33 オホ-ツクに近い駅
(このまま二人は死ねるだろうか?)
覚悟をきめた死出の旅なのに、未練が若葉の胸を責める。仕残した仕事のことを考えると、このままでは死んでも死に切れない。
そんな自分の都合は別にして、信二のことも気になる。
「信二さん、お子さんに逢いたいでしょ?」
何気ないそぶりで若葉が聞いた。信二の表情がくもった。
「なぜ知ってる?」
「前に、クラブのユキエさんから聞いたんです。昔、こちらに住んでいたんですってね。お知り合いもいらっしゃるんでしょ?」
「知り合いはいるけど、電話番号を知らないんだ」
店のマスターが、それを耳にして口をはさんだ。
「一〇四ですぐ分かりますよ」
若葉が立ち上がって電話のあるカウンタ-に向かった。壁に映画のポスターがあり、“オホーツクに一番近い駅”と、アイキャッチの字が女優の頭上に走っている。
「住んでいるところとお名前は?」
「じゃあ、紋別郡の遠軽町……富橋善吉で調べてくれ」
一〇四で調べた番号で若葉がプッシュすると相手が出る。
「富橋さまのお宅ですか? 少々お待ちください」
と、言って受話器を手渡すと、信二が控えめに名乗った。
「昔、お世話になっていた信二です」
「なんだ、信二か! どこにいる?」
「北浜の駅で、網走行の終電待ちです」
「なんだと? いま出た女は誰だ?」
「目が見えなくなったもんで、付いて来てもらってるんで」
「そりゃ難儀だ。うちのカアちゃんとな、おまえの噂をしてたが、娘に逢っても顔も見えないとは因果な話だ。バチ当たりめ」
大きい地声が受話器を通じて、若葉にも筒抜けで聞こえる。
「それにヒトミちゃんはもうじき六歳だ。オレも営林署を定年退職したし、カアちゃんも喫茶店たたんだから、施設に預けてあるヒトミちゃんを養女にもらって引き取り、うちから学校に通わせることにした。外孫と同い年の子を娘にするんだぞ」
「今、どこの施設に?」
「生田原に日の光学園という町営の施設があってな、近隣から預かる孤児など幼児から十八歳まで三十人ぐらいいる」
「元気でしょうか?」
「元気だよ。ヒトミちゃんとは面会日の日曜には毎週会ってて、オレ達夫婦にすっかりなついてな。可愛いいぞ」
「ありがとうございます」
「好きでやってることよ。すぐ会わせてやるからな」
「会わずに行きます」
「バカ。この遠軽に舞い戻ったら、この富橋と、嫁の墓と、自分の娘ぐらいには顔を出せ。それが人の道ってもんだぞ」
「ヤクザなオレでもですか?」
「当たり前だ。おまえがヤクザな男だってことは先刻承知よ。
ヒトミちゃんにも、母親が病気になる前に『トオちゃんは、山で死んじまった』と話してある。だからな、ヒトミちゃんに会ったって名乗りはできねえぞ」
「声だけでも手を握るだけでも……その気持ちはあるですが」
「が、とは何だ? 聞き捨てならねえ。さてと、終電だと網走着が二〇時四二分だな。迎えに行きてえが、知っての通り日が暮れりゃあ酒を飲む。十七の頃から続いているオレの日課だ。こいつのために営林署の長にならなかった。なれなかったんじゃあねえぞ」
「知ってますよ。こいつあオヤジさんの口ぐせだからね」
「それでだ。網走から旭川へ走る石北線のオホーツク一〇号がまだ間に会うが、遠軽駅で深夜に降りたらまっとうな人間だって怪しまれちゃう。網走駅前の“シンバシホテル”ってえのがオレの知り合
いだ。ツケにしといていいからそこに泊れ」
「お言葉に甘えさせていただきやす」
「また追われてるのか?」
「ウソいっても始まりません。故郷でケジメをつけたいと」
「その人を道連れにか?」
