1、浮気論議で川辺ペアー大ピンチ
仁科灯台付近は大物釣りの名所
「お車は、松崎方面から石廊崎方面に・・・」
かおりの声をさえぎるように、佐々木夫妻の口論が続いている。
といっても、一方的に女性が責める。男はと見れば、相変らずの禁煙パイポ。一言も反論する気配もなく、窓から遠く白岩山壁画のある乗浜海岸の先の断崖へと視線を投げていた。その視線の先を、かおりも追っていた。
「右手の岬の突端に仁科灯台がございます。その灯台に行く途中の絶壁の上に、沢田公園露天風呂がありまして、どなたにでもご利用できる公衆温泉です。浴槽からの眺望は絶景そのもの、眼下に広がる西伊豆の海、リアス式海岸、青い海原を行き交う船舶を眺めながらの入浴は大好評でございます」
佐々木夫人がさらに追及している。
「あの娘、あなたに失恋して、それで結婚する気になったんでしょ。あなた、もしかしたら、今日のツアーに参加したのも、あの娘と会うためだったんでしょ」
途中で、ツアーの申し込みは自分だったと気付いたらしく、いい直す。
「私がこのツアーに参加を提案したとき、賛成したのは、あの娘と会えるからでしょ」
反応がないのにイラ立ち、ついに奥の手を、
「いいわよ、奥さんと別れると思って付き合ってたのに、あちこちに女がいたなんて。正直に言えばいいのに、男らしくないわね。そっちがそうなら、私、石廊崎からとび込んで、死んで見せるから」と、ニセ夫人を公表した。
バス中の会話が一瞬、ピタリと止んだ。
「死んで見せるから」が効いたのである。
かおりは、あわてて、
「予定の時間をすこしオーバーしておりますので、石廊崎の灯台見物は、もしかしたらカットさせていただきます」
もっとも、海に飛び込むのは石廊崎以外でも可能なことに気付き、
「やはり、予定通り石廊崎に立ち寄ることにいたしましょう。
さて、ここ沢田は数百軒もの民宿が立ち並び、海水浴や釣りのためにおとずれる各地からのお客さんで、シーズン中はいっぱいになります」
「釣られた私がバカだったのよ」と、ニセ夫人。
「磯釣りの名所としてよく知られているのは、その仁科灯台周辺と、仁科の町の西側に位置する安城岬あたりです。
例年のように記録的な大物が獲れるのも、この辺りの沖だそうでございます」
「あんたなんか、大物なんか無理よ。あんな小娘を狙うんだから、私は別だけど」
「沢田には、魚漁の神様を祭った佐波神社がございます。人形浄瑠璃の『式三番叟』という、一体の人形を三人で操るお芝居が伝えられているそうです」
「あなたは、三人ぐらいの女を操っているつもりなんでしょう?」
「三人の女に操られた男どころか、三人の女を操る男・・・ごめんなさい、失礼しました。
どうぞみなさま、外の景色をごらんください」
ついに、かおりは、へたりこんでしまった。
西伊豆町では最大の規模の六百メートルという砂浜を持つ仁科区大浜の海水浴場に遊ぶ人達の姿が車窓の後に流れて行く。
さすがの佐々木ニセ夫人も、愚痴に飽きたのか、しゃべり疲れたのか、温和しくなった。
すると、車内の会話が聞こえはじめた。
今回の事件はかなりの余波を生んでいる。
小山家では、長男の圭介君が学校の勉強もこのように熱心になればいいのにと思われる勢いでしつこく両親に食い下がっている。
「パパはママの他に好きな女いる?」とか、
「ママも浮気してるの?」
とか、屈託のない明るい表情で聞いている。
「そんなこというもんじゃないよ」
叱りながらもお二人それぞれ内心では、違うことを考えている。
(女性と名が付きゃ、全部、女房より好きだ)
(私が浮気しているの子供たち知ってるのかしら)
そして、それぞれ、
(離婚してやり直しできたらなあ)
と、身勝手に今の境遇の悪い部分は、全部相手の所為だと思っている。
PTA役員のご婦人方、それぞれ「ウチの宿六」とかいいながらも、自分達が旅行に出ている間の夫の行動に思いを馳せて、
「うちの人、今日は泊りがけでゴルフなの」
「怪しいわよ、服装だけゴルフウエアーで出かけて浮気している男、いっぱいいるのよ」
「シッ!」と、唇に指を当て佐々木氏を窺う。
上から下までゴルフウエアーの佐々木氏は、聞こえているのか聞こえないのか、相変らず禁煙パイポを口に、仁科川を渡って山裾の切通しを通過する景色を漫然と眺め、あの花嫁を誰だか思い出そうとしていたが無駄だった。
堅焼せんべい組の若者達にとっても、いい教訓になったようである。
「オレ、彼女がいなくて正解だったな」
「内藤主任は、いつも振られてばかりだから」
「面倒なことはごめんだよ」
「面倒なことをするのが男女の仲なんでしょ」
「うるさい。じゃあ石毛。おまえ彼女いるか?」
「いりゃあ、こんなところへ麻雀しに来ませんよ。でも、なんとなく出来そうな気が・・・」
と、ギャル四人組を盗み視る。
「やめろ。あの手は気が強そうだから」
今どき気の弱い女など存在しないことに気付いていない。だからモテないのだ。
加藤教頭が佐山会長に冗談めかして、
「若いときは、私などもお忍びでよく」
「出かけたんですか?」
