1、幽霊ばなしが動き出す。
下田の夜は静かに更ける
「じゃあ、ヨーコがおそで、私が伊右衛門、アッコが直助を、カオリがお岩さん?」
「いいじゃない。ヨーコのためなんだから」
「じゃ、ミカがお岩さんやってよ。台本を読むだけなんだから」
「読むだけなら、カオリだって出来るじゃない」
「いいのよ、みんなで協力してくれる気持ちはうれしいけど、一人の方が慣れてるし」
「なにいってんのよヨーコ。あなた一人に布団の上で『この恨み、晴らさでいらりょうか』などとぶつぶついわれたら、あとの三人、どうするのよ。眠れるわけないでしょ」
「だから、今晩は練習もしないし、台本も読まないから、安心して眠ってよ」
「ダメよ、折角、代役にしたって主役級が来たんだから。ミスなんて許されないでしょ」
「大丈夫よ、プロなんだから」
「プロだからこそ、練習しなきゃ」
「よしっ、私、おいわさんになる」
「えらい!カオリ。ガイドのカガミ!」
「なによ、その誉め方。まあいいか」
「じゃあ、みんなで台本をのぞいて」
「役柄とせりふは全部、ここに書いてあるからね」
「じゃあ、いくわよ」
伊右衛門が隣の家のウメに惚れられて、女房のお岩が邪魔になり、ヤブ医者の尾扇に毒を調合させて、お岩を亡きものにしようとしているの。伊右衛門は浅野浪士。主君の仇討ちのための金策と称してぶらぶら遊ぶばかり。隣家のうめと出来たのもお金が目当て。そではお岩の妹。そでの亭主が直助。そんなシチュエーションなの。
ここの三角長屋のシーンだけ、まず読んでみて、まず、わたしから」
ヨーコ「お岩姉さんが何だか心配だわ」
アツコ「何が心配だ」
ヨーコ「なぜか胸騒ぎがして仕方がないの。伊右衛門兄上さま、ご主君の仇討ちに加わらず、ご自分のお父上の仇討ちをするんだといって、仇を狙うからとの岡場所通い。赤ちゃんが出来たっていうのに暮らし向きは苦しいみたいだし、兄上さまはこの頃、変なんです」
「なかなかヨーコ、いいじゃない、その調子よね」
と、練習だか遊びだか分からないが、いつの間にか四人共、ムキになり、夢中になり、真に迫った演技になって来る。
カオリ「髪の毛がこんなに抜けて」
クシですく手つきまで、真剣勝負だ。
ミカ「ど、どうした」
カオリ「くるしい、胸がくるしい」
ミカ「クスリが効いて来たな」
カオリ「鏡、鏡を・・・ない。わたしの顔がない」
「あんたたち、なによ、自分たちばっかり熱中して。私のホンヨミの頁、みんなとばしてるじゃない。これじゃ、練習になんかなんないわよ」
「ヨーコのケチ!ちょうど今、調子が乗って来たところなのに」
「カオリが調子づいてどうするのよ。あなたが代役やってくれる?」
「やるわよ、その代り、ヨーコがバスに乗ってガイドやるんだからね」
「よしなさいよ、あんたたち。じゃあ、こうしよう。ヨーコ、少し一人で練習しなさいよ。わたしたち、夜遊びして来るから」
「とんでもない一緒に行くわよ」
「ダメ、ヨ-コは明日の朝一番で帰って、すぐ打ち合せでしょ。今晩中にソラでいえるようにしておかなきゃ」
「じゃ、ちょっと、私たち、ベランダへ出て夕涼み。部屋の中のクーラーより、ずーっと健康的だから」
三人は冷蔵庫から缶ビールとおつまみを取出し、グラス片手にテラスに出た。
「ほら、あの波の中からニュッと手が出たりして」
「怖いはなしは、もう終りよ」
「でも、何となく、これだけ広い海なんだから、一人ぐらいバシャバシャ溺れてるような気がしない?」
「しないわよ。バカバカしい」
「すーっと、暗闇から足のない女の姿が出たりして」
「そんなの今どきはやらないわよ。出るなら男の方がいいな。それも、たくましいの」
そのとき、風向きが変ったのか、ふっと風が止み、偶然か、車の流れが途絶え、ホテルの下が暗くなり、かすかに波の音が聞こえるように思えた。
「あら、怖い!」
「どうしたのアッコ」
「ほら、あの木の陰から、男のハダカが・・・」
「バカ、ハダカの男でしょ。どこよ、どれ?」
音もなく、と、いうより足音が聞こえる訳はないが、六階から、夜の闇を通して見る人影だから、さだかではないが、確かに、ハダカの男が、すーっと道を横切ったように見えた。
幽霊だとしたら、たくましい幽霊だ。
「あら、見て!あそこ」
「どこどこ?なにが見えるの?」
「ほら。女の人と男の人」
「そんなの珍しくも何ともないじゃない」
「でも変よ。女の人は洋服で、荷物を抱えて、男の人は、浴衣着て。あら、靴を履いてるみたい。よく見えないけど、元気ないわね」
「でも、この人たちは幽霊じゃあないわよ。歩き方は幽霊みたいだけど」
「あなた、本物の幽霊の歩き方、知ってるの?」
「知らないわよ。だから幽霊みたいっていったじゃない」
「あら、さっきの男の幽霊もこのホテルに入ったけど、この二人もここの玄関に入りそう、何だか怖いなあ」
部屋の中からは陽子の声、
「直さん、父が殺されたの、あんた、知ってたんでしょ」
練習には、かなり熱がこもっている。
「明日の朝、あなたたち絶対、遅刻なんかしないで、食堂で七時。私は、早いから部屋に戻って眠るからね。おやすみ!」と、かおり。
部屋に入ると、陽子が髪をふり乱して半狂乱、目がすわっている。
かおりを見ると、すっと柔和な顔に戻って、
「ありがとう。おかげでもう全部、せりふは覚えちゃった。あとは演出家との打ち合わせでどうにでもなるから、もう安心してて。チケット手に入ったらテルするからね」