「本人次第ですが、かわいそうで……」
「あたり前だ。ヒトミちゃんはオレの娘になるから心配ない。ごくつぶしのおめえなんざどうでもいい。だが、その人を道連れはダメだ。その人の名前は?」
「苗字は、中井で名前はえーと和美……」
「なんだ名前でつまっちゃうのか? 中井カズミか、偽名くさいがまあいい。いろいろ事情があるだろうからな。で、そのカズミさんも引き受けようじゃねえか。年はいくつだ? 二十三? それはだ
めだ。うちへ入れようもんなら今でもおっかねえカアちゃんが、りん気の虫を起こして鬼の七変化だ」
「すいません。心配かけて」
「なあに、なんとかなるさ。じゃあ明日の朝行くからな」
闇の中に風の音が騒がしいが、それ以上に荒波がおりなすオホーツクの海鳴りがもの悲しい。
「心ばかりですがね」
複雑な事情を察してか、気のよさそうな奥さんがコーヒーを二人に差し入れた。
「お二人で流氷のころに来てください。このホ-ムのすぐ下から一面の氷で、それは見事な光景ですよ」
そこからは沈黙が続いた。ホームへ抜ける待合室のドアがガタガタとはげしい音を立てて震えている。遠く汽笛が聞こえてくる。
列車が入ると、駅長を兼ねる店のマスタ-と奥さんがホ-ムに出て、手を振って二人を見送った。若葉もデッキから「有り難うございました!」と、叫んで遠ざかる夫妻に大きく手を振った。
列車内に乗り込むと、まばらな乗客の視線が目の不自由な信二の手を引く若葉に注がれたが、すぐ鮮魚の買い出し帰りなのか革ジャンバ-に長靴の男が「足元に気をつけな」と言って、窓際の席をす
すめてくれた。さらに、二人が座席に落ちついくのを見届けた行商風のおばさんが魔法瓶のお茶を振る舞ってくれた。オホ-ツクの海沿いを走る車内には好奇の目などなく、ただ心暖まる人情の温もり
が満ち溢れていた。若葉はこれだけでも感動して北の大地に来た喜網走駅の改札を出て駅からの階段を降りると、目が不自由と知った富橋が心配りをしたのかシンバシホテルは駅前にあった。
34 網走の一夜
「朝の景色の一番いい部屋をと言われておりまして……」
ここでも富橋の気配りが効いていた。
海側の、網走川に面した六階の和室に案内されると、座卓の上には簡単な夜食が並んでいた。食事は済んだと伝えたのに「富橋さんからお頼みされました」と、係の女中が言って去った。刺し身、揚
げもの、お新香と焼きオニギリがある。
隣りの部屋をのぞくと、二組の布団の派手な花柄がまぶしい。
まず、浴衣に着替えて冷蔵庫から缶ビ-ルを出して乾杯、料理にハシをつける。若葉がその美味しさに感動すると、「北にはな、食べる楽しみがいっぱいあるんだ」
と、信二が笑顔を見せた。
信二をお茶でくつろがせてから、部屋付きのバスル-ムに行き、ヒノキづくりの湯船の底に栓をして蛇口を開き湯を出した。
若葉は、買ってきてある男ものの下着なども用意した上で、勇気をふりしぼって嫌がる信二をバスル-ムに案内した。
「風呂ぐらいは一人で入れるから……」
ここで引いたら、これからの二人の生活がママゴトになる。自分から望んで来た以上はすべての面倒を見るのだ。若葉は、信二の遠慮を無視して身につけているものを全部脱がせた。背中一面にに見
事な昇り龍の刺青が現れた。
自分も全裸になり、信二を洗い場の座台に座らせ、自分は立ったままシャワ-の金具を握った。やつれたとはいえ鍛えた肉体のおもかげを残す信二の身体をまぶしく見て、昇り龍の背中から全身にシ
ャワ-の湯をかけ、信二が湯船に落ちつくのを見て、自分は中腰になりからだを流す。若葉のつややかな肌が水をはじいて生き生きとよみがえってきた。
