1、漁船でモテたカメ部長
センチュリー号は白い貴婦人
富(ふ)戸(と)港には確かに最新型の白い船体のクルーザーが休んでいた。海に映えてカッコいい。
船体にはくっきりと片カナでセンチュリー2と船名があり、白い貴婦人というスタイルだ。
ぼらの家から十数分で辿り着いた名取部長以下十二人の面々、早速、港めぐりのチケットを求めに発券場の窓口に行った。
だが十二時後の出航は十三時三十分だという。これだとバスの出発までに戻れない。
「臨時の出航はできませんか?」
「無理です」と、係の女性も困った顔をする。
大の大人が十二人も「船に乗る」という目的をもって港まで来たのに乗れないなどという不当な出来事などあってはならない。
しかも漁港である。船はいくらでもある。
相田氏が早速、近くで網を干している漁業系個人経営者らしき男をつかまえて交渉を始めた。
「一万円で二十分ほど貸してくれないかね」
「何人乗るんだ?」
「十二人だけど……」
「船だけなら今、空(あ)いているけどな」
「船だけありゃ沢山だよ」
「免許はあるのかね?」
「普通免許と珠算の五級が……」
「それで海の上走れっかよ。船舶のだ」
「そんなのないさ」
「なら貸せねえ。無免許になるからな」
「じゃあ、十分でいいから運転してくれないかね。ほんとにその辺りを一まわりすりゃ、みんな気が済むんだ。一万円に千円プラスするから」
「十二人だったねえ」
「そうだ」
「なら、一人千円で一万二千円になるな」
「分かった、それで手を打とう」
と、いう訳で自分だけは無料というケチな了見も見破られ、交渉はまとまった。
「あら、こんなきたない船に乗るの?」
「魚くさいわねえ」
「船底に水が溜まってるわよ」
文句をいいながらもワイワイがやがや、古ぼけた小さな漁船に乗り込む。
潮焼けで真っ黒な漁師のダンナ、さっそうと茶色に染まった手ぬぐいをねじり鉢巻きにして、祭りに着るような法被(はっぴ)を着用。下半身は日本民俗古来の作業衣兼下着でもある褌(ふんどし)姿。しかも手ぬぐい同様じっくりと醤油で煮しめて陰干ししたような濃茶色。肌と同じような色だから遠くから見ると法被の下は、丸はだか
に見える。
「さあ、太平洋に乗り出そうぜ」
中川部長もすっかり海が気に入った。
「あんた方、ちょっと頭を下げてくれねえかね」
エンジンキーを二度三度ひねりながら、漁業経営者が全員に声をかけた。
「頭を? なんで下げるんだ。銃弾でもとんで来るのか?」と、佐山会長が不安気に周囲を見まわした。
「定員オーバーを見つからないためだ」
「定員だって? 定員って何人?」
「四人だから、三倍オーバーってわけなんだがね」
「大丈夫なの?」と、春代ママもビビる。
「こんなに人間は乗せたことねえが、魚ならいっぱい積み込んでるから心配はねえさ」
「私、降ります」と、セイ子チイママ。
立ち上がったときは、すでにボロ船は波除けの堤防をまわって岩壁を離れていた。
いざ海に出てみると、空と海の広さが心を豊かにするのか、全員の表情はなごむ。
もはや、小さなボロ漁船であることなど誰も気にしない。おおらかになったらしい。
クイーンエリザベス号まではいかなくてもそれなりの豪華客船気分は味わえる。
「うわあ、絶景やなあ」と、名取部長。
海育ちで海産物問屋の多田女史も頷ずく。
波おだやかな相模灘の青海原を白い航跡を引いて船は進み、乗客は海上から眺めた松の緑、岩肌を剥き出した断崖絶壁、櫛の歯のように入りくんだ美しい入江を眺めて歓声を上げる。
潮風が海の香りとオゾンをたっぷりと鼻孔に運び、青春の息吹を耳元に吹きつけた。
「海はいいわあ」と、宮崎あすか先生。
「食欲が出るわね」と、多田女史。
今、食事したばかりとは思えない発言だ。
カメ部長は、そそり立つ岩壁に打つ寄せる波しぶきより、収穫に結びつくものに興味があるらしい。
「この辺りで釣れるのは何だね?」
「そうさな、イシダイ・ブダイ・メジナ・大物ではハタかな」
「漁では?」
「アジ・イワシ・カマス・カワハギなどだ」
「儲かるかね?」
「儲かる? 儲けるために漁をするんじゃないからねえ」
「じゃあ、何のためだ?」
「食うためさ。食うだけあれば十分だからね」
「酒は?」
「焼酎ぐらいは飲めらあね」
「女は?」
「女? カミさんがいれば十分だべ」
「それで楽しいのかい?」
「楽しい? 朝起きてお天道(てんとう)さん眺めて、海に出て漁をして、雨が降れば気持ちよく湿って網を繕(つくろ)い。朝晝晩とおマンマにありついて、夜はカカアと仲よくしてガキをつくって、齢取ったらあの世へ行く……。それだけで充分じゃねえのかね?」と不思議な顔をする。
「あら、人生がわずか十三秒に凝縮して説明できるなんて哲学者みたいでステキだわ」
カメ部長と漁師の会話を耳にした宮崎先生が、なにが気に入ったのかエラく感動している。メガネが飛沫(しぶき)で曇っていた。
大自然の中にいると、人は誰でも情感が高まり、詩人になったり、夢想家になったり、哲学者になったりする。
さしずめ、この漁師どのが哲学者なら、カメ部長も哲学者の卵の殻ぐらいにはなれる。
と、いうのは、彼の呟きが物語っている。
「そうか。別荘行きも喧嘩(でいり)もなくて海で暮らして死ぬのも悪くないな」 かなり真剣だ。
「ほら、見なせえ。あの岬がゴズリという名前で、その先の岬をまわるとつり橋があるから、それを見て戻ることにするべ」と、哲学者。
「あの上に遊歩道があるのね」
紅女史も徐々にロマンチックな気分に浸って来たらしく、チラチラとカメ部長の顔を見る。ここにいる男性の中では一応、イイ男は彼だけだ。若い頃の高倉健に似ている。
紅女史が続ける。時々、地がでる。
「好きな人と小鳥でも聴きながらデートすんのも悪くねえすな」
「そうか、今度、一緒に行こうか?」
相田課長が一応義理で顔を立てる。
「好きな人と一緒、といったでねぇすか」
「だから、その好きな人がいない場合だ」
「もう。いるだよ」
「へぇー?」と、多田女史まで目を丸くする。
そのとき、突風が来た。
それまでは、荒いといっても伊豆の海、大船に乗った気で安心していたが、小舟でギュウギュウ詰めだった。いきなり大揺れになったからさあ大変。木の葉どころか太平洋上にゴミが漂うようなもの、舟が傾き、波が人間を濡らす。漁船が大きくゆらいだ。
「キャア、こわい!」
一斉に女性人六人の内五人がカメ部長に抱きついたが、とくに腕力に秀でた多田女史が、他の追随を許さずカメ部長の首にしがみつく。
いや、しがみついたつもりが競争意識で力が入ったから首を締める。
柔道三段のカメ部長が柔道初段の多田女史に押さえ込まれたのだ。他の女性は、倒れたカメ部長の手足といわずどこでもしがみつく。
「く、くるしい!」 カメ部長が喚く。
あわてたのは、クジ運が悪かっただけという認識の売れ残り男性陣、とっさに残った女性一人に目をつけ、一人を除いてにじり寄る。
カメ部長に殺到したのは、春代ママ、セイ子チイママ、紅・多田女史。宮崎あすか先生までも足にしがみついている。
残った女性は片岡美佐、泰然としている。
動かぬ男性一人は加藤教頭、さすがだ。
美佐は一瞬、判断に迷った。
とっさに頭をよぎったのはプライドである。自分のポリシーに反した生き方に対する自戒の念だった。どうみてもここにはリッチマンはいない。イイ男だけでは規格外なのだ。ましてや自分から抱きつくなんて品がない。
