第四章 人間関係が複雑に

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1、オバン扱いに怒る紅女史

   伊東松川は文化を秘めて流れる

網代トンネルをぬけると海に面した崖道はくねくねと蛇行して御石ヶ沢トンネルに続いた。かおりがマイクを置き、水を飲んでいると、すかさず春代ママが口火を切って、歌謡大会が始まった。ウクレレが鳴った。
 かおりのガイドが切れるのを狙っていたらしい。春代ママが終ると内藤主任が立った。

司会はオレがやります。指名しますので各グループから一名づつ選手を出してください」
「選手?景品はあるの?」
 と、宮崎あすか先生。さすがに数学の先生だけに計算高い。内藤主任がかおりを見た。
「景品はございません。でも、夜の宴会ではスポンサーからの高価な景品をご用意してあります」
「高価って百万円ぐらいの?」と、内藤主任。
「いいえ、五千円ぐらいです」
「それって、高価?」
「ええ、テレカより高価だと思います」
「なーんだ、がっかりさせるなあ」
 内藤主任が落胆したところへ、止せばいいのに中川部長がよけいな口出しをした。
「下田のホテルではデラックス宿泊券を当てたんだよな」
「それ、何ですか?」と、紅女史が聞く。
「ホテルでね。三角くじを用意して。それをガイドのカオリさんが引いたら、なんと」
「お一人五万円、四人さまの宿泊券よね」
 と、小岩井エミ。よく記憶している。
 全員の関心がカラオケより景品に集まった。
「そ、その券はどうしたの?」
 と、赤木ひとみ先生。
「宴会の余興の優勝者に・・・」と、かおり。
「そうだ。本当はわしらの物だったんだ」
 と、つい加藤教頭がムキになる。もう、誰も相手にしていない。無視あるのみだ。
「結局、みなさんの総意で家族でいらっしゃっていた小山さんという方に上げたんです」
「えっ!あの電機屋のっ!」
 全員が声の主を見た。後部座席でサダ係長が大声を出したあと「しまった!」という表情で口を押えたが、中川部長が振り向き、
「知ってたんですか?」と問えば思わず、
「ええ、まあ、取引先だったもんで・・・」
 と、シドロモドロ。半田ミチ子ことミッちゃんの発言がそれを救った。
「今日も、そんな特賞が出ますか?」
 全員の期待の目がかおりに注いだ。
「今晩お泊りになるお宿は、お食事のいいのと温泉で充分ですが、当方と宿で変った景品も用意してあります。この前は自転車でした」
「自転車?それで、どうしたの?」
「乗って帰られました」
「乗ってって?伊豆から?」
「ハイ。スポーツ自転車だったんですが。ご一行の幹事さんが『ホテルから乗って帰る人に上げるぞっ』って宣言したら、本当にそれを貰って帰った人がいたんです」
「よしっ。オレも乗って帰るぞ!」とカズ。
「オレだって!」とゴンが張り切る。
「その人は、残念ながら厚木でダウンして、医者に担ぎこまれ脱水症状と診断されたそうで、自転車は病院に寄付したそうです」
「オレ、やっぱり止めた」と、ゴン。
「自転車はパスする」とヤス主任も泣きを入れた。
「もっとマシなの出ないの?例えばダイヤモンドとか・・・」紅女史は真剣だった。
「そりゃあ、無理だろ」相田氏が呆れる。
「本日お泊りの天城(あまぎ)大滝(おおだる)荘(そう)では、景品は期待できませんが、その代わり・・・」
「その代わり?」 一斉にかおりを見る。
「ロケに参加できるかもしれません」
「ロケ?ロケってなんの?」
「ロケットでも打ち上げるの?」
「梅竹映画のロケが七(なな)滝(だる)を中心に昨日から数日間の予定でスタートしているそうです」
「それで?」
「先ほども申し上げましたように天城大滝荘は河津川沿いに沢山の露天風呂を持っていまして、こちらで屋外撮影をしたり・・・」
「えっ、温泉でっ?」
「こりゃあ凄い!」
「女優が脱ぐんだな・・・」
 三宅先生がゴクリと生つばを飲みこんだ。
 名取所長などヨダレをたらしている。
「でっ、どこで参加するの?」
 と、金井セイ子チイママが聞いた。
「実際の団体客の宴会風景などをテレビドラマにとり入れたいらしいのです」
「私たちのも?」とチイママ。
「ええ、ロケを続ける数日間にお泊りの団体さんの様子など撮影して、その中からワンカットだけ使うそうです」
「どのくらいテレビに出るの?」
「多分、五、六秒ぐらいかと・・・」
「よしっ。くじ引きしよう!」