恥じらいながらも、信二の肩に手をついて密着するようにからだを寄せてからだを湯船に沈め、信二に抱きつくと、音をたてて湯が溢れた。若葉は夢中でクチビルを密着させると、信二はためらいながらも慣れたしぐさで舌をからめ、いとおしげに若葉のすべすべした肌に触れ、あわてて手を離し首を振って自分から湯船を出た。
若葉も湯から出て、嫌がる信二の身体の隅々までもボデイシャンプ-の泡で包んで、母が幼子をいとおしむように洗うと、山荘の湯では石鹸で洗う余裕はなかったのか、気持ちよさそうに若葉のなす
がままになった。
信二の濃いヒゲも備え付けのカミソリで剃ると、信二本来の精悍な自顔が現れた。それを、若葉がほれぼれと見つめる。
信二を好きになってはや数年、歳月はこの深い心の奥の愛を風化させてはいない。ただ、その女心にはまだ誰も気づいていない。多分、この人さえも……。
浴室から出て、浴衣に着替えたときの若葉は落ちついていた。
信二の眼帯を代えるとき、若葉は凄惨な傷口から目をそらさず唇を噛みしめた。この時、若葉の決意は揺るぎないものになった。
敵は必ず追って来る。目の不自由な男を連れた男女のペア-を追跡するのに雑作はない。空港から乗ったタクシ-、あの親切な駅のご夫婦、このホテルのフロントマン、その誰もが暴力団の脅しには口を開くだろう。ならば、それを逆手にとるのも策の一つ、敵の襲来を歓迎し最後のチャンスに賭けるのだ。そして全てが終わったら目的を果した自分は燃え尽き、信二は娘と共に生きるだろう。
ただ、この一夜だけは信二に抱かれたい、愛して愛されたい。
だが、それが最善か……信二を見る若葉の心は揺れている。
それとは別に信二の心も揺れていた。
いずれ因果応報のときは来る。だが若葉は道連れに出来ない。
目も見えずに追われる身では、この娘を守ることができない。それどころか自分が足手まといになるだけだ。自分がいなくなったとき、誰がどのようにこの娘を守ってくれるというのだ。
ただ一つの可能性は、虫のいい話だが過去の不義理を詫びて富橋善吉の男気に頼って若葉の安住の地を定めた上で自分が消えることだ。自分の責任は自分でという本来の信二の生き方からは逸脱する
がやむを得ない……これで結論が出た。
敵は必ず追って来る。全てのケリがつくのを見届けたら若葉を生かして自分の中途半端な半生に終止符を打つ、これでいい。
だが、若葉の想いが布団越しの呼吸から伝わって来る。
信二はいまこそ(自分は人を幸せにできない。そんな自分を知っているからこそ、この娘とは結ばれてはいけないのだ)と,強く自制していた。愛を殺し欲望に勝つことが、不幸にして来た過去の女
に対しての贖罪になる。ここを耐えぬければ若葉の未来に輝きが見え、同じ道を歩ませないで済む。
ここでおのれに負けたら二人して地獄道を歩かねばならない。
信二は、眠くなったふりをして布団に横たわると、すぐ寝息を立ててタヌキ寝入りをきめこんだ。この信二の考えは甘かった。
この夜が正念場であることを若葉も感じていた。もう覚悟はできている。若葉は信二の脇に座り、寝顔を見つめた。嬉しくてなみだがごく自然にあふれてくる。
自分の人生の全て、死んだ青春、傷ついた心を、この人だけがなんの義理もないのに全うしてくれた。あらゆる苦難の中で、支え、よみがえらせてくれた。しかも、つぐなえないほどの重荷を一人で背負って行こうとしている。その心が読めるだけに辛い。それでいて一言も恩きせがましいこともいわず感じさせもしない。