「うん、期待半ばで待ってるわよ。明日、何時に帰るの?」
「さっき、フロントへ寄ったら、メッセージが入っていて。朝六時に迎えの車が来るの」
「あの、自称優秀なマネージャー?」
「来てくれれば嬉しいけど。営業車かな」
「そう。でも、よかったわ。陽子と一緒に旅ができて。公演、楽屋に行くからね」
「カオリ、からだに気をつけてよ」
「大丈夫よ、そんなヤワじゃないから」
「じゃ、おやすみ」
「ヨーコ、公演がんばってよ」
「ありがとう。土曜サスペンスも見てよ」
「ああ、見てるよ。おやすみ!」
かおりが部屋を出ると、
「直さん、少しは働く気になってみてくださいな」
急にぐちっぽい女を演じ始める。
その陽子の声音は、真に迫っていた。
さすがに、女優・谷内ゆう子である。
2、満ち足りている、長谷部夫人
下田市内観光、了仙寺へ
「おはようございます」
さわやかな笑顔でかおりが迎えた。
下田一番館ホテル玄関前に停まったバスに乗りこむ全日観光西伊豆めぐりツアーご一同。その足どりに一夜の哀歓が表われる。
かおりは、さり気なく、それを見抜く。
元気はつらつなのは、ギャル組がまず一番。カラオケルームの主役だったから無理もない。
PTA組も絶好調。ホテル内のクラブで他の男性グループと合流、飲んだり踊ったり歌ったり。その後はどうなったのかは知らないが、ストレスは完全に発散させた顔艶だった。
ニセ佐々木夫人も、明るいクリーム色の袖なし衿付き、前ボタンのワンピースで、さっそうと乗りこんで来た。顔に数ヶ所、引っ掻き傷に血を滲ませて佐々木氏が続いている。
堅焼せんべい組は、全員疲労困憊のご様子。
「もう二度と麻雀はやらんぞ。死ぬまでパイは握らないからな」
と、中川部長。二秒ほど間をおいて、
「しかし、このままじゃ口惜しいから、もう一度だけ、勝負してから止めたいな」
川辺青年カップルはというと、女性が活き活きと精気溢れる美しさで輝いているが、川辺青年本人は、頬がげっそりと落ち、目の下が腫れぼったく黒ずみ、心なしか腰から下がふらついている。
しかし、幸せそうに腕を組んでいるところを見ると、仲直りしたのがはっきり分かる。
座席は、出発時の組み合せに戻った。
「いいなあ、オレも麻雀やめて結婚しようかなあ」と、内藤主任が意味不明の言葉を吐くが、仲間も疲れていて気付かない。黒川主任までが、
「オレも会社やめて結婚しよう」と、狂う。
加藤教頭と佐山会長は、囲碁を打ったそうで、佐山会長が痛い目にあったらしい。
加藤教頭が大衆の面前で得意気に語る、
「佐山さんもご精進なされば、何とかアマチュアの三段ぐらいまでは行けますな」
「いやあ、それは嬉しいことです」
あまり嬉しそうな顔ではない。囲碁と将棋の負けぐらい口惜しいものはない。
小山夫妻が、それぞれ別々の悟りを開いたのか、五メートルほどの距離をおいて、夫人が先にたって歩いて来る。
遅刻常習の陽子に代わって、ミカと敦子が遅れ、あわてて駈けこんで来た。
「おそうなりました」
腕をだらりとさせてミカが頭を下げる。
それほど長くない髪がだらりと前におりる。
あわてて敦子が、
「おはようございます」
ミカの脇腹をこづいて小声で、
「もうお芝居は止めなさいよ」
支配人代理をはじめ従業員一同、といっても数名の愛想のいい見送りを受けて、バスはホテルの玄関前から静かに動き始めた。
「今朝、一番に早起きされて港の周辺をジョギングされたという沢木さま。なにか、事件に遭遇されたそうですね」と、かおり。
「私より早く散歩していた地元のお年寄りが、拳銃とナイフを拾ったとかで大騒ぎでしたの」
「それですか。今朝のパトカー。朝早くからけたたましいと思いましたよ」と、加藤教頭。
「下田って物騒なものが落ちてますのね」と、上田夫人、思い出したように、
「そういえば、今朝のバイキングで、隣りのテーブルの人が、昨夜遅く暴力団風の男が、ボロボロの姿で車に乗るのを見たそうです」
小山夫妻が風邪でもひいたのか震えている。
「幕末の激動の舞台として、日本の歴史を塗り変えた下田の町。この下田タウンには、下田条約が結ばれた了仙寺をはじめ、ペリーが歩いた平滑川沿いのペリーロード、ロシヤ使節ブチャ-チンが日露条約を結んだ長楽寺など見学したいところは沢山ございます」
中川部長が大きく口を開いてあくびをした。
「これからお車は、下田タウンを一めぐりしながら何ヶ所かに立ち寄ります。
ただ今、渡ります橋が、稲生沢川の最下流にかかるみなと橋でございます」
「あら、お魚が群れてるわよ」
窓から眺めていた菅原ミカが声を出すと、左側窓際座席最後部の沢木夫人が、
「ほんと、おいしそう!」
「この上流の淵にお吉は身を投げました」
「やっぱり、食べるのは見合わせますわ」
「このあたりは、センスのよさが光るお店も沢山並んでいて、ある焼き物のお店では、伊豆名産の桜を燃やして出来た灰を釉薬に用い、渋い色合いの、味わい深い陶器を揃えています。
また、地元でも人気の食堂では、その日水揚げしたばかりの新鮮な魚介類だけを、刺身や焼き物にして、お客に出すというこだわりを看板にして評判になっています。
下田は、温泉以外にも話題の多い町です。
只今、通っております道はマイマイ通りと言い、この右側にお吉の菩提寺である宝福寺がございます。