「いや、出かけることが出来たらいいなと」
「思っていたんですね。私も同様ですよ」
実はそれぞれ、今も続いているのは自分だけだと思っている。
ここで最大のとばっちりを受けているのは川辺青年だった。
「男の人ってみんな浮気するの?」
きまりきった質問ほど怖いものはない。
「そうだ」などと、真実はいえないから
「ボクだけは違うよ」と、一応軽くいなした。
「じゃあ、他の男はするの?」
川辺青年は真面目でウソのいえない性格だから、一瞬言葉につまり、返事に窮したが、後を振り向いて
「黒川さんは、結婚して浮気しますか?」
「な、なんだよ急に。びっくりするこというなよ。そんなの結婚してみなきゃあ、わかる訳ないだろ」と、困惑し、斜め後ろを向き、
「中川部長、浮気してますか?」
「冗談いうな。浮気心は今だって」
つい、心にあることだから、後を振り返り、敦子とミカに冷たく睨まれ、首を振って、「とんでもない。ちょっと浮気の虫が騒いだだけです」と、そのまま首をのばして、
「佐山さんは浮気をどう思います?」
浮気という言葉が耳に入ったとたん、あれこれ思いをめぐらせていた佐山会長、思わず、「好きです」といい、あわてて、
「願望ですがね。そうですね、教頭先生」
「まことにお言葉通り。正しく願望は切なるものがありますな。いかがです、樫山さんは?」
「してますわ、いつも。精神的浮気ですが。ねぇ出川さん!」
「当然でしょ。若さの秘訣ですもの。ねぇ上田さん!」
「ええ、今日はちょっと懲りましたけど」
しゃあしゃあといい、長谷部夫人に、
「ご主人は浮気しないの?」
何を思ったか長谷部夫人、キッとなって、
「上田さん!ウチの主人には手を出さないでください!一緒に来た二人なら結構ですけど」
びっくりしたのは前方でそれを耳にした斉藤青年、中腰になって振り向き、
「ボクにも選ぶ権利が・・・」
思わず言いかけ、上田夫人がウインクすると、
「ありません。選ぶ権利なんてありません」
そこで隣り席の長谷部先輩に後頭部を一撃され、両手で頭を抱えた。
川田夫人があきれた声で嘆いた。
「どうしてみなさん次元が低いんでしょう。このような会話で貴重なツアーの楽しい時間を浪費して・・・」
その言葉を継ぎ、沢木夫人が決定を下した。
「浮気はチャンスがあって秘密が守れれば誰でもします!」
この一言で川辺青年の信頼は一気に崩れた。
「ほら、あなたもやっぱり浮気するんだわ」
「ヨシエちゃんが信じないんなら、いいよっ」
「ガイドさん!」と、ヨシエという娘、
「ホテルに着いたら部屋を別にとってくださいっ!料金は払いますからねっ!」
生返事のかおり、すぐ仲直りすると思ったのだ。
こと男女問題に関する限り、自分のことを除いて、かおりのカンはなかなか鋭いのだ。
2、美術館では、姥桜も美しい
松崎の誇る鏝絵の長八美術館
「お車の右手には、小さな岬がありまして、その頂上に厳島神社があり、それをとり巻く弁天島遊歩道は、駿河の海と松崎港を一望の下に収めることのできる絶好の地にあります。
まもなく、桜の名所で知られる那賀川の橋を渡ります。
江戸の名残りを色濃く残しているナマコ壁と蔵造りの町松崎は、古い歴史を秘めながら、今、若者の集まる町に変身しつつあります。
桜並木は、那賀川の上流にある大沢温泉にまで続き、春四月の桜の頃の土手には、菜の花が桜の木の根元いっぱいに黄色い花を咲かせ、梢の桜と美しさを競うのでございます。
山あいの湯どころ大沢温泉は、化粧の湯ともいわれ、肌をきれいにする硫酸ナトリウム塩泉で、伊豆で一番古い露天風呂があり、渓流をへだてた山裾にある自然石に囲まれた浴槽は一つでございますので、昔から混浴となっております。ただし今では中間に柵がありますので不純な目的の方には残念かも知れません」
それまで、かおりのガイドを上の空で、ビール片手に騒いでいた堅焼せんべい組の男性がピタッと口を閉ざし、耳を傾けた。
「今、何ていいました?」
黒川ノラ主任がせき込んで聞いた。
「ハイ、大沢温泉は桜の美しい山あいの素朴な山の湯です、と申し上げました」
「そのあとで何か言ったよね」
「言いいました。大沢温泉には混浴風呂がありますが、黒川さんみたいな人がいますので、目隠しの柵で防御してるのです」
「そんなの、混浴とは言わないだろ?」
長谷部夫人がかおりに救いの手を差し伸べた。
「混浴していい人とダメな人を区別する係の人がいるんです。ねぇガイドさん」
「ハイ。そのようでございます」
かおりも結構、人がわるい。その話題を打ち切ってかおりが続けた。
「左手に赤い山門が見えますが、こちらは伊豆三名園の一つといわれた美しい庭園で知られる浄泉寺でございます。室町時代から続くこの浄泉寺には、本堂の仏天蓋に鏝と漆喰の名工、伊豆の長八による『飛天』という作品が実存しております。この右側、国道と直角にナマコ壁通りがあり、その先に薬問屋の近藤家旧宅があります。松崎には、伊那上神社と伊那下神社などの他に浄感寺、その他史跡で名高い円通寺などの神社仏閣も多く、さらに、明治六年創立の重要文化財、旧岩科学校などもございます」
