30 ヌシ
孝二にはこんな経験もある。
「中州に渡れば大釣りできる」との錯覚で、激流を渡り、夢中で時を過ごす間に土砂降りの雨に降られ、まだ大丈夫と思う間もない急の増水で中州は水中に沈み、戻り損ねてた身は濁流に呑まれて必死に泳いだが溺死寸前の恐怖を味わったことがある。
これは、一度は体験しないとその怖さが分からない。
水泳が得意の孝二だが、岸辺に泳ぎ着いたのに足場や手掛かりが悪くて、また濁流に身体がはぎ取られて流され陸に上がることができない。これは恐ろしい。これが四、五回続くと冷えと絶望感と恐怖で身体が思うように動かなくなり、つい水を飲んでしまった。
この場合は下流に浅場があって助かったが、滝にでも呑まれたらひとたまりもない。これに似た体験は孝二も何回かしている。
しかし、本当に恐ろしいのはこんな事ではない。
滝ツボには当然ながらヌシがいる。昔から、何処の滝ツボにも必ずその場所に君臨するヌシと呼ばれる川魚がいて、そのヌシを釣ると祟るといわれている。それは、日光の華厳の滝も同様だった。
中禅寺湖から流れ出る華厳の滝は、かつては日本一の自殺の名所だった。最近はめっきり人気を失って、身投げ人激減のこの華厳の滝は、海抜千二百六十九メ-トルの高地にあり、男体山や白根山の雪解け水を集めているためか水温が異様に低く夏でも五度という冷たさだから、ここの岩陰に沈んだ死体は二度と浮かない。
水中に沈んだ死体が浮くのは体内の有機物が腐敗してメタンガスなどを発生するからだから、水温五度以下では永久冷凍と同じで、死体の腐敗は進行せず、そのまま沈んでいる。
華厳の滝は毎秒三トンの水量で大谷川に注いでいる。
この滝をせき止めて、滝ツボの中を探索すると、埋蔵金研究家の仲間の一人である民間テレビ局でプロデュ-サ-である友人から連絡があり、孝二も同行したことがある。
昔から、中禅寺湖と華厳の滝は、埋蔵金の噂の絶えない場所なのだ。参加人員八十名、機器、設備他でトラック五台、制作費込み一泊ロケで予算四千万円の仕事だった。
国立公園内のロケだから環境庁、警察、関係官庁などへの手続きも大変だったが、どうやら許可が出て、いよいよロケになった。
展望台でモニタ-の画面をみていると、無人カメラが、流れの止まった神秘の滝つぼ内にゆっくりと潜水して、小魚一つの影もない死の静寂が深い水中を支配する底石や岩肌などを写し出し、その水底には異様なほどに多くの白い骨が散乱していた。まだ布がまとわりついている骨もあったが、水温五度で肉が腐敗しないはずなのに肉がない。となれば、肉はいずこにか消えたことになる……。
生物がいないことで安全とみたテレビ局のスタッフは、誘導無人カメラでは映せない岩影などを見る目的で有人カメラに切り替えたところ、氷のように冷たい水中でウエットス-ツを通してカメラマンが映し出したものは、岩の陰で微動もせずにカメラマンの行動をジ-ッと凝視していたドス黒い怪魚の姿だった。恐怖と危険を感じたカメラマンが動くと同時に怪魚も動いて画像が乱れ、カメラマンの喉元を狙った一メ-トル余の怪魚の口の中の鋸の歯のような牙の
列を大きくアップで写し出した瞬間で映像はゆらめいて消えた。
肩を食い千切られた水中カメラマンは、直ちに引き上げられて病院に直行した。立ち会いの水棲物研究所職員は、展望台のモニタ-を見ていてブラウントラウトだと断言した。
ついに、日本古来の名所も外資系の巨大化したどう猛な輸入魚に乗っ取られたのだ。恐ろしいが、これが華厳の滝の真実である。
ただ、残念なことに友人のプロデュ-サ-が狙った華厳の滝の滝ツボ裏側に隠したともいわれる徳川の埋蔵金は、判然としないままで取材は終わった。制限時間の二時間を一秒も狂わずに水門が開けられ、轟々たる滝音が山に響き、天下に名だたる華厳の滝の清冽な流れが落ちてくる。これで友人の狙いは水泡に帰した。