とりあえずお線香を手向けたいという殊勝な方のために、短い時間ですがお車を停めさせていただきます」
浄土真宗の寺、宝福寺の本堂には、親鸞上人の像がある。
「あら。本堂にお吉さんの像が」
上田夫人の指さす通り、お吉の像が親鸞上人と並んで本堂に鎮座している。
本堂脇にお吉の墓があり、バスから降りたPTA組のご婦人達が香花を手向けたが、堅焼せんべい組は誰一人としてバスから降りようとせず、ぐったりと座席に埋もれている。口をきく気力もない様子である。
ギャル組は、線香は手向けないが、お墓をバックに記念写真。お墓に手を合せているPTAのおばさまを邪魔扱い。ご婦人方の姿が墓前を離れると、サッと墓前に入ってポーズ。シャッターがガシャでおばさまと入れ替わる。
そして、車はつぎの目的地、了仙寺へ。
右手に、市民文化会館、本覚寺、泰平寺、吉田松陰拘禁跡、裁判所を見て、下田タウンのメイン通り、通称マイマイ通りを南下すると、またたく間に了仙寺に到着する。
「安政元年(1854)、ペリー来航にあたり日米和親条約の付録協定(下田条約)を結んだのが、ここ了仙寺でございます。ここには、お吉に関する資料も沢山残されています。また江戸時代の梵鐘や五輪の塔も残され、了仙寺は、下田観光コースのメインになっております。
また、安政元年(1854)の日露和親条約の舞台となった長楽寺も、この近くにありまして、お吉の像、ご本尊の薬師如来像によってよく知られております。
さらに、了仙寺のすぐ西側には、開国のための激動の舞台となった下田の歴史を知ることができる豆州下田郷土資料館がございます。
ここでお車を停めまして、みなさま、ご自由に見学お散歩、あるいはショッピングをお楽しみください。ご見学のお時間は、今から一時間です。ごゆるりとお過ごしください」
ギャル組を先頭に賑やかな一行が外に続く。
「あーあ、オレ、動くの面倒くさいなあ」
徹夜マージャンだったのか内藤主任、生あくびをして座席に埋もれている。
他のせんべい本舗社員もほぼ同様にダウン。
「なお、ここ了仙寺の境内には、宝物館がございまして、性風俗珍品など各種コレクショ
ンが沢山陳列され、男女和合の秘蔵品が、とくに人気を呼んでいるそうです」
バネ仕掛けのように内藤主任以下、座席から立ち上がって通路を走り、競ってバスからとび出した。客席はこれで空になった。
「すいません。私も行ってきまーす」
かおりが、笑顔で浜田に手をフルと、濃茶のサングラスの浜田の顔が頷くように下を向いた。かおりは、それだけで嬉しかった。
浜田は下を向いて収納ボックスからタバコと百円ライターをとり出しただけだった。
まったく無愛想な男なのだ。
佐々木氏の爪のアカでも煎じて貰えばいい。
佐々木氏は、引っ掻かれようが殴られようが動じない。女が最後に根が尽きて諦める。
いつの間にか、ニセ夫人が腕を組んでいる。
しかし、これを佐々木氏の哲学だとかポリシーだとか穿った見方をするのは大きな間違い。彼はあくまでも鈍感なだけな筈だ。優しさだけを感じさせる男が、それだけでモテるなんて世の中狂っている。と、かおりは思った。
「変よねぇ。あの人だけがモテるのは」
かおりの視線の先に、佐々木氏を見て敦子が、
「カッコいいじゃない、イイ男で頼りになりそうで、お金も有りそうだし」
「そうよねぇ、私もクラッと来るわ」と、ミカ。
ギャル四人組も佐々木ファンになっていた。
多分、あの恐ろしいニセ夫人がいなければ、みんなであの男を囲んでいるに相異ない。
かおりも、気にするということは好意を持っているからだった。
「そうそう、カオリ。昨日ねぇ」と、敦子。
「なに?」
「陽子がさあ。もしかしたら、カオリがあの運転手に惚れてるらしいって言ってたわよ」
「それで?」
「でも止めなさい。これ、三人の意見だけど。一緒に仕事してるから好きになるでしょうけど、あの運転手は人を幸せにするタイプじゃないわよ」
「そんなこと、なぜ分かるのよ?」
「分かるわよ。お客さんにだって、ろくに挨拶もしないのよ。カオリにだってそうじゃない。ぶっきらぼうで無愛想、人間が嫌いって態度でしょ。優しさなんて針の先ほどもないんじゃない?」
「そんなことないわよ」
「じゃあ、あなたに優しいの?」
「そういわれると困るなあ」
確かに、言われてみると返事に窮した。
一行は了仙寺の庭内に入って行く。
3、宴会景品、ホテル券の行方
海中水族館から天城越えへ
「いかがでございましたか? 日本の夜明けを演出した下田の街は、海も山も、温泉もお寺も、狭い町並みや路地に至るまで、歴史を秘めて息衝いているのでございます。
ただ今、見学した郷土資料館のペリーの写真や錦絵を見ますと、異人として恐れられていた外人に貢がれたときのお吉の不安や恐怖が目の当たりに迫るようです。
展示されていた太鼓台などは、大阪夏の陣でうち鳴らした陣太鼓の台で、今でも八月中旬には、下田太鼓まつりとして市内を練り歩いています。
お車は、紫陽花の美しい下田公園を抜ける道を帰りに残しまして、下田公園外廻りで海中水族館に向かいます。
ペリー提督上陸の碑が左に見えます。さらに、左手の堤防から続いて犬走島があり、その突端に、灯台が設置されています。
吊り橋が見えますね。あの橋の先が雁島といい、若い男女のメッカ、デートの名所でございます。
お車は、これから下田港和歌の浦に浮かぶ海中水族館にまいります。世界初の円形の船がそのまま水族館になっております。