加藤教頭は単純明快、腰が抜けていた。
獲物を狙うハイエナのように男達が美佐にとびつこうとしたとき、哲学者が叫んだ。
「舟が片寄っちゃうから、そこの男衆はこっち側に並んでくれっ!」
巧みに舳先(へさき)を沖に向け、エンジンを止めた。沖からの突風は止んだが波に備えたのだ。
あわてて女性陣もカメ部長から離れようとした。すると哲学者が再び怒鳴った。
「しばらく動かないでくれっ!」
カメ部長は目を閉じていた。
目を開けても蒼く澄んだ初秋の空が眺められる訳ではない。おおい被(かぶ)さっている多田女史の造作の大きい顔が迫っているだけだ。
どさくさに紛れて妙なところまで触られたらしい。犯人は不明で迷宮入り。それはいい。しかし、その後遺症でカメ部長、妙な気分になりかかった。これは困る。
そこへ一波、大きい洗礼があって正気に戻り、風も波も凪いだ。カメ部長が解放された。
「もう帰ろう」と、相田氏。げっそりしている。
「だめだ。橋までの約束だ」と、哲学者。
蒼い顔の男性陣を尻目に船は岬をまわる。
美しい景色に女性陣は歓声を上げ大喜び。橋の下でウクレレを見つけて拾い、帰路についた。
2、溺れたのに楽しい福原先生
波荒くとも水中風景美しい
突風が来たとき、海水浴客の一部が海に出て泳いでいた。ツアー組も数名海にいた。
タケ課長補佐に誘われ、子供連れ家族から借りたビニール製のセーラームーンの絵がプリントされた大型丸浮き輪につかまった坂本・福原・赤木の三先生が海に出ている。
マサとサダの両係長もエスコート役として参加したが、泳ぎはあまり得手ではないようで三先生に密着して浮き輪につかまっていた。
「ビーチバレーやろうや」
安物のビニールボールを見つけたヤマカンの声で、海の家とぼらの家の間の広場でトスが始まり、内藤主任ら七人が熱中し始めた。
そこへ突風が砂をまき上げ遊びは中断した。
海も荒れ、浮き輪を押し上げ、つかまっていた人を振り払ったから、海中に放り出された男女は泳ぐしかない。
プールでは相当泳ぎが達者な人でも荒れた海では勝手が違って身体は浮くが呼吸が自由にならない。いきなり海水が口や鼻に不法侵入する。塩分の取り過ぎは健康によくない。
岸から近い人は、岩に打ちつけられて膝や腕を擦り剥き血を出してはいるが無事だった。
五十メートル沖は、かなり波が荒れている。
平常なら少し泳げればすぐ戻れる距離だ。
「大変よっ!海の上で溺れている人がいるわよっ。あなたたちの仲間じゃないかしら?」
トスバレーを中断して、風の止むのを待っていたツアーメンバーに、浜にいて浮き輪を強引に貸し出させられた家族が注進に来た。
あわてて岩の多い浜辺に走って見ると、人だかりがしている。浮き輪が波間に消えた。
観光客が海を眺めている。観光に来たから海を見る。見るだけだ。
「ほら、あの人相の悪い男が、女を一人抱えこんだが、見えなくなったぞ」
「おっ、女が男にしがみついた」
「いや、あれは男が溺れてるんだ」
「早くしないと大変だ。警察はどうした」
「船は出ないのか」
「誰か救けに行かないのか?」
「がんばれ! もう一息だっ」
「すぐ救助に行くぞ!」と、口だけで励ます。
この騒ぎは、ぼらの家にも伝わった。すぐ一一〇番で警察にも通報され、船があればすぐ助けられるから快速船を保有する遊覧船の事務所にも救助を依頼した。
最悪の事態も予測される。
気がきく店員が一人いて、
「蓮(れん)着寺(ちゃくじ)のお坊さんも呼びますか?」
と、店長に聞き、叱られている。
広場横にある駐車場のバスの中で浜田はイスにもたれて熟睡中だ。かおりは、乱雑に散らかった車内のゴミなどを捨て、いつでも出発出来るように準備を整えて、車内テレビを眺めていた。
そこに、バレーを中断して駆け付けたエミリーが異変を知らせ、かおりも浜に走った。
浜田が大きくあくびをした。
彼は、着ていた白のオープンシャツ、ランニング、靴下、ズボンと脱ぎ、紺に白い縞の入ったトランクス一枚になると、ズボンからベルトを抜き腰にまいた。たくましい肉体だ。
「ヒモがいるかな……」と、一人言。
お客さんの手荷物を梱包するポリプロピレンの細いヒモの丸玉があるのを思い出した。ゴソゴソとあちこち探し、小物ボックスからとり出すと、無頓着にコンビニの小さなポリ袋にそのPPヒモの玉をいれ、水が入らないように口を結びベルトに挟みこんだ。
車内テレビからニュースが流れて、各地の天気なども放送している。
テレビのスイッチを切り、外を眺めた。
彼は、海の家の前あたりの騒いでいる人達に気付かれないように、駐車場のはずれの森かげから海に近づいた。死角になっている岩がある。
エミリーが来てから二分も経過していない。
「久しぶりに海水浴か」 胸に水をかける。
浜田は、岩陰からそっと様子を見た。
波間に何人かの頭や手が見えた。
距離は約六〇。充分潜って行ける。
波が大きく押し寄せた瞬間、彼の姿は消えた。帰りも潜って来るつもりらしい。
海の底にはゆらゆらと海草がゆらめき、岩の間には鮮紅色と青で飾ったベラが泳いでいる。アジが浜田の姿を見てあわてて逃げた。
アジの塩焼きでビール、と思っているうちに、目の前に白い大股に水玉もようの水着のくい込みが現れた。いい眺めだ。
見まわすと大根よりカッコいい足が六本もあってもがいている。きたない足も六本ある。
六人分の足が輪になっているところを見ると、一応全員、浮き輪につかまっている様子だった。大きな浮き輪だからそれが出来る。
浜田は驚かさないように静かに浮いた。
それも、足は汚ないが何とか立ち泳ぎをしている男を見つけたから、その男の横に出た。
波にゆられて浮き輪がシーソーのように上下し、男女の六人が必死で掴まっている。
「なんだ? 運転手、こんなところで何してる?」 タケ課長補佐が不思議そうに浜田を見た。
「助けてぇ」
赤木ひとみ先生が泣き声を出している。
「まだ死ぬのはイヤよう」と、坂本なつえ先生。
福原みずえ先生は、すでに観念したのか目を閉じている。誰も浜田に気付く余裕などない。
サダ、マサ両係長は、蒼い顔でゲーゲーのどを鳴らしている。よほど水を飲んだらしい。
タケ課長補佐が一人で浮き輪まで全員を助けたのか。一目で頼りになるのはタケ課長補佐だけと判断したから、腰からPPヒモを取り出して小声で、
「いいネ。このヒモの束の入ったビニール袋を腰に結び、泳いで帰って波に乗せて引っぱればいい。数人で引けばすぐ全員が助かる。絶対に溺れかかったなんて言わないことだよ。
野次馬が騒いでも知らばっくれて、楽しく泳いでいたことにするんだ。
この端っこを浮き輪に結ぶからな。
それと、私のことは絶対他言無用だよ。ここだけの秘密だ。いいね」 浜田が念を押す。
自分が誘って起きた災難でどうすべきか悩んでいたタケ課長補佐にとって地獄に仏だ。
「泳ぎは楽しいな」と、無理に強制する。
浜田は、他の五人に気付かれないように潜りながらPPヒモの端を浮き輪に二重に縛りつけた。
タケ課長補佐はビニール袋を海パンの細いヒモに結わえ、泳ぐと袋の中の丸玉からPPヒモがするすると伸びるように準備して、右手の母指と人さし指で丸輪をつくり、水中に潜って浜田の顔の前に突き出すと、そのまま水を蹴って岸に向かった。
