15 台風襲来
「平成十年八月二十三日、雨……那珂川濁り強く鮎の追い不調」
菊池信方の釣り日誌に、雨の記述が続くのはこの日からで、冷夏が北関東一帯を包み、雨は断続的に降り続いていた。
信方は相変わらず几帳面に毎日、仕事の合間を見ては川辺に出て水量や水勢を眺めて、鮎が流されないことを祈っている。
台風が接近しているためか車から降りたとたんに、着ている雨合羽が風雨に煽られて身体中がびしょ濡れになる始末で、川は日ごとに水かさを増し、量水標が警戒水位を超え、濁流が渦巻いた。
釣り新聞の編集部からは、那珂川流域の鮎情報を求められる。
「この雨の増水で濁流が渦巻いててな。小鮎は流され、大鮎は大石の裏で流されないように石を呑んで必死で息を潜めてる。釣りどころじゃない。この異常気象は尋常ではないぞ」
その時すでに、信方は何か悪い予兆を感じていた。
そして、八月二十七日の深夜を迎えた。いよいよ本格的な暴風雨が、悪魔の使者ででもあるかのように牙を剥いて関東を襲って来たのだ。テレビの台風情報では、あと数時間で北関東が暴風雨圏内に入る。その後も続いて大型台風の上陸が予想されるという悲観的なものだった。
信方は夜明けと共に暴風雨の中、自宅の東門を出たところにある薬師寺への石段を上った。これは欠かすことの出来ない毎朝の行事であるだけにずぶ濡れになっても止められない。その薬師寺は、菊池家代々の守護神でもあり地元の信仰を集めていている氏神様でもあった。何事もなく無事に台風が過ぎ去ることを念じて、柏手を打ち頭を下げて村人の安全を祈った。薬師寺から続く裏山一帯も菊知家の持ち山だが、日頃は青空の下で蝉時雨に包まれる樹林も、いま
は激しい嵐に揺れ動き、杉林や、ブナやヒノキの梢が擦れ合って悲鳴を上げている。
信方は、薬師寺を通って三百メ-トルほど東にある工場の本社事務所に行き、近くに住む弟で那須精密工業(株)の工場長の健二郎を呼び出した。ものの十分もしない内に健二郎が事務所に駆けつけると、二人で台風襲来に備えて万全の策を講じた。
地元の人が菊池屋敷と呼ぶこ信方の自宅を含めて、この辺り一帯の菊知家の広大な土地建物は小高い丘陵の上だから水害の心配はない。だが、自宅の門前に続く道路向こうの低地に広がる六町歩以上の菊知稲田は、黄金色の稲穂を実らせる寸前だけに、いま水害に襲われたら一溜まりもない。ここは静観するしか手はない。
台風襲来に備えて那須町役場には、徹夜の救援態勢が敷かれていて町長や助役を先頭に官民一体になっての必死の活動によって、被害は最小限に食い止められるはずだった。
しかし、暴風雨はますます荒れ狂って地上を襲い、その無法ぶりは三日三晩に及んだ。豪雨を落とす空は重く暗く台地にのしかかって人間の造った秩序を壊すべく荒れ狂って暴虐の限りを尽くす。
こうなると、那珂川も余笹川も黒川も自然の脅威の前には無力だった。そして、ついに被害が出た。それも、流域住民の誰もが想像もしていなかった一級河川余笹川決壊の第一報が入った。
町役場から急遽、那須町南部から流域住民に非難勧告が出たが時すでに遅かった。あちこちで家が人が、車や物が流された。
次いで追いかけるように、黒川崩壊との情報が入ると、住民からの問い合わせが殺到して職員の対応も収拾がつかなくなる。
その時、役場内で自から指揮をとることを希望した男がいた。土木課長の阿東正男である。
阿東は、土地の有力者でもある菊池信方にも協力を要請した。
阿東もまた、信方に手ほどきを受けて鮎釣りの魅力を知った一人で、余笹川も黒川も自分達の川だと思うから、暴れ狂う暴風雨にも怯むことなく立ち向かえる。