現在のアクアドームペリー号は、容積が六百トンという大水槽をもち、船全体の総排水量は千三百トンとなります。
現在のペリー号は、二代目でして、平成五年の三月に完成したものです。
ただ今からですと、ラッコの餌付けには間に合いませんが、マリンスタジアムのアシカのショーと、海上ステージでのイルカのショーを見ることができます。また、そのショーのあい間を利用して、ペリー号の大型水槽で魚の餌付けを見ることができます」
緑の中に駐車場がある。
カメが遊ぶカメ池がある。
海上ステージでは豪快なイルカのジャンプ、ペアのイルカのハードル抜けなどのショーがあり、大賑わい。子供たちも喜ぶが大人でも充分楽しめる。
入江に区切られた海上ステージのプールの岸辺の道をたどり、トンネルを抜けると、アシカのショーの舞台となるマリンスタジアムである。イルカのショーの直後にアシカのショーがあるため、急ぎ足で観客が移動した。
アシカが器用に、片手倒立をしてり回転レシーブをしたりと名演技を披露し、喝采を浴びた。観客が拍手すると、アシカも「おっおっ」と、喜びながら手ならぬ鰭を腹の前で合せた。
ギャル四人組に気に入られたのか、小山兄弟が四人と一緒に「オッオッ」と叫んでいる。
海の生物館シーパレスは、館内の中央の円形水槽に、さまざまな種類の魚が泳いでいる。
ラッコハウスも人気があったが、その人気に応えてラッコが背泳ぎ、腹叩きなどを見せ芸達者なところをアピールしている。
ペンギンプールも子供にはモテモテ、涼しくても夏、ペンギン君が活気がない。
アクアドームペリー号は、入江の両岸から屋根付きの浮き通路が中央の浮遊円形水族館を支えている。
その船の中央に円形水槽があり、海さながらに魚群が回遊している。
南伊豆の海をそのまま再現したという大水槽の中には、ワカメなどの海草が、造波装置によって海底さながら、ゆらゆらと揺れていて、その間をスイスイと魚が泳いでいる。
シーサイドレストラン「シーパーク」に続く売店で、ギャル四人組が、キャッキャッいいながらラッコのキャラクターグッズを求め、小山兄弟にも、四人でお金を出し合って買って与え、喜ばれている。
「そろそろ、出る時間よ」
かおりが、通りがかって裕子とエミに声をかけたとき、敦子とミカが驚きの声を出した。
「あら、あの人。樫山さんたちじゃない?」
まさしく、PTA女性軍お揃いでレストランの中。その中の数人は明らかに海の幸定食などという代物を口に入れているのである。いかにも美味しそうだった。
「今、何時?」と、かおりが時計を見て、
「あと、一時間もしないうちに昼食なのに」
「人のお腹の心配なんかしないでいいのよ」
敦子があきれた顔をした。正論である。
食欲も性欲も、その強弱は人に因る。
集合時間に遅れたのは、レストランでの食事組。バスに遅れるからと食事を残して来るようなメンバーではない。
樫山夫人、爪楊枝をくわなえながら悠然と、幸せそうに語り合いながらバスに乗る。
食べるという行為に関する限り、この人の右に出る者はいない。このツアーで唯一、はっきりしたことだ。
城山公園ともいわれ、紫陽花の名所で知られる下田公園はさすがに花盛り。車は、公園内のトンネルを抜け、ペリーロードを通り、再びマイマイ通りを直進して、国道136号線を横切り、天城への道、国道414号線に入った。
「一夜の思い出も楽しく、南伊豆の美しい海、情緒豊かな下田の町ともお別れし、お車は、これから天城越えとなります。
湯ヶ野、湯ヶ島から修善寺、韮山と通りますが、これから天城の歴史を知ることのできる昭和の森会館にお寄りいたします。
昼食および休憩は、天城の名瀑、浄蓮の滝になります。このどちらも、天城路では欠かすことのできない名所となっております。
みなさま。下田の想い出は、いかがでございましたか?」
一番前の席に戻っている小山兄弟が同時に勢いよく手を上げて
「ゲームコーナーでいっぱい遊べて嬉しかった」と、弟の雄介君。
「演芸会でうまく歌えて、景品ももらったから嬉しかった」と兄の圭介君。
後部座席のPTA役員席では、加藤教頭が、
「いい思い出になりました。囲碁も楽しんだし、下田はいいところですな」
「そうですか?」と、佐山会長はご機嫌斜め。
「しかも、もう一度。今度はデラックス版で」
「それは、教頭。どういうことですか?」
「いや。失言。わしは今、何を言ったかね」
「もう一度とか。デラックスとか」
「出川さんはいいな。もう一度来られて、と思っただけですよ」
その会話を聞いて、すぐ後部座席の樫山夫人が、カンを働かせた。教頭の座席の背もたれに両手をのせ上半身を乗り出し、
「いい案あるわ。会長と私が参加して、四人で下田に来ましょう」
タイミングよく、箕作のT字路で停車したため、車内が静かになり、「四人で下田に・・・」の件だけが周囲にアナウンスサラたから運が悪い。冷たい視線が四人を囲んだ。
車が発進して、川田夫人が口火をきった。
お互いに昨夜のパフォーマンスを称えあって、友情を深め、健闘した割には不遇だったことを慰めたりと、うるわしい光景が、四人を見つめる視線の中で冷たく始まった。
「上田さんのシャンソンの名曲枯れ葉、ワルツっぽくアレンジされて大変結構ざましたわ。まだまだ枯れていらっしゃいませんことよ」
「川田さんのマイウエイ、なかなか自分本位にお好きに歌われてすてきでしたわ」