いま若葉の決意はみじんもゆらいでいなかった。死ぬもよし、生きるもよし。地獄の果てまでも一緒に行くのが運命なら喜んで付いてゆく。三途の川だって、針の山だって目の見えないこの人を一人で渡らせることはできない……そして涙をふいて立ち上がり部屋の電気を消し、身につけているものを脱ぎ、素肌になって迷うことなく掛け布団のすそを上げ、静かに信二の脇にすべりこんだ。
無理に起こさないように気をつかいながら、頬を寄せ、やさしくくちびると手を信二のからだに這わせた。髪を、頬を、胸を、そっとそっと疲れた身が目覚めないように気づかいながら長い時間をかけて若葉は愛する人をいつくしみ、自分の息のあらくなるのにも気づかずに肌を撫で……やがて、その手が若葉の見知らぬ新天地にたどりついていた。そこには、深い眠りをよそおう寝息とは裏腹に、想像したこともないたくましい男のカラダが所有者の意思に反して野性の雄叫びを上げて荒々しく猛り狂い息づいている。そこには男の本能がある。それはまた、女の本能をも呼び起こす。若葉の理性が消えた。暴風雨の大海原にさらされた小舟か、台風の中でダッチロ-ル状態になったセスナ機のように制御がむずかしくなり、どうにでもなれとばかりに若葉は燃えた。体験がないわけではない、ただ生まれて初めて自分から求める気持ちが動いたのに戸惑った。
恐いものにでも触れるかのように添えた手が、獲物を追うように攻めてゆく。信二がからだをひねって逃れようとしても、若葉のやわらかい手のひらの中で息づく熱く大きな生きものは脱出できずに捉えられて更に逞しく脈打って熱い血潮を伝えてくる。
若葉の全身がはげしくわななき血液が沸騰して逆流する。抑えようのない衝動が体内をつきぬけ、思いもしない過激な行動に走らせた。わずかな知識しかないはずの若葉がなんと、逃げようとするモノを自分から迎え入れようと行動したのだ。その激しい情熱に、信二の無理なニセ正義はもろくもくずれ去った。彼は目を覚ました振りをして若葉を抱き、本性丸出しの野獣に戻って本能のおもむくまま、からだの震えで経験の浅さが分かる若葉の柔肌に、望むまま望まれるまま、幾度も絶叫させ吠えさせ唸らせ歓喜のすすり泣きにと悦楽のひとときを与えた。
若葉は、瞬時のためらいのあとはただ快感のうずに巻きこまれ、全身に高圧の電流が走り抜け、頭の中が白一色になり「死ぬ!」という瞬間をいくども味わって生きる喜びを知った。信二のからだの重みを愛情の重みのように感じながら、全身の力が抜け意識が遠のいてゆく……その気だるい脱力感の中で、これで死んでもいい……
この喜びの中でも死ねる……いや、この喜びを知ったからこそ生きるのだ……若葉は心のゆらぐまま眠りに落ちていった。
だが、それも長くは続かない。明け方のまどろみがおとずれると毎夜のように見る夢でうなされる。
紅蓮の炎があばら家を包み、男達に殴り殺されてもなお、わが子をかばう母の下で、男達に犯され蹂躪された妹が泣き叫ぶ。
「ネエちゃん、助けて!」
その必死の声も一瞬……くずれ落ちた家屋は炎に包まれ跡形もなく消え、後には何もなく、ぼうぼうたる原野に吹く風が枯れ尾花をゆすって心に穴をあけて吹きぬける。
母と妹を殺された怒りに狂い、犯した罪の重さがかさなって自分を苦しめる。あと一人……恐ろしい鬼夜叉の自分が敵を求め、血にまみれた両手の爪を立てて闇の原野をさまよっている……こうして今朝も目が覚める。
35 遠軽へ
若葉は、目覚ましが鳴るよりも早く夢で目が覚めた。
若葉は見られないのを知っていても、浴衣のすそを恥じらいで気にしながらシャワ-を浴びに急いだ。身づくろいをする間も気のせいかからだがほてっていて、信二に抱かれた余韻があふれでる。