かおりが前方の左右を覗きこんでから続けた。
「こちらからは見えませんが、明治の豪商中瀬邸が再現されていて観光案内もしています。町並みには、松崎独特のナマコ壁建築も見られ、町の歴史がしのばれます。白い漆喰を用い、壁面の四角い平瓦を並べた隙間にカマボコ型に盛り上げてつなぎ合わ
せた凸凹が、まるでナマコの肌のように見えるところから名付けられましたナマコ壁、江戸時代の防火建築として、当地松崎の町の土蔵造りに流行したといい伝えられております」
国道136号線も、町中に入ると両側に民宿、土産店、地元の商店街が立ち並び、海から一時的に視界が遠ざけられ、松崎のしゃれた町景色が目に入る。
「右手のしょうしゃな一軒家のお店をごらんください。お店の奥には、お抹茶、和菓子、
軽いお食事をいただける小スペースのお座敷もありまして、名産の桜の葉をふんだんに用
いたクッキー、あるいはおそば、民芸品などもおいてあります。
松崎は食べもの見ものでいっぱいです。
お車はただ今、長八美術館に到着いたします。バス停の前に大看板があります。
江戸末期の文化十二年、1815年にご当地松崎に生まれ、ここ浄感寺で幼児期から少年期
を過ごし、左官職人を経て、華麗な漆喰画で一躍名人として知られるようになった入江長
八の名作のいくつかがここに保存されているのでございます。
とくに、天井絵となっている白い姿の竜は、その作品名を『八方にらみの竜』といい、災いを除き幸運を呼びこむご利益があると伝えられておりますので、とくに、よくご拝観ください。入場料は会費の中に含まれています。ハイ、それでは、二十分後に出発とさせていただきます。どうぞ、ご順にお降りください」
「シアワセになるなら、なんだかよく分かんないけど見ておこうか」
小岩井エミが中田裕子をうながし、間中ジュンは「眠いから、バスで待ってる」と横着をきめている。
エミが、耳元で、
「幸運を他人に取られちゃうわよ」
とたんに、バネ仕掛けのようにジュンが立つ。
「イヤヨ、人より不幸になるなんて」
ぐちぐちと抗争中のニセ佐々木夫人も、
「一時停戦します」
一方的に宣言し、さっさと先に降りて建物の内部に入って行く。
川辺青年と恋人のヨシエさんは、二人共、じっと宙を見すえるように無言。気まずい空気が流れていて、声をかけようにも、とりつく島もない。
陽子やミカと連れだって降りようとした浅田敦子が、通路側の川辺青年の肩をポンと叩き、声をかける。
「誘ってあげなさいよ」
「ハ、ハイ」
あわてて、隣りに手をさしのべ、
「ヨシエちゃん、仲直りしよう」
ヨシエと呼ばれた川辺青年の恋人は、スネたのか、唇をとがらして黙って窓の外を眺めている。
「それじゃ、わたしが彼をお借りしますわよ」
敦子が、うろたえる川辺青年の手を引いて、さっさとドアに向かった。
ヨシエは、一瞬、ためらいながら小さい声で叫んで左手を二人の背にのばしたが、すぐに元の姿勢の戻り直した。しかし、表情がひきつり口許がヒクヒクと震え、すぐに、二人の後を追った。
堅焼せんべいご一行とPTA役員組の一部のご婦人方は、すっかり意気投合。道路際に立つ約二メートルの松崎町・長八作品保存会寄贈の大看板をバッグに肩を組んでのツーショット写真を撮り合ったり、隣り棟の長八記念館で、長八の作品を眺めたりと、いよいよ加藤教頭の神経を逆なでし、嫉妬の炎を燃え上らせている。
「この二人の天女が笛を吹き、笙を奏で空を舞うさまは、まことに見事ですな」
佐山会長が、加藤教頭に話しかけているのに、教頭は上の空。サンダル履きの黒川ノラ主任と楽しげに語り合う上田夫人の肉感的な横顔に視線を注いだまま、意味不明の受け応え。
「そうです。ふっくらとして弾力のあるやわ肌がなんとも・・・」
言いかけて、ハッと我に帰って、
「あ、この欄間の飛天の絵のことですかな。まことに、年を感じさせない若さ溢れる女体ですなあ。脂がのったトロのような、食欲をそそる。姥桜の美しさというか、イヤどうも」
「いやあ、ごもっとも、ご同慶の至りです。そういわれてみれば」
佐山会長がじっくりと視線を欄間の飛天の絵に這わせ、二度三度うなずきながら、心の中で、しきりに感心していた。
「さすが教頭先生。この天女の絵から、それだけの官能的な反応を読みとるとは、そのような見方は私ら学のない凡人には出来ない」
二人は、それぞれ別の心で溜め息をついた。
二人の横を、かおりを中に賑やかな笑い声でギャルの輪ができて移動している。
「行こう。前のお店で名物のさくら葉餅、食べよう」
佐々木ニセ夫人も、川辺青年の恋人ヨシエも、いつの間にかギャル組に吸収されている。
3、説明しにくい名所もある
富士見から三浦海岸への美景
「お車は、美しい景色の中、国道沿いに二十一の彫刻が展示され、旅行客の目を楽しませている富士見彫刻ラインを通過中です。
この作品は、地元の高校の美術部のみなさまによって制作され、寄贈されたものです。
右手前方に見えてまいりましたのが岩地の海岸でございます。