「沢木さんの夜の銀狐、ズバリ賞ですわ」
「中川さんの赤城の子守り歌も、キリッとして」
「浅田さんはプロ級ですわね」
「長谷部さんの奥様も、さすがでしたわ」
「内藤さんの小樽運河もシビレましたね」
「石毛さんも上手でしたわよ、ねぇ」
「私たちじゃ、票は入らないのよね」
「私だって満更じゃなかったわ」
「ひいきがあれば優秀賞も貰えたのよ」
「全員で審査したらよかったのよ」
ここで、樫山夫人が決然と、大きな声で、
「よろしい。あの最優秀賞は無効にしましょう」
驚いたのは出川夫人、
「あなた方、勝手に決めないでください。これは、私の実力でいただいたんですから」
「いいえ、それは違います」
それまで、妻の陰で目立たなかった作曲家の長谷部先生。温厚な人柄の口調そのまま、立ち上って淡々と喋り始めた。
客席用マイクが渡されたため、少々改まって緊張したのか、「個人的には私、浅田さんが好きですが」
この一言が致命傷で、長谷部先生は、隣り席の夫人に、太股のあたりを力任せに抓られ、顔をしかめた。
「浅田さんの歌のことですよ。あ、痛いなあ」
これがまた、夫人には「会いたいなあ」に聞こえたらしく、再度、抓り攻撃が入った。
思わず怒って反撃しようとしたが、従来の力関係、今後の家庭の平和や生命の安全を一瞬に考え、ぐっと堪えて冷静さを装うしかない。
「たしかに出川さんの歌はお上手ですが、実力と思われますと、熱演、名演でお楽しみのみなさまに失礼です。みなさま殆んど横一線で、出川さんより歌唱力が上の方は、十人ほどいらっしゃいました」
席がざわめく。
「でも、迫力のある振り付けとか、宴会芸としては、群を抜いていましたので、やはり、出川さんの最優秀賞は妥当だと審査した訳です」
楽しい旅行の帰路に発生した内輪もめを何とか平和裏に収めようとの。長谷部先生の優しい心がうかがえる。
しかし、このままだと四人だけが甘い汁を吸うことになるから、上田夫人は許せない。
「中川さん。あなたも審査したんでしょ」
車窓に移り変る天城街道のしなびた民宿、酒屋、駄菓子屋や派手な看板、緑濃い山々を眺めていた中川部長、あわてて聞き直し、
「私と中田ユッコさんは間中ジュンさんを、長谷部さんと菅原さんは浅田さん。加藤先生と出川さんが出川さんを推薦したんです」
「エッ。まさか。自分で自分を?」
「あら、私たちもチャンスがあったの?」
小岩井エミが口惜しそうな声を出す。
そのとき、すくっと立った出川夫人、
「これはお返しします。私の一票は、浅田さんに入れ直しますので、このチケットは」
出川夫人がデラックス宿泊券をとり出し、通路を歩いてサバサバした顔で、敦子に渡した。
4、チケットの行方が決まる。
河津七滝ループ橋と露天風呂
拍手は沸いたが、加藤教頭が収まらない。
「正当な方法で民主的に話し合い、決めたのに」
「でも私、加藤先生と下田に来る気はありません。私も家族がありますから」
出川夫人が着席しながら、樫山夫人に囁いた。
「あなたと、いい男二人見つけて来れば別よ」
敦子はさっぱりした表情だった。
「私は、欲しかったマメカラ貰ったから」
敦子は当然のごとく、と、席を立って間中ジュンに届けた。
間中ジュンは、喜ぶエミを制して、
「もう、頂いた化粧セット、手をつけましたし、このチケットを有効に使える人は」
と周囲を見まわし、
「PTAのみなさまはモメるでしょ。おせんべ屋さんは恋人もいないんでしょ」
「失礼なこというな」
不服顔の黒川主任が、
「いないんだから一緒に行こうよ」
「アラ、お顔に似合って図々しい」
「佐々木さんなら?」
エミは、佐々木ペアへのチケット進呈を示唆したのに、ジュンは誤解したようだ。
「佐々木さんとなら、喜んで・・・」
一瞬、車内が静まって、全員の視線がニセ佐々木夫人に注がれ、恐怖の反撃をまった。
案に相違して、ニセ夫人ニコやかに、
「ジュンちゃんならいいわよ。本当はね。私達、昨夜でお別れしたの。でもね、この人。若い人は嫌いなの」
勝手にきめつけ、
「この旅行は、私にとって意義ある楽しい旅でした。今から、私を片岡美佐と呼んでください。本職はデザイナー兼スタイリストです」
さわやかで美しい表情に変化している。
「私が、言ったのはジョークでしたが、このチケット、新婚ま近と思われる川辺さんにさし上げるのはいかがでしょうか」
「れれは、いい」
これで全員が納得した。
皆を代表して席が近い黒川主任が、二人だけの世界に没頭している川辺ペアーに声をかけた。
「ハッ。なんでしょうか?」
「あんたのところは要る?」
「ハイ。子供は三人まで、と」
「子供のことじゃないよ」
「それでしたら、自販機で購入しましたから」
と、顔を赤らめ、黒川主任まで困った顔になる。
「それじゃないよ。今、こんなに大きい声で話し合っていたのに聞こえなかったの? ホテルのクーポン券だよ」
「ニュージーランドの?」
「冗談じゃない。下田だよ、下田」
「昨夜、下田に泊まりましたが・・・」
「そんなことは解ってる。景品の無料券だよ」
「それでしたら結構です。私たち、昨夜結ばれまして、今、結婚の打ち合わせで手いっぱいなんです。邪魔しないでください」
「誰が邪魔などするもんか。結ばれただけ余計だぞ」
憮然とした表情で、左を向き、通路側隣りの小山夫人に封筒をさし出した。
「ほら、そちらが終点だよ」
