白衣姿の中西検死官と紺の制服の鑑識課が、進藤班の私服組と一緒に、堀井刑事から初動捜査の経過を聞くために、足元に気配りしながら死体を囲んで集まった。 堀井が説明する。進藤とは同格だが、中西警視がいるから言葉が丁寧になる。 「二人の死因は、多量の睡眠導入剤とアルコ-ルの併用による薬物中毒死または急性心不全とみられます。背広の内ポケットから出た名刺および免許証、車内から出た車検から男の身元は、衆議院の笹木議員事務所の公設第二秘書の島岡忠彦で、本部経由で警視庁に照会したところ、公金横領で広域手配中でした。女の身元もバッグの中から免許証、期限切れの議員会館通行証用身分証明書もあり、事 務所に紹介した結果、島岡の先輩で笹木議員事務所元私設秘書の狭山三枝子・三十九歳と割れてます」 「車内無線で本部から聞いたよ」 進藤がポツリと言って死体を見た。堀井がムッとした表情で続ける。 「この二人は心中とみて間違いありません」 中西がおだやかに聞いた。 「狭山って女は結婚してるのか?」 「確認の照会を出したところ返事が来まして、狭山三枝子はバツイチで一人暮らし、島岡には妻がいます。子供はいません」 「元私設秘書ってことだが、女の現業は?」 「事務所からは、赤坂のクラブママのようなことも聞きましたが、調査中です」 「遺留品は?」 「これです、本部で預かってください」 堀井が白手袋の右手にぶら下げた保管用の大きな透明のビニ-ル袋を見せ、鑑識の中西警視にビニ-ル袋を手渡しながら言葉を添えた。 「靴はまだそのままですが、この中にサングラス二個、免許証入れと免許証、財布と名刺と身分証明書、車検、ビトンのバッグ、バッグの中には化粧用品やカ-ドなどが入っています。それに、これが遺書です」 「なんだ……遺書があるのか? 見せてくれ」 中西警視が遺書を受け取って黙読してから手渡すと、進藤が声を出して読む。 「関係者の皆様、不祥事を起こして申し訳ありません。死を選んでお詫びします……か、使い込みと不倫の清算なんてどこにも書いてないな?」 「妻ある男と独身の女だ。誰が見たって不倫だ。本部からの情報だと、代議士あての遺書には、不倫の清算で覚悟の心中と書いてあるらしい」 進藤と堀井の会話が噛み合わない。中西がなだめた。 「まあいいじゃないか。その遺書はワシが預かって科警研に筆跡鑑定を依頼しよう。で、所轄の見解は?」 「高尾署長からは、心中事件と現認した場合は速やかに必要書類を作成、捜査本部は現地解散、遺体は形式上の行政解剖にまわして、あとは諏訪警察署扱いとする。以上の趣旨で指示が出ています」 「機動隊の動きには触れてないってことだな? 警視庁には?」 「本部経由で事件の概要を報告しました。心中事件として処理した場合は警視庁からは遺族の搬送以外の派遣は不要とのことです。遺体の確認と引き取りに親族にも手配済みで、警視庁のパトカ-が同行、笹木議員事務所からは第一秘書が来るそうです」 「機動隊の到着前に、ずいぶんと手まわしがいいな」 渋い顔の進藤の皮肉を横目に、中西警視が堀井をねぎらう。 「見事な早仕事で感心した。これだと確かに本部の出番はないな。 ま、所轄扱いで充分だろう。進藤君……われわれは早いところ引き上げるとするか……しかし、検死官が何もせんと報告書が書けん、形式だけは踏まんとな。写真は所轄とダブるから大雑把でいいだろう。あとの資料は堀井君に借りるからな」 堀井があわてて引き止める。 「すでに、書類は出来上がってますが……」 「いいんだ。なにしろ、検視規則とか死体取り扱い規則とかの形式があるからな」 中西警視が太った身体を折り曲げて腰を下ろし、巻き尺、試験用薬品、開瞼器など七つ道具の入った鑑識カバンから数珠を取り出して、死体に手を合わせた。 五、事件記者 そんな状況のところに戸田友美が現れた。死体発見後、二時間半以上は経過している。 パトカ-の隙間に愛車のアウディを割り込ませた友美は、車を降りると、報道陣をかき分け、素早くテ-プを潜って倉庫内に飛び込んだ。