31、対決
信方が「来るな!」と叫んで、横に手を振っている。
これが逆に「早く渡れ!」だったら、孝二は渡れなかった。
(こうなれば、意地でも尺イワナを釣ってみる……)
信方が、孝二ではこの急流を渡り切れないと心配したのか、あるいは何か別の原因で止めたのかは知らないが、もう怖くはない。
だが、孝二は激流に身を乗り入れてから後悔した。
押しが強くて一歩も前に進めない。足を踏み出すと腰が浮いて流される。
「渡るなら、迷わず一気に進むんだぞ!」
信方に励まされ、思い切って対岸まで渡り切ったが、かなり流されて目標の地点からは十メ-トルも下流だった。その時、巨大な川魚が孝二を追って近くまで迫ったが、その足元を見て反転したのを徒渉中の孝二も岩場にいた信方もまったく気づかなかった。
孝二がようやく、信方と福山のいる岩場までたどり着くと、布で巻かれた足から血を滲ませて福山が横たわっていて、孝二の顔を見て聞いた。
「いま、そこを渡るとき、何か変なものを見なかったか?」
「変なものって?」
「突然、何かに食いつかれて足をやられたんだ」
「オレは平気でしたが……」
「だから変なんだ。大イワナはウサギぐらいなら襲うがな」
「会長はどう思います?」
「分からん……とにかく、ヤバいのがいるのは間違いない」
「これから、どうします?」
「ワシは福さんを背負って先に戻る。いま、様子を見てるんだ」
「なんの?」
「また、そこを渡るんだが、ワシもやられたら全滅だからな」
「じゃ、少し待ってください。オレが尺イワナを何尾か獲ったら一緒に帰りますから……」
「だったら、早くしろ。そこにブドウ虫とワシの竿がある」
「会長は?」
「福さんがこの状態で釣りなんかやれるか。尺イワナなんかいつでも釣れるし……」
「オレはそうはいかんですからね」
孝二は、手網を腰に差し、佐吉の竿を継いで、信方が餌箱に用意したブドウ虫をとり出してハリにつけ、投げ入れてみる。
孝二は釣りは下手だが、貪欲なイワナなら向こう合わせで釣れるから技術面での不安はない。空腹時の渓流魚は、上流を向いて泳ぎながら流れ落ちる餌を待って、流れ方が不自然でなければ何でも口に入れようとする習性がある。自分の産んだ卵から稚魚が孵化して流れ出ると、それを下流で待ち受けて餌にすることもある。
淵から瀬に落ちる流れでは一番後部の小物から餌を追わせ、暴れさせずに抜き上げていけば、前方に泳いでいる仲間を警戒させずに次々に釣り上げることができる。その逆に、初めから超大物を狙うときはこの逆に最前列、すなわち滝の落ち込みの白泡が渦巻くあたりから餌が自然に流れてきたように見せる工夫が必要になる。
孝二は、聞きかじりの知識を根拠に岩蔭に身をひそめ、まき返しから滝ツボの中心に向って餌が流れこむように竿を振った。
竿いっぱいに底へ送りこんでも、餌は大物のひそむ底石にまでは届くはずもないが、餌を発見して急浮上する食性があるだけに、充分鉤掛かりする可能性はある。しかし、滝しぶきに竿があおられるだけで何の反応もない。
「なんだ孝二、ブドウ虫で釣れないのか?」
信方が近寄り、ブドウ虫を五、六匹つかんで水面に撒いた。
白い虫はゆらゆらと流されながら沈んでゆく。魚の群れは何の反応も示さず、悠々と群れて泳いでいる。
「これからですよ。見ててください」
孝二は、土ガメから肉片をつかみ出し、水面に叩きつけた。魚体が躍った。水面がはげしく泡立ち、魚が競って餌を追った。たちまち餌は消えた。
「その餌は何だ?」
「これは、言えません」
「いいから、早く釣れ。天気が怪しいんだからな」