それを見て、今までの経過をうんざりした表情で見守っていたかおり、すかさずマイクをもち、封筒を手に躊躇している夫人を見て、
「こうして、人情溢れる優待券は無事、四人家族で条件にピッタリの小山さまご一家にたどり着きました」
もう、誰も文句はないから拍手も大きい。
「お車は、すでに蓮台寺を過ぎ、松崎から来る県道15号線との出会いを過ぎ、谷あいの下田街道をいよいよ天城越えの道にさしかかりました。まもなく河津トンネルです。トンネルを出ますと、伊豆の踊り子文学碑のある湯ヶ野でございます」
全員が窓の外を眺める。
「湯ヶ野のバス停を降りまして、少し坂道を下りますと、河津川の畔に、古くからある旅館福田屋がございます。
この宿で、文豪川端康成先生は、名作“伊豆の踊子”を執筆なさいました」
「温泉に入って、海の幸、山の幸を食し、美女をはべらせて、川の音、小鳥の声、若葉の染みるような緑に包まれて、のんびりと一日を過ごしていたら、原稿用紙の桝目一つ埋められるものじゃないと思いますがねぇ」
佐山会長が教頭先生に同意を求めている。
「さようですな。永井荷風先生は浅草の踊り子を書きましたな、渡辺淳一先生は、日舞の先生を書きました。で、実は、内緒ですが、ジュリアナ東京に潜入して、ぜひ・・・」
「しかし、加藤先生。あのお立ち台は、もうとっくに撤去されてますよ」
「しからば、私も、作家の案は撤去します」
加藤教頭は文豪の道を撤回したが、
「しかし、チャンスと文才があったら、若い頃よく通った湯ヶ島あたりの旅館にもぐり、昔いた美しいお嬢さんを相手に昔話をしながら、生涯の傑作を書いてみたいもの」
加藤教頭、一応は頭の中で考えている。
その場合、お嬢さんも年令をとるということは、計算にも想像にも入っていないからおめでたい。しかも、書くことより、温泉に入って、お酒を飲んで、昔話を再現したいのだ。
「中伊豆の名所の一つは、これからお車が通ります河津七滝ですが、これは大小七つの美しい滝があるところから、大滝・七滝とも呼ばれ、春から秋まで、その渓谷美を味わうことができるのでございます。
川端康成先生の『伊豆の踊子』の中、その小説の中で学生と踊り子の二人が歩いた河津沿いの道が、踊子遊歩道として散策コースになっております。
遊歩道の全長は約二十キロ。東京側からみますと、旧天城トンネルから河津川沿いに美しい渓谷を眺めながら下り、湯ヶ野までが約四時間半。途中、どこからでも国道に出ればバスがあります。区間によっては、手を上げればどこでもバスが停まってくれます。
なお、滝のことをタルというのは、滝の古い言葉の垂水に由来するそうでございます。
ただ今、お車はループ橋にさしかかりました。外径八十メートルの螺旋形道路で、高さは四十五メートルあります。
ハンドルをほんの少し傾けるだけで時速三十キロの制限速度を約二分、1・1キロの短い旅ではございますが、伊豆の山々が360度のパノラマでゆっくりとごらんになれます。
景色がまわり始めました。山々の緑が一段と美しく映えているようです。
窓側の方は、下をごらんください。
この下に河津七滝がございまして、いま通りました下田側から申し上げますと、大滝、出会滝、カニ滝、初景滝、蛇滝、エビ滝、釜滝の七つでございます。
最下流の大滝がもっとも大きく迫力がありますが、渓谷の樹々を映して、七滝それぞれが人の心にその美しさをいつまでも残します。
七滝の内、丁度まん中にあたる初景滝のほとりには『踊り子と私』の像があり、記念写真を撮るにはかっこうのポイントになっております」
「あれ、あれ、あそこ!」
突然、発狂したように渋沢青年がわめいた。
「なんだ、なにか金塊でも発見したのか?」
「あ、惜しいなあ。今、露天風呂が見えて、たしかに女と男が六人ぐらい、混浴だった」
「なに!露天風呂!混浴だと?」
「なぜ、もっと早く教えないんだ!」
「渋沢、おまえ、ずるいぞ」
「もう、見えないのか!」
「どうぞ、お静かに。あまり興奮しますと、ビールの酔いが一気に出ますから。残念ではございますが、ループ橋からは、確かに大滝温泉郷の露天風呂は見えますが、なかなか男女の別まではお見分けは困難かと存じます」
「そうだ、こいつは誰でも女に見えるんだ」
「大滝入口のバス停を降りますと、河津川沿いに温泉の宿が、それぞれ特徴のある趣向をこらしてお客さまをお迎えくださいます。
ある宿では、内湯の他に、渓流に沿って七滝の名前をつけた露天風呂をはじめ、洞窟の中にも、河原にも、と、ふんだんにお湯を楽しんでいただけるように工夫をし、ある宿では、石風呂、檜風呂、それに加えて巨石を組んでつくった露天風呂と、さらに、四キロにおよぶ遊歩道を用意しております。
こちらでは、どの宿でも自然石を上手に活用し、お庭の手入れも行き届いております。
清流に棲むイワナ、鮎をはじめ、伊豆の海が近いことから、海の幸、さらに、天城名物の猪料理なども召し上がれます」
「カオリさん!」と、内藤主任が馴れ馴れしい。
「この渋沢が、まださっきの温泉は混浴だといいはってるんですが、あそこ混浴あり?」
「よく存じませんが、多分、混浴もある場合もあるかと」と、家族貸切りを考えたのに、
「それだ!よし!中川部長!」
「なんだ内藤。目が血走ってるぞ」
「ここへ、来ましょう。七滝に」
「なにしに?」
「なにしにじゃないでしょ。預けたお金を取り返すんですよ。麻雀ですよ」
「ギャンブルは止めた。あれは法律で禁じられているはずだ。賭けるのは違法だし、賭けない麻雀なんてやる気はないし」
「そうか、分かった。部長、もう自分で勝てないの知って逃げてるんだ」
「なに!も一度いったら張り倒すぞ。わしがいつ逃げた。ようし、やってやろうじゃないか。どうせわしたちのレートは遊びなんだから勝っても負けても、たいして影響はないんだ。よし、いつだ、来週か?」
「そうそう旅行ばかりしていられませんよ」
「麻雀なら東京でも草加でも出来るな」
「とんでもない。この七滝に来るんですよ」
「どういう理由で?」と、知らばっくれる。
バスは昭和の森会館に到着した。
「こちらの昭和の森会館は、伊豆にゆかりのある作家百二十人の資料を集めた文学博物館をはじめ、天城の森の植物や生物について紹介する森林博物館、井上靖先生の旧邸などがございます。
緑の芝生の美しい庭に面して、喫茶コーナーなどもございます」
かおりがバスを降りて、一行を案内して会館に入ると、中川部長が内藤、黒川両主任と話し合いを終えた様子で、意を決したように、かおりに近づき、
「会社の規定では、お客側から乗務員を指定してツアーを組むことは出来るの?」
「場合によると思いますが」
と、ちょっと気分をよくしたかおり、
「私のことでしょうか?」と、少し照れる。
中川部長、はっきりと断言した。
「いいえ、違います」
昭和の森会館は、天城峠の北側に位置し、六角形のしゃれた建物がメインになっている。
会館は、森林博物館と近代文学博物館を併合していて、樹齢四百年という静岡県天然記念物の太郎杉の実物模型が、森林博物館のシンボルのようにデーンと控えている。
その樹は、幹をくり抜いた洞穴の中に、五、六人は入れるほど大きい。
天城山中で獲れる獣や魚の剥製も陳列され、樹木の種類、資料などが、揃っている。
文学博物館は、地元に縁の深い川端康成の名作「伊豆の踊子」の自筆原稿をはじめ、井上靖、若山牧水、梶井基次郎他百名以上の資料が展示されていて、文学好きのミカなどは大喜びだった。
5、黒川ノラ主任の専用風呂
夏なお涼しき浄蓮の滝
「川端康成先生の生原稿を拝見して、改めて名作の数々を読み直される方もいらっしゃることと思いますが、旅は人の心を洗うともいいまして、小さな旅から大きな幸せを得ることもできるのでございます。
かくいう私めも、実は、就職に迷ったとき、ある先輩の『旅にはロマンスがある』という一言を聞き、現在の仕事にふみ切りました」
「ロマンじゃないの?」と内藤主任が訂正する。
「その間違いで入社してしまったのです」
「じゃあ、オレでよかったらロマンスしよう」
「と、いうことはデートの申し込みですか?」
「そ、そう、デートしよう。オレと!」
「よろしいですよ。私でよかったら」
「エッ!ホント!本当なんだねっ」
「毎回、お一人や二人、必ず、そのようなお申しこみをいただきますので、順番待ちとなりますが、よろしいでしょうか?」
「どのくらい待つの?」
「多分、今世紀は無理かと思いますが・・・」
「エッ。そんなに?でも、このツアーじゃ、オレが一番乗りだよネッ」
「いいえ、二番目です」
「?名前をおしえてよっ」
「申し訳ありませんが、秘守義務がありますので、お名前は申し上げられません」
「エライ!」
思わず車内の目が、後部座席の声の主を追った。佐山会長が「しまった」という顔をしたが、全員の視線が非難めいているのを悟って観念したらしく、開き直って、
「美人に声をかけるのが、男の義務じゃないですか」と、これも大失言だった。
そこでまた、PTA軍団で会長に誘われたことがないに違いない沢木夫人その他ごく一部の女性に、吊るし上げられる羽目になった。
「この先、右側、道路に面して天城の名物『いのしし村』が見えますのでご注意ください。
百数十頭の中から選ばれ、輪潜り、棒渡り、サッカーなどショーの他、レースもあります。
次回、こちらに参りましたら、ぜひお立ち寄りください。
バスはまもなく、浄蓮の滝に到着します。
お食事は浄蓮の滝入口にある浄蓮の滝観光レストセンターでいただきます。
休憩時間は、お食事時間を入れまして一時間十分を予定しております」
「滝まではどのぐらいかかるの?」と、渋沢青年。
「片道五分もあれば、滝に着きます。夏なお涼しい浄蓮の滝をぜひご覧ください」
駐車場には、観光バスも十数台並んでいる。
小山少年二人がワサビアイス売場に走った。
駐車場に続く広場の片隅に建つ「踊子像」をバックにギャル組が写真を撮るのに、カメラのシャッターを渋沢青年に頼み、渋沢青年は嬉々として「チーク」などと平凡なギャグでシャッターを押し、
「ボクも一緒に撮って」
カメラを仲間の石毛青年に手渡し、ギャル組のまん中に割りこんだが、無情にもオートマカメラはフィルム切れ。石毛青年の手の中でジージーと音を立てて自動巻き上げ装置が作動していた。
「あとでね」と、ギャル組が食事に急いだ。
緑に包まれた天城山系の青空は深く、稜線にはトンビが番で獲物を求めて翔んでいる。
敦子の座ったレストランの椅子席は、谷側の窓を背にしていたから、振り向くと深山幽谷の冷気が開けた窓から頬に涼しい。
蝉の声が、谷川の音、樹林を渡る風の音に混じって耳に快く響く。
刺身の盛り合せ、焼き魚、山菜入りの五目ご飯。鮎の甘煮、ここまでは定食風の定番。