信方は、とりあえず公私共に片腕でもある身内の常葉孝則を呼び出して留守を頼むと、常葉は自分が役場に行くと言う。たしかに、信方がここを動いたら身内や社員、仕事絡みの連絡がと切れて収拾がつかなくなる。連絡だけは小まめにと指示して孝則を町役場に出すことにした。
妻の浩子が顔を出した。見ると、動きやすいラフな服装のジ-ンズルックに身をかためて出撃の準備が出来上がっている。
「これから、ケガ人も沢山出るかも知れません。わたしも役場に行って民間の医療隊を組織します。あなたはここに残って連絡係をお願いしますね。あなたの面倒は子供達が見ますから」
「危ないから……」
「雷は落ちる場所を選びません。どこでも危険は同じよ」
日頃はにこやかで温厚な浩子でも、一度口に出したら信方の言葉にも耳を貸さない意思の強い面があるだけに、信方としても見守るしかない。
家中の医療用具や衣料の一部などを集めると、常葉孝則に運ばせて車に積み込み、自分は雨合羽雨靴スタイルでさっさと助手席に乗り込んで、町役場に出て行った。
後で聞くと、町役場に到着した浩子は、阿東や常葉と共に町長を助けて直ちに医療救助班を編成し、大いに活躍したと聞く。
町では、堤防決壊の恐れのある余笹川と黒川流域の住民を、災害事の避難先に指定してある那須高校や黒田原小学校に強制移動させると共に、町の有志者に依頼して焚き出しの握り飯を多量に用意させて、缶詰や味噌汁や香の物などと一緒に運ばせたりしていた。
そのさ中に、黒田原住宅で家族四人が家屋倒壊で下敷きになったとの報が入った。直ちに警察と消防は活動を開始したが、ブルト-ザ-が不足しているとのことで常葉から信方に連絡が入った。
すぐ、工場にいた義弟の健二郎に相談すると、健二郎は迷うことなく車庫からブルト-ザ-を持ち出して黒田原に向かった。
会社の事務所にこもった信方には、ひっきりなしにSOSの電話が掛かって来るが対応し切れない。そんな時に、ばらばらと釣り仲間が集まって来て、あれこれ手伝ってくれるから助かる。
そのうち、信方の遠縁になる菊池勇夫という釣りキチ・三平クラブの世話役が現れて、どの川も恐ろしい状態だから、一緒に見に行こうという。菊池勇夫は河川環境保護の指導員でもあるだけに川が心配なのだ。だが、信方は上の空で勇夫の声を聞いていた。
こんな時にこそ、シャベルカ-を持っている地質調査とボ-リング業を営む福山の力が欲しいのに、なぜか、ここのところ福山喜一とは疎遠になっていた。仲違いしたわけでもなく、敬遠するでもない。ただ、信方は二枚の黄金を手にした瞬間から、埋蔵金探しへの情熱が一気にパワ-ダウンした感じで、いまさら福山に電話をする気にもならない。
噂では、刑務官の河田が服役者を使って屋敷の床下と火の見櫓下の財宝を掘り出し、山分けした数人の服役者は一躍億万長者の夢の中にいるとか。その話を聞いても信方の心には何の変化もない。
それでも気落ちしない福山喜一は、刑期を終えた藤堂孝二の身元引受人となり社員として採用、出所直後からアパ-トを借りてやって、二人して新たな金鉱の埋蔵金を狙って掘っていると聞く。
それにしても、人間の欲などというものには限界がない感じがしてそら恐ろしい。
菊池勇夫が催促した。
「どうしたんだノブさん。ボヤ-として……」
「勇夫さんか……そこで何してる?」
「今日は変だぞ。いま川に行くって言ったじゃないか?」
レインコ-トに長靴と雨支度をしてた信方を待っていた勇夫が、待ちくたびれたのか作戦を変えた。
「オレが黒川を見てくるから、ノブさんは余笹に行ってくれ」
勇夫が去った後もなにか信方の不安は消えない。ふと、浩子の携帯に電話を入れて、騒がしい雰囲気の中で忙しく立ち働いている妻の元気な声を聞いたら心が一気に安らいだ。信方は結局、妻が心配だったのだ。