その餌をハリ先にチョン掛けにして滝下に流しこむと、そのまま竿先がしぼりこまれた。滝ツボ下の白泡に突っ込んで逃げようとする獲物を、穂先を水中に浸して弓なりに耐えると、やがて力つきたイワナが暴れながらも水面に顔を出す。空気を吸わせてしまえば大物でもおとなしくなるが、それでも手網に引き入れると最後の抵抗を試みて暴れる。ついに尺イワナを仕留めたのだ。
四十センチ以上はあろうかという大物に孝二の手は震えた。
孝二は満ちたりた思いで深く息を吐いた。獲物の頭の部分を石で叩いて締めるとおとなしくなった。それをカマスに入れる。たちまち十尾ばかりを釣り上げた孝二が満足そうにうそぶいた。
「満足しました。さあ、帰りましょう」
孝二は、魔の淵のベールを剥いだことにも満足した。もう、あとは何尾釣っても多分同じで、荷を重くするだけだ。
孝二は帰り支度をした。孝二の脚部を見た信方が頷いた。
「そうか、分かったぞ! それ、佐吉さんのか? 足に藍玉で染めた脚絆を巻いたから襲われなかったんだ」
「地下足袋は小さすぎて履けなかったですがね」
「本物の藍玉の脚絆や手っ甲にはケモノは食いついかない……」
「すると、佐吉さんが死んだ時は藍玉脚絆じゃなかった?」
「その通り……あの日はゴム布の脚絆だった。藍玉脚絆が餌を運んで来るのを知ってて、藍玉なら歓迎するんだな」
「そういえば……浅瀬を歩いてたら群れて寄って来ました」
「そうだったか、藍玉脚絆だけは受け入れられるのか……」
「だと、すると、会長が狙われない理由は?」
上半身を起こした福山が、ポツリと言った。
「会長には、ヤツらから尻尾を振りやがった……」
「仲間意識ってことですか?」
信方には思い当たることがあった。
「お互いに認め合っていて敵意がないからだろ?」
信方は水棲生物のように川を愛し、長い年月を渓流に生きたヌシと呼ばれる川魚には畏怖の念をもって接している。多分、それが通じるのかも知れない。
それにしても、この天然の漁場は一体いつの時代から続いていた
のだろうか。あるいは数百年もの昔からなのだろうか。
顔に水滴の落ちるのが、滝しぶきと違った感覚で感じられて孝二は空を見た。雲が低く流れて、少しずつ雨が落ちて来た。
時計を見ると午後五時すぎ、まだ夏の夕暮れには間があるが、天気が崩れるとなると帰路を急がねばならない。
山の奥で雨があったのか、渡った時より水位が十センチ近く上がっている。水位が一センチ上がっても水勢はかなり強くなるのに、これでは渡り切れない。思い切って下流に流されながら沢を斜めに横切るしか手はない。
信方が福山を背負って立ち上がった。信方にとって激流を下るのは平地を歩くより楽だから、このまま河原に出ずに沢の中を下って福山を車まで運び、医者に連れてゆく考えだった。
とくに、水量が増えるようなら、途中にあった佐吉の避難場所に逃げこむ手もあるが、それだと福山が出血多量で死ぬ。もう躊躇はできない。一気に下流まで突っ走る。怪魚が襲って来ないのを信じるだけだ。信方に迷いはない。
雨衣を被った孝二は、土カメの中身を全部手でつかみ淵の中に放り投げた。鬼が淵の水面は餌をあさり狂喜乱舞する狂乱の魚群でしぶき、それを雨が叩く。
孝二は、大イワナ十尾に信方と福山の荷物や土カメも入れた重いカマスを肩から斜めに下げて立ち上がり、信方を追って下流に急いだ。そこならまだ胸までの深さで渡れる。
32 獲物
信方が先に流れに入ったとき、それを待っていたのか怪魚が接近して足元を狙うかのように潜った。
信方が足を止めた。十メ-トル先の鮎の泳ぎを手に取るように読み取る信方が水を裂いて迫る巨大魚を感じないわけがない。