冷たい水で丹念に顔を洗うと寝起き顔に浮かぶ悪夢の影はは跡形もなく消えて、さわやかに整形で化けた若葉の笑顔が鏡に映る。それを見て微笑むと若葉の一日がはじまる。
信二も起きていて、すでに手探りで身仕度を整えていた。
六階の部屋の窓から眺めると、ホテルの駐車場の屋根を経て網走川のゆるやかな水面に小魚の群れが踊り、流れは北の海に落ちる。
漁師町の家の屋根の彼方には、青々と澄んだ初秋の空の下にオホーツクの海が朝の陽にギラギラとまぶしい光を放ちながら広がっていた。早朝なのに橋の上を車が続いている。若葉は信二の手をにぎ
り頬をよせてその情景を語る。フロントからの電話が入った。
「朝食を用意してございます」
荷物もまとめて下に降り、清算しようとすると、支配人が出て来て頭を下げた。
「富橋さまが、あと四十分ぐらいでお迎えに上がります。お会計はその時にと申しておられました」
と、どうしても受けとらず、二人をホール横のレストランに案内し、洋食、和食の好みを聞いた。
「和食を」と、信二をみて若葉が言い、信二がうなずいた。
朝から信じられないほどの豪華な食事だった。
ホッカイシマエビ、ハマチ、ホタテなどの刺身の盛り合わせに焼き魚にホッケが出た。なま卵に海苔、赤出しと、これが朝食の定番かと思うと、驚くばかりで残すのがもったいない。
信二のぎこちないハシさばきを笑いながら若葉が自分のハシで口に運んで食べさせたりする。食事がこんなにも楽しかったのか。
「お茶がおいしいわ!」
若葉がいうと、信二も湯のみを探った。
食事が終わると、タイミングよく富橋が四駆のクル-ザ-に乗ってあらわれ、信二の手をとって喜び、若葉に深々と頭を下げた。
「カズミさんでしたな。こんなヤツの面倒を、すんませんね。目が見えんじゃ不自由でしょうが、もう悪さはせんでしょうから」
二人の新天地を求めて、遠軽(えんがる)へと車は出発した。
「信二。おまえがいたところを通過中だぞ」
運転席から右手を眺めた富橋が、何気なく言い「まずかったな」
と、首をすくめた。ひげ面でごついが人のいいのが顔に出る。
「どこ? どこに住んでたの?」
四駆のクルーザーの後部座席で、信二の左に並んでいる若葉が、信二の胸元に顔をつき出すようにして窓から右手の道路越しの景色を見た。富橋はもう前方を見ている。
「富橋さん。どのあたりですか?」
富橋が返事に困っていると、信二が見えない顔を右に向けながらなつかしい、という口調でポツリと口を開いた。
「ムショだ。網走に二年世話になって、そこの富橋さんには、所内での仕事を世話してもらってたんだ」
「そうなの」と、若葉におどろいた様子はない。
仕方なく富橋が口をはさむ。
「わしがこの地区の営林署を渡り歩いてるころだったな。
木材を運び込んで、信二らが網走名物の木彫人形を作ってな。あれが今ではムショの稼ぎ頭になってる」
「オレが担当で、オヤジさんを見送ると帰りぎわにいつもタバコを二箱落としてくれて……」
「そりゃ、そうだ。渡したらこっちまでパクられちゃうからな」
「拾ったら素早く走って、気をきかしてオレに背を向けた看守の後ろに一つ落とし、一目散に仕事場に戻って仲間に配給して喜ばれたもんだ。みんなに感謝されてたな」
「そんなこともあったなあ。オレ以外の人から違うモノを投げられた縁でネンゴロになったこともあるんだろ?」
「遠まわりのいい方は無用ですよ。きのうの電話でオヤジさんの声が筒ぬけだから、娘のことまでバレてます」