友美の服装は白キャップに上は革ジャン、下はスラックスにスニ-カ-という軽装だから動きも早い。少し離れた位置にいて友美に気づいた警備の警官が、慌てて後を追う。 友美はポケットから小型カメラを取り出し、鑑識官や刑事が集まっている間から、白布で顔を覆った男女の死体に手を合わせると、すぐカメラのフラッシュを連続して光らせて数枚の写真を撮った。 状況は一べつしただけで理解できる。 建物の内部は半年以上も閉ざされたままだったのか、用具置場には修理用の接着剤や塗料などの臭気が鼻をつく。壁にはびっしりとレンタル用のスキーが立て掛けてあり、その床板に、お互いに顔をそむけるようにして男と女が倒れている。 男は、紺ス-ツの上下がよれよれになるまで床を這ったのか、右足には黒革の靴、左は紺縞の靴下で、脱げた靴は離れた位置に横たわっている。 浅黒い額の左に黒いホクロが見える。髪の乱れと断末魔の表情が死の恐怖を物語っていた。ほぼ即死だったのか、苦しみながら這った形跡はあまり見えない。その周囲のホコリだらけの床に空の薬瓶とウイスキ-の瓶が転がっていて、顔は見えないが白衣の検死官が死体を視ていた。 赤いハ-フコ-トを着た茶髪の女の横顔にも苦悶の表情が表れている。ベ-ジュ色のタイトスカ-トが乱れて細くて白い足が伸びている。赤いハイヒ-ルが片方づつ少し離れた位置に倒れていて、写真係のカメラからフラッシュが光った。 「おい。そこの女、何してる! 立ち入り禁止だぞ」 友美を追って来た制服の警官がとがめた時は、すでに倉庫室内や鑑識現場の風景も男女二つの死体もしっかりと撮影した後で、友美はカメラをバッグに収めていた。 進藤、堀井など見たような顔の私服刑事が呆れた表情で、友美を見ている。 「すぐ出ます」 その声で、ようやく気づいた進藤が間の抜けた声を出す。 「戸田さんか。何しに来たんだね?」 「この人、婦警さんですか?」 背後から制服の警官が疑うのを、進藤がとりなした。 「いや、民間人だが婦警扱いでいいんだ。この人には協力してもらってるんでな」 渋い顔で制服が立ち去ると、進藤が小声でクレ-ムをつける。 「いい加減にしてくださいよ!」 「進藤さんは、長野から?」 「長野からじゃ間に合わんですよ。佐久から移動でね」 「吉原さんも?」 「中隊長以下四人が佐久署残りで、私ら四人がここの応援です」 二人の会話を割って中西が立ち上がった。 「戸田さんか……また邪魔しに来たのかね?」 「あら、検死官は中西さんだったんですか?」 「仕方ないさ。検死官は何人もいないからな」 中西が全員に友美を紹介する。 「戸田友美さんだ。全国の警察で知らぬ者のないすご腕の事件記者さんだぞ」 それだけで充分だった。全員が雑誌の記事か、どこかの現場で友美と出会っている。 中西がまた腰を下ろし、友美が進藤に話しかける。 「佐久のは、どんな事件ですか?」 「不法滞在の中国人の男二人が喧嘩して一人が二階から転落して頭を打って死亡……グル-プ同志の抗争になると大変だから機動隊が出動したんです」 「わたしもいま、不法入国者の取材中なんです」 「それは危険だ。恋人なら絶対に止めさせるな……」 「佐賀は勝手にしろって言ってます」 「じゃ、勝手にしなさい」 男の死体を検視中の中西が頭を上げて、女性の死体をあごで示し友美を脅した。 「戸田さんもな、危ない橋ばかり渡ってると、こうなるよ」 「イヤですよ、そんなの……」 死んだ女に近づいて顔をのぞいた友美が、思わず中西と進藤を見た。 「この人、知ってます! 笹木代議士秘書の狭山さんに間違いありません。そっちの男性は?」 「女はその通り。この秘書で後輩だった島岡という男です」 堀井が進藤から会話を奪うように口をはさむ。 「一時は島岡も、笹木家の一人娘の洋子さんの養子候補だったんです。島岡が洋子さんを避けて他の女性と恋愛結婚したんで、笹木代議士とはギクシャクしてたようです」 友美が首を傾げた。 