渓流魚が動く物を襲う習性を持つことを熟知している信方は、水勢に負けないように流れを身体の横で受けて下足で踏ん張って水中を睨んだ。怪魚が一体、信方の横で動きを止めたている。さらに例の大鎌イタチと言われる大イワがいた。斜めに裂けた背びれが水面下で揺れているから間違いない。巨大魚が上目遣いに信方を見た。
その目を見た瞬間、信方の緊張がふっとほぐれた。やはり、二体の巨大魚には殺意はなかった。あの余笹川で見たあの目が、懐かしそうに信方を見つめている。
福山は目を閉じていて何も知らない。信方が手を上げると、二体の巨大魚が尾を振った。これが別れだった。もう安心だ。
「孝二、続いて来いよ!」
信方が叫び、一気に流れに乗って鬼面沢を流れ落ちた。
「すぐ行きますよ!」
孝二が叫んで激流に身を乗り入れると、巨大魚が足元を狙った。
そのとき、滝の音にまじって上流の崖上から岩石の崩れ落ちる音がした。大小の岩が崩れるのにまじって崖上から、黒くて長い大蛇が土砂と共に滑落し、水音を立てて淵面にしぶきを上げたのだ。
二米余もあろうかという黒い大蛇は悠々と身をくねらせ鎌首をもたげて泡立つ水面を横切ってゆく。その時だった。突然、孝二の目の前の流心から水を裂いて巨大魚の背びれが現れ反転した。
一瞬、水が揺れ大蛇が姿を消し巨大魚の背びれも没した。
大蛇はすぐに水面に浮上し、早いピッチで狂ったように身をくねらせたがそれは下半身だけで、頭部を含む上半身が失せている。
巨大な怪魚はいた……まさしく実在した。
しかも、孝二の帰路を読んで待ち伏せしていたのだ。
この瀬が罠だったのか。信方の姿はすでにない。孝二は一人で闘う覚悟を決めた。孝二は夢中で水を掻いて岩場に戻り、肩の荷物をかなぐり捨てた。こうなれば生きるか死ぬかだ。
孝二は、カマスから出した三本のヤスの二本を岩の上に置き、一本を手に持つと、白泡の沸き立つ深淵の傍に駆け寄って水中を睨んだ。水面が渦巻き、蛇の残り身が消えた。
孝二が、滝しぶきと雨滴とでけぶる水面下を凝視すると、イワナの群れが獲物の蛇を争っては食い千切っている。そのはるか下に巨体が二つ、その一体が口中から吐き出した大蛇の肉片を、別の一体がくわえて飲み込んでいるのが見えた。
孝二の視線に気づいたのか、大蛇の肉片を吐いた怪魚の一体が浮上し、孝二の目前を悠々と遊泳した。気のせいか恫喝の目で睨んでいる。緑濃く苔むしたような斑点としま模様の背に、折れたヤスが数本突き刺さっている。明らかに佐吉のヤスだった。
長年にわたって友好状態にあったはずの佐吉と鬼が淵のヌシが、なぜ争わねばならなかったのか?
怪魚は明らかに孝二を意識し挑発している。恐れ気もない様子で向きを変え、真っ正面から口を開き,鋭い刃を剥き出して威嚇してくる。孝二は息をのんだ。どう猛な水棲獣とでも形容するしかないが、明らかに魚相はイワナなのだ。一メ-トルをはるかにオ-バ-するのは間違いない。
孝二の背筋を悪寒が走ると同時に激しい闘志が沸いた。
孝二は水際に立ち、ヤスを振り下ろし脳天に一撃を加えた。
怪魚は軽く見をかわし、鼻の先でせせら笑うように浮上した。
二回、三回とヤスを突き出すが、硬い肌が受け付けず少々のことでは突き刺さらない。
怪魚が反撃に出た。身を沈めて跳躍し、尾びれで孝二の顔面を強打し、孝二を仰向けに倒き伏せた。
孝二が起き上がったとき、彼の目は異様につり上がり、怒りに燃えてギラギラと輝いた。闘争心を失っていた格闘家が、マットに一度倒されてから闘魂をとり戻すように孝二の闘志に火がついた。爆薬をセットした鉄条網に叩きつけられるインディのレスラーのように烈しく燃え、失っていた情熱が火を噴く。
もはや恐怖はない。彼の眠っていた本能が獲物を狙うだけだ。
