30 道東の海
「あんたが安本じゃないかと気付いた時から、安本の前歴を伊部に調べさせたんだ。そしたらな、正しいと信じると損得抜きでバカなことをする男だって分かって来た…言い訳もせずグチもいわず、ひ
たすら人に尽くす。故郷は道東の遠軽町……」
「なんのために調べたんです?」
「そこに住むんだ。いい土地だってな。オホーツクの空は青く澄んで、荒い波と風が秋を告げてくる……」
「今頃は、その荒海からアキアジが群れて来ます」
「サケのことだな?」
「脂がのって旨いですからね。釣ったら豪快ですよ」
「若葉を連れてってくれないか?」
「若葉を?」
「若葉が、心臓に欠陥が見つかって治療に専念するために引退、と発表した。本当はどこも悪くないんだが、地方の病院に入院し手術後静養することにしてな」
「マスコミが追いませんか?」
「ほとぼりが冷めちゃえば、すぐ忘れられちゃうさ。若葉にぜひ、北の海を見せてやってくれ。住む家の候補も伊部が探してる」
「オレが若葉の足手まといになるから、断わります」
「じつはもう支度もできてる。昨日から準備してたんだ」
しばらく間があって、安本が聞いた。
「生きろってことですか?」
「自首しないなら、逃げきるしかないだろうな?」
「若葉が承知しますか?」
「彼女はもうあんたの下着まで買ってきてバッグに詰めてる」
「まさか? 本人は望んでないでしょう?」
「望んでるさ。チケットは、いますぐ手配する」
また、受話器を外し、JASに偽名で申し込んでいる。
「聞こえたか、そこからタクシーで羽田へ出て、三時五十五分発のJASで女満別空港へとぶんだ。金は持たせる」
「もう、仕事じゃないですな?」
「仕事はクビだ。あとは勝手にしな」
「でしたら、女満別までは世話になりますが、そこからは自由にさせてください。好きなように歩きます。金もあまり要らんです」
「分かった。幕引きは好きなようにやってくれ。死のうと生きようと勝手だ。これでギャンブルは終わりだ」
「感謝します」
「それから、若葉の歌で稼いだ金はまだまだ入って来る。レコードが売れに売れてる。子供にも贈ろうか?」
「子供?」
「死んだ嫁さんとの間に、五歳か六歳になる娘がいるだろ? ただし、まだ居場所が分からん。道東にいるのは間違いないがな」
「知ってたんですか?」
「嫁さんとは、網走の務めを終える間際に知り合ったんだってな。
外で労務中のあんたにガムを投げた。その縁からだと聞いた」
「そんなことを誰に?」
「伊部が行ったとき、停年退職して庭師で働いていた元看守から聞いてきた。二人は、あんたが出所して偶然駅の待合室でバッタリと再会、孤児同士だったがロマンチックな出逢いだったそうだ」
「別れは辛かった……貧しくて東京で稼いで帰るつもりだった」
「あんたが東京へ出て間もなく、女の子を産んで、彼女は乳ガンをこじらせて死んだんだ。そうだろ?」
「山仕事をしていたが甲斐性がなくて、病院にも満足に行かせられなかったんで、それで死なせてしまった」
「衰退する林業、その従事者の収入は低いからな」
「オレに甲斐性があれば、死なせないでもすんだはずだ」
「百万偏悔やんでも仕方ない。墓前に花の一本も手向けて来い」
「そこまで辿りつくのは無理でしょう」
「なぜだ?」
「酒上は飯田連合の企業舎弟です。飯田連合は北に強く、兄弟盃を交わしている任侠組が道東を押えています」
「運を天に任すんだ。施設の話だがな、伊部が知床、漂別、網走、北見、遠軽と探したがどこの施設にもいなかった。あとは、湧別川流域の上流の町村を探してみてくれ」
「たどりつけたら、そうします」
「あと十五分後に、地元で元総理畑田代議士の秘書から金が届く。
その金は、畑田代議士が総理のイスをめぐって争った際、前橋女史が裏工作を手伝ったことで正当な理由で頂戴できる金だ。あんたの命を救けてくれたそこの家のお礼も五十万頼んであるぞ。それと、
三文判を使って他人の名義借りで銀行カードを作ってあるんだ。暗唱番号はあんたの生年月日だ。若葉に持たせるが若葉のカ-ドもつくってある。残高はこっちで調べて二人とも常時三百万にしておい
て、不足分はすぐ補給しておく」
「感謝します」