去る五月三日は、岩地観光協会の主催で、観光客への感謝をこめ、初ガツオをブツ切りにし、塩味で焼いたものをお酒付きで振るまう恒例の催しが、岩地海岸で行われました。
こちらには、五十軒以上の温泉付き民宿がございまして、釣り客や湯治客、あるいは伊豆めぐりのお客様をお迎えしているのでございます。この辺りは、西伊豆に珍しい遠浅の砂浜が続き、春は潮干狩り、夏は海水浴で賑わいます」
かおりはいいながら海を眺め、
「つぎに、こちらの石部海岸には海辺近くに露天風呂があり、混浴なのでございます・・・」
「えっ!」と、毎回、同じリアクション。
いっせいに、といっても主役は草加堅焼せんべい本舗の男性群だが、視線が、かおりの口許に注がれ、つぎの言葉を待つ。
「残念なことに・・・」と、かおり、
「なにが?」と、いっせいに不安顔。
「みなさまのご期待に添えず残念ですが、海水浴場に並んであります関係で、入浴は水着着用でございます」
「なあーんだ」
落胆した渋沢青年が嘆く。
「真夏になったら来ようと思ったのになあ」
すると、内藤主任が、
「失恋の傷なら、ここより草津の湯だろ。
ガイドさん。ここは何に効くの?」
「石部温泉は50度の塩化物の温泉で、神経痛、慢性皮膚病、消化器病などに効きます」
かおりは振り返るように海側を見て、
「今のうちに富士のお姿を堪能していただくために、よろしければ、しばらくの間、座席を入れ替えて、今まで山側の方に海側のお席をお譲り下さればと思います」
車内が騒がしくなった。
ニセ佐々木夫人は、とうに陽子の隣りの藤井を追い出し、陽子を窓際に変え、その隣りに座って目を閉じている。陽子は折角枕代りにしていた藤井がいないので、窓にコツコツ頭を打つけながら、こちらは本当に眠っている。
「加藤先生、娘さんたちに替ってあげましょうか」と、早速、佐山会長がポイント稼ぎ。
「入れ替ろう」と、裕子とエミと交替した。
「わあ、すばらしい。海の底が見えるわ!」
裕子が大げさに喜んだ。若いから素直なのか。その声を聞いて、あちこちで譲り合いがはじまる。それをきっかけに、まだ未練があったのか、どさくさにまぎれて、進行左手の山側の席に、黒川ノラ主任が上田夫人をむりやり誘いこんだ。
三四郎島事件以降、なんとなく黒川主任と視線を避けているように見えていた上田夫人も、誘われて悪い気はしないらしく、ほんの少しだけイヤイヤの素振りはしたが、満更でもないのは、その嬉しそうな表情に表われている。やはり、この二人は誰が見ても怪しい。
そのとばっちりで、ジュンとヒロ子が席を立つ。出川、樫山夫人がそれをきっかけに席を若い二人に譲ったが、樫山夫人も出川夫人もそれぞれ狙いを定めていたから、むしろチャンス到来だったのだ。
斉藤が、気を利かしたつもりなのか、長谷部夫人に声をかけて席を立ち、長谷部夫妻を一緒にしたが、これは裏目に出ている。
長谷部が斉藤を恨みをこめて睨みすえた。
沢木夫人の場合も少々事情が異なる。
加山青年が最後部まで来て、席替えをうながし、仕方なく空席を探したところ、石毛青年の隣り席が幸運にも空いていたのだ。
沢木夫人が腰を下ろそうとすると、びっくりした石毛青年、あわてて立とうとする。
「いいじゃないの。私じゃご迷惑?」
「ちょっとトイレへ」、トイレなどない。
樫山夫人と出川夫人は、巨体をゆすって通路狭しと前へ移動し、それぞれ希望の相手を捕獲し、邪魔者はつまみ出し席に着いた。
キャッチされた内藤オレ主任、狙いが敦子だっただけに、未練たらたら、腰が落ちつかない。しかし、逃げ出すことなど出来はしない。渋沢青年などはもはや籠の鳥同然だった。
「お邪魔してもいいかしら?」
言葉だけは遠慮がちな樫山夫人に、従順に応じている。
小山家の将来有望な子供二人は、うしろの席が空いたのを知るや、
「ボクが先だい」
子供たちが先を競い、席を失ってうろうろしていた中川部長と斉藤青年を押しのけて走った。
中川部長と斉藤青年の二人、ようやく席に着き、やれやれと一息ついたとき、バスはすでに、平六地蔵露天風呂のある石部港の海岸も後にして、雲見くじら館のある曲りくねった道を、雲見崎に向かって進んでいた。
手荷物や菓子の袋を手にして、しかもそれぞれの思わくが交差しながらの席替えだったので意外に手間取り、時間のロスも大きかった。まるで民族大移動、おかげで富士を見るための席替えだったのに、すでに富士山は後方。大きなカーブでもない限り、しばらくの間、振り返らなければ見えなくなっている。
「ここから、雲見温泉の西につき出た標高二百六十メートルほどの烏帽子山までの間に、今、通りました岩地、石部、雲見と三つの入江があり、この三つの浦を合せて、三浦海岸と呼びます。
この山側の遊歩道を、三浦の散歩道といいまして、群生するヤマザクラ、マーガレット、ツワブキなど、春から秋まで花を絶やさず、雄大な駿河の海を眺めながらの散策を楽しむことのできるコースになっております」
石部地区で岬をまわるとき、富士山が右手にくっきりと見えたように、断崖の多い景勝の地、雲見に向かうと再び富士山が右手に現れ、道を曲がると正面に見えた。