怪魚が跳び孝二が突く。孝二の手が空転するとその手を怪魚が襲う。激闘は続き時は流れた。雨は烈しさを増し、岩の上に立ちはだかった孝二の足元にまで水位は高くなった。はじめは岸辺の孝平が優位にあったが、岩の周辺を水が囲むと怪魚が有利になる。今はまだ五分と五分、勝機は十分にある。
孝二は勝利を確信していた。怪魚は傷つき疲れている。孝二もよろめいた。しかし、気は充実している。彼は決着をつける気になっていた。いま、伝説の魔の淵の主と死闘の結末が来る。
孝二はヤスの柄を両手でしっかり握りしめ頭上にふり上げた。そして、水中を凝視しながらゆっくりと左足を上げ水面にかざす。
はたして、誘いに乗った怪魚が水を裂いて跳んだ。
孝二は、左足を怪魚に喰わえさせたまま、全力でヤスを振り下ろし身を踊らせた。手応えがあった。ヤスは見事に怪魚の脳天から背中へまっすぐ突き刺ささり、三本刃のヤスが根元まで埋まった。
両者は水中で回転しもみ合った。水泳の中距離選手だった孝二は肺活量も多く水には自信があった。少々のことではへこたれない。
孝二はひざ下を怪魚の口に飲み込まれたまま、ヤスを持つ手に力をこめた。怪魚を突き刺したヤスが、膝を曲げた孝二自身の足を刺した。怪魚が力つきたのか孝二のひざ下を噛む力ががゆるんだ。足が抜けた。血が水を朱に染めて噴く。孝二の片足の感覚はすでに失われ、意識が消えてゆく。
それでも勝ったのだ。
無意識の中で、怪魚を仕留めたヤスの柄をつかんだまま滝ツボの深部に落ちてゆく。頭部にヤスを突き刺されたイワナの怪魚は、時折、断末魔の動きでもがくが、その力は弱々しくただ重い。
そのとき、孝二の視線の先に滝ツボの底が見えた。そこには清流に洗われて永遠に輝きを失うことのない太閤大判の黄金が、白い人骨らしき物の下に山のように盛り上がって輝いていた。
孝二は直観した。これだ、これが佐吉の死を招いたのだ。
五十になって、結婚話が出たとたんに大金への欲が出て、長年にわたって信頼関係を築いてきた滝ツボのヌシと争う羽目になった。
と、すれば、この鬼が淵こそ城代家老・浄法寺図書が太閤大判を隠し、山の衆に永久漁場の特権を与えて守らせた大自然の中の最善の金庫だったのだ。その埋蔵金の山に孝二は沈んで行く。
孝二は、噂だけを聞いて詐欺まがいの絵地図を買ったが、まさか本当にここに在るとは夢にも思わなかった。これを福山に知らせたかった。欲深く見える福山でも、あの人を疑うことを知らない純粋さは驚嘆に値する。あの福山にこそ億万長者になる権利があるはずだ。孝二の意識がまた戻った。しかし疲労は限界に達していた。
滝下から怪魚の片割れが、猛然と孝二目がけて突進して来て、怪魚の片割れの背に立ったヤスの柄を鋭い歯で食い千切った。
孝二の手がヤスの柄から離れ新たな格闘が始まった。その斜め下を、打ちこまれたヤスの柄をふらつかせて力つきた怪魚が巨体をゆすりながら、滝ツボの黄金の山に沈んでゆくのが孝二の目に入った
が、濁りがその視界を遮った。
孝二は水面に浮いて水を吐き空気を吸った。
もはや、孝二に余力はない。死の危機が確実に迫っていた。
新たな敵は雌なのか、怪魚の口が大きく開き鋭い歯が光った。孝二は、思わず横に避け、その手を怪魚の片割れのエラからのどに突っこみ、魚体を抱くようにして水中でもがいた。
怪魚の目が孝二を憎悪と怨みで見据えている。その目に通夜の晩の妖しげな気憶がよみがえった。あの女の目だ。
水中を反転しながら魚体の斑点や模様を観察すると、明らかにイワナとは異なっている。白点もないし、かすかにパーマークが見える。この新たな怪魚はヤマメの化身なのか。魚体はしなやかでしっとりとして人肌のように柔らかい。
歯を剥いて孝二を襲うが、片側のエラ下から口中に手を差しこまれ、口での攻撃がままならないと知ると全身をくねり水中の岸壁に孝平を叩きつけ、岩にこすりつけた。