「そうか、カズミさんにこいつの旧悪をバラしちゃってわるかった。どんな悪事で逃げてるかは知らんが、信二はコソドロなんかする男じゃねえ。堂々とケンカしちゃあ運わるく相手に大ケガをさせた
りする。たいがい売られたケンカだから正当防衛なんだがバカだからいいわけもしねえ。それで何年もくらっちゃう」
「なぜ、弁明しないの?」
若葉が不思議そうに信二に聞く。
「なぜって、オレを仕込んでくれた竜二って兄貴がそういう男だったから仕方ねえのさ」
「その竜二って野郎が今年の春に来たんだ。ヒトミちゃんの母親の墓まいりをしてったぞ。オレが「いらねえ!」と断るのに、舎弟の娘の面倒見てくれて済まねえってオレたち夫婦にまで土産と小遣い
の金まで置いてきやがった。おめえにそっくりで気に入らねえ野郎だ。日光にいたのをやめて東北で仕事を見つけたとかいってたぞ。
青白い暗い顔でな、多分、ヤツは病気で凶状持ちだぞ」
「竜二のアニキが来たのか……」
信二の語尾が消えた。
国道二三八、通称オホーツク国道の早朝ドライブは快適だった。
対向車も少なく、同じ方向に走る車も前後に見当たらない。
海の入江のようなサロマ湖が右手に見えた。車が右折し、湖の方角に進んで駐車場で停まった。
富橋が振り向いて若葉に話しかける。
「信二は仕方ねえが、カズミさんだけ降りて湿地を眺めてみな」
運転席から降りて一まわりしドアを開け、高い座席から降りる若葉の手をとる。いかにも嬉しそうな表情だった。
「あら、きれい、なんの花!」
おもわず目を見張る。あたり一面にゆれる赤い草花の群落が湖畔の湿地帯全域を朱に染めて続いている。青い空と海に映えて朝日に輝くまっ赤な赤い草原に設置された細くて長い木橋の道に踏み入っ
た若葉は、そこで立ちつくした。
「さんご草か……花じゃないが花よりきれいだろう?」
信二がなつかしそうに、見えない目を向けた。
再び車は国道をひた走り、バローのT字路を左折し、バロー川沿いの道を芭露(ばろ)峠越えに、人口一万三千人の遠軽町に入り湧別(ゆうべつ)川にかかる橋を渡る。
36 ヤマベのすむ町
「おーい。連れて来たぞ!」
家の玄関口から庭の車庫へ車を入れて、富橋が怒鳴ると、庭先の縁先のガラス戸が開き富橋の妻の勝子が顔を出し、サンダルをつっかけて駆け寄り、先に降りる若葉の手をとろうとした富橋をはねと
ばして、やさしく手をとる。
「カズミさんでしたか、よく来てくれました。目の見えない信二さんを介抱して、大変でしたね」
とりあえず全員が室内に納まり、よもやま話になるが、富橋だけは休む間もない。ねじり鉢巻に前掛け姿でソバ粉を練り始めた。
「お二人に、ソバを食べさせるって張り切ってたんですよ」
「昔も、食べさせてもらったんでよく憶えてます」
「うちのダンナ、かなり腕上げてるのよ。手打ちソバ同好会ってところに入って月一回、まわり持ちで品評会やってるんだから」
大きな団子を麺棒で平たくのしながら、富橋が自慢する。
「こいつは百パーセントものだぞ。つなぎは卵と少々の水だけだ。
水もな、地下水のめっぽう旨えやつだからな」
それから、妻に問いかけた。
「おい、どうした。例の件は?」
「電話をくれる約束なのに。町長さん忙しいのかしら?」
「なにが忙しいもんか。今朝だってオレと一緒に夜明け前からヤマベ釣りに行って、帰宅してから役所に出てるんだぞ」
「今朝もですか?」
迎えに来る前に釣りなんて……その余裕に若葉が驚いた。
「ここのオヤジさんは、四時か五時には川か海にいる人なんだ」