カエルもたまげる自己流ブレストで波に乗って行く。どうやら岸に着いたようだ。
PPヒモが引かれたのか、浮き輪に掴まった男女の足が斜めから水平になり、バタ足になった。これで全員助かる。
浜田は安心したように海中に潜った。
綱引きの要領でPPヒモを引くから手伝った人の手はヒモが食い込みまっ赤になる。
しかし、救出した人がバカバカしくなった。
全員が楽しく遊んでいたといい張るからだ。
「楽しかったわね」と、福原先生が笑顔で赤木先生に語りかけたが、顔は引きつっている。
「本当は溺れかかったんじゃないの?」
と、内藤主任が疑わしいという顔で聞く。
「さ、早く着替えてバスに乗ってください」
と、かおりが追い立て、全員姿を消した。
漁港の方角から白い船体が接近し、岸から沖合いをうろうろしたが、通報の浮き輪と六人の遭難者の姿も見えないことから、たちまち快速で港の方に去った。加藤教頭らが来た。
「なんだ。センチュリー二世号が、こんなところまで遊びに来ていたのか?」
船遊びから帰ったメンバーの数人が岩場で口惜しそうに白い船影を見送った。
パトカーが一台、サイレンを鳴らして駐車場に入り、警官が二人、足音高く駆けて来る。
思わずカメ部長が身構え、懐中を探るが短刀(どす)も拳銃(はじき)も三ヶ月前から持ち歩いていない。
「どうなりました?」と、若い警官が聞く。
「通報があったんだが?」と、年長の警官。
「たかが定員をオーバーしただけだよ」
と、カメ部長。逮捕されるのは嫌だからジリジリと下がるが、岩の背後に波がしぶいている。それ以上は下がれない。
年長の警官が、若い警官に聞いている。
「なにか新しい条例でも出来たのか?」
若い警官も、ビニール製の浮き輪に定員制ができたなどとは聞いたことも書面で知らされた記憶がないから返事に困った。
「いや、ちょっと定員制については不勉強で申し訳ありません」
「よしっ。帰ったら調べておけ。それで、海に出ていた人は、全員陸(おか)にあがったのかね」
「ええ、少し濡れましたが」と、チイママ。
「海に入れば濡れて当然だよ」
年長の警官がからかわれていると思ったのか少々ムッとした口調になる。
「とりあえず、申し訳なかったです。以後、定員オーバーには気をつけますので、お引き取りください」と、加藤教頭が頭を下げる。
「あなたの職業は?」
「中学校の教頭をしています」
これで二人の警官の態度が一変した。
「その定員というのは誰に聞きました?」
「持ち主の漁師から直接聞きました。定員は四人だそうです。われわれが無理をいって借りたんですから、どうか漁師は見逃してやってください。それに無事だったんですし」
これで話は着いた。教育者はやはり金融業者より説得力がある。
警官二人、パトカーに戻る。
「大型の浮き輪が定員四人にきまったんだとすると、子供用のに大人がつかまったり、一人用の浮き輪をペアで用いたりすると逮捕ですかね? でも、何で漁師が浮き輪を?」
なにか釈然としない様子だった。
3、ミカ、三宅先生の求婚に怒る
伊豆高原教会はロールスロイス
「みなさま、伊豆高原の旅はいかがですか。
伊豆高原といいますのは一碧湖周辺から大室高原、城ケ崎海岸、そして、これから訪れる天城高原などの広い範囲をいいます。
伊豆高原には、日本庭園のある和菓子の店、南フランス産の無農薬ハーブティーの店、果実のソースやケーキなどグルメファンの喜ぶお店も沢山ございます。
また、先ほどピクニカルコースを歩かれた方もいらっしゃるそうですが、あの先には伊豆海洋公園がございまして、バーベキューガーデンや展望用のテラス、一年を通じて花を絶やさない花壇なども評判を呼んでいます。
さらに、ここはスキューバダイビングでもかなり有名なところでございます。」
車は再び国道一三五号線に向かう。
「これから国道に出まして左折し、海岸線を河津に向かいます。
先ほど一碧湖から池田二十世紀美術館を経て遠笠山道路から国道に出たところに伊豆ぐらんぱる公園がございましたですね。
お時間の都合でお立ち寄り出来ませんでしたが、こちらも設備の整ったなかなかのスポーツタイプのレジャーランドです。
パターゴルフは、イースト、サウス両コース合わせて45ホール。バドミントンのシャトルとゴルフを合体させたようなターゲットパードゴルフ。スリル満点な本格的アスレチックコースは43ポイントの障害が待ち構えています。
青、赤、黄のゴーカートでソテツに囲まれたコースを走るのも快適ですし、さらに汗をかくには変形サイクルもあります。足で踏むと、ピョコタンピョコタンとホップする車もあり、二輪、三輪、四輪と揃っています。
トランポリンや芝ソリなどもあり、一日中遊べるファミリーパークとして知られています。」
「再び国道に戻りました。左折いたします。
国道右手奥に伊豆高原教会がございます。
こちらでは、ロールスロイスに新郎新婦を乗せて、高原をドライブし、挙式後のムードアップに協力するシステムもあり、評判になっています。旅の途中で式をあげる人もいるそうです。
皆様の中で、この教会で結婚式を挙げたいと思われる方はいらっしゃいますか?」
「ハイッ!」と、一斉に手が挙がる。
やはり独身者の多いツアーだった。
まず、三宅先生が口火を切る。
「今日、私は門脇海岸の半四郎落しで生命(いのち)を落とすところを菅原ミカさんに助けられました。しかも、私の身代わりになって海に落ちたウクレレも救われて手許に戻りました。
人生最良の日です。みなさんのお陰です。
この記念すべき日に、このすばらしい伊豆の地でこのようなすてきな教会に出会えたのも運命的なものだと感じとりました。
菅原ミカさん。私と結婚してください。
この教会でぜひ式を挙げましょう」
そして、ポロロンとウクレレを鳴らすが、海水にたっぷり浸ったウクレレ、情ない音色で迫力がない。
「あら、私もお救けしたのに……」
と、敦子がいうと、三宅先生、
「でも、浅田さんは美人だから競争が烈しいかと思って……」
「えっ!」と、ミカが目を剥いた。みるみる眉が釣り上がる。美人度はさほど変わらない。
「じゃあ、三宅さんは、私が美人じゃないから競争相手なしで落札できるって、そう考えたんですか?」
「いや、そんなわけじゃ……」
「じゃ、どんなわけ。運転手さん! もう一度城ケ崎に戻ってください。この人、あの吊橋から叩き落とします」
「まあまあ、そう興奮しないで」
と、加藤教頭がなだめながら立ち上げる。
「この方が、海で溺れ死ぬ前に救いの手をさしのべるという奇特で物好きなお方は……」
車内を見渡し、加藤教頭の視線がピタッと多田女史で止まった。視線が合ったのだ。
多田女史が怒るかと思ったら、加藤教頭の顔を見てニコッと微笑み、スックと立ち上がった。
「いいです。弱きを助けるは女(おんな)伊達(だて)の心意気、三宅先生は私がお引き受けします。みなさま、ご異存はありませんか。よろしうございますか。いいですネッ!」
語尾の「ネッ」が決定打になった。
盛大な拍手と歓声が車内にまき起こり、三宅先生の「そんなっ」とか、「ボクにも人権が」とかの必死の抵抗の空しく、政治家が羨むような超党派による全員一致、白票なしの票決により、お二人の挙式がきまった。
「運転手さん。その先を右に曲がってください。すぐ先に教会があります」