孝二はしたたかに水を呑み、必死で片手で水を掻いた。
もみ合いながら水面に顔を出した孝二は、水深のある滝ツボの中では勝機はないと判断し、岸壁を蹴り、流れにのった。
闘いの場は、濁流になりつつある早瀬に移り、人間と川魚の二体は流されながらも死闘を繰り返した。
手を噛まれ、顔を噛まれ、それでも孝二はエラからのど元にさしこんだ手を離さず、流れながら左手も反対側のエラをこじ開け怪魚の体内に突っこみ、魚体を抱えるようにした。怪魚は必死に孝二をふりほどこうともがいたが、エラから両手を差しこまれては動きを封じられ、呼吸もママならないのか暴れる力が一気に劣えた。
水面と水中を流され回転しながら孝二はもがいた。
水を呑み、岩に打ちつけられ、流され、小滝を落下し、滝ツボにもまれ、気が遠くなりまた目覚め、雨の鬼が沢をどこまで流されるのか、往路に辿った涸れ沢にも水は満ちている。
人と川魚二体が鬼が沢中流を落ちる頃、雨は小降りになり、早い夕暮れが谷を包んでいた。長い闘いだった。
孝二の両手には、怪魚のエラの内側にくし状に鋭く尖った気管部の突起した骨に当り、出血の赤い筋が流れを染めている。
もはや満身創痍ではあったが痛みは全く感じられない。
この大物を仕留めた快感は、多少のケガや傷の代償など問題にならないほど大きい。流されながらも孝二は歓喜に震え、獲物をしっかりと抱えた。流れが曲がり淵から浅瀬に変わり、平坦な岩場か続く地形に落ちたとき、右足を底岩にかけ、身を縮め、全身をバネにして横倒しに跳ねた。孝二は倒れたまま、必死で巨体を岩場に引きづり上げた。獲物の抵抗は弱まった。
ついに勝った! 勝ったのだ。
33 勝者と敗者
孝二は、満ち足りた心で恍惚としていた。かつて味わったことのない充実感を味わっていた。あの黄金の山も見た。
この手の中に、命がけで手に入れた素晴らしい獲物が息づいている。勝利の快感に酔うというのは、こういう気持だったのか。
全力をつくして闘う男の本能も、忘れていた闘魂も、今は存分に味わい燃焼しつくして昇華した。
彼は今、欲しい玩具を手に入れた子供の気持、万馬券を連発させたギャンブラ-の気分、一回KOで勝ったK1の勝者、全打席でホ-ムランを打ったプロ野球選手と同じ喜びを感じている。
幼い日に母に抱かれた思い出、兄弟友人と遊んだ日々、父に連れられて魚釣りに過ごした夏、懐かしい過去が浮かび、つい数日前までの怠惰な日々、うす汚れた欲望やよこしまな性格、それらが消えて、忘れていた純粋な魂の叫びが聞こえる。
「これが生きる喜びだ。いまこそ永遠の生を得た!」……と。
疲労と寒さで意識が遠のくが、孝二は安堵した心で獲物を抱きしめている。その睡魔のおとずれの中で官能が目覚めてくる。
閉じた目に、通夜に垣間見た妖艶な女が浮かび、その裸身が孝二を包んでいる。弾力のあるやわ肌が密着している。
エラから体内に差し込んだ両手の指先粘っこいぬめりが快い感触を呼ぶ。例え錯覚でもいい。ひもじいまでに飢え続け、求め続けて来た自分の自由になる女体が腕の中にいた。冷えていた肉体はほてり燃え、快感を伴う律動の中で、とめどなく打ち寄せる官能の波にもまれ震えた。宵闇が谷をおおっている。雲は切れたが夕闇が迫っている。雨はすでに止んだ。
濡れて冷え切った上に多量の出血もある孝二の身体は、忍び寄る秋の夜の谷間の冷気の中で、すでに限界を越え、感覚さえ失っているはずなのに彼は燃えた。
彼の情念は本能のおもむくままにさまよい、あこがれてやまなかった煩悩の源泉をつかみとっている。孝二の心は今、何の束縛もない。彼は、間断なくおとずれる快感に酔いしれ、白痴のようにだらしなく弛緩し、あるいはひきつり、陶酔の中に埋没した。