「島岡秘書は、笹木洋子を避けて恋愛結婚、なのに、事務所の先輩と不倫のあげくに心中ですか? なにか変ですね?」 「恋は思案の外といいますからな」 中西が友美に情報を流す。 「どうせマスコミにはバレるから言うが、ここに来る途中で県警本部長から連絡が入ってな、島岡は、先に死んだ元建設省事務次官の倉橋という男とグルで、二十億円近い公金の使い込み容疑で、警察庁の共助課から各県警に手配されている。何年か前のことが国税庁が入って露顕したってわけさ。ここにある遺書では触れてないが、笹木代議士あてに横領を詫びた遺書が郵送されたそうだ。公金横領の上で情婦連れ逃避行なら、状況からみて誰もが納得する結果が心中となる。こんな筋書きかな?」 「政治的決着って筋書きですか? だとしたら、わたしが真実を追求します」 「おや、戸田さんは警察を脅すのかね?」 「正論を言ってるだけです。心中なら心中で納得のいく説明をしてください。薬物による中毒死ならもっと苦しんで暴れて吐くはずでしょ? 情交だって……」 「おや、戸田さんの口から珍しい言葉が出たな、佐賀君とだったらそうなるかね?」 「知りません! 一般論を言っただけです」 「仕方ない、もう少し調べるか。脅しに乗ったわけじゃないぞ、進藤君……どうだ?」 中西が口許をゆるめて進藤を見た。きっかけを待っていたような口ぶりだ。 「課長がその気なら、私も心中の裏付けづくりのために指揮をとります」 中西と進藤が勇むのを見て、所轄の堀井がクレ-ムをつけた。 「警察庁長官からの特命で、すでに結論は心中と出てるんです」 「しかし、検死官にもプライドと権限はある。心中でも裏付けだけはとらんとな」 中西がやんわりと堀井を制してから、本部と所轄の鑑識課員を集めて訓示する。 「男と女が現世で添い遂げられず追い詰められて死を選ぶ。これが情死だ。そこには止むにやまれぬ尊厳なドラマがある。すでに、所轄で充分に検証済みだろうが、薬物反応の再検査、二人の血液内残存薬物、体温による経過時間から死亡時間の確定。女性の膣内体液の有無、皮膚および皮膚下に残った傷痕と殴打の痕跡、写真も撮り直して調べておけば、あとで問題が出たときに対処できる。ま、司法解剖が必要かどうかはワシが判断する。そう思って厳粛かつ厳正に調べてくれ。さあ、仕事だ!」 進藤も部下の三人の刑事を集めて、再捜査を告げた。 「所轄の所見通り心中だろうが、再度、現場検証を行う。所轄の刑事に聞いて捜査内容に不足があれば動機、足取り、目撃証言、遺留品などの洗い直しを大至急徹底させてくれ。佐久署にいる吉原隊長には再検証の一報を入れとくからな」 進藤が出口に向かうと、堀井も進藤に続いた。 「高尾署長には、心中事件として終結したと報告するぞ」 中西が、鑑識カバンから、スペキュラ-と呼ばれる豆電池付きの拡大鏡をとり、無造作に部下に手渡す。 「ほれ、ワシの近くにいたのが運のつきだ。あっちのご婦人を頼むぞ」 中西が部下に手伝わせ、男の死体の身体や手足の位置の床に形取りをした白テ-プの位置を再確認して死体を動かした。衣服を脱がせ、写真班が部分撮影を終えるのを待つ。 女性側でも同じ作業が始まっていた。ロウ人形のように白く艶やかな光沢をもつ熟れた女体を目の前にして、死体を見なれているはずの若い鑑識官が表情を固くしている。中西に女性の体内残留物をチェックするように命じられた所為かも知れないが、独りものには辛い仕事に違いない。 友美が携帯電話で東京神田のエル社、自分のデスク上の電話に掛けると、助手の志賀智子が出た。友美が小声で告げる。 「メモをとってね……蓼科高原の八子ケ峰で心中事件が発生。衆議院議員の笹木多三郎の前第二秘書で島岡忠彦、同じく元私設秘書の狭山三枝子、この狭山さんには取材で世話になったことがあるの。 この三人の最近の動向と関係を知りたいの。大至急調べて携帯に連絡してちょうだい。