「雲見温泉は三方を山に囲まれていますが、西側には海が広がり、正面に大きな岩が二つあります。これが伊豆の二見が浦とも呼ばれる風景です。その上にくっきりと富士のお山が眺められるこのすばらしい景色も、ほんの一瞬で、つぎに大きくカーブしますと、今度は富士山としばらくのお別れになります」
浜辺の両側の海岸に見える断崖の連なりを眺めながら、車内は、ほんの一部のお通夜のような席を除いては活況を呈し、旅の楽しさを満喫している。
会話ゼロのお通夜席は佐々木と川辺組。半分お通夜が長谷部夫妻。妻の語りかけを長谷部は狸寝入りで聞かぬふり。つい数時間前までは女優谷内ゆう子のからだの重みを肩で感じていたのに、天国と地獄以上の隔たりがある。それもこれも女房の悋気が原因だ、と長谷部は腹だたしい思いで眼を閉じているが、元を糾せば本人の好奇
心が生んだ葛藤だけに自業自得。そんな心の中はとうにお見通しの長谷部夫人、ニコニコしている。
ひそひそ会談が多い割に相変らず暗い表情なのは小山夫妻。しかし、家族全体でのバランスは最後部で調子はずれの歌を歌っている子供達の明るさで充分挽回していた。
あと、沢木夫人に捕らえられた石毛青年の困惑ぶりが目立つが、これも徐々に慣れ始めている。不味い食べ物でも食べ慣れていく内になんとか食べられるようになるから心配ない。
お祭り騒ぎのもとは、やはりギャル組と、PTAご夫人連、車がカーブする度にキャア、景色が変化する度にキャアキャア、冗談一つでキャアの三乗、かおりの名文句も通らない。
「お車はまもなく雲見の町はずれ、西にそびえるのは烏帽子山でございます。
四百段近い階段を登りますと浅間神社があり、その先の西側山裾の岩の名は、その名も美しい想い出岬、ここから眺める富士は一生忘れることができないほど美しいものです」
かおりは自分はそこに立ったこともないのに尤もらしく語っている。これぞガイドの名演技だった。
「烏帽子山も南側の海にまわりますと、磯から約三十メートルほど離れた位置に、雲見浅間の海の鳥居ともいわれる名勝千貫門がございます。高さ三十メートル以上の岩の中央に波の浸食によって出来た洞穴があり、幅が約十メートル、高さは約十五メートル。船の出入りも自由自在となっておりまして、岩の上の松と共に、青い海の中に一際美しく映えているのでございます。この雲見の海には奇岩も多く、断崖が続き、中でも壮観なのは、長さ約二百六十メートルもの赤い岩肌の絶壁でそそり立つ赤壁が有名でございます」
全員が窓から外を眺め、海側じゃない人は、座席から立ち上がって通路に出て海を見た。
「さらに八つの洞窟で知られる八ツ穴も名所ですし、地元の人たちが安産の守り神、夫婦円満の神様として拝む大きな岩肌がございます」
「夫婦円満? それはいいなあ、どんな岩?」
黒川ノラ主任が身を乗り出す。
「観音岩といいます」
言いながらかおりが顔を赤らめた。
黒い岩肌にくっきりと白っぽい割れ目が見えるその岩を地元の人は「サネモリサマ」と呼んでいるのである。
自然の織りなす造形の美は、素晴らしい。
しかし、ときとして説明に困ることもある。かおりは、余計な説明を加えたことを悔いた。
4、せんべい作りも長者への道
マーガレットラインは長寿の里
「野猿の生息で知られる波勝崎は、このマーガレットラインから右に、狭い道を入ってまいります。
波勝海岸は、海から眺めると、雲見の千貫門から三キロ以上に亘って続く断崖が美しく、中でも波勝の赤壁といわれる絶壁は、ま近を通りますと、迫力いっぱいに迫って来るのでございます」
「オレも迫ってもらいたいなあ」
本気なのか冗談なのか内藤主任が、かおりを見つめる。
「波勝崎に棲む野生のお猿さんは、餌付けされていますので、堅焼せんべい本舗さまのおいしいオセンベイを紙袋に入れて持ち歩いただけで、またたく間にモテモテに迫られること確実です」
「お猿じゃあ、やだよ」
「モテないより、いいじゃないか」
中川部長がひやかすと、拍手が起こった。
それでも、後部座席のご婦人方から救いの声が出た。
「内藤さん。私たちがついてますよ」
「どうも、どうも」
後部座席を振り向いてみた内藤主任は、それほど嬉しそうでもない笑顔で応えた。
「マーガレットラインといいましても、道路沿いに花が咲き乱れているのではありませんが、周辺の農家の殆んどが、この地名産のマーガレットの栽培で収益を上げているそうです。お車は、これから、太田川沿いに登り坂を進み、山道に入りますので、しばらく海の景色とはお別れでございます。この左手の奥を長者ヶ原と申しまして、その昔、伊浜地区に住んでいた一角という男が、地元の普照寺というお寺さんのご本尊を海に捨て、自分も故郷を捨てたということです。その一角が、うらぶれて故郷に戻ってきたのはそれから数年のち。そのとき、自分が捨てた観音像が、漁師の網に救われて無事に普照寺に安置されたことを知り、己を恥じ、心を改めまして、一心に荒地を耕し、粟をつくり、やがて、財を成し、長者と呼ばれるようになりまして、この地を誰いうとなく長者ヶ原と呼ぶようになったそうでございます」