「あら、美味しい」
樫山夫人が早くも奇声を発した。ただ量を多く口にするだけではなく、なかなかのグルメなのだ。いっせいに視線が集まる。
「これよ、これ!」
樫山夫人が、箸で示したのは、仕切りの入った大四角の弁当風メインフードではなく、添え物風にひっそりとお供に付いて来た、わさび味のきいた“ザルトロロソバ”だった。
全員が、まだ席に着いたか着かないかの時間だから、ビールの栓を抜く音があちこちでしていて、とてもデザートの親類のような付録格のザルトロロまでは手がまわらない。
しかし、樫山夫人の一言で、ほぼ全員がザルトロロソバに挑戦。本来は四人掛けのテーブルをわざわざ団体用に継いだ一角から、突然のように「ズルズル」の大合唱が響いた。
他の客はびっくり、自分たちの箸を止め、何事が始まったかとばかりに眺めている。
「昨日、ドライブイン『左』で食べたおソバとは、微妙にわさびの効き方が違うのよ」
樫山夫人が口を動かしながら講釈している。
店員が、お茶を注ぎに来て、自慢気に、
「わさびは、この下の谷川で栽培しています」
すると、樫山夫人、納得したように頷き、
「なるほど、それで天城の味がするのね」
ほんとうは風流なのか味音痴なのか。
食事が終ると、連れ立って谷に下りた。
天城峠の原生林を割って流れる本谷川にかかる名瀑「浄蓮の滝」。高さ二十五メートル、幅七メートル、暗い谷底は異様に蒼ぐろい。この深い滝つぼに、巨大な女郎蜘蛛が潜み棲むという伝説も、まんざらウソでもなさそう。
夏でも背筋にすーっと寒気をおぼえるのは、谷川の冷気だけではなさそうである。
岸壁にはびっしりと天然記念物のハイコモシダがしがみついている。
「ほら、なにか見えるわよ」
敦子がミカに、滝つぼを指さした。
「ぬーっと手が出て来そうよ」
「怖いわ」
この二人には、まだ昨夜の余韻が残っているが、その隣りにいて、この会話を聞いていた小山氏が、顔をそむけてそっと立ち去った。
清流を利用したわさび畑が谷川沿いに繁り、直売所ではわさび漬けや本わさびに人気が集まっていた。
「時間があれば虹マス釣りやるのにな」
黒川主任がわざわざ貸竿屋の店先でいい、それをうらめしそうに貸竿屋が見送る。
「この階段、昔来たときは、ところどころに大きな石を置いただけの山坂だったから、登り下りに苦労したものだよ」
加藤教頭が得意の昔話。それに樫山夫人が合いの手を入れるが、登り坂で苦しそう。
「それで、川にはおサカナがいっぱいでしょ」
「そうそう、いくらでも釣れたんじゃ」
佐山会長が、その後から荒い息を吐きながら、挑戦的になって、
「今度、来るときは渓流釣りもしますか?」
「いやいや、わしはもう殺生はせんよ」
佐山会長、加藤教頭に軽くいなされている。
広場に出ると、帰路に入って買う気がついたか、PTAオバタリアン軍団の土産屋めぐりが始まっている。
「ウチの人ったら、本わさびの摺り下ろしを、お刺身にたっぷり乗せて、冷や酒でいっぱいやるのが大好きなのよ」
試食のわさび漬けを、大目に一口、涙ぐんでいるのは川田夫人。かなり効いている。
「お時間ですよ」
かおりが迎えに来ても、まだ物色中で、いよいよ中年主婦の本領を発揮している。
おかげで少々定刻オーバーの出発となる。
「お車は、これから湯ヶ島に向かいます。
湯ヶ島温泉は、浄蓮の滝から続く本谷川と猫越川の合流地の谷筋に湧き出でたカルシウム炭酸塩泉で、元湯では五十八度あり、通風、皮膚病、ケガ、高血圧などに効力があるそうでございます。
猫越川のほとりの梶井基次郎文学碑などを眺めての渓流散歩もなかなか風流なものです。
また、本谷川と猫越川が合流して一筋の大河となりますのが狩野川でございまして、この狩野川の最初の橋がバス停もある西平橋。そのたもとにある露天風呂にときどき若いカップルが楽しげに入っておりますが、これは犬猫温泉といいまして、物好きな人が造った動物専門の温泉なのでございます」
中川部長がハタと手を叩いた。
「黒川、おまえの風呂はそこに決まった」
「狩野川の支流長野川にかかる簀子橋近くには、『天城小さな美術館』がございます。ピカソ、ミロ、シャガール他、常時二十点近くが出品されていて、なかなかの名品揃いと評判で、しかも、この作品は、すべて個人のコレクションということですので驚かされます。
ここ天城湯ヶ島町が自ら発売元になっている『名水天城の水』は、ミネラルウォーターそのものの天城の地下水をボトルに入れたものですが、好評のようでございます。
さらに、天城山に咲く天然の石楠花から抽出したロザージュという名の甘い香りの香水も発売元は、天城湯ヶ島町となっておりまして財源の助けになっているそうです。
天城連山の緑に囲まれた天城湯ヶ島町には、昨日通りました船原温泉、ただ今、前方右手に湯元のある嵯峨沢温泉、伊豆の山々と渓流に映えて月がもっとも美しいと自負する月ヶ瀬温泉、その間の西に位置する吉奈温泉、そして、さらに湯ヶ島温泉の五つの温泉がございます。
これらをまとめて、天城温泉郷と申します」
そろそろ疲れが出てきたらしく、車内が静かになる。軽快なポップス系のサウンドがラジオから流れている。
「カオリさーん」
内藤主任の声にふり向くと、寝言だったのか空耳だったか、大きく口を開けたまま、これも熟睡状態の加山青年に肩を寄せ、気持ちよさそうにいびきをかいていた。
かおりは、ふと浜田の横顔を見た。