「タクシーは三十分後ぐらいに着く。帽子を借りて深くかぶり、寝たふりをしてろ。もう、あんたとは会う機会もないだろう。
有終の美は飾れなかったが実に楽しかった」
「それはオレも同じです、有り難うございました」
「それと、あの戸田とかいう女記者、こいつがあの村の脱税事件と連金術に目をつけて取材をはじめた。あの女記者のためにこっちの歯車が狂いはじめていたようだが、こいつはまだ要注意だぞ。最近
になってあの女のヒモが警護員の佐賀だって知ったんだが、こいつは鈍いから気にしないでも良さそうだ」
「成り行きに任せます」
「赤垣殺害の真相はどうなんだね? あんた一人だけでやったとは考えられないんだ。もしかして、若葉も関係してるのか?」
「若葉は関係ありません。オレが赤垣を殺し、古川と高岩に金の返済をチャラにするのと大金の分け前を匂わせて、二人に赤い車で運ばせて山に埋めさせました。大金は、松原湖畔の祠の中に隠したと
言ってあったんです。オレは東京へ逃げたから、あの二人の殺し合いからのことは知りません。多分、警察の発表通りでしょう」
「分かった。そこからJAS出発口まで行け。タクシ-料金は往復分払っておく。国内線JAS側の出発口に若葉が待ってるぞ」
「車が来たようです」
「じゃあな。命を粗末にするなよ……」
車の気配が外にある。家主の香取老人が出て、すぐ安本を呼びに戻る。安本は電話を切って、手さぐりで表に出た。
香取が安本の手を持って立つと、代議士秘書が頭を下げた。
「目が不自由だそうですね? 前橋先生に頼まれましたお金はこの封筒に入ってます。ここから先は立場上お手伝い出来ませんが、安心できるタクシ-を手配しました。こちらの袋は、こちらの香取さ
んに、こちらが療養させて頂いたお礼とのことです」
秘書が香取にも丁重に頭を下げたらしい。車は去った。
香取が感心したように首をひねり、菓子折りと封筒をながめ、
「今のはたしか、元総理の畑田さんの秘書の方だねえ」
夫から菓子折りと封筒を手渡された妻の幸江が、封筒を開けて中をのぞいて小さく声を出し、暫くは放心状態の様子だった。
「こんな大金、どうします?」
袋を見せられた夫も声が出ない。その時タクシーが到着した。
カードと必要分の金は、出しやすいように上着の横ポケットに入れ、封筒は部厚いまま内側に収めた。これで、不安はない。
香取夫妻と握手をして礼をいい、手触りからも古そうな野球帽を貰って頭に深く乗せ、安本はそろそろと出口に向かった。
老夫人が手を添えて、車に安本を入れてから運転手に言った。
「この人、身体がわるいでな、ゆるりとやってあげてね」
香取隆吉が急いで握ったというにぎり飯を安本に渡した。そのぬくもりが手にあたたかい。動きだした車内で頭を下げると、夫妻が手を振る気配が伝わってくる。安本が見えない目を押さえた。
31 追撃
酒上は、組仲間が経営する木工場の作業室にかくまわれ、組からの情報を待っていた。
あれから何日たったか。結局、自分一人になってしまった。
善次郎や清次、源三という共犯者が捕えられペラペラと自供しているのは目に見えている。ナオミ殺しが突破口になって、いままでの悪行の数々が白日のもとに晒されるのは間違いない。彼らはすべての罪を酒上に被せて減罪を図るだろう。
これも安本のせいだ。もう金の問題ではなく、男の意地だった。
必ず安本を殺す。そのためには絶対に捕まらないことだ。
コンコンコンと作業室の板戸が三回叩かれた。これが合図で、内側から鍵を開けると仲間がいた。
「酒上。安本らしい目の不自由な男が羽田にむかったぞ!」
約二時間遅れで、網を張ったタクシ-会社から飯田連合甲府支部の事務所に連絡が入り、倉庫に酒上を匿っている茅野市内で木工場経営の兄弟分が知らせに来た。車が待っている。
飯田連合と親しいタクシ-会社の役員が、安本脱出を二時間も遅れて知ったのは依頼客に口止めされていた配車係と運転手が羽田行きを伏せたことにも原因があった。
その役員が怪しいと気づき、配車係を問い詰めて羽田にからだの不自由な男を運んでいるのを知り、組本部に知らせたのだ。
当然、警察も同様の手を打っている。しかし、警察への通報では謝礼もなくなんのメリットもない分通報が遅れる。したがって、この時点ではまだ警察は知らない。走る車内で状況を聞く。