「粟をつくって長者なら、せんべいづくりも長者になれるかな」
またもや黒川ノラ主任が口を出す。それのい続いて内藤主任が喚いた。
「よし、オレ社長になるぞ!」
「アワてるとアワくって失敗するぞ」
中川部長のオヤジギャグは全員に無視された。
「オレが社長になったら、石毛、おまえ副社長やれ!」
「とんでもないですよ」
内藤就任に指名されたが、石毛青年は逃げ腰だった。
「あら、私、社長夫人になってあげるわ」
ただちに出川夫人が立候補したが、ご本人は主婦であることを忘れている。
とたんに、内藤主任がシュンとなって勢いを失った。
「オレ、やっぱりやめた」
「わたしでは、約不足ですか!」
出川夫人が内藤就任の背中をどやして脅した。
「まもなく、道路右手に伊浜の集落が見えてまいります。皆さま、あの段々畑をご覧ください。この伊浜は、波勝崎への入口にもなっていますが、全国的に知られますのは、国内の八十パーセントといわれます日本一のマーガレットの生産地です。とくに、早春の頃、見事に咲き誇るマーガレットの花に埋めつくされる伊浜の一帯は、マーガレットの名に恥じない美しい景色に包まれるのでございます。伊浜地区は、また、日本有数の長寿の里でも知られております。今、日本では百歳以上のお年寄りは沢山いらっしゃいます。とくに、沖縄、鹿児島と温暖な地方に長寿率が高いことはよく知られますが、長寿の三要素は、海の幸と山の幸に恵まれること、適度な労働があること、ストレスをためないこと、この三つです。それらは全て、この伊浜地区にもあてはめることができます」
「あたしも、それに当てはまります!」
「やめなさいよ。ジュンは食べて寝るだけなんだから」
勢いよく間中ジュンが手を上げ、中田裕子があわててその手を掴んで下に下ろした。
「南伊豆の海の幸にも山の幸にも恵まれ、花の採り入れと出荷による労働、自然の環境に恵まれ、五感すべてに快い花に触れた生活。このように考えますと、あくせくと働く都会の生活より、自然の厳しさはあっても、山と海、緑と水、大自然に暮す喜びが、いかに大切かということが痛感させられるのでございます」
「わたしはダメだ」
「なにがダメなんですか?」
中川部長が嘆いたので、かおりが説明を中断して聞いた。
「長寿は無理な気がするんだ。働かない部下のストレスと自分の働き過ぎで・・・」
すかさず内藤主任が異を唱えた。
「酒は浴びるほど飲むし、タバコもヘビー、ギャンブルは熱中するわりに弱いし、仕事では部下を蹴飛ばすし、奥さんには頭が上がらない。これで長生きしたらおかしいですよ」
「上司をバカにするのか? 確かに酒もタバコ、女房に頭が上らないのも認めるが、おい内藤、いつわしが部下を叱りとばした?そりゃあ、もののはずみで足を上げたのも二回や三回、イヤ、五回ぐらいはあったが、あれは偶然、わしが足を上げたところに、おまえのすねがあっただけだ」
かおりが判定を下した。
「酒とタバコとギャンブルと怒り癖をやめれば長寿という助言ですか? 部長はいい部下に恵まれてよかったですね」
車内に拍手と笑いが湧き、中川部長は恥をかいて怒り、缶ビールの蓋を開け、泡で衣服を濡らしている。
中川部長はビールを一気飲みして大人気なく開き直った。
「聞き捨てならんのは、ギャンブルが弱いとは何だ。こう見えても、府中、中山、大井、新潟、川口、後楽園まで通わないところはないんだぞ」
「それで、勝っているんですか?」
ギャル組の川口ヒロ子がひやかす。
「ウッ、痛いところを。まあ、負ける時もあるけど」
「トータルしたら?」
「そりゃあ、多額納税者と思えば胸を張って生きていけるさ」
「それでは、家一軒分ぐらいは払っていますわね?」
沢木夫人が皮肉っぽく冷たくいい放ち、盛り上がった会話に水をさす。
「やっぱり、私は短命かな」
中川部長がしょんぼりと肩を落とした。
小高い丘を走るバスの車窓から、南伊豆の海辺の景色がパノラマのように展がっている。
「お車は、一町田を過ぎまして、間もなく子安橋、そして、ヘアピンカーブを三つほど越えますと、妻浦の港を一望のもとに眺めることができます。右手をごらんください。沖に見えます島が宇留井島。手前にその五分の一ほどの大きさで見えます小さな島が小宇留井島でございます。緑の美しい島として知られております。小島の手前に見える集落は、落居といいまして、その名の通り平家の落人が隠れ住んだといわれる村でございます。
「いいなあ。オレ、こんなところでのどかに、おだやかに暮したいなあ」
内藤主任が羨ましそうに言うと、またもや石毛後輩が茶化す。
「パチンコ屋もコンビニもないから、競馬新聞も買えませんよ」
またもや、出川夫人が出しゃばる。
「私、夫子供を捨てて一緒に住んであげますよ」
とたんに、内藤オレ主任。意気消沈した。
「オレ、やめる。やっぱりせんべい売る」
「よし!せんべい売れ」
中川部長が嬉しそうにカツを入れた。
小山ご夫妻は、小声でコソコソ語り合う。
「こんなところで住んだら、サラ金も追いかけて来ないかも知れんぞ」