「信二も昔は一緒だったな。今朝は生田原フィッシングクラブ会長の医者の先生と、そこの事務局長、美容院を嫁さんにやらせて釣り三昧のヨッちゃん。生田原町役場企画課長の近東君、林田町長と六
人で出勤前一時間の生田原川早朝ヤマベ釣り大会さ。町長は、予算獲りはこの辺りの町で一番だと評判だが、釣りはまるで素人だな。
町の封筒にまで“ヤマベのすむまち”って入れてるくせにだぞ」
妻の勝子がいう。
「でも、あたしが別件で電話したら『富さんはシッポまいて逃げちまった、今朝は入れ掛かりで圧勝だぞ』って言ってたそうです」
「網走まで行くから三十分で上がるって断ったのにか? ま、いいや、早くもう一度電話しろ」
勝子が電話を掛けに立った。
ソファの長椅子に並んで座った若葉に信二が説明する。
「ヤマベってえのは、関東でいうヤマメのことでな。ここのオヤジさんの記録じゃ一日七〇〇なんて、バカにされるほどの数を釣ってるんだぞ」
「おいおい、信二、今はな、そんなに釣れやしねえぞ、せいぜい一日で三〇〇ってとこかな」
「それで、ときどき、腕が痛えの足が冷てえのとあきれた話よ」
「アキアジは、もうすぐオホーツクの海いっぱいに押し寄せてくるが、ここには渡辺のヨッちゃんという名人がいて一時間に二十本も上げることがあるんだ。あいつにはどうしても勝てねえ」
「七〇センチもあるサケを一時間に二十本?」
「もっとデカイのもいるから腕なんかパンパンになるんだ」
釣りの話を打ち切った富橋がソバ作りに集中し、八万円とかの包丁でソバを切るとトントントンとリズミカルな音が響いた。
「ここの奥さんは、お寺の一人娘で両親が手離したくないのを、営林署のヒラだったここのオヤジさんが口説いて両親に怒られ、『経も読めんくせに』と一喝された。そしたらな、何日かして、両親の
前で堂々と経を読んだそうだ」
「おい信二、よけいなこと教えるな」
まんざらでもないのは、声音で分かる。
「それで、両親もあきれて結婚を許したんだ」
若葉が感心していると、富橋の妻が夫に話しかけた。
「役所へ電話したら、一人で車を運転して出てるそうですよ」
「そうか、林田町長は約束通りにこっちへ来るのかな?」
「ご自宅に電話したら奥さんが出られて、釣りから帰って『朝、富さんが網走へ人を迎えに行くそうだから昼はソバ打ちに決まってる。久しぶりに腹いっぱいソバを食べてくるぞ』って言ってたそうで
す」
「ま、そんなことかと思って五人前ほど余分に打っといた。あの町長は、図体がでかいだけよく食べるからあのスタミナなんだ」
間もなくして玄関前に車が停まり、生田原町の林田照夫町長が巨体をゆすってあいさつもそこそこに上がりこんで来た。
ゆで上がりのソバの香りと、薬味に刻んだねぎの匂いが応接間いっぱいに広がっている。町長は、さすがに役者だった。
「やあ、これはこれは、丁度いいところに来ちゃったのう。お邪魔だったかなあ」
そのくせ、しっかりと椅子をテーブルに寄せて食事の態勢をとってから、ニコやかな笑顔で信二と若葉を見た。
「信二、娘さんはワシとは初対面か? でも見たような……」
「カズミさんだ」
富橋が紹介する。
「そうか、若いのに気の毒にな、こんな男の面倒みるなんて」
「町長、それより、親子のご対面はどうなった?」
町長が、腕組みをして首をひねった。
「電話したらな、日の光学園の女園長は冷たいぞ。ヒトミちゃんのお父さんは、お母さんが病死する前に、海の事故で死んでるはずだって言い切るんだ……日曜日まで待てば面会できるがのう」
「ダメだ。今日中になんとか会わせてやってくれ。この通りだ。
富橋が少し薄くなった頭を形だけ下げた。
続く