敦子の誘導で国道を右折すると、すぐ右側に、八角形のトンガリ屋根の上に白い十字架が空に向かってそびえ、その下に時計台を乗せた白亜の教会が姿を現わした。きれいに整備された庭に、これも八角形の池があり、噴水が、緑いっぱいの景色の中でさわやかにほとばしっていた。
「それでは私が交渉してまいります」
バスの中がシーンと静まった。冗談だとばかり思っていた一同、言葉もない。
三宅先生は当然として、さすがの多田女史も、呆気にとられて敦子がさっそうと庭に敷かれた石畳を踏んで館内に入って行くのを見送った。
玄関を入ると、魅力的な若い娘が二人、さわやかな笑顔で出迎えた。
「お申し込みでいらっしゃいますか?」
「いえ、以前からこちらに興味がありまして、今日近くまで来たのでお寄りしました。ちょっと中を見せて頂いてよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
敦子は、チャペルに入ると厳粛な気持ちになり身が引き締まる思いがした。ウエディングドレスに身を包み、きりっとしたタキシード姿の新郎とリングを交換した後、キスを交わす。ジーンとハートが熱くなる。恥じらいで相手の目を見つめることも出来ない敦子……。
「いつ頃のご予定でいらっしゃいますか?」
ハッとして正気に戻る。夢見る乙女を演じている場合ではない。それに、予定もない、相手もいない。ここが見たかっただけだ。
「改めて申し込みさせていただきます」
パンフレットを数部貰うと、あわててバスに戻り、発車を促した。
「お待たせいたしました。残念ながら本日は、予約がいっぱいで急の挙式は間に合いません。
パンフレットをいただいて参りましたので、お二人でよくご検討ください」
「よかった。どうなるかと思ったよ」
口とは裏腹に三宅先生、残念そうなところを見ると、ひょっとして、このまま衝動的に挙式をしてもよかった、と思っているのか。
多田女史は明らかに口惜しがっている。
「石沢さん。席替っていただけます?」
多田女史がふり向き、石沢春代ママに声をかけた。その手に教会のパンフレットが握られている。
春代ママも、三宅先生よりは相田氏の方が常連客になる確率が高いと踏んだのと、窓側の座席だから喜んで提案を受け入れ、そそくさと席を替った。三宅先生が困った顔をした。
「どうぞ、どうぞ」
相田氏も相好を崩している。
それを切っかけとして一部の乗客が席替を狙うが思い通りになる訳でもない。モテない男があぶり出されるという残酷な結果も予測される。
従って、無闇に動けない。女性陣のガードも堅そうだった。例外は一リュウクラブの面々、こちらだけはレースが懸かっている。
目的がはっきりしているから積極的だ。
半田みち子と須田ユキ子、セイ子チイママとエミリーがそれぞれ作戦会議に入った。
「学校の先生よりは金融会社がいいわよ」
「じゃあ、おせんべ屋さんは?」
「お金を扱う会社の方が上でしょ」
若いから選択を誤まることもある。
ミッちゃんが、ヤマカン次長に頭を下げる。
「すみませんが、席替わっていただけます」
「ああ、いいよ。それでオレはどこへ?」
「私のいた席にお願いします」
ミッちゃんがサダ係長の隣りに、ヤマカン次長はユキちゃんの隣りに移動した。
都一金融が一番貧しいことに気付いていない。
セイ子チイママはさすがに経験が豊富だ。教育者が狂えば夢中になってバー通いをすることも知っているから、エミリーに佐山会長を任せて、加藤教頭の隣りに移動した。これも相手の大感激を誘った。
加藤教頭にとっては夢のような出来事らしく、さり気なく耳に爪を立ててみて、痛いから顔をしかめた。その表情をみたチイママ、
「ご迷惑でしたかしら……」と腰を浮かす。
「と、とんでもない。いつまでもどうぞ!」
周囲がそんな状況だから堅焼せんべい組があせった。視線が落ちつかない。
まず、石毛青年が当り障りのないようにさり気なく前の席のギャル組を意識して、
「ボクの隣りに来たい人いるかなあ」
その隣りの内藤主任は図々しく、
「石毛がいなくなって、カオリさんがここに来てくれたら最高だけどなあ」
そのような寝言たわ言は誰も聞いていないが、それでも、そろそろ席替えの頃合いだったから、かおりと相談して敦子がマイクを握った。
「伊豆高原を過ぎますと、お車は再び海沿いを走ります。相模灘を眺める旅もあと一時間少々で河津浜に到着し、そこから天城路に入ります。それまでの間、お仲間の話し合いで座席を譲り合ってみてはいかがでしょうか」
火に油を注ぐとはこのことだった。
チャンスを狙いながらも、いい出せなかった細田久美江が立ち上がった。中川部長の隣りで麻雀のレクチャーを受けたりしているのに飽き飽きしていたところだったから、勢いがいい。
「どなたか、海側の方替わってくださーい」
早いもの勝ちだ。久美江と一緒なら相手にとって不足ない。そう思ったカズがパッと反応して手を挙げる。久美江と視線が合った。
「ここだ。ここへ来て……」
ニコニコしながら久美江が来た。
「さあ、どうぞ。中へ入って……」
と、とりあえずカズが通路に立ち席を譲り、自分は、通路側のゴンの肩を叩く。ゴンを追い出して自分が久美江と仲よくする予定だ。
ゴンが首を上げてカズを見上げた。
「なんだ兄貴、まだいたの?」
ゴンの左手はすでに久美江の右手と重なっている。すでにカズの存在は無視されていた。
「年下の男の人って可愛いのよ」
久美江が楽しそうにゴンに話しかけた。
福原みずえ先生がタケ課長補佐に救けられた事で好意を抱いたらしく、カメ部長を追い出し、タケ課長補佐の隣に座った。カメ部長は立つ。
その間に、赤木ひとみ先生の隣りの座席には、素早くメッセンジャーを務めたマサ係長が移動したから空いたのはヤス主任の隣りの席。ヤス主任も不愉快そうに移り行く窓の外の海景色を眺めている。カメ部長も面白くない。
カズは、もっと気の毒だった。
細田久美江の空いた席に座って中川部長と話始めたが、会話はすれ違っている。
「銀行でもない、信用金庫でもないとすると、君の勤めている会社の形態は、信用組合という組織になっているのかね?」
「さあ、信用はあるかないか知らんですが、組合じゃなくて、組の組織だと思いやすよ」
「組?」
中川部長がけげんな顔でカズを見た。
4、混浴気になる内藤主任
アメリカ見える北川の野天風呂
「お席も落ち着いたようでございますね」
と、かおりが車内を見渡し海側を眺めた。
「左手の海上をごらんください。
伊豆の大島がま近に見えます。
伊豆七島では最も大きな島で、南北十五・五キロ、東西八・五キロと南北に二倍ほどの細長い島でございます。面積は約百九十平方キロメートル。噴火が収まってもあのように白い煙が立ち昇っております。
島はおだやかで一年を通じて気候も温暖。観光客の絶えることがありません。
この島の名物はツバキの花です。ツバキ油やツバキ染めによるハンカチやネクタイなども名産になっております。もちろん、海の幸も豊富でございます」
「大島紬(つむぎ)も有名よね」と、多田女史。奄(あま)美(み)大島の名産を持ち出し、恥をかいた。
松の木や潅木が邪魔して崖下が見にくい。
「国道左側の海をごらんください。今、通り過ぎたときの岩の形にお気付きでしょうか?
ライオンが大きな口を開いて吠えているような姿の岩がありましたが、これが大川海岸名物のライオン岩でございます。
海上から見ると、たてがみも立派なライオンの雄そっくりに見えるそうです。
こちらは、昭和三十年に温泉が発掘されて出来た東伊豆町では一番新しいといわれる温泉で、神経痛や胃腸病・リュウマチ・切り傷などに効く石膏(せっこう)食塩(しょくえん)泉(せん)の大川温泉街です。
なお、この温泉はヒステリーにも効くそうでございます」
視線が、多田麻紀子に集まった。
それに気付いて彼女が顔を上げた。
心なしか上気している。
「ガイドさん!」
「ハイ」
「カオリさんじゃなくて、浅田さん!」
「なにかご用でしょうか?」と、敦子。
「さっきの教会のことで聞きますが……」
「ハイ。何でしょう」
「列席の人は何人ぐらいまで入れますか。パンフには書いてないんですが」
「四十人ぐらいまでのようでした」
「どれがいいでしょうかね。このパッケージプランの中で」と、多田女史が迷っている。
「どんなセットがあるんですか?」
と、エミリーが聞いた。関心があるらしい。
「いくらぐらいかかるの?」
と、ミッちゃん。目が輝いている。
「ドレスは借りられるの?」
と、ユキちゃん。予算が心配らしい。
「サンライズウエディングという朝の挙式だと十万円。ムーンライトウエディングという夜の挙式だと十一万円になるの。それと全セット三十一万円とか四十五万円とかのセットプランもあるわ。これだと、ドレス・タキシード・ホテルの宿泊・ビデオ・写真からブーケ・ケーキ・ロールスロイスによる送り、結婚証明書などあらゆる
サービスが入って迎えるんですよ」と、多田女史がパンフレットを見ながらニコやかに説明し、
「私たち今、予算を考えてるの」
と、三宅先生の顔を見るが、三宅先生は明らかに困惑している。
「三宅君は、その気がないんじゃないかね」
と、加藤教頭が助け舟を出した。
多田女史の顔がみるみる赤くなってゆく。
「二人の仲を裂くおつもりですかっ。たしかに、私の方が年齢も上ですけど、この人にふさわしいのは優しくて、料理が上手で、気が利く女性なんです。私以上の相手なんか絶対にいるわけありませんっ」
と、ヒステリックにすごい剣幕。三宅先生の顔色が蒼くなった。多田女史、焦っている。
雰囲気を変えるに限る。かおりはマイクを握り外の景色に視線を移した。
「大川温泉は東伊豆温泉郷のトップバッターの位置にあり、ここから南に北川(ほっかわ)、熱(あた)川(がわ)、片瀬(かたせ)、白田(しらだ)、稲(いな)取(とり)と温泉が続きます。
大川の旅館は規模も小さく家族的でして、みかん畑に包まれた温泉街で、竹が沢公園、三島神社などがありますが、大川温泉の名物はなんといいましても海岸の波打ち際から一段高いところにある露天風呂でございます」
「あ、オレ、露天風呂好きだ。それ混浴?」
例によって内藤主任が敏感に反応する。
「残念ですが男女別々になっております」
「なーんだ、オレ、やっぱり嫌だ」
「続いて、通ります北川温泉には一年を通じて入ることのできる海辺の黒根岩(くろねいわ)風呂(ぶろ)が露天にございます。
なにしろ源泉の温度が一〇六度。それを調整して六十度で流出しますので冬でも潮の香に包まれてのんびり打ち寄せる波を楽しみながらアメリカ大陸を眺めて……」
「アメリカ? 大島の間違いでしょ?」
「でも、アメリカを見ながら入れる露天風呂、というのが北川温泉の宣伝文句なのです」「地球は円いんですから、水平線が……」
宮崎あすか先生一人が納得いかないらしい。
石毛青年が内藤主任に代わって貭向する。
「誰でも入れるの?」
「北川温泉にお泊りの方は無料で、一般の方は六百円でお入りになれます」
「混浴?」と、遠慮がちにたたみかける。
「混浴ですが、朝一回、夜二回だけ女性専用タイムがございます。その他は混浴です」
「水着着用ですよね?」と、あきらめ声。
「いえ、水着はダメです。お風呂ですから」
「えっ? 嬉しい! 内藤先輩、聞いたっ?」
「よしっ、今度、絶対ここに来ようぜ」
「でも、みなさま大き目のバスタオルをご用意されているようです」
「そんなの禁止する条例はないの?」
「ありません」
これで、北川温泉は客を三人ほど失った。
しかし、アメリカ眺めては世紀の傑作だ。
「北川温泉のお宿で食卓に出る海の幸は、昔からの大謀(だいぼう)網という漁法で水揚げした新鮮なお魚で、とくに冬のブリ鍋は東伊豆を代表する磯料理と知られ、食通の間で評判でございます」
「二学期が終ったら、ぜひ、みんなで来ましょう」と、坂本なつえ先生が同僚を誘っている。
ここで、四人ほど泊まり客が増え、差し引き一名はプラスになり観光協会の顔が立つ。
北川トンネルを抜けると磯釣りに最適の岩場が続き、穴(あな)切(きり)湾に漁船が戻りつつある。
「山側の急斜面にデラックスなホテルが立ち並ぶここ熱川温泉は、豊富なお湯で知られ、町のあちこちに源泉の櫓(やぐら)が立ち並び、白い湯けむりを吹き上げているのが見られます。そのお湯は十メートル以上の高さに吹き上げられ、観光客の目を見晴らせますが、お湯が豊富すぎて余りますので川に流れます。
そのため、川が熱くなって熱川の名が付いたともいわれます。
温泉街の中心近くに、お湯かけ弁財天、または、銭洗い弁財天、と呼ばれる名所があります。源泉の櫓の横にあり、そのあたりのお湯は一段と豊富です。
どんなことでも願いごとを真剣に唱えながら、備え付けのひしゃくで石の弁天さまにお湯をかけますと、願いが叶うそうです。
そのお隣りの宝(たから)池(いけ)という池で、備え付けてあるザルにお金を入れて洗いますと、お金持ちになれるそうですので、こちらも人気があります」
「そこへ寄ろうよ」と、貧しい石毛青年。
「残念ですが、今通過した熱川温泉入口の交差点を海側に、JR線の踏み切りを越えた先にあるのですが、お車はすでに本日の最終休憩地として予定に入っている熱川バナナ・ワニ園に到着します。
熱川バナナ・ワニ園に到着しました。こちらは、植物園、ワニ園、熱帯果実園の三つに分かれていて、全部を見学しますと約一時間のコースになりますが、お時間の都合で四十分にさせていただきますのでご了承ください。
お早めに宿に着き、まだ明るい時間に七(なな)滝(だる)めぐりをお楽しみ頂きたいと存じます」
国道左側にあるバナナ・ワニ園は熱川駅から徒歩二分。文部省指定の博物館相当施設となっているから教育関係者は見逃せない。
「希望者を誘って、お湯かけ弁天に行って来てもいい?」石毛青年が敦子に聞く。
「ここで自由行動は困ります。宿に着くまでは統一行動をとっていただきませんと、万ケ一のときにみなさんに迷惑がかかります」
「残念だなあ」
熱帯植物やワニよりは、願いが叶って幸せになってお金持ちになれる道を選びたかった石毛青年もシブシブとバナナ・ワニ園に入った。
池いっぱいにスイレンの咲くドームもある。大輪の花は色とりどり、ピンク・紫・オレンジ・白と華やかで鮮やかだった。
熱帯植物園にはマンゴー・バナナ・パパイヤなどがたわわに果実を実らせていた。まっ赤なアンスリュームが目立つ。
「ワニ園も覗いて行こう」
と、福原みずえ先生が声をかけると、四十分という時間内で植物園を散策しようとしていた全員の足が速まった。
「ここには、世界中のワニ二十七種類が集められ、その総数は三百五十頭以上もいて、クロコダイル、ガビアル、アリゲータ科に分かれています」、敦子の説明など誰も聞かない。
池を渡る橋の金網張りの欄干につかまって大騒ぎだ。体長約五メートルのワニもいる。
「ほら、あのワニがいいわね」
紅女史が春代ママに同意を求めている。
「そうね。でも、その手前の方が皮のもようが細かくて私は好きだわ」
ハンドバックの品定めらしい。
「ワニ皮の財布が欲しいな」と、石毛青年。
「中味はあるのか?」
黒川主任の一声で石毛青年は沈黙した。
5、浜田の年齢、本当は?