通じなければ留守電に……鬼沢デスクにも伝えておいてね」 鬼のデスクの本名は加川沢男、人呼んで鬼沢という。 六、死因 小雪が止んで雲が幾重にも重なって流れ、空がかすかに明るくなって来た。 倉庫の中では粛然と最終チェックが進んでいる。 「睡眠剤と多量のアルコールの相乗効果で嘔吐の間もなくほぼ即死……バルビツ-ル酸系の睡眠導入剤は脳幹に効くからな。即効ならシアン化合物だが、口の中にまだアルコール臭が残ってるから、アーモンド臭は分からんが、乳酸の減少によるアデノシンの低下もここまでだから、これから柔らかくなると死斑が出てくる可能性がある。どうだ?」 「血液反応にシアンはありませんでした」 「そうか、薬瓶とウイスキ-の角瓶、フタから出た指紋は?」 「ビンに男の左手の母指、人指し指と中指、無名指だけです。フタにはありません」 「左手でビンを掴んで右手でフタを開けたんだから左手の指紋が残るはずだろ?」 「はい、そうだと思います」 「男の顔の殴られたような痣は倒れた時にぶつけたのかな。女の方はどうだね?」 中西が振り向き、スカ-トの裾を上げて検視中の部下に声をかけた。部下があわてて手にしたライトのスイッチを切って顔を上げたが、心なしか顔が上気し目が充血している。 「死体硬直がまだ解けていませんが、情交の痕跡はありませんでした」 「と、なると情死につきものの死亡直前セレモニ-はなしか? 体温は?」 中西警視が、体温測定をまとめた部下のメモを見た。 「死体の硬直状態と、直腸内体温測定による体温低下経過時間によると……女と男の死亡時間にずれがある。十六時の測定体温が女は二十一度、男は二十度で、今日の気温だと逆算して約十八時間経過したことになるな」 思わず友美が口を出した。 「男の死亡時刻は昨夜午後十一時ですか、女は?」 「女が、約三十分多く生きて、午後十一時三十分の計算になるな。 身体各部の筋肉の硬直状態と死斑、これらからみても同様の経過時間を示している」 中西警視の指示に従って写真班が、死体の全身を部分ごとに写真を撮る。 友美が、歩行帯の上から床のほこりに模様をつけた靴跡を見つめた。 「床の上のほこりに付着した足型ですが、入口から死ぬ場所まできちんと歩いて、ここからは乱れて死んでますが、心中で死ぬ男女がこんなに礼儀正しく歩くでしょうか?」 「でも、死んだ男と女の靴底からみて本人の足型には間違いないんだよ」 「でも、重い物を持って歩いた足跡らしく体重がかなり後ろに掛かっていますね? これは、誰かがわざとこの靴を履いて死体を運び込み、死体に靴を履かせてから、棚づたいに床に足跡を残さないようにして外に出たとも考えられませんか?」 「ハイヒ-ルの跡は?」 「男が足先に引っかけても、この距離なら女の死体を抱えて歩けます。それに、薬なら死ぬ間際に吐いてのたうちまわるでしょ?」 「これだけの睡眠薬と多量のアルコ-ルだと熟睡状態で死ぬこともあるものだよ」 中西が、白手袋で薬瓶をつかみ友美に見せた。 「瓶から出たのは島岡の指紋だけだ。女も瓶に触れていないし、薬局か病院、他の第三者の指紋も出てない。ま、手袋をしてたってこともあるがね」 「現場で拭いてから、死体の指に瓶を押しつけたんですね?」 外から戻った堀井が、渋い表情で腕組みをしてその光景を見つめている。 上司と打ち合わせをして戻った進藤が、中西に報告する。 「吉原隊長と交信しました。島岡と狭山の家族はすでに遺体確認のためこちらに向かってます。それと、公金横領の手配を理由に島岡の留守宅の家宅捜査が行われます」 「やけに手まわしがいいな」 「諏訪署では、すでに心中事件として処理済みになってるそうで、私には所轄に任せて引き上げろ、という指示が出ました」 「じゃあ、そろそろ捜査を打ち切るかね?」 「心残りですが……」 「なにが気になるんだ?」 「二人の手首に、かすかな圧迫痕があります」 「気づいてたのか」 進藤が死体の手首を指さした。友美もその視線を追う。