「でも、どうやって家を借りるの? もう頭金もありませんよ」
この家族は、何のために旅に出たのか皆目分からない。
5、渦巻く白泡を眼下に覗くニセ夫人
石廊崎灯台へは専用トレインで
「ごらんください。右下に見えます集落が子浦、その南側一帯に広がる入江が妻良港でございます。
子浦は、マーガレットラインが完成したおかげで観光客が増えたそうです。
以前は、農業と漁業により生計を立てていた土地柄でしたが、ここ数年の間に民宿もでき、観光地としても栄えるようになっております。
この子浦から、波勝崎への観光船も出ておりまして、子浦の海水浴場も、その白い砂浜と、波おだやかな澄んだ水とによって、ますます知名度を高めているのでございます。
妻良の港は、天然の良港として知られ、風待ちの港ともいわれ、海が荒れますと、付近を航行中の船舶や漁船が逃げこみ、風がおさまってから出航するというようにも利用され、あるいは、帆船にとっていい風を待つ場所でもありました。
文久四年、1864年には、ときの将軍徳川家茂一行が上洛の途中、風がよくなるのを待つために立ち寄り、そのとき滞在した西林寺に、徳川家茂が用いた火鉢と、家茂が植林したとされる松が残っているのでございます。
また、この妻良港は、春から夏の終りにかけて、漁民総出の定置網漁法が行われ、この定置網でとれたばかりの新鮮な魚を、観光客に、海辺で焼いて食べていただくというサービスもあって、大いに喜ばれております。
今、越えたトンネルは白崎トンネル。このあとすぐ田面トンネルを過ぎ、つぎに越えるトンネルが東條トンネル、これを越えますと妻良の町。このまま差田のT字路で国道136号線と別れて石廊崎に直行してまいります」
そこで、かおりが内藤主任の顔を見た。
「やだなあ、またオレが途中で停めてくれっていうと思ってる目だな、その目は。で、あと何分?」
「あと約二十分ほどで小休止できます」
「約二十分か、ビールも控えてるし、まあ大丈夫。今度はもう恥をかきたくないからな」
修善寺では、車内に残った乗客全員に背を向けて貰って用を足した苦い経験が、頭をよぎったのか、内藤主任はかなり真剣な表情だった。
東條トンネルを抜けると、鯛ヶ崎に続く雄大な崖が、妻良港に寄せては返す波を受け、遅い午後の陽射しに黒光りしている。
かおりは時計を見た。
三四郎島、らんの里と少しづつロスタイムはあるが、予定通り石廊崎に立ち寄ることができることを確認したのである。
「こちら、妻良は、夏は海の風を受けて涼しく、冬は山が北風をさえぎる温暖な保養地として知られ、四季を通じて、咲く花を欠かすことがありません。
とくに、椿やエリカの花、野性の水仙など、マーガレットはもちろん、常春の秘境として、また人情も豊かな土地として、最近では脚光を浴びています」
「そんなに知られて来たんなら秘境じゃないわよねぇ」
聞こえよがしに沢木夫人。どこの世界にも皮肉っぽい発言をする人はいるものだ。
声をかけられた石毛青年は、聞こえない振りで、それを無視。かおりに好意的なのがよく分かる。
「ご当地では、毎年八月十五日の夜、地元の人と観光客総出で、夜明けまで浜に出て踊り明かす習慣がございます。
ここ南伊豆は、とくに信仰も盛んでして、波勝崎の天神原には浅野天満宮、伊浜には三島神社と、真言宗のお寺で、室町時代の梵鐘が重要文化財となっている普照寺を始めとして、一町田には諏訪神社、落居には二社神社、子浦には八幡神社、さらに西林寺と海蔵寺というお寺もございます」
車が妻良のトンネルを抜け、しばらく走ると、左側に観光農園があり、一色の交差点でバスはほぼ直角に右折する国道をそのまま走った。その交差点を右折せず直進して県道に入ると下田への近道となる。
国道はやがて差田のT字路にかかり、一行を乗せたバスは左へ曲がる国道と別れて右折し、民宿の多い中木を通りながら奥石廊を抜け、石廊崎へと走った。
「みなさまご存知のごとく、石廊崎は、伊豆半島の最南端に位置し、東の相模灘、西の駿河湾の間に突き出した岬で、百メートルあまりの断崖絶壁の下の荒海から、泡立つ波が、入り組んだ岩肌に砕け散り、豪快な波しぶきを高く舞い上げ、見る者の肝を冷やします。したがって高所恐怖症の方は、上から覗くのはお止めになった方が
よろしいかと思います」
「あっ、オレはダメだ」と、内藤主任が、
「デパートの屋上でも、縁に行くと足がすくむんだ」
すると、黒川主任が、
「よしっ、麻雀も屋上でやろう」
「雀卓をホテルの屋上の端っこへ運んでな」
中川部長まで調子づく。
「ただ今、奥石廊崎のバス停を通過しましたが、ここから歩きますと、大根島展望台、奥石廊展望台がすぐ直近にございます。
大根島は、伊豆急マリンの石廊周遊コースにも入っている美しい小島でその海岸に遊ぶ野猿の姿を見ることもできます。
奥石廊から眺める夕景色は、海を黄金色に染めて沈み行く太陽によって刻々と移り変わり、海岸の風景や島のシルエットは、絶景の二文字に尽きるのでございます」
車窓から眺めると青い海がおだやかに広がり、眼下に大根島が緑に包まれて横たわっている。