ご神体抱く稲取のどんつく祭り
「いかがでしたか、バナナ・ワニ園でお土産をお求めになった方もいらっしゃいましたね」
かおりが声をかけると、ヒロ子が小さなワニのぬいぐるみを片手で高く掲げた。
すると、つぎつぎにキーホルダー・写真用フレーム・クリップ・まっ赤な布地にグリーンのワニが大きく口を開けた図柄を描いたバッグ・タオル・クッキーなど女性でなにも買わない人がいない。福原先生がオルゴールを鳴らしている。ワニがクルクルまわった。
「あきれたな……」
そういうヤス主任も、ワニのマークの入ったTシャツに着替えている。
「室町時代に、太田道潅が伊豆方面で狩りをした帰り路にお湯の湧くのを見つけ湯治場(とうじば)にしたという熱川温泉は、昭和三十六年頃までは小さな旅館が五、六軒あるだけのひなびた湯の宿そのままだったそうです。
この太田道潅の狩り装束に扮した人が火矢を放ち、海上に大の字の火を燃え上がらせてスタートする七月二十二、二十三日の海上花火大会もここ熱川の名物になっています。
とくに圧巻なのは幅三百メートルにおよぶナイヤガラの滝、これでお祭りの夜はクライマックスを迎えます。
熱川といいますと海岸線は岩場の多いことで知られますが、温泉街のすぐ下に人工的に造られた、きれいな砂浜がありまして、ここが意外な海水浴の穴場になっております。
そのすぐ脇にある海水のシーサイドプールも入場料三百円で手軽に楽しめます。
さて、お車は片瀬(かたせ)海岸を左に見て片瀬温泉の閑静なたたずまいを眺めながら白(しら)田(だ)川を渡りますと、こちらも静かで素朴な出で湯の町白田温泉でございます。
片瀬、白田と二つの温泉を合わせても旅館とホテルは全部で二十軒弱という小さな温泉場だけでお客様へのサービスは至れり尽くせりとの評判もありますし、何よりも旅館がすべて海に面しているのも魅力でございます。
温泉はどちらも芒硝塩(ぼうしょうえん)を含んだ単純温泉で、胃腸病・リュウマチ・神経痛・ひふ病などに効果があります。
片瀬温泉の西側に龍(りゅう)渕院(えんいん)というお寺がありまして、江戸時代の話ですがこのお寺に放火をした犯人が縛られて火あぶりの刑に処された松の古木が、温泉街の南の海岸にございます。
この犯人は、自分の恋心が叶わず戸籍を焼こうとして戸籍簿のあるお寺に放火したそうで、その事件以来、この松を〝はりつけの松〟と呼ぶようになったといわれております」車は早くも稲取温泉を通過している。
「伊豆の東海岸のなかで大きく岬の突き出した稲取岬、この岬に面して三十軒あまりのホテル・旅館があります。新鮮な磯料理がご自慢なのは伊豆の海辺の宿すべてに共通ですが、ここ稲取温泉にはもう一つの特長があります。
それは、芸妓さんの情が深い、という評判です」かおりの声を中川部長がさえぎる。
「ここへ来ればよかったなあ」
「今からでも間に合うかね」と、相田課長
「ここで降りれば……」と、名取所長。
「会費は返却いたしません」
敦子があきれ顔で宣言する。財政問題を持ち出され男達の野望は簡単に粉砕された。
「稲取温泉は、八十度の源泉で、石膏と芒硝塩を主成分とし、リューマチ・神経痛・皮膚病・胃腸病などに効きますが、温泉としての歴史は浅く、昭和三十一年に発掘して湧き出してからわずかの期間に熱川と肩を並べる賑わいになったのでございます。
半島のように突き出た岬の手前にある稲取の漁港は、一年を通じて魚に恵まれ、特にキンメダイでは日本一の漁獲量を誇っております。
こちらの港では例年十一月の上旬に御石曳(みいしひき)まつりという、江戸城改築のために石垣用の石を切り出した故事を再現したお祭りが行なわれます。
掛け声も勇ましく十五トンもある巨大な石を百人以上の人が枕木を敷きつめた上を四本の太い綱で引くという豪快なイベントが評判で、街を練り歩く装束の姿も見ものでございます。
江戸城の石垣用に切り出して運び損ねた大石でして、赤い布地に包まれ紅白の綱で縛られてゴロゴロと枕木の上を進むと、多勢の観光客からヤンヤの喝采があり、石の上に腰かけたハッピ姿の若い衆に声援を送って、お祭りムードは最高潮に達します。
稲取は、海辺に沿って稲取漁港、東海汽船の発着場の棧橋、稲取灯台、竜宮崎、稲取海岸と続き、磯伝いの岸壁近くにどんつく神社という変わった名前の神社があります。
この神社で毎年六月に行われる稲取名物どんつく祭りは夫婦和合、子孫繁栄、家庭の平和を祈願して行われ、赤や青のお面をかぶった若者や地元の芸妓衆が肌も露わなハッピ姿で、長さ二メートル、太さ四十センチという丸太でつくられた御神体を神輿(みこし)にして練り歩くというお祭りです」
「ご神体って?」と、多田女史が聞く。
「それは……」と、かおりがいい淀んだ。
「きっと女性が喜ぶものだよ」と、名取所長。
「あっ、分かった。アレだ」と、多田女史。
クスクスと女性達がうつむいて笑った。
かおりは、この話題から逃げるようにガイドを続けた。
「稲取には、この他にも沢山の神社やお寺がございます。
三島、八幡、若宮、愛宕とどんつく神社、正定寺、清光院、善応院、吉祥寺、そして済(さい)広寺(こうじ)とありますが、伊豆稲取駅から徒歩二分ほどのところにある済広寺には、樹齢七百年という巨大なカヤの木がそびえています。
このカヤの寺ともいわれる済広寺には、お釈迦さまの像やマンダラ、ささやき羅漢という石仏(いしぼとけ)、ミヤンマー伝来の鐘などがあり、ちょっとした名所になっております」
「あ、そうだ。思い出した」と、ヤス主任。
「どうかしました?」と、かおり。
「ずーっと前に、うちのおフクロが友達集めて稲取へ来たって聞いたが、その寺に階段ある?」
「どこでも階段はありますが?」
「ほら、なんとか除けとかっていう……」
「あります。それでしたら七難除けの階段めぐりというのがございますが、なにか?」
「そう、それそれ。その七難除けっていう階段で転んで足をケガしちゃったんだ」
「はあ?」
「そりゃ、親不幸な息子がいたからだ」
名取部長が思わず本音を洩らした。
本人も含めて誰も反論はない。納得したようにカメ部長も頷いた。
「伊豆稲取駅からバスに乗って約十分の所には伊豆バイオパークがございます。天城山系の山際の稲取高原に、緑に包まれた約百五十万平方メートルという広大な草原に広がる総合レジャーランドです。
お一人二百五十円のサファリバスでアニマルゾーンを行くと、ゾウ・ダチョウ・シマウマ・ラクダからフラミンゴ・キリン・サイなどを身近に見ることができます。
自然のまま混合飼育されている動物も鳥類もそれぞれ五十種以上でその総数は千を超すという野性の王国そのままの姿が印象的でございます。
プレイランドには、打ちっ放しのゴルフ練習場、パターゴルフ場、三輪バギーなどのスポーツゾーンの他に、二十四台のルーム付き大観覧車が海抜三百五十メートルのさらに空高く上昇し、ゆっくりと回っています。
そこからは、くっきりと伊豆七島のほとんどが見渡せ、天気がよければ房総半島も望むことができます。
また、水上レストランで噴水を眺めながらのお食事もなかなか洒落たものでございます」
車はすでに今井浜の海辺を走っていた。
車内は相変らずの騒々しさで、それぞれ勝手に自分達の世界に浸っている。シラケている者、歌っている者、酔っている者、おしゃべりに夢中になっている者。とりあえず、かおりのガイドに耳を傾けていると思われるのはヤングレディス組ぐらいのもの。しかし、それとて怪しい雰囲気だ。
年齢あてクイズなどを始めている。
「絶対、四十は越えてるわよ」
「でも三十五ぐらいに見えるけどな」
「じゃ、ズバリ三十七!」
「よし、聞いてみよう」
「カオリさん」と、裕子が代表して聞いた。
「運転手さんのおとし、おいくつ?」
「お教えできません!」
思わずかおりがムキになって拒絶の姿勢を見せたので裕子ことユッコをはじめ、敦子まで驚いてたじろいだ。
実は、かおりも浜田の本当の歳を知らない。
6、サダ係長は変態男か?