「安本は、定年で隠居したジジイが若い女房と暮らす山の家に匿われてたんだ。運転手の話だと、空港でだれかと三時二十分に待ち合せだというから、その三十分後の便だとすると、JASの女満別行
き三時五十五分、この最終便だけだ」
「そうか、これだと追跡側を振り切れると読んだんだな?」
「東京本部に連絡はとったが間にあわん。女満別で待ち伏せするよう手は打った。うちと友好関係にある任侠組の若い衆がお出迎えになる。高くつくが仕方ねえ二億円の楽しみのためだからな。
手付金は送ったが、捕まえてくれたらさらに倍額の礼金を送ることになってるんだ。財布に当座の費用も入れとくぞ」
封筒の他に、着替えと財布の入ったバッグを手渡される。
「なんとかヤツらと同じ便に乗れないか?」
「無理だ、連絡が二時間遅れてる。茅野に停まる特急あずさ一八号にぎりぎり乗れるからこれで新宿着三時半、JRで浜松町、モノレールと乗り継いで、JAS五時の旭川行きに乗れ。酒上じゃまずい
から向こうで「ナカガミさまお迎え」の紙を持たせとく。そこから山を越えれば道東で、あとはここに書いた電話番号で女満別の任侠組と連絡がとれる。安本がパクられると、そこから手繰られてヤクを扱ってたのがバレて組の存在すら危なくなるからな」
「面目ない。ヤツが口を割らなきゃ、かならず殺って来る」
「頼むぜ。駅に着いたぞ。時間がないから急げ!」
警笛が響いて列車が入って来る。
切符も買わずに酒上が構内に走りこみ、駅員がわめいた。
こうして、安本を追う酒上も旅に出て。
追われるとも知らずに、信二と若葉は旅に出た。
JAS187J便は、定刻の十五時五十五分に羽田空港をとび立ち、仙台上空などを経由して十七時四十分前後には道東の女満別空港に着く。おだやかな空の旅で揺れも少ない。
主翼のやや前方進行左側座席に二人は座っていた。信二の手の上に若葉の手が添えてある。そのまま、静かに時が流れる。
雲が切れ、紺碧の海がはるか下に広がっている。
それもしばしで、やがて広大な北の大地が遅い午後の陽光に緑濃く輝いて現れた。
「北海道は緑がいっぱいね」
はじめて訪れる異郷の地への感激で若葉の声には感動がある。
信二の膝の上に片手を乗せ、豊かな髪の毛が信二の顔に触れているのにも気づかずに身を乗り出し、生気がよみがえった目で窓から下を眺めている。その景色も信二にはもう見えない。
それでも、眼帯をした上に濃茶のサングラスをかけ、薄いアイボリー系のコートに同色のハットをかぶった信二の表情にかすかな微笑みがうかがえる。心がおだやかなのだ。
ワゴンサービスでティータイムが始まると、信二の面倒を見るのが嬉しくてたまらない様子で、若葉が甲斐甲斐しくコーヒーのミルクを混ぜたりしている。
その二人を、かなり離れた後部座席から見守っている若い女性がいた。その娘は、読みふけっている原文のフランスの小説から目を放し、時折さり気なく信二と若葉の二人に視線を投げ仲睦まじい様子をみては、安心したようにまた視線を手元に戻していた。
彫りの深い知的な顔に黒い瞳と形のいい桃花口の唇がいかにも男心をそそる。淡いボルドー色のおしゃれなツバ広キャップに、大柄で濃い色のサングラス、帽子より少し濃い同色系のサテン地のスーツの品のいい服装の、良家のお嬢さんという雰囲気をただよわせている。代議士秘書の横川恵美だった。
この朝、藤井からの連絡を受けたとき、若葉と信二の北海道行きに賛成はしたものの何か胸騒ぎを感じた前橋女史は、一人静かに易を立てて卦を読み、そして、幾度も瞑目し吐息をついた。
易の卦は「地水師(ちすいし)の三爻(こう)」。易の意は「争いありて屍(しかばね)をにないて運ぶ」で、断じて「凶」。方位は、東北北。死の卦が出ている。
人が死ぬ…。しかも複数、二人と出ている。誰が死ぬかは卦に現れないが、今日明日に迫っている。
人は死ぬとき、想い出の地に心を寄せる。
信二は、かつて網走から遠軽へとオホーツク沿岸の町で暮らしている。そこで、妻を病いで失い、娘とも会っていないと聞く。
二人にとっての人生は終焉を迎えているのか、あるいは、一度死して再生しつつあるのか。
なんの罪もない母と娘を殺害し、家を焼いた無法な四人の男たちがいる。その中で主犯だった男にはまだ天誅が下っていない。
その非道を咎めるべき国の司法機関が、彼らの偽りのアリバイすら崩せず手をこまねいて悪事を容認するかのように、残虐な男達を野放しにするのであれば、鉄槌を下す者がいてもいい。
そのためには、当事者の意思が尊重されねばならない。ただし、正義だけのために動く訳だけではない。然るべき報酬があってこその仕事なのだ。たとえ、その報酬が金でまかなわれずとも、精神的に満たされるものであれば喜んで受けて立つ。これが前橋秀子の信条だった。
この思想に共鳴するごく少ない理解者が、元自衛隊教官の藤井明弘と、姪で第一秘書の横川恵美だった。ただ、藤井には真実を知らせていない。
前橋秀子は、不老長寿の房術を駆使しているかのようにいつまでも若々しい。彼女の年齢を当てる者はいない。定かではないが、真言密教立川流の末裔とかいう説もある。と、すれば、易の神秘と奥義に精通するのもうなずける。しかし、さすがの前橋女史も、姪の恵美のもつ特殊な才能だけは読み切れない。
恵美は、前橋女史が易を立てはじめたときにはすでに、自室で旅の支度を始めていた。しかも、バッグの中には、厚手の竹を削り握り柄を太糸で巻き上げてある刃先の鋭い竹ナイフを、万年筆などの文具に混ぜ、ペ-パ-ナイフに見せかけて忍ばせている。
女史が恵美を呼び、若葉と同じ便での北海道出張を命じた。
そして今、恵美は北の大地への空を飛んだ。
恵美は、本をバッグに収め、下降中の機体の窓から外を見た。広大な緑の北海道のほんの一部が視界に大きく広がっている。
機体が揺れ、車輪がはずみ、やがて北の大地に吸いこまれるかのように機体が沈み滑ってゆく。
「着いたわ!」
嬉しそうな若葉の声が、後部座席の恵美にも届いた。くったくのない明るい声だった。
機内から降り立つ乗客の中に、とり立てて怪しいと思われる人物も見当たらない。メイクを落としてメガネをかけた素顔の若葉は、リーフブラウンの上衣にグレイのパンツスタイルに同系色のロウシューズ。つい数日前まで華やかに歌っていた人気絶頂の小森若葉とは、誰も気づかない。
若葉が大切そうに、信二の手を引いている。肩のバッグは衣類などでかさ張っているが、それほど重そうではない。
32 北の大地
二人は、タクシー乗場に向かった。
「空が青いのねえ!」
夕暮れ前の午後の陽が広々とした空港前の広い大地にまぶしい光を投げている。雲一つなく、太陽をさえぎるスモッグもない女満別の空は、たしかに原色に近い青に澄み、かなり強い風が吹いていた
が鷹が二羽、悠然と高く舞っていた。
タクシーの運転手が、客の目が不自由なのに気付いて運転席から降りて来た。若葉が軽く礼を言いバッグを手渡すとトランクではなく助手席に収めた。手を握ったまま信二を後部座席に乗せ、密着するように若葉が続いた。微笑ましい風景だった。その仲睦まじい二人を乗せたタクシーが動き出すのを見て、恵美は安心したように頷き、空港の建物内にきびすを返そうとした。ここまででいい。
羽田行の十九時発最終便がまだ間に合う。
ふと、恵美の足が止まった。駐車場の外で待機していたグレイのベンツが、二人の乗ったタクシーを追うのを恵美の目が捉えた。その車の動きは、明らかにタクシーを追っている。
恵美はタクシー乗場に急ぎ、運よく滑りこんで来た空車に乗り込むと、雑誌記者だと偽って二台の車を追わせた。三台の車は、網走方面への北の道を疾走した。
案じたように北の果てにも刺客はいた。明らかに二人を追尾していることは、前を行くタクシーがかなりのスピードで走っているのに、同じ速度で一定の間隔を保ちながら走行していることでも分かる。車は、網走湖畔を北上し、オホーツク海沿いに東に走る。
多分、若葉にとって初めて見るオホーツクの雄大な荒海は、魂をゆさぶるほどの感動を与えているだろう。その心の動きが手にとるように分かるだけに、恵美にとってもやるせない思いがする。
北浜公園を越えて、小清水の原生花園駅跡にある天覧ヶ丘展望台まで続く花の群落を左手に見たところで、若葉の乗ったタクシ-が速度を落として、ゆっくりと走って行く。
「多分、お客さんにハマナスの花を見せてるんでしょう」
恵美の乗ったタクシ-の運転手が解説する。そして、車がその場所に到達すると、恵美の目に花が見やすいようにスピ-ドを緩めてくれた。なるほど、夕陽に映えて可憐に咲く赤いハマナスや、鮮やかな黄色のエゾギクの花が乱れ咲いている。
信二は、この景色を若葉に見せたかったのか。タクシーは展望台の駐車場でUタ-ンして濤沸(トフツ)橋を渡り、濤沸湖に沿って左折して停まる。二人が降り、ここから歩くつもりなのか荷物を受け取るとタクシーを戻した。後続の二台も距離をおいて停まる。
恵美も料金を清算し、電話番号の入ったタクシー会社の名刺を貰って車を帰すと、灌木と雑草の陰に素早く身を潜めた。
若葉が嬉々として声を上げ、湖を眺めている。
すでに風は冷たい。道東の夕暮れはすでに秋、つるべ落としの陽が落ちると夕闇が忍び寄る。
車の通行が絶えたとき、若葉らと三十メートルほど離れた位置に停車していたベンツの刺客が信二ら二人を襲おうと、動いた。
助手席にいた男が拳銃を握って、ドアーを開けたとき、夕闇の中を風のように忍び寄った恵美が、右手に握った竹製の凶器を深々と男の胸に刺し、左手に持ったバッグで口をふさぎ悲鳴を止めた。
凶器を胸に刺したまま、男の拳銃を素早く右手でもぎとり、運転席にいて事態をのみこめず声も出せずにいる男に拳銃を突きつけ、自分も虫の息の男に重なるように乗り込み、その美貌からは想像も出来ないような強い口調で脅した。
「Uタ-ンして車を西に!」
信二と若葉の二人は、背後に起きた事件をなにも知らない。
「中州の手前に牧場が見えるか?」
「見えます。でも、もう牛も馬もいないみたい」
「そうか、暗くなると住み家に戻るからな。この辺りは十一月中旬になると白鳥が集まるんだ。シベリヤからとんで来るんだ」
「冬になったら……」
いいかけて若葉が肩をすくめた。そこまで生きるつもりはない。
その気配を信二が察したのか、なにもいわず優しく肩を抱いた。
「寒くなったな。今、何時になる?」
「七時近いわ」
「そうか、今、タクシーが入って来た道を戻って国道に出て西にしばらく歩くと、小浜という駅に出る。そこから釧網(せんもう)本線に乗って網走に出よう。たしか、まだ終列車があるはずだ」
通称オホーツク街道と呼ばれる国道二四四号に出ると、タクシーの中からは聞こえなかった波の音が聞こえる。海側の歩道に渡って信二の手を離した若葉が、土手を駆けのぼって大きな声で叫ぶ。
「大きな波がいっぱい!」
オホーツクの波頭が夕闇の中で白く砕け散っている。
その潮騒は、北の海の荒々しい雄叫びとなって異郷から来た旅人の胸を打つ。空はすでに夕暮れている。駆け戻って来た若葉が興奮したように信二の頬に口をつけるようにして報告する。
「すごいわ。白い波が横一線にキバを剥いて襲いかかるの…」
街道の北側に「停車場」と看板が出ているのを若葉が見つけた。
そこが北浜の駅、駅員不在の駅だった。
「日本で一番海に近い駅なんだ」と、信二が言う。
歴史を忍ばせる小さな北浜駅の入口には、ドアがある。冬の寒気を避けるために必要なのだ。
狭い待合室に入ると壁から天井から、びっしりと名刺やメモ、イラストや絵馬まで幾重にも飾られていて、その重みで天井がゆがんでいる。時刻表がガラスに貼られ、その先に海が見える。
「網走行きは……」
若葉が眺めていると、待合室の左手のドアが開き、若奥さん風の女性が顔を出した。「停車場」と看板が出ている。
「どちらへ? 網走方面でしたら八時二十三分まではありませんのよ。どうぞ、こちらでお茶でも飲んで休んでいてください」
店内に入には旧国鉄時代の古い設備が上手に保存してある。
素通しのガラス窓から眺めると、ホームのすぐ下にオホーツクの海があり、砂地をえぐって荒波が寄せては返していた。
二人は、信二が「店の名物だ」と推奨したオホーツクラーメンを食べた。鮭、帆立、タラバガニ、エビなどの海の幸が盛り合わせてある。空腹に気づかずにいた二人は夢中で食べた。
「うまかった……」 と、いいながら信二が箸を置いた。
信二に、食べ物の中味の説明をしたりする若葉を見ていたマスターが、容器を片付けながら感じ入ったように語りかけた。
「ダンナさん、目が不自由で大変ですね。網走からどちらへ?」
若葉は、返事に窮して信二を見た。