「どうしたの? ここは今、戦場の野戦病院なのよ。なにも心配ないからね……それから、そこに集まる人達のために焚き出した握り飯やお新香、味噌汁も大鍋にありますからね。手の空いた人に手伝って貰って事務所に運んでおいて下さい」
「分かった。オレは川を見に行ってくる……」
信方は、応援に来ていた友人の川岸に留守を頼み、荒れ狂う風雨を衝いて、鮎釣りや狩猟などレジャ-用愛車の四輪駆動ジ-プを駆って出発した。雨足は強まるばかりで前方がまるで見えない。
まず、余笹川の対岸の岸近くで夫婦二人きりで暮らす元教師の浅野先生の家が、無事かどうかだけでも見届けたいと思った。
その浅野先生は、東京の公立中学校の教頭で定年を迎え、余生の生き甲斐として川釣りに没頭できる環境を探したという。そして、この自然の美しい那須野の面影を色濃く残している余笹川流域が気に入り、土地を求め家を建てた。
浅野ご夫妻は、この那須郡の寺子という地名も気に入っていて、近隣の子供たちに自宅の一室を開放して寺子屋も開いていた。浅野先生は鮎釣りでは信方の弟子でもあった。
窓を払うワイパ-が最速でも、流れ落ちる雨滴を払い切れずに視界が遮られて危険な状態になる。天井に響く豪雨を耳に徐行して林道を抜けると石田坂の下りに差しかかる。坂道を濁流が音をたてて流れ落ちていた。
寺子橋が渡れないとなると、対岸の浅野家に行くには下流の協和橋か上流の石堀小橋を渡らなければならないが、それらの橋も激流の下に沈んでいるはずだし、山道を走るにしても崖崩れや道路の欠落が考えられるだけに得策ではない。
信方はブレ-キを踏んで車を止めた。眼下にあるべき寺子橋も右岸側が欠損したらしく主要道路の芦野線も濁流に飲み込まれて影も形もない。ただ、流木や建築物の端材などで堰のように盛り上がっていて、その位置が判別できるという状態で、恐ろしい氾濫の風景が、海の入り江か湖のように目前に広がっていた。
見渡すと、浅野先生の家のあった辺りはすでに濁流が渦巻くだけで、無情にも浅野家の邸宅は消えていた。
老境の夏を鮎とたわむれ、冬はウグイを釣って甘露煮にして客をもてなし、寺子屋の子供らにも食べさすのを喜びとする温厚な浅野先生の顔が浮かぶ。その奥さんもまた書を教え花を活けた。
ご夫婦が無事に避難していることを祈って見ていると、岸辺の土砂が次々に樹木ごと抉られて流れに呑まれてゆく。
那須町を挟んで東西を流れる余笹川と黒川、この二つの暴れ川は余笹橋下で合流してダムか湖水かと見紛う状態で、もう鮎どころではない。これだけ水が出ると川が回復しても那珂川の下流まで落ちた鮎は、春先ならともかく、八月の終わりのこの季節では、もうこの破壊された川には戻らない。これは漁協にとっても、鮎を目玉にする観光の黒羽市や那須町にとっても衝撃的な事件なのだ。
よく目を凝らすと、浅野家の裏にあったケヤキの大木の枝葉が見えていて、家の姿はすでにない。信方は絶望的な気持ちで、暗い空から叩き落ちる雨と風の中で濫して暴れ狂う濁流を眺めていて、異様な物を見た。濁流の中を牛が流されているのだ。
それも、一頭や二頭ではない。河畔に近いどこかの牧場の牛舎の敷地が決壊して牛舎ごと濁流に呑み込まれたのか、家や車が流されるのに混じっておびただしい数の牛が流されていた。
ふと、雨中に人声を聞いた。始めは牛の鳴き声かとも思ったが、耳を澄ますと轟々と響く暴風雨と濁流の音に混じって、明らかに人の叫び声が川を渡って来る。信方は車を降りて水際に走った。
目を開けられないほどの雨しぶきだ、それでも上流から流れ落ちる壊れた瓦屋根にしがみついている男の子と、それを励ましながら助けを呼んでいる少女の姿があった。
それを見た瞬間、信方は無意識にブルゾンを脱ぎ長靴をも脱ぎ捨て、迷うことなく濁流に身を入れ、抜き手を切って流れの早い流心に入るとピッチを早めて屋根の上の二人を追った。
川の面影を失っ濁流に堤防の面影を失った川岸の土が、次々に崩れて石を呑み込み牙を剥いて流れる。魔の台風はまだ去らない。
16 少女ヒロエ
菊池信方は、どのような時でも水を恐れない。
今までに、地元の那珂川だけでなく、富士川、球磨川、天竜川、魚野川、利根川上流など激流で名だたる日本の各河川で首まで浸かって大鮎釣りに明け暮れる信方にとって、水こそがエネルギ-の源であると同時に、自分は水棲動物ではないかと思うことがある。
確かに川に入ると信方の身体は生き生きとして別人格になり、菊知カッパなどとも言われ、本人もそれを認めている。
信方の近くを牛が流れて濁流大きく波立ち、帽子が脱げた。
帽子に手を伸ばしかけたところで、目の前に壊れた屋根と、真剣な表情で信方を見つめている姉弟らしい二人の視線と目が会い、ハッとして現実に戻った。一睡もしていないから睡魔が襲うのだ。
「がん張れよ。かならず助けるからな」
「オジさん。弟だけでも助けて……」
少女の声が寒さと恐怖でか震えている。それでも健気に弟のことを気づかっている。自分の命より弟の命を、と少女は言った。
人は誰のために死ねるのか……激流で大鮎を釣る信方にとって、死はいつ訪れてもおかしくない現実なのだが……流れに足をとられて流されて荒瀬に巻き込まれるとき、信方はいつも浩子の笑顔を想っている。多分、最愛の妻はこう言うだろう。
「あなたはいいわね。好きな鮎釣りで死ねて……」
そして、続ける。
「残された私は……自由にしていいの? いいのねっ!」
なにか返事をと思うが声が出ない。いつの間にか流れのゴミを口
に入れて気づかずにいたのだ。水を含んで口から吐くと喉のつかえがとれて声が出た。また、正気に戻る。
「オジさん、大丈夫?」
「大丈夫だ……二人とも助けるぞ」
「でもいいの無理だから、弟のユウタだけは助けてね……」
男の子は衰弱しきっていて屋根の肩に跨がっているのだが今にも落ちそうに身体が揺らいでいる。その弟のシャツを少女が片手で必死に掴んでいるが、それもすでに限界らしく切れかかっていた。
何度か手が屋根に届いたが、瓦がずり落ちたり滑ったりで、なかなか瓦屋根に登るのが難しい。タフで鳴らした信方も極端な寝不足からかさすがに体力と気力の限界を感じはじめていた。屋根に登るのは諦めてヒサシ部分の横木に掴まって流れることにした。
そのとき突然、信方の横に大きな背びれが現れたて止まった。
まるで、イルカのような巨大な怪魚が水面に姿を現し、しばらくは遊泳するように流れに乗って、青光りする目で信方と少女を交互に見据えたが、すぐに方向を変えた。ヒレの先端が斜めに切れている。昔、父と一緒の時に見たあの大鎌イタチに間違いない。
ここからが悪夢だった。
巨大魚の尾びれが水面を叩き、近くを溺れ流れる牛を目掛けて突進すると見た瞬間、身体を食い千切られたのか牛の悲鳴が響いて暴れ狂い水中に没してはまた浮くが、濁流を赤茶に染めた血が大きく広がっていく。苦悶の表情を浮かべて暴れる牛の、その哀れを訴える物悲しい目は、テレビなどで見るワニに襲われた水牛の目と同じだった。また背びれが浮き巨大魚の頭が出た。
大きさならソウギョかレンギョ,あとは鯉だがこれも肉食ではない。川に棲む肉食魚だとイワナかヤマメだが、ここまで大きくは育たないはずだ。だが、イワナなら凶暴で動物を襲うだろう。
もしも、この巨大魚が信方を襲っていたら……想像したとたん、恐怖で震えが来て急激に体温が下降するのを感じた。
だが、その得体の知れない怪魚は牛を食して満足したのか、かなりの部分を食いちぎられた牛の死体を残して姿を消し、信方を襲っては来なかった。少女からは見えなかったらしい。