湯ケ野の共同浴場は踊子温泉
「お車は、東伊豆町稲取からいよいよ白浜の美しい今井浜へとやってまいりました。
磯料理専門の海鮮センターのある左手はまだ荒々しい崖が相模灘の波を受け白い飛沫(しぶき)を上げていますが、ただ今通過中の高台は、オレンジケ丘と呼ばれるミカンの名産地でございまして秋には温州ミカンがとれます。
お車の右手をごらんください。
斜面いっぱいに果実園がひろがっています。
オレンジケ丘バス停の横には、伊豆農産物出荷所があり、ここから当地生産のミカンがつぎつぎに全国各地に出荷されます」
「白浜はどこにあるの?」と、三宅先生。
「白い砂浜は、もう少し先になります。
今は、断崖から見下ろす青海原の雄大な景色をお楽しみください」
バスが見高トンネルに入る。
「このトンネルの左手、海寄りに、伊豆原住民の住居跡、段間(だんま)遺跡(いせき)がございます」
「マサ、おまえのウチがあるらしいぞ」
ヤマカン次長が横幅の広いがっちり体型のマサ係長を冷やかす。なるほど体毛も濃く、顔付きも怒らせたら獰猛(どうもう)そうだから、多分、裸で腰に動物の皮でも巻いて歩いたら原住民そのまま。「ハングリー!」とでも叫べば恐竜も大ダコも逃げ出すに違いない。
やがて、美しい白浜が左側に広がった。
「今井浜海岸駅を下車し、この国道一三五号線をまたぐとすぐ目の前に白浜の美しい海岸線が広がるこの今井浜は、みどりの松を背景にその日本的な調和が魅力となっています。
今井浜は、河津(かわづ)温泉郷の東の入口とされ、ここから河津(かわづ)浜(はま)・谷津(やつ)・峰・湯ケ野・大滝(おおだる)・七(なな)滝(だる)と七つの温泉が続くのでございます。
波打ちぎわの岩の間から押し寄せる波が入浴客の顔にしぶくという町営今井浜露天風呂は観光客の間でもよく知られますが、今は三階建ての「温泉会館サンシップ今井浜」として新たにスタートしております。一階から三階までに露天風呂、サウナ、プールなどがあり、そのまま残されている岬の露天風呂と並んで今井浜の新名所に
なっております。
こちらの温泉は、炭酸系の弱食塩泉で、神経痛・婦人病・リューマチなどに効能がございます。
また、独特の伝統行事も多く行われています。
その一つ、今井浜に二百五十年ほど昔から続くお祭りで、ムギワラで作った船に農作物などの供え物を乗せて海に流す『ムギワラ船流し』という水難供養のお祭りがございます。
江戸時代から続くお祭りではもう一つ、お正月の四日に大漁と航海安全を祈願して行う、大漁旗を揚げて海上をデモ航海する漁船の大パレードも名物になっております。
今井浜の一キロ近く続く白浜の海辺は、一度ここを訪れた人の心にいつまでもその美しさを忘れさせないことは確かのようでございます。
この砂浜が途切れたあたりから河津浜に入ります。
天城の山から流れ出た清流河津川の河口一帯に広がるここ河津浜は、東伊豆、南伊豆、天城路への拠点として知られ、史跡も多く、民宿を主とした温泉は四十五度の弱食塩泉で河津温泉郷の一つとして栄えております。
相撲に河津掛けという決まり手がありますが、これはこの河津の地に館を構えていた曽我兄弟の父親で河津の三郎祐(すけ)泰(やす)があみ出した技だそうでございます。
お車の右手少し奥に、称念寺という古刹があります。鎌倉時代の作といわれる阿弥陀如耒を御本尊とし、その仏像の体内に白羽の矢が納められているということで有名でございます。
伊豆急・河津駅前からまっすぐ海辺にのびた道の先がこちら河津浜海水浴場です。
八月いっぱいで海の家も終り、海も荒れますが、ごらんの通り海水浴を楽しんでいる人が浜辺にまだ多勢見ることができます」
「オレ達も泳ぎたいなあ」
ハイレグ姿やTバックスタイルの水着美人を眺めたヤス主任が思わず叫ぶが、斜め前の席のマサ係長がやんわりと気勢を殺(そ)ぐ。
「海水を飲み過ぎるとビールがまずいぞ」
「食欲もなくなりますよ」と、赤木先生。
なぜか二人共、海はコリゴリというニュアンスで海から目を逸(そ)らせた。
「いいんだよ、オレどうせ泳がないから」
と、ヤス主任も海に入る気はないようだ。
「お車は今、河津川にさしかかりました。
橋を渡りまして右に曲がりますと、これから天城路への道、湯ケ野谷津線に入ります。
ここから谷津温泉・峰温泉と温泉街伝いに今日のお宿の大滝・七滝温泉に向かってまいります。
橋の下を覗きますとイナやセイゴなどが沢山群れているのがご覧になれます。この上流では天然遡上のアユなどもいて、釣り人が清流で竿を出しているのを見ることができます。
お車は谷津温泉を通過します。
左手にある栖(せい)足寺(そくじ)には、このお寺の住職に命を救われたというカッパがお礼の印にと持ち込んだ口の直径十二センチ、高さ三十六センチの壺が寺の宝として保存されています。
この壺の口に耳をあててみると、せせらぎの音に混じってカッパの鳴き声が聞こえるそうでございます」
「カッパの鳴き声ってどんな声?」
すかさず石毛青年がかおりを困らせる。
「さあ、私は聞いたことありませんが、どなたかカッパの鳴き声をご存知の方いらっしゃいますか?」
そんなもの誰も知る筈ない。
「河津川を渡って右折しましたが、あの道をまっすぐ下田方面に進みますと、全国でも珍しいカメ動物園、伊豆アンディランドがございます。
自然の姿をそのまま生かしたカメの池、べっ甲など亀の装飾品ジョイフルショップ、開運祈願の亀乗り七福神を並べた散歩道、スッポン料理のレストラン、世界各地から千五百頭を集めたという亀族館、ガラバゴス諸島からやって来た二百五十キロもあるゾウガメのいるゾウガメ牧場などがあります。
さらに極めつけは、この長寿と開運を看板にするカメの動物園の人気イベント……」
「カメがお酒でも飲むの?」と、紅女史。
「背中に赤や青・緑などの帯で、ゼッケンナンバーを書き込んだ丸いボードをしばりつけたカメさんたちが九頭、十頭でいっせいにスタートするカメレースに場内は爆笑と興奮の渦で大変な騒ぎになります」
「カメはトロいからな」と、中川部長。
「カメはマヌケだから……」と、相田課長。
突然、カメ部長が耐えかねてか怒鳴った。
「いいかげんにしろっ!」
「どうしたの?」と、多田女史。誰もなぜカメ部長が怒っているのか気付いていない。
「河津海岸から河津川沿いに天城路を約一キロ登りますと、今通過しました蜂温泉街でございます。
花の促成栽培が盛んな蜂温泉付近は、『花田の里』と呼ばれ一年を通じて花を絶やすことがありません。
とくにカーネーションの栽培が盛んで、蜂温泉に近い中井農園のカーネーション狩りは一月から五月までの間、十二種類四万株、赤・白・黄・ピンクと色とりどりの花が楽しめます。ここで切った花は二週間近く咲いているといわれます。