「石廊崎灯台にまいりますれば、岬めぐりの遊覧船の発着所に近い長津路という低地にある公共駐車場から歩いていただきます」
「どのくらい歩きますの?」と、出川夫人。
「そちらからですと三十分ぐらいですが、のんびり歩くと四十分ぐらいかかります」
「えっそんなにですか?」
「どうぞご心配なく。本日は、気温も上がり、お腹も空いていることですし、歩くのが苦手という方もいらっしゃいますので、ジャングルパークに立ち寄りまして、そこからトレインを用いまして」
「えっ!汽車が走ってるの?」
石毛青年が目を丸くして驚いた。
「トレインといいましても、軌道はございませんが、客車二輌を牽引するエントツも付いた立派な汽車スタイルのディーゼルターボ百十馬力の機関車で、その名をチュチュトレインと申します」
「チュチュ?」
「チュチュとは、ドイツ語で、シュッシュッという日本語の発音と同じだそうです」
「じゃあ、シュッシュッポッポがチュチュポッポかな?」
「さあ、そこまでは存じませんが、とりあえず、高台にある温室ドームの熱帯植物園、ジャングルパークにまいります。
みなさま、まもなく到着しますのでお仕度願います」
目的がチュチュトレインだから、園内見物には重きを置いていない筈だったが、園内に一歩足を踏み入れたとたん、小山家の少年二人が走り出しそうになり、かおりに止められ口をとがらせている。
「まことに申し訳ありませんが、本日は、限られた時間内での遊覧ですので、ジャングルパーク見物はふつうですと三十分はかかるところを二十分ほどで見ていただきますと、今出発したばかりのトレインが丁度戻って来る時間になりますので好都合かと思います」
世界中の熱帯植物が三千種以上生い茂るジャングルパークは、約一万二千平方メートルの広さの中に、シダやトックリヤシなどが茂り、バナナやパパイヤ、マンゴーなどが実る。
樹木がうっそうと茂る森の中には、ハイビスカス、ブーゲンビリヤ、アンスリュームなどが南の花の美しさを競っていた。
「ピラニアがいたよ」
「アロワナのでっかいのが泳いでいたよ」
小山兄弟が両親に報告している。
「何も見なかったけど、レストランに駆けこんで伊勢エビを食べて来たよ」と、中川部長。
チュチュトレインは二輌の客車で定員六十名。他の乗客と一緒に満員で灯台に向かい、売店前で停車した。
「うわあ、怖い!オレ、やだな」
灯台どころか、少し岩場から下が覗ける位置まで来て、内藤主任がビビッて立ち竦んだ。どうも、高所恐怖症は本物らしい。
崖道は海風が強く、目もくらむような眼下の入江を、遊覧船が白い航跡を引いて戻って行く。
断崖の裾壁に絶え間なく豪快な水しぶきが叩きつけられていて、白泡が渦巻いている。
「あっ!危ない!」
佐々木ニセ夫人が、ふらっと道から外れて崖際に寄り、下を眺めたのを見て、石毛青年が横っとびにとびつき道路側に引き戻すような形で抱いたまま重なって転倒した。
「どうしたんだ、大丈夫か?」
仲間が手を貸して二人を引き起した。
「なにをするのよ!」
ニセ夫人がスカートの汚れを叩きながら柳眉を逆立て、蒼白な顔で石毛を睨んだ。
「なにをって、危ないと思ったから」
「下を眺めただけなのに」
「でも、さっき、バスの中で石廊崎で飛び込むってしゃべってるのを聞いたから」
「こんな高い所から飛び込んだら死んじゃうじゃない。バカね」と、佐々木ニセ夫人。
結局、真相はうやむやの内に終わったが、それ以降、彼女を囲むように人垣が出来て、そのまま灯台に近い展望台に向かった。
白色円形でコンクリート製の石廊崎灯台は、明治四年に建てられたもので、灯台に隣接して測候所がある。
展望台から眺めると、はるか彼方に大島、式根島、新島をはじめ青い海原の上に点在する利島、神津島も快晴の澄んだ空の下に見える。はるか眼下の狭い入江をはさんで、対岸の鷲ヶ岬の懸崖の岩肌の裾に砕け散りしぶく荒波もまた美しい海岸美を演出していた。
「この岩の突端で『恋人ください』と大きな声で叫んで、岩の上の熊野権現さまにお願いしますと、願いが叶うそうです」
かおりが指さした場所は、展望台から遊歩道を下りた最先端だった。
一歩誤まると百五十メートルの断崖をまっ逆さまに海の中。それでも、堅焼せんべいの渋沢、石毛両青年とギャル四人組の後について、なんと高所恐怖症の内藤主任、のろのろと這うように進む。
「恋人をくださーい」と、ギャルが叫び、
「恋人がほしいよーっ」と、青年がわめく。
最後にたどり着いた、といっても先端の岩場からは、かなり手前の安全なところにへばり付いた内藤主任、大声で、
「恋人をくださーい」そして、遠慮がちに叫んだ。
「かおりさんがほしいーい」
遊歩道の途中まで来て、一行に、伊豆七不思議の一つといわれる断崖絶壁に建てられている石室神社を案内していたかおりにも、その声が風に乗って聞こえた。
「ほら、内藤さん。あんなこと言ってるわよ」
陽子が笑いながら告げると、
「人はよさそうなのにね」
かおりはニコニコしている。わるい気はしないらしい。