信方も落ち着きを取り戻して、屋根上の少女に声をかけた。
「お姉ちゃん、名前は?」
「あたしはヒロエ……」
「オジさんの嫁さんは、ヒロ子だよ」
「およめさん、優しいの?」
「うん。とてもな……」
ふと、愛情豊かな家庭の団らんが目に浮かぶ。
この子供にも家庭の温もりをとり戻さねばならない。
「お父さんとお母さんは?」
「あたしたちを屋根に上げてる間に、水がいっぱいになって、流されたみたいなの」
「ご両親も、きっと助かるから安心しな……」
「そうだと嬉しいけど」
「信じるんだ。みんな必ず助かるから」
突然女の子の悲鳴を上げた。
「ユウタが……おねがい、助けてえ!」
見ると、ヒロエの手に破れたシャツの残骸があって、男の子はずるずると屋根から滑り落ちて信方と反対側の濁流に落ちて行く。
信方が水を掻いた。体力は弱っていたが信方の本能は素早く反応した。立ち泳ぎで屋根をやり過ごし、すぐ潜って水中に没した子供を探した。
目を見開いても泥で痛むだけで視界は効かないが流れに合わせ見当をつけて潜り手さぐりで探るが見つからない。
呼吸が苦しくなって濁流に顔を出すと、その男の子が弾んで、まるで水中にトランポリンでもあるかのように浮き上がった。
手を伸ばして子供を抱えると、信方の肩の下を巨大魚が触れて抜け、割れた背びれを水面に出して泳ぎ去った。あの溺れる牛を襲った残虐な巨大魚が、その同じ体で子供を水中から押し上げて救ったのだ。
必死でしがみついてくる子供の手を自分の肩にまわして、背負うようにすると首を締めてくる。片手でその手を握って喉を緩めるとどうやら呼吸ができるようになった。信方は、ユウタを背に落ちてゆく屋根の残骸を追った。距離が離れたその屋根の上から少女が、別れの挨拶のつもりなのか感謝なのか大きく手を振っている。
そのはるか先に濁流が盛り上がって建物や樹木が川に突き出ているのが見えた。片側を失った協和橋が水中に没して家屋の破材や流木などを幾層にも絡めて流れを淀ませている。
あの渦の中に巻き込まれたら生きては帰れない。信方は必死で泳いだ。信方が片手で屋根の端を掴んで怒鳴った。
「ヒロエちゃん。こっちへ滑るんだ。早くしろ!」
少女は意味が判りかねてかけげんな表情で信方を見た。
橋の上を濁流がよぎり、橋桁上には幾重にも重なって流木や家財道具や家屋の破材、瀕死の牛などが滞留してもがいている。
せき止められた濁流は土手を越え田畑を沈めて、見渡すかぎりの湖に変貌させていた。
「あの橋に激突したら終わりだ。弟の背中につかまれ!」
ヒロエが勢いよく滑り落ちて来て流れに沈むのを、手を伸ばして手を掴み、流れながらユウタにしがみつかせる。
あとは必死で川を斜行してクロ-ルで泳いだ。二人を背負うと身体は沈むが、呼吸するときだけ頭を上げるとどうやら濁流に混じって空気も口に入った。水流をせき止めるどころか、巨大なゴミ集積場と化して、あらゆる物を吸引して砕き壊す協和橋が目前に迫っている。屋根が橋桁に激突して激しく音を立てて砕け割れた。
あと三十センチで水際の石に手が届く。あと少しで……。その石は信方の手が触れた途端、信方ら三人を拒絶するように無情にも崩れ落ち、また流される。信方の心が珍しく恐怖を感じ、絶望的になっている。
「ヒロ子、もう、だめかも……」
語尾が消える。信方は今までにない恐怖の中で水に沈む。
(……三十五センチの鮎を釣りたかったのに……)
下流の岸辺から根を剥き出したヤナギの樹木が斜めに伸びて流れに揺らでいるのが目に入った。信方は夢中でその中に流れ込み、両手で枝を掴んだ。信方は力尽き、それからのことは記憶にない。
続く。