温泉の反対側の山側にある涅槃堂(ねはんどう)は、寝釈迦といわれる横になった長さ三メートルのお釈迦さまが鎮座していることで有名ですが、どうも蜂温泉は大きくて変わったものを大切にするようでございます。
温泉の南側にある源頼朝ゆかりの来宮(きのみや)神社には周囲約十四メートル、高さ約二十五メートルの樹齢約千年といわれる大きな楠の古木が天に向かって聳えています。
これは、国の天然記念物の指定を受けています。
さらに、温泉の北側にある旧家の正木邸の庭にあるソテツが周囲二十五メートル、高さ十メートル、根元から幹分かれした枝が大きく葉を繁られていてこれも樹齢約千年とか。
最近出来た河津川べりの踊り子温泉会館も旅の途中の休憩所として人気を呼んでおります。ひのき造りの大浴場には、サウナ・露天風呂・打たせ湯・泡風呂・休憩室などがあり、至れり尽くせりのスケールの大きい民芸調外観の大浴場で、ミカンを植えたり伊豆石を敷きつめたりとかなりの苦心が見えます。宿泊は出来ませんが旅の
途中でぜひ一度お立ち寄りください」
筏(いかだ)場で橋を渡ると河津川は車の左側になる。
「ほら見て、あの看板!」 石沢春代ママが叫ぶ。
大きなオレンジとワサビの絵看板が出ている。「農協の味直売所」「踊り子の里」などの布地の旗差し物も店先に並んでいる。
車はやがてドライブイン勇気を過ぎて、下佐ケ野の十字路で国道四一四号線下田街道に合流し湯ケ野温泉街に入って行く。
「河津川の清流に沿って名作『伊豆の踊り子』の世界が今もなお息づいているのがこちら湯ケ野でございます。
約五十度の芒硝弱塩泉の湯ケ野温泉には、今でも川端康成の名作に出て来る共同浴場がありまして、地元の人や観光客が利用しています。
小説の中では、主人公の学生に向かって、その共同風呂から裸の踊り子が手拭も持たずにとび出して来て、大きく両手を振る光景が描かれています」
「若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて……」と、坂本なつえ先生が名調子で暗誦し、
「たまんないな……」と、内藤主任が叫び、
「はしたないな」と、中川部長がたしなめ、
「そこへ行こう」と、相田課長がアジる。
「現在では、その脱衣場には曇りガラスが取り付けられて、外からは見えません」
「やっぱり……」と、黒川主任が残念そう。
「湯ケ野といいますと、昔は河津渓谷に面したひなびた峠越えの湯宿だったそうですが、伊豆の踊り子の作品で知られてからは、映画のロケをはじめ、文学の里として著名人も訪れまして、今では六階建ての公営国民宿舎『かわづ』を始め旅館・民宿などで賑わいを見せております。
先ほどお話しました踊り子温泉とも呼ばれる共同浴場の脇に朱塗りの橋がありまして、その橋際に太鼓を背負った桃割れ髪の踊子がうつ向き加減に台に腰かけている青銅の像があります。
その乙女の像は等身大でございますので、おぼろ月の夜など、酔った男の人がその隣りに腰を下ろして肩に手をまわし、語り明かしている姿を見かけたという人もいます」
「おっ、そいつはサダだ!」と、マサ係長。
「なんでオレが?」
「いつか、渋谷で飲んだときにヤキトリだったか、串ごと持って行って忠犬ハチ公に食わせようとしたじゃねえか」
「たしか、缶ビールも飲ませましたよ」
と、ヤス主任が証言し、ついに、サダ係長は月夜の晩に踊子の像にしがみつく変態男ということで衆議が一決した。
「まだあどけなき十四歳の少女である踊子と、二十才になったばかりの学生との淡い恋。断ちがたい想いを胸に旅路の果ての下田で別れ、踊子の一座は港町に消え、学生は船に乗って東京に帰ります。幸せだった交流の日々。
短く儚ない恋の終りに、二人はそれぞれ涙を流しますが、運命はいかんともし難く……」
「あとで探し出せば会えるのになあ……」
「本当に、その学生何もしなかったのかな?」
そんな声がバスのあちこちで聞こえた。
かおりはあきれて話題を変えた。
「前方に河津七滝ループ橋が見えて来ました。
まもなく七滝郷に到着いたします……」
バスが急勾配の細い坂道をゆっくりと下って行く。蝉の鳴く声がなかり騒々しい。
周囲の樹木はまだ緑は濃いが、秋の気配が多少漂っている。
「本日のお宿になる天城大滝荘は、日本観光地百選に入る河津七滝の内一番大きく豪快な滝の大滝を庭内に持つお宿です。
滝(たき)のことを水が垂(た)れるから垂(た)る、滝(たる)となったそうですが、次のような伝説もございます。
天城山の万三郎岳は、お兄さん格の万二郎岳と並ぶ伊豆地方のヌシでしたが、自分達の支配地内の八丁池の水を飲み干すオロチを退治するために酒で酔わせて退治することを考えつきました。
ところが、そのオロチ、七つの頭をもっています。そこでタルを七つも用意したのです。
オロチは七つのタルの酒を飲み干し酔いつぶれ、万三郎はそれを一気に退治しました。すると、一天にわかにかき曇り、ドシャ降りの雨がオロチもタルも流し去ったのです。
雨が止み大洪水が去ると、河津川も以前と同じ清流に戻りましたが、七つのタルは七つの滝つぼにそれぞれ浮いていました。
それ以降、こちらでは滝のことをタルと呼んでいるそうです。
その七つの滝を散歩するのに必要なお時間は、天城大滝荘から往復約一時間です。みなさまご一緒にお出かけください。
ただ今、三時五十分ですので、すぐお出かけになりますと五時頃にはお宿に戻れます。
こちらのお宿は、大浴場・婦人風呂・家族風呂・五右衛門風呂などの他に岩風呂・穴風呂・五種類の薬草風呂、さらに敷地内の河津川沿いの露天風呂はなんと二十数カ所もありますので一晩中かかってもまわりきれません。
とりあえず宴会は六時半からですので、七滝めぐりの汗をゆっくりと流してから二階の宴会場にお集まりください。
本日は各グループさまそれぞれに芸達者な方がいらっしゃるとのことで景品も沢山用意しました。カラオケ・踊りとなんでもありの大演芸大会を開きますのでふるってご応募ください。
お宿の方からもそれなりの景品が出るようでございます。
宴会とお食事のお時間は二時間を予定しておりまして、その後は、カラオケホール・ゲームコーナー・温水プール・温泉めぐりとご自由にお過ごしください」
「麻雀もできるかね?」と、中川部長。
堅焼せんべい本舗グループだけは、目的が麻雀大会だからその他のことには見向きもしない。勝つの稼ぐのと騒がしい。
「明日の朝は八時五十分ロビー集合、九時出発で箱根まわりの帰路となります」
バス停があり右側にお食事処がある。
道の左側に天城大滝荘の看板が現われた。