するどい感覚のうねりが彼を襲い、声が出て全身がわななき痙攣して果てた。彼は虚脱し、全身の力が抜けた。
今まで、力の限りに怪魚の体内をまさぐっていた両の手がエラから抜けそうになる。
そのとき、息絶えていたかに見えた怪魚が、首をふって孝二の手をふりほどき身をひねった瞬間、大きく口を開き牙を剥いた。
怪魚の鋭い歯に孝二ののどは骨ごと噛み切られ、かすかに微笑みの表情を見せたまま意識がフッと消えた。
孝二の右手が怪魚の背を断末魔の力でかきむしり、そのまま岩に落ちて動かない。その拳の内に、虹色の光彩を秘めた大ヤマメの魚鱗の一片が握られている。それは太閤大判よりはるかに美しく価値のあるものだった。それが唯一、孝二の「生きた」証になった。
怪魚は、転がり落ちるように、岩から流れに身を滑らせて下流に流れ、少しの間岩かげに身を沈めて横たわってあえいだ。
しばしの休息の後、怪魚は全身の力を振り絞って一寸刻みに流れを逆上り、やがて孝二の倒れている岩下までたどり着くと、水辺に倒れている彼の足を尾びれで払い、少し岩からずり落としてから、そのわらじ履きの登山靴をくわえ、じわじわとその全身を流れに引きずり込んだ。脇下から胸をくわえ、上流に向おうとしたが、流れに逆らうには抵抗が大きすぎて無理がある。
怪魚は岩陰の深みに孝二を引きずり込み膝下からの右足を食い千切って、それを口にくわえ直す。
巨大なヤマメが人間を獲物にして凱旋する。
流され、休み、またさかのぼってゆくその凄愴な姿は、谷をおおう梢のはるか上空から雲間洩れに射す、不気味なほど冴えて輝く上弦の月に照らされて、すさまじい艶麗さを湛えている。
その下の流れを先刻までの壮絶な殺気を捨てた美しい魚体の大ヤマメが、獲物をくわえ、よろめき、流され、休み、あえぎながらわずかずつ上流へ上流へとさかのぼって行く。あの黄金の山の中で傷つき沈んだ巨大魚の待つ魔の淵をめざして、泳いでゆく。
今にも力尽きそうになりながら、岩陰から岩陰へと巧みに流勢を読み、怪魚は遡行した。その大きな背ビレが水を切る。
その執念は、何処から湧くのか、生きることへの執着なのか。最愛の伴侶を思う情念なのか。その気力はすさまじい。
やがて、かなりの時を経て、巨大な大ヤマメは獲物を土産に、魔の淵の底に没した。この鬼が淵では、断ちがたい愛縁によって、滅多にあり得ないイワナとヤマメの交配が、種の違いを越えてあり得たのだ。そしていま、深淵にひっそりと横たわり、身を寄せて獲物を分かち合う一対の川魚のひたむきな情愛の炎は、歴史を秘めたこの鬼が淵の伝説を、さらに美しく語り継がせるのであろうか……。
「孝二、どこにいる!」
遠くで信方が叫んでいる。そんな声はもう孝二には届かない。
怪魚がふと懐かしそうに振り向いたが、そのまま獲物を口に銜えて上流に向かって凄まじい執念で遡ってゆく。
福山を車まで運んだ信方は、休む間もなくまたとって返して、懐中電灯の光を頼りに必死に、暗くなった鬼面沢の流れを逆上り水を蹴散らして駆けて来る。その鬼気せまる表情は人とも思えない。
いくら人並み外れて頑健な信方とはいえ、すでに人間としての体力の限界はとうに越えていることは間違いない。と、すると、この信方こそ魔物ではないのか……だからこそ、鬼が淵の怪魚も尊敬と愛情の目で彼を見つめたのに違いない。
勝者はともかく、それぞれが真の勇者だった。
死に物狂いで闘った人間を獲物にして、深淵に横たわる愛する者の元に凱旋する傷ついた大ヤマメ……。
生きる喜びを知り満ち足りて死した孝二……。
若者の命を救うために、鬼の形相で沢を駆ける信方……。
勇者を讃えてか、瀬音に負けじとカジカの澄んだ声が響き、河畔に咲く名もない花が、鎌月の光の中で風に揺れていた。
了