 と、黒田主任が立ち上がった。
「撮影に来たときに舞台に上がって歌うのを誰にするか今、決めよう」
「歌っているところとは限らないでしょ」
 と、福原みずえ先生が水をさす。
「でも、いざとなって揉めるより、さまざまなシチエイションを考えて・・・」
「スィテュエィシャンでしょ」
 宮崎あすか先生が英語担当の三宅先生の発音を訂正している。どうでもいいことだ。
「出たとこ勝負でいいじゃないのか?」
 マサ係長の発言で、成り行き任せということになり、とりあえずロケの件はウヤムヤのまま、カラオケが車内に流れ、マイクを奪いあったが、多田女史には誰も勝てない。
「惜しみなく与えてー、限りなくつくしてー」
 と、耳をふさぎたくなるような声が車内のスピーカーから鳴り響いた。熱が入る。
 かおりはあわてて音量を最小に絞った。 
 それでも車内に響く多田女史の声に変化はない。大きいのは地声だった。
 二番が終るのを待ってカラオケの電源も切り、かおりは急いで自分のマイクを持った。
「お車は伊東市に入ってまいりました。今通過した宇佐美(うさみ)は、鎌倉時代初期の武将でこの土地の豪族であった宇佐美祐(すけ)茂(しげ)が支配し、宇佐美城を居城として活躍した所でございます。
 頼朝再興の折には、祐茂も参加し手柄を挙げましたので頼朝二十五臣の一人として知られるようになりました。
 こちら、伊東市は平家の武将伊東祐(すけ)親(ちか)またの名を河津の二郎が館を構え、頼朝が伊豆韮山に流されたときの監視役を務めておりました。
 祐親には八重姫という妙齢の娘がおりました。
 頼朝と八重姫はいつか人目を忍ぶ仲となり伊東市内を流れる松川の畔にある音無神社の境内などで逢瀬を重ねていたのでございます。
 やがて二人の間に千鶴丸という子供が産まれました」
「頼朝も手が早かったんだ」
 と、カズが嬉しそうにはしゃいだ。
「頼朝さんはモテたのよね」
 エミリーが、カズを見て軽蔑したように通路を隔てたミッちゃんに話しかけた。それが聞こえたからカズがムキになる。
「同じことじゃないか。えっ、そうだろ?」
「違うわよ。あんたなんか相手が嫌がっても強引に口説くタイプでしょ。モテるっていうのはネ。女性の方が寄って行く男のこというのよっ」
「オレだって女にゃ不自由しねえよ」
「じゃあ、モテる証拠見せてよ!」
 紅女史が揉めごとに割って入った。
「私でよかったら、いつでもいいわよ」
 とたんにエミリーの態度が変った。
「オバさんやめて。二人の話なんだから」
「オ、オバさんだって。さっきはお嬢さんって紹介されたのにっ!」
 かおりがあわててマイクを握った。
「京都に上(のぼ)っていて二人の仲をしらなかった八重姫の父祐親は、帰国してそれを知り烈火の如く怒り、その生まれたばかりの赤子を松川の上流に沈めてしまったのです。
 その場所は、稚児ヶ淵(ちごがふち)と呼ばれ、今でも花を手向ける人がいるそうでございます。
 祐親からみて頼朝は敵方源氏の後継者でもあり、平家の武将として立場上止むを得なかった処置とはいえ、無理に仲を裂かれた頼朝の恨みは、その後、源氏の天下になった時にまで怨念として残り、祐親は捕えられて命を絶たれることになるのです」
 車内が静かになった。
 紅女史の怒りが収まった訳でないのは、そのブツブツと念仏のように呟いている愚痴でも察することが出来た。
 カズとエミリーは、何事もなかったかのようにそれぞれ隣り席の同僚と外の景色を見ながら笑い騒いでいる。
「ゆったりと流れる伊東大川の別名を持つ松川沿いに旅館やホテルが立ち並ぶ伊藤は、江戸時代から栄えて来た温泉地でございます。
 弱食塩すなわち塩化ナトリウム泉で神経痛やリューマチ胃腸病に効果があり、お湯の量は豊富、源泉は二十七度から五十七度といわれております。
 この伊東はまた多彩な文化人の歴史を秘めた土地でして、伊東出身の文学者であり医師、あるいは詩人・画家でもあった木下杢(もく)太郎の生家をそのまま記念館に利用して一般に公開されているのを始め、沢山の史跡があります。
 尾崎士郎文学碑、高山虚子・松尾芭蕉・北原白秋などの碑も建てられております。
 九月に入りますと、日曜日の早朝には、伊東海岸で地引網が観光客にと無料開放され、とれた魚を分けもらえますので伊東にお泊まりのお客さまには大変喜んでいただいております」
「無料で?」と、福原みずえ先生が身を乗り出す。
 どうも無料という言葉に弱いご様子だった。

2、ブタに真珠と福原先生

伊豆高原美術館はおすすめ

「この松川沿い近くには、日本で最初の洋式帆船を建造した三浦按(あん)針(じん)の碑もございます。按針は伊東の地で二隻の船を造り、その内の一隻は太平洋を横断し、さらにメキシコにまで遠征するという偉業を成し遂げております。
 その三浦按針の碑に並んで伊東市の観光会館があり、そのすぐ脇に定期船の乗り場があります。そこから大島まで九十分、初島まで二十三分の航路が開かれております。
 沖の小島と呼ばれる初島は、面積がわずか0.35平方キロ、戸数四十二軒、人口は約二百人、冬暖かく夏涼しいという恵まれた気候で磯釣りやスキューバダイビングなどが楽しめますし、観光用の初島バケーションというレジャー施設は一年を通じて賑わっております。
 伊東温泉は豊富なお湯と美味しい魚が評判ですが、とくに伊東港で水揚げされるカンパチ・イサキ・マンボウ・カワハギそれに口の長いヤガラというお魚にくわえてアジなども旅行客のグルメ願望を満たしております。
 寿し種にはさらにアナゴ・イカなども新鮮で、土産物の干物にはエボダイ・カマス・タチウオ・カレイなどが加わります。
 秋の味覚のブドウ園も市内に一軒ありまして、観光客に喜ばれております。今日は残念ながら、お車は立ち寄りませんのでご容赦ください」
 伊東の市街を抜けると、波除けの護岸の壁の左側に紺碧の海が広がり初島が真近い。フェニックスの並木が続き、道がくねる。
 国道左手に汐吹崎を眺めて、トンネルを潜ると、川奈口バス停があり、その先に、海抜約三百二十メートルの小室山が視界に入る。
「左手前方をごらんくだい。こんもりと浅いお椀を伏せたような小高い丘が小室山(こむろやま)でございます。晝食のあとでおとずれる予定の大室山(おおむろやま)が深いお椀を伏せたかたちで、この二つの山はどちらも天城火山帯に連なっており、その美しい姿から大室山が姉、小室山が妹と見ることもできます」
「そうか!」と、内藤主任が大発見でもしたように、
「それで妹はペチャパイ、姉の山はボインなんだね」
「そう見る人もいるようです」
「なーんだ。そう見えたのはオレだけじゃないのか」
「ここでは、そんなこと考えるの内藤さんだけよ。ねえ、黒川さん!」
 片岡美佐が隣りの黒川主任に同意を求めると、今まで感心したように頷いていた黒川が簡単に同僚を裏切る。
「まあ、内藤の発想はいつも下品なんだから。なあ石毛!」
「そ、そうですね。ボクはもっと高尚なことを考えていました」
「どんなことだ?」
「えぐれた火口は陥没したシリコン胸かと
「あきれたな。なにが高尚なものか」
 かおりは聞こえない振りをした。
「この先に、小室山公園入口がございます。小室山は丘全体が公園になっておりまして、初夏には全山ピンクやオレンジのツツジの花に包まれます。その数は約十万本ともいわれ、この山に登った人は誰もが感激を深めるのでございます。
 頂上までは観光リフトが往復四百円で出ていますが、お車でも登れます。駐車場は観光バスを含めて百台ほどスペースがあります」
「景色はいいの?」と、紅女史。
「ハイ。晴れた日ですと、遠く房総の山、三宅島、富士山もくっきりと真近に見えます」
「あなたは登ったことある?」
「いいえ。見てきたように話しております。
 この先に梅ノ木平の十字路がありまして、そこを右に曲がりますと一碧(いっぺき)湖(こ)にまいります。
 今回はお寄りしませんが、この先には伊豆グリーンパークという熱帯植物園もございます。
 園内には南国情緒ただようブーゲンビリアの花をはじめ、バナナ・ヤシなどがいっぱい、まるで南の島をおとずれたような錯覚に落ち入りますが、園内で遊ぶ蝶や小鳥までが南国原産です。しかも、この温室内で子供が生まれ育って羽ばたいているように、鳥や昆虫まで生態系がそっくり南国そのものになっているそうです。年中無
休、朝九時から午後三時までが営業時間です」
「入園料は?」と、福原みずえ先生。
「千円です」
「さっきのお山は?」
「小室山はお山ですから無料です。ただし、山頂までのリフトは往復四百円になります」
「そう。じゃあ、歩いて登れば無料(ただ)なのね」
「健康のために歩いてお登りになる方も沢山いらっしゃいます。
 続いて同じく国道の左側に、平成五年一月にオープンしたばかりの伊豆高原美術館がございます。長さ七十メートル以上という独特の画法による平家物語絵巻をはじめ、狩野派(かのうは)、葛飾(かつしか)北斎(ほくさい)、頼(らい)山陽(さんよう)などの作品が、床の間形式の展示で身近に見られます。喫茶ルームやレストランもあ
り、観光の新名所ともなりそうです。なにしろ海も真近に見えますから」
「そこに、寄っていただけます?」
 と、美術の赤木ひとみ先生が興味を示した。
「いえ。今回はお時間がございませんのでお寄り出来ませんが、電車でいらっしゃるとしたら伊豆駅から河津方面行きの東海バスで約三十分。栗の原バス停で降りていただきます」
 車は一碧湖方面に向かっている。
「伊豆高原美術館は駐車場のスペースも約百台は可能のようですので、お車でも安心してお寄り出来ます。それと、朝八時から夜の十時までオープンしていますので、夕方からでも来館される方が増えているそうです」
「料金は?」と、やはり赤木ひとみ先生。
「入館料は大人九百円です」
「高いなあ。たかが古い絵を見るだけだろ」と、ヤス主任がかなり小さい声でいったつもりなのに、こういうときに限ってエンジン音が静かになっていたりする。
 赤木先生がすぐ言葉をとらえた。
「たかがとは何ですか?私たちは古代から伝承された文化の上に立脚して毎日の営(いとな)みがあり、この豊かな日本の文化的環境を・・・」 
 つい教壇に立つ口調で言い、周囲を見る。
 で、都一金融のご一同の反応のない顔を見てトーンダウン、捨てぜりふを残した。
「まあ、絵を見ても猫に小判の人もいます」
「ブタに真珠ですね」と、福原みずえ先生。
「それ、自分のこと?」と、ヤス主任が後部座席からまぜっ返したから、さあ大変。ふっくらとして色白の福原先生。今日に限って成人祝いに両親に買って貰った田崎真珠製極上のネックレスで一際美しく飾っている。
 このヤス主任の声が大きかっただけに全員が注目した。福原先生の眉が釣り上がっている。
「なるほど・・・、美しい白ブタだなあ」
 と、相田課長が目を細める。
「おいしそうでんな。今が食べ頃とちゃいまっか」と、名取氏。これも聞こえた。
「なんですか失礼な!あなた方のような無教養で不作法な人たちと一緒に旅行するなんて。呉越同舟もよしあしです」と、福原先生。
「でも、旅は道連れでしょ」と紅女史。
「あのね」と、多田女史が口をはさむ。
「なんです?」
 と、福原みずえ先生が少しムキになる。
 多田女史がきまじめな顔で諭した。
「朱に交われば赤くなるっていうでしょ」
「だから?」
「二日間一緒に旅をすれば、あの人たちとも同化して、違和感がなくなると思いますよ」
「同化なんてとんでもないですっ!」
 福原先生が中腰になって、そう「とんでもない連中」を軽蔑の目で垣間見ようと振り向いたとき、一瞬、カメ部長と視線が合った。
 カメ部長がドギマギして目を反らした。じーっと福原みずえ先生の横顔を見つめていたらしい。福原先生もあわてた。
 高倉健がもう少し若いときは、あんな感じだったのだろうか。学生の頃見た映画「黄色いハンカチ」や「夜叉」などで見た淋しげな孤独な男の感じが伝わって、頭の中の回路が電波障害を起こした。高倉健は好きなのだ。
 福原先生がヤス主任に語りかけた。
「私がいいすぎました。ブタに真珠は取り消します。馬の耳に念仏にします」
「オレも謝るよ。ごめん。馬ならいいや大井競馬で親戚付き合いしているから」
「親戚の割には勝てないけどな」
 と、マサ係長が鼻で笑う。
「あら、競馬ならうちのミッちゃんに教わればいいわ」と、春代ママ。
「私も今、絶好調」あわてて宮崎あすか先生が口を閉じたが遅かった。加藤教頭の地獄耳がそれを逃さなかったのである。
「宮崎さん。あとで話があります」
「ハイ」と、宮崎先生の声がか細くなる。
「よしっ」と、加藤教頭は心の中で呟いた。
 昼食時には、そっと競馬で勝つコツをさり気なく聞き出すのだ。今まで注ぎ込んだ分の百分の一でもいいから取り戻せれば大成功だ。つぎのステップで元金を回収。「やがて大勝利への道を・・・」教頭先生の口元がほころぶ。
 こんなこと誰もが考えながら、オケラ街道をとぼとぼと歩くことになる。世の中そんなに甘くない。
「ヤス。競馬は止めろ」カメ部長が諭した。

3、黒川主任魚釣りで釣られる

一碧湖にしばしの憩いあり

伊東には、航空博物館・人形の美術館・民俗資料を集めたおもしろ博物館・メルヘンの森美術館・ガラス工芸美術館など多くの美術館のほか観光施設も沢山ございます。
 お暇が出来ましたら、ぜひ、またのお越しを・・・。
 一碧湖で少し休憩しまして、お車は池田二十世紀美術館伊豆シャボテン公園のあたりを通過しながら城ヶ崎海岸に向かいます。そこで食事をしまして、午後からは城ヶ崎の高台や海辺で遊んでいただきますが、遊泳は禁止されております。
 一碧湖に到着しました。
 海抜百二十メートルを越す高台にあるこの一碧湖は、周囲約四キロに、深さ十二メートルといわれる小さな湖です。
 日本百景の一つに数えられた美しい湖で、今でこそ水の色がさほどではありませんが、以前は、その名前にもある通りの紺碧の青々とした水をたたえた湖でした。
 春は満開の桜、初夏は緑濃い青葉の色、秋は紅葉、冬は銀世界に包まれる湖畔の風景は、静かなたたずまいの中で、おとずれる人の心を和ませてくれます。
 大室高原の溶岩大地にあるこの火山湖の美しさを詠んだ与謝野(よさの)鉄(てっ)幹(かん)・晶子(あきこ)の歌碑も湖畔に立っています。
 ただ今、お時間は十時五十分、予定より十分ほど早く着いておりますので、休憩を少々余分にとり四十分とさせていただきます」
 市営駐車場にバスが止まると、男性陣がわれ勝ちに駆け降り、レストハウス目がけ走った。食欲でも購買欲でもない。単なる生理現象の発露である。
「おっ、あれに乗ろうか?」
 カズが調子よく身近にいたエミリーに声をかけた。二人乗りのペダルボートもレストハウスの前の板張りの桟橋に係留されている。
「ボートのりば」と書かれたたて看板には、釣りをする人は入漁券を買うように、ゴムボートは持ち込み禁止、などと注意書きがある。
 アヒルの頭の格好が先端に付いている子供が好きそうなボートにエミリーの目が向いた。
「あれなら乗ってもいいわ」
「あれは、三人用だよ。こっちがいいな」
 カズが指さしたのは水色の小型のペタルボート。これだと二人用だからペアで乗れる。
「あら、あなた丁度いいわ。これに一緒に乗って!」
 エミリーが石毛青年をつかまえて、さっさと三人乗りのアヒルボ-トに近付いて行く。
「カズさ-ん。早く来てよう」
 カズはしぶしぶ三十分以内千五百円の料金を管理人に支払って乗り込んで来た。
 そのときにはすでに、石毛の腕を抱えこんだエミリーが足を開きデンと座りこみ、カズの座る余地はほんの少し、バイトの学生がロープをはずしてスタートはしたが、ボートは一向に進まない。シブシブと湖上に出た。
 カズが一所懸命ペダルを踏んでいるのにエミリーと石毛青年はペチャクチャと愚にもつかない芸能ネタなどで足踏みを怠っている。
「オイ。おめえら、もっと早く漕げ!」
 カズがついに怒鳴った。無理もない話だ。
「あら?」
 と、エミリーがカズを見た。
「あなたもいたの?」
「冗談じゃない。もっと足に力を入れろよ」
「どうして?」
「これは足踏みボートなんだから・・・」
「そんなに急いでどこ行くの?」
「ん?」
 目的はなかったのだ。ただボートに乗ることを考えていたから、行く先もない。湖などでボートに乗る場合、大抵の人は行く先など決めていなくて当然だから反論も出来ない。
 しかし、仲睦まじく腕など組んだ男女を乗せて自分が汗をかいて足踏みボートを漕ぐなどということはプライドが許さない。 
 カズは不愉快になった。不愉快だから足踏みを停止する。するとボートは湖上に漂う。
「ねえ、帰ったら必ずお店に来てね」
「うん。上司でカラオケの好きなのがいるから、スポンサーにして伴(つ)れて行くよ」
「ホント?嬉しい。あなた一人で来てくれただけでも私嬉しいのに、大勢だともっと嬉しいわ。あなただけに特別サービスちゃうわね」
「ホントに?」
「じゃあ、指きりげんまんしましょ」
 秋の気配深まる伊豆高原の静かな湖上で、こんな会話を隣りで聞いている身になってみろ。といいたい気持ちをぐっと押えたが押え切れる理由(わけ)がない。バカバカしくなった。
「オレ、帰るぞ」と、カズが宣言した。
 しかし、二人の耳には届かない。丁度「針千本のます」と、指をからませながら、かなり真剣に腕を振ったから、エミリーの片方の腕も反動で振れてカズの腕を叩いた。
「痛えなあ。オレ、帰るからな!」
「あら、もうお帰り?」
 と、エミリーが振り向いた。
「まだ、乗ったばかりじゃないか?こんなすばらしい湖でいいムードなのに」と、石毛青年。 
 なにが素晴らしいものか。故郷の鬼怒川にだって五十里(いかり)湖(こ)というダムがある。水もきれい。ただ、恋人がいないだけだ。
「おまえらも漕げよ。オレ下りるから」
「そうか。残念だな」
 と、石毛青年が本気で足踏みを始めた。
 高校時代は甲子園で活躍した石毛青年が漕ぐと、ボートは超スピードで岸に着いた。
 体力も時間のまだあり余っている。
「さあ、下りていいわよ」
 さっぱりした口調でエミリーがいい、カズが下りると二人で仲よく漕ぎ出そうとした。
桟橋では、黒川主任がリール竿でルアーを投じていたが、二人の姿を見て呼び止め、渋る石毛青年を脅してボートに乗り込み、自分の望む場所まで足踏みの協力を求めた。
「きれいな足だねぇ」
 短か目のオレンジ色のタイトスカートからすらりと伸びた健康そうな足が黒川主任の目にまぶしかったのか、満更お世辞でもないらしい。
 エミリーの関心が一気に石毛青年から黒川主任に向いた、ようにも見受けられる。
「あら、嬉しい。私って、足をほめられるのが一番嬉しいのよねぇ」
「なるほど、きれいな足だ」と、石毛青年。
「ありがとう」
 とって付けたような石毛青年の見えすいた世辞に、心のこもらない謝意を表し、エミリーは黒川主任の腕をつかんだ。
「ねぇ、今度、暇をつくってお店に来てちょうだい。一緒に楽しみましょ」
 変な話だ。客を楽しませるのがサービス業の本来の姿なのに、自分も楽しむという。それでも、客がホステスのご機嫌をとらなければならない格式一流内容三流の料金だけ高い自称高級クラブよりは遥かに嬉しい誘いだ。
「一緒に」となると、いかがわしい想像もする。
「行く行く」と、黒川主任が鼻の穴をうごめかして息を弾ませ、武者震いをした。
 その瞬間、手に持っていた竿先から微妙な誘いが水中に引いていた小魚風ルアーの動きに伝わったのか魚信(あたり)がプルプルと来た。ゴミでも掛かったのかとリールを巻き上げると、さして抵抗もせずヒョコヒョコと情けない顔でブラックバスのチビがルアーの先の鉤先(かぎさき)を口許に光らせ、運悪く釣れてしまった。
「うわあ、釣れたのネエ!」とエミリー。
「やったあ」と、石毛青年。
 黒川主任は照れる。釣ったのではない。釣られて来たのだ。しかもメダカみたいなサイズだ。
 鉤を外してリリースすると、チビは嬉しそうにヘラヘラとすぐには潜らずにボートから遠のいて行く。八センチもない。
「あ、そろそと時間だ」
 石毛青年がいい、三人は足並みを揃えて桟橋に戻った。バイトの学生がロープを巻いた。
 管理人を代行しているらしい男がどこから現れたのか嬉しそうに黒川主任を出迎えた。

「大きいのを釣りましたネ」
 エミリーが冗談で両手を広げると、男がニコニコしながら黒川主任の耳許で囁いた。

「ヘラブラは平日二千円だけど、ブラックバス釣りは二千二百円だよ。日曜日は二千五百円だけどね」
「えっ。三分ぐらい竿を出しただけだよ」
「まあね。見逃そうと思ったけど、釣ったからね。尺(三十センチ)はあったな?」
「舟代は払ってあるんだろ?」
「それは、さっき降りた人たちの分だよ。釣りをする人は別料金だから。さあ、払いなさい。これも魚類保護、環境保全のたねだ」
「でも……」
「じゃあ。二千円に負けてやるから、すぐ払いなさい。密漁は犯罪だから逮捕されるよ」
 結局、二千円を払った黒川主任は欲求不満。黒川に邪魔されてロマンスの花が半開きのまましぼんだ石毛青年も欲求不満。エミリーは指名客を二人もキープしてニコニコしてバスに向かう。
 そのとき、チラと看板を見ると、釣り舟の平日一日料金は確かに二千二百円だが、入漁料だけだと、一日三百円になっている。
 二千円を持った男は、レストハウスと反対側のしゃれた和食の店に入って、自慢気に二千円をヒラヒラさせ店主にオーダーした。
「ビール二本に枝豆とアジのたたきねっ」
「おやっ。また、観光客を騙したのか?」
 その店主の声を聞いたとたん、テーブルを囲んで刺身にビールでオダを上げていた三人の男達の目が光った。本能的なものだ。
 サダ係長がさっと立ち上がり、その三十代後半と思われる男に近付いた。右手でいきなりサッと自分のジャケットの内ポケットから黒い手帳風のものをとり出し目の前に素早くかざし、左手で首を締めた。
「今日は私服だから見逃してもいいが、常習だとするとヤバイなあ。たまには別荘に入って変わったメシでも食ってみるか。えっ、どうだ! 今までいくらぐらい騙し取った?」
 ヤス主任は、店主に聞いている。
「この男はいつ頃からここに来てるかね?」
「さあ、一年前ぐらいですか……」
 マサ係長がなだめ役にまわる。
「まあまあ、今日は非番だから穏便にしようや。部長も今日は仕事を休め、というしな」

「いや、悪党をはびこらせておく訳にゃあ」
と、なおも締め上げるから男は音を上げた。
「く、く、くるしい。勘弁してくれい。い、いままでで、せいぜい二十万円ほどだ。入漁料は漁協に返すよ。」と、内容まで説明する。
「何だと? せいぜい二十万だ? ふざけるな。内偵(しらべ)はついているぞ!」と、さらに脅す。
 結局、店主が間に入って二千円を返した上、騙しとった入漁料の一部を漁協に戻すことになり一件落着。三人は飲食が無料(ただ)になった上、店主が立て替えて払った三万円の車代をせしめた。
 三人はすがすがしい顔でバスに向かう。

4、芸術に理解を!と、赤木先生

天城高原には美術品も多い

「なんだ。このはした金は。なにィ、仕事で稼いだだと。ダメだ。今日は絶対ダメだ。仕事休みに来たんだから。えっ、誰か二千円騙し取られたのがいるって? 誰だ、そんなマヌケな奴は?」
 カメ部長が車内を見まわした。すでにバスは一碧湖からシャボテン公園に向かっている。
「あ、あれだな。あの顔の黒いせんべい屋」
 と、カズに聞いたカメ部長が頷いた。
「そういえば、マヌケな顔だ オイ、マサ。マサ部長!」
「なんですか?」
「あの黒顔(くろがお)ってヤツに二千円返してやれ!」
「ヘイ。ゴン。この二千円、右の前から二番目の黒顔って男に渡して来い。一碧湖で取られた二千円だっていえば分かるから」
「黒顔じゃなく黒川でしょう?」
 ゴンが通路を進み、黒川主任に二千円を渡す。
「大きいの釣ったんだから」と、見栄を張って受けとらなかったが結局、ボート代を払ったカズに半分の千円を渡すことで決着した。
 ゴンが千円札一枚を持って戻りかけると、会話を聞いていた石毛青年が、思い出したように、
「カズさんに渡してよ。ボクのボート分だ」
 と、千円をゴンに渡した。
 それを見ていたエミリーが、ふとカズも客の候補の一人になるとの政治的判断を下したから千円札をとり出す。冷たくしたままではまずい。少しは関係改善が必要となる。
「これも渡してネ」と、ゴンに手渡す。
 ゴンがカズに集まった三千円を渡すと、カズは、「オレもボートに乗ったから」と、その内の千円だけ引いて、残りの二千円を経理のヤマカン次長に渡す。二千円が戻った。
「なんだこれ?」と、ヤマカン次長。
「経費を引いた売上(あがり)ですよ」とカズ。
「いい加減にしろ!」とカメ部長が怒る。
 結局カズの手許に二千円、ゴンはバスの通路数メートルを往復するだけで千円の手数料を稼いだ。都一金融社員のやることはミミッチイ。しかし、着実に金をつくる技術を身につけている。貧しい人(例えばこの本を書いている男)などは学ぶべきだ。
 しかもまだ三万円が手許に残っている。
「この金は困っている人にくれてやれ」
 カメ部長の一言で、都一金融のカメ部長以外の全員、ヤマカン次長まで威勢よく手を上げた。
「ダメだ。世の中にはもっと貧乏人がいるはずだ。そういうヤツを探し出せ」
 一円を笑う者は一円に泣く。都一金融を笑うものは……都一金融と同じような仕事は出来ないから、正常な生活をする。
 それにしてもこの元暴力団、数ヶ月前までは拳銃などを隠し持っていたとは思えない。

 今や平和憲法を守る日本国民が模範にしたいような人情家達である。
「これから、お車は池田二十世紀美術館前を通りまして、伊豆シャボテン公園、大室山から遠笠山(とおがさやま)道路を戻りまして再び国道一三五号線に出ます」
「早く行こう」と、内藤主任が勇んでいる。
「一応、観光コースとしてご案内しておりますので少々お耳をお貸しください。
 池田二十世紀美術館は、化学会社の社長をしていた池田英一さま個人の土地・建物・芸術品などの寄贈によって開かれた近代的な美術館で、高い天井から注ぎ込む自然光の中で、ルノアール、ダリ、ピカソ、キスリング、ワッサー、ルオー、シャガール、マチス、ミロなど二十世紀を代表する世界の巨匠の作品を鑑賞できるというす
ばらしい現代美術の殿堂でもあります。
 日本の美術家の作品などを加えた絵画・版画・彫刻などの収蔵総数は一千点を越え、その中から入れ替えで常時約二百点ほどが展示されております。入館料は八百円、お時間は午前十時から午後四時半ですが、夏季は一時間延長となっております」
「お寄りしましょう」
 赤木ひとみ先生が声を大にして叫んだが、車内の反応は今一つ頼りない。
「あなた方は、芸術というものを理解していないんですか!」
 すでに美術館前は通り過ぎている。
 かおりと敦子は顔を見合わせ、困ったという表情をした。予算と時間は限られている。

 かおりがマイクを握り直した。
「美術館がぜひお立ち寄りしたかったのですが、以前のツアーでお客さまの一人が、一つの絵を最低十分は眺めていたいという方がいらっしゃいまして、ツアースケジュールが大幅に狂ったことがございