28 ポ-トレ-ト
友美が、朝十時過ぎに出社すると、「小森若葉、心臓発作で突如引退!」のニュ-スが社内を駆けめぐっていた。
友美は、達也が告げた「ナ-スが騙されている」が気になる。
とくに気になるのは、若葉こと和歌子の持病は肝臓病だったはずなのに、すでに肝臓は完治していて、今度は心臓発作だという。しかも、心臓に欠陥のあった中条留美は肝臓ガンで死んでいる。こんなことが医学的にあり得るのだろうか?
自社で出版している「家庭の医学辞典」を引き出して、心臓病について調べている時、長野の進藤から電話が入った。
「エル出版で昨年発刊した季刊のカメラ雑誌冬号のグラビアに、白馬ヶ池山荘で一緒だった写真家の小山の作品が載っているから、すぐ目を通してみてください」
電話を切らずに急いで編集部に走り、そのカメラ誌を借りて来て机にひろげた。指摘されたグラビアを見ると、髪の長い健康そうな若い娘の顔をアップにした組写真三枚、見開きいっぱいに広がり、撮影者は小山由紀夫となっていて丸囲みの顔写真も載っている。
「実は、先日一緒に会った塩尻署の坂井刑事が、わざわざ電話で知らせてくれたんですが、この写真の女性が中条留美だそうです」
「病院で一緒だった若葉と中条留美は、姉妹のように似ていたと聞きましたが、若葉とは鼻や目、顔の輪郭が少し違うのとホクロの有無ぐらいで、ほんとうに似てますね……」
「そんなことより、その写真の撮影月日を見てください」
「昨年の八月二十日になってますが……?」
「彼女はその数日後に心臓発作で倒れ、東京のセイロカ病院に移って亡くなったわけですが、それより、その写真を撮影した場所が気になるんです」
「場所がですか……?」
「小山の撮影メモを、ちょっと読んでみてください」
「……野辺山高原はいま目覚めつつあった。小海線の線路を抜けて県境に近い旧道に入ると、朝もやの中に初秋のおとずれを告げるススキの群落が輝いていた。風になびく白い穂先にピントを合わせて
いると、そのカメラの視界の先に若い女性の笑顔が偶然に入り……お、ブレネリ、あなたのお家はどこ-?……と、軽やかな歌声が透明な風に乗って高原に流れた。カメラのアングルを変え、望遠にして夢中でシャッターを切ったのがこの写真だが、あのさわやかな歌声が写らないのが惜しまれる……なにか注釈がありますね? 娘さんが進路を変えて遠ざかったために、この写真が無断掲載になったことをお詫びします。この写真を進呈しますので気づいたら本誌編集部までご一報ください……これがなにか?」
「高岩が吉川を殺して自殺した例の転落事故の県境の橋は、この写真を撮影した場所から坂を下って目と鼻の先です。しかも、この小山は戸田さんと一緒に、高岩と吉川が埋めたと思われる白骨死体の第一発見者で、しかも死体を埋めた夜、高岩と吉川が通った山道脇にあるあの白馬ヶ池山荘に泊まってたんですよ」
「偶然だと思いますよ。小山さんとはわたしも驚くようなところで出会うことがあるんです。小山さんは、八ヶ岳山麓から白樺湖など蓼科高原一帯の四季を撮りまくっていて、絵ハガキにしたり、出版社から観光写真を頼まれたり、山の動物などを撮っている自然派の写真家ですから……それに、自分が事件に絡んでいたらこの写真をわざわざ寄稿しないでしょ?」
「それもそうですな……あと中条留美はこの頃はかなりの重病患者でしたから健康状態から考えると、撮影日が八月二十日になってますが、実際にはかなり以前に撮影したものを、偽って使用した可能性もありますな」
「小山さんは、そういう人には見えません」
「おや。戸田さんは小山をかばうんですか?」
「かばってなんかいません」
「いいです。あとは本人に当たってみます」
「それより、拉致された若葉のマネ-ジャ-は?」
「まだ見つかりません。八方に手を尽くしてるんだが、どこに消えたか殺されたか、まったく手掛かりがなくて……」
「それと、ニュ-スで小森若葉の引退を聞きましたが、マネ-ジャ-の拉致事件の影響があったんでしょうか?」
「もともと神経が繊細な娘だそうですから、それが引き金になって健康を害したとも考えられますな」
進藤との情報交換は結局、なんの進展もなかった。
友美は夕方になって、仕事の合間に二時間ほど時間がとれたという達也と達也と有楽町のガ-ド下で会った。モツ鍋・焼き鳥・発泡酒とシンプルだが、二人にとっては貴重な短時間デ-トで定番コ-
スの一つだった。
歌手を警護中、その歌手のマネ-ジャ-が拉致されたということで落ち込んでいるかと思ったら、達也にはそんな気配もない。
「大丈夫なのかしら?」
「心配しても始まらん。どうせ、殺しはしないだろうからな」
「なぜ?」
「彼らの狙いが安本なら、口を割らないうちは殺さん」
「安本が口を割ったら?」
「あの男は簡単には落ちないさ」
「あの人達の狙いが若葉だったら?」
「藤井ってヤツが守る」
「じゃ、なぜあなたを雇ったの?」
「あれは偽装さ、藤井は元自衛隊一の狙撃手だった男だぞ」
「わたしには理解できません」
「この謎解きは厄介だな、オレにもまだ本筋が読めん」
「つぎに、進藤さん情報ですが……」
友美がカメラ雑誌を取り出して中条留美の写真を見せると、達也が反応した。
「こいつは変だな?」
「なにが?」
「中条留美が、なぜ、そんなに朝早くそこに居るかだ」
「高原のきれいな空気を吸って……」
「バカだな。駒ヶ根は天竜川に近い絶好の地で、アルプスの風はさわやかにそよぐし空気なんか最高だぞ。だからこそ療養に最適なんだ。なにも清里まで朝早くから出掛ける必要もないだろ?」
「そういえば、そうね?」
「それに、このとき中条留美は駒ヶ根にいて危篤に近い重病人だったはずだろ? しかも、これから一カ月もしないうちに転院先の東京の病院で死亡だぞ。オレ達は墓参りまでしたじゃないか。それより駒ヶ根の病院に当たって、その日の彼女の行動を調べてみたらどうなんだ?」
「無理よ。死んだ患者の過去など教えてくれないでしょ」
「警察なら手帳を見せるが、友美は、どうやって取材する?」
「まず電話で、記事にしたいからって……」
「正攻法だな。素直にそれをやればいいじゃないか」
「そうか、いつも通りでいいのね。すぐ行ってみるわ」
「まず電話で前線突破だろう。こいつは、いい記事になるぞ」
達也が珍しく、友美を嬉しがらせるようなセリフを吐く。
「やってみるわね」
その場で携帯電話を出して一〇四で電話番号を調べて、駒ヶ根病院に電話する。ここからはいつものペ-スだ。
「女性誌月刊エルのライタ-、戸田友美と申します」
そして、電話に出た内科の婦長を相手に、電話インタビュ-を成功させた。出だしがよかったらしい。
「難病だった沢井和歌子さんが有名な歌手・小森若葉として、あのきびしい芸能界で大活躍できたのは、駒ヶ根病院の人達の適切な診療と看護、温かい愛情と励ましがあればこそとお聞きして、入院当
時の沢井和歌子さんと皆様の交流について興味をもちました」
これがよかったのか、取材内容を沢井和歌子と一緒に歌っていた中条留美に切り換えてもさして違和感もなく、会話が進んだ。
「お亡くなりになったのお気の毒でしたが、昨年の八月二十日の早朝に清里周辺で撮影された、その中条留美さんの写真が当社の発刊した写真誌に載りましたが、ご存じですか?」
「その件ですと留美さんが死亡してから、何人かの方から電話をいただきましたので、地元の本屋に依頼して取り寄せました。たしかに本人のようです。撮影された日は確認してませんが……」
「昨年の八月二十日の朝ですよ? それと、一週間後の二十七日の朝はどうですか?」
「ちょっと待ってください、記録がありますから」
受話器を置き、探し物をする雑音がして婦長が出た。
「八月二十日の朝は、同室の沢井和歌子さんとワゴンサ-ビスの和食を一緒にとっていて食べ残しもありません。つぎの二十七日も平常通りの九時に牛乳とパンだけの軽い朝食をとっていますね」
丁重に礼を言って電話を切ったが、これでは何の意味もない。
腕組みをしていた達也が意外な一言を口にする。
「凄いことになって来たぞ。粘った甲斐があったじゃないか?」
「なにも収穫がないのに、どういう意味?」
「多分、八月二十日の朝、彼が中条留美を撮ってるのは間違いないだろう。写真家が日付をごまかすのは撮影期日が限定されたときぐらいだからな」
「でも、そのとき中条留美は病院にいたのよ」
「バカだな、幽霊じゃあるまいし。その写真を撮ったときは、その場所にいたに決まってるじゃないか……それとも霊写か?」
まるで狐に化かされたような気分だった。
29 脱出
両目をケガして視力を失った男の治療を、茅野市郊外の農家からの依頼で出張治療したという上諏訪の医師からの情報が、警察にもたらされたのは治療後四日を過ぎてからのことである。崖から落ちたという男の説明を信じた訳ではなかったが、医師の届け出が遅れたのは警察との折衝を嫌ったからだ。
この男を保護手配されている蓮田とみた諏訪署の刑事が駆けつけた時は、その農家からはすでに男の姿は消えていた。
血だらけで倒れていた男をかくまった農家の主人がすぐ医者を呼び、治療費を立て替え上に温かい食事を与えたというが、その夜、農家の家族に挨拶もせずに男は裏口から消えていた。
農家の主人の話だと、両目が潰された男は寡黙で、わずかに「なにもかも思い出せないが、崖から落ちたらしい」とだけ言い、名前すら思い出せない様子だったという。
無一文で全盲の男が遠くに行けるはずはない。だが警察の聞き込みも空しく重傷のはずの男の姿はついに発見されなかった。
また拉致されたのか他の場所に隠れたのか、人知れず自殺したのか、いずれにしても蓮田の行方はようとして知れない。
マスコミでは小森若葉の引退で大騒ぎだったが、元マネ-ジャ-の存在など忘れられたのか小さな記事にもなっていない。
それと前後してナオミの死体が出た。
茅野市郊外の寒天工場近くの藪の中に埋められた衣服の一部を、野犬が掘り出しているのを見た道路工事の作業員によって女の死体が発見され、その指紋から身元が割れた。女は風俗営業違反や麻薬所持で前科のある桑田奈緒美といい、甲府市内で小さなスナックのママだった。
警察が調べると死体発見現場に近い寒天工場内から、誰を縛ったのか使用後のビニ-ルロ-プ、タバコの吸殻や飲み物の空き缶などと五、六人の男女の人の足跡と争った後の血痕が残されていたことからも、ここで惨劇が行われたことは明白と見られた。
警察ではまずナオミの男関係を洗った。従業員の証言などからナオミの男でスポンサ-でもある酒上荒吉がナオミと行動を共にしていることが判明した。さらに、酒上と親しい関係にあった佐川清治ら五人ほどの男が参考人として捜査線上に浮上した。やがて、死体発見からわずか五時間で、清治が潜伏先の仲間の家で発見されて身柄を拘束された。
清治の自供で蓮田が安本信二であることが判明、彼らが安本を拉致して両目を潰すという凄惨なリンチを加えたのは、中央高原村の青年達から巻き上げた二億円とも言われる大金の追求と、赤垣殺しの復讐が目的だと知って警察でも色めきたった。
清治は、酒上がナオミを射殺したこと、酒上の指示による安本の拉致とリンチも自供し、自分は嫌々手伝わされただけだと弁明したが、「往生際が悪いぞ!」と一括され、共犯容疑で逮捕された。
清治の自供で明らかになったこの事件は、ナオミ射殺容疑の酒上荒吉が元警察官だったことと、超有名歌手のマネ-ジャ-が赤垣殺害の容疑者で前科のある安本信二だっただけに、たちまちテレビ、ラジオ、一部の遅刷り夕刊の紙面に載り、騒ぎは大きくなった。
この時点から拉致被害者だった蓮田は、赤垣殺人容疑の安本信二として、ナオミ殺害の酒上荒吉と共に殺人容疑で指名手配され、全国の警察に追われる羽目になったのだ。
噂では、中央高原村でも自警団をあげて酒上の行方を追っているという。酒上らが安本を捕らえた以上は暴力と脅迫とで大金の在り処を吐かせ、それを横領した可能性もある。なんとしても失った貴重な村の財産を取り戻すのだ。
村にとって味方だったはずの酒上も、安本が隠し持った村の大金を奪った以上は許せない。ましてや中央高原村が殺人犯の酒上と手を組んでいたことが表沙汰になれば村全体の信用が失われる。
村では一年前から、実印を黙って行使した罪で親が子を訴え、その書類を偽造として無効訴訟を起こすという異常事態となり、隣家同志が息子の貸借関係で係争することになる。家庭内は、親子の断絶、夫婦離別、村中が蜂の巣を突いたような争いが続いている。
隣りの原村が、より豊かな実りの秋を迎えたのとは裏腹に、ギャンブルによって巻き起こされた中央高原村のみにくい争いは、十億会の資産内容からみれば徴々たる金額だとしても一円でも額に押しいただく村民性からみて簡単に妥協できるものではない。
村の秘密を守るためにも酒上を抹殺しておかねばならない。ここで自警団のタ-ゲットは安本と酒上の双方に変わった。
安本と酒上が潜伏していると思われる茅野、蓼科から小渕沢にかけての一帯のコンビニ、ガソリンスタンド、医者、飲食店などに網が張られた。警察からも村からも手配書がまわった。
安本、酒上とも、どうしても金が必要になれば強盗でも人殺しでもやりかねないと思われているから、警戒もきびしくなる。
ついに村から、両者それぞれの発見に十万円の賞金が出た。
出そうな鼻血さえのみ込むというドケチで知られる中央高原村が「報奨金を出した!」という噂は、それだけでも充分近県に広まって話題になり、たちまち効果が出た。
平日の早朝のことだった。ここのところ何回か食糧の調達に来たことのある人相の悪い小柄な男が車で、いつも通りに沢野千恵子夫妻の経営するレストラン・ブルーベリーに、注文済みの三人前の料理二日分を引き取りに現れた。
数日前から怪しいとにらんでいた沢野の一人息子が、親に買って貰ったばかりの原付バイクで小男の運転する車の後を追け、彼らの隠れ家となっていた山荘を突き止めて中央高原村役場に通報し、十万円をゲットした。これも、地方紙の紙面を賑わすことになる。
中央高原村役場では緊急のサイレンを発して消防と青年団で結成した自警団に招集をかけると、猟銃や金属バット、ゴルフクラブなど様々な武器を手に約三十人が駆けつけ、直ちに出発した。
警察より早く彼らを襲って約二億という大金の半分だけでも取り戻せば、村祭りの費用が数年分は浮く。
多勢を頼みに、三人の男が不法に隠れ住む奥蓼科の山荘を、村人が不意をついて急襲したが、小人数でもケンカ慣れした悪党はさすがに手強い。
約三十人の村人と拳銃や刃物を持つ三人のヤクザとの戦いは、騒ぎを知った近隣の人達の通報で警察の機動隊が来るまで続いた。
武装した機動隊の介入で騒ぎは収拾をみたが、負傷している源三は逮捕されたが、酒上が拳銃を乱射して囲みを破り、善次郎の運転する車で逃げた。パトカーのサイレンがそれを追う。
やがて、彼らを追い詰めた警察が捕らえたのは車を運転していた善次郎だけで、酒上は途中のカ-ブで徐行させて飛び降りて逃げ、何処かに姿を消していた。
その遠い騒ぎを、安本は二度目に隠まわれた蓼科高原温泉郷のトキワ山荘の離れ家で、熱のあるからだを横たえたまま聞いた。目が見えない分、カンが鋭く冴える。寒天工場から脱出し這うようにして道路まで逃げた安本は道路傍に倒れ込んで気を失っていたところをトキワ山荘の香取という老管理人に救われたのだ。
安本は思った。
(したたかな酒上はかならず逃げのびて民家に入り込み、二日ぐらいは家人を脅して隠れるだろう)
そうなれば、この一帯に地域をしぼった警察の聞き込みが始まるのは間違いない。そうなると、もうこの山荘にはいられない。
痛む身を起こして布団を畳むと身支度をして、山荘を囲む原生林のざわめきを耳に快く聞きながら、屋外の離れ家からの屋根付き廊下を、手すりを頼りに一歩一歩ゆっくりと敷板を踏みしめて母屋へ向かった。
母屋の食堂ででテレビを見ながらお茶を飲んでいた山荘の管理人夫妻が二人して立ち上がろうとした気配がある。
両目を覆うガ-ゼを黒メガネで隠した安本が、それを制した。
「どうぞそのままに。電話を借りにお邪魔しました」
「電話はいいが、今日はきちんと食事しなさいよ」
「お二人さんのおかげで、この通り、からだも戻りました」
安本はよろけながらも気丈に見栄をはって元気を装うが、夫より二十も若いという夫人の幸江の手が肩に触れた。からだを支えて移動させ、受話器の上に安本の手を運んでくれる。
頭を下げて礼をのべ、夫人が立ち去るのを足音で確認してから、数字の位置を探って事務所にプッシュすると、藤井が出た。
「連絡しないで消えるつもりでしたが……」
「バカいうな。まだケリがついてないんだぞ。この電話、そこの人に聞こえてるのか? そこはどんなところだ?」
「ここはトキワとかいう会社の山荘で、管理人には会社を定年で退いた香取さんというご夫婦がいて、何からなにまで面倒見てもらいました。いまは食堂でテレビを見てるんで聞こえんでしょう」
「それなら話すが、マスコミは、蓮田の偽名で若葉のマネ-ジャ-に成り済ましていた赤垣四郎殺人容疑の安本信二が、ナオミという女の殺害現場で暴力団のリンチにあって両目を潰され、半死半生の状態で脱出していずこにか潜伏中か、あるいは自殺したのではないか、と報じてるぞ」
「安本だと名乗らずにダマし続けて、すいませんでした」
「若葉の売出しが決まった日にタイミングよく、前橋女史からマネ-ジャ-希望の男がいるから連れてくる、って電話があってな」
「蓮田という名前は秘書の恵美さんがつけたんです」
「前橋女史と恵美さんがあんたを連れて来て、喫茶店で若葉をまじえて会った時だった。あんたと若葉の間には、初対面のはずのなのにテ-ブルをはさんで違和感のない信頼感と温かい安堵の空気があった。この二人は、以前から深いきずなで結ばれていると一目で分かったぞ。あの時、前橋女史は何があっても私を信じてね、って言ったのが気になってたんだ」
「隠せませんでしたか?」
「あたりまえだ。それと、傷心の若い娘が初対面の黒メガネのゴツイ男を、ホッとしたように見るか? これで、二人には深い事情があると確信したんだ。ところで、なぜ警察に自首しない?」
「勝手ですが、まだ仕事が残ってるんで」
「これだけ悪事を重ねたのに、まだなにを企んでるんだ?」
「それは言えないんで、済みません」
「ま、事情はあるだろうが……あんたが、赤垣と争って間違って殺してしまったとしても正当防衛なら情状酌与という見方もある。あんたが金の貸し借りのことで古川と高岩を脅して赤垣の死体を埋めさせたとしたら、それも正直に吐けばいい。もう充分だろう。気が向いたら自首するんだな。潰された目はどうだ、痛むか?」
「目は見えないが痛みは大丈夫です。それより、若葉は?」
「心臓発作で療養のため引退ということで、マンションに隠したから安心しな。若葉も心配してるぞ。もう帰って来られるか?」
「そちらに火の粉がかかるからこのまま消えます。オレと若葉のことは知らぬ存ぜぬで通してください」
「ところで、朝からなにかあった?」
「捕り物らしいです」
「そうか、酒上たちだな。酒上一人だけは生きのびる。警察の網をくぐる方法を知ってるからな。きっと戸別訪問になるぞ…」
「こちらさんに、迷惑をかけたくないんで動きます」
「迎えに行きたいが、若葉引退の件でマスコミが殺到していて動きがとれん。警察からは、安本とバレたあんたの件で事情聴取されたが、マネ-ジャ-募集で来た男で前歴は知らなかったで通して、先生の名前も出してない。しかし、マスコミと警察にマ-クされてるんで、そこまでは行けない。いつでも逃げ込めるように、あんたらの避難先は何カ所か用意した。それより、金はあるのか?」
「ヤツらに奪われて無一文なんで、はじめに匿ってもらった家でも治療費を借りっぱなしで。こちらにも迷惑かけてます。なにしろ、上から下までここのオヤジさんの衣類を借りて、温泉浸りです。しかも料理はプロですからから……借りがいっぱいできました」
「はじめに医者を呼んでくれた家のことは、新聞に出てたから住所を調べて余分に送っといた。そこの香取さんとやらにも、きちんと礼はするから安心しな」
「それはどうも、今日、少しこちらで借りようかと……」
「ダメだ。これ以上世話かけるな。金はすぐ届けるから」
「そこから、無理でしょう?」
「安心しろ。もう銀行も開いてる。そこの住所は?」
危険を承知で腹をきめ、夫人を呼び電話で直接住所を伝えてもらい、電話を代わると、藤井が携帯電話で前橋代議士の事務所に連絡しているのが聞こえた。
「恵美さんか? 先生に代わらんでいいからメモをとってくれ」
藤井には珍しく、金額や場所などを早口でまくし立てて話が済んだようだ。また安本と話す。
「すぐ金が届くように手配した。タクシ-も行くが、地元の車だから用心しろ。警察の上部には前橋先生が手をまわしてくれてるが、今回はあまり役にたたんぞ」
「それで充分です。助かりました」
「バーレルは、若葉のアルバムを矢つぎ早に出したおかげで、数百億の売上げだそうだ。おかげでこちらも大分潤ったからな」
「もう、金はどうでもいいです。好きなように配ってください」
「世話になったそこのご夫妻には、五十万円渡すように手配した。
あんたの命の恩人にしてはレベルの低い金額だがな。
それと、あんたが安本だと分かったから、前橋女史にクレ-ムをつけたら、若葉売り出しの依頼人も二億円の資金の出所もあんただってことが分かったんだ。恵美さんの話だと、金を巻き上げた中央高原村の連中のリストを預かってるから、先方の全額に利子をつけて、あちこちの銀行から偽名で振込むように手配済みだそうだ。今日の夕方までには全部清算できるるそうだから、これで、どこからも金の訴えはなくなるぞ」
「感謝します。これで心残りもなくなりました」
「ところで、どうだ。北海道へ行くか?」
「北海道……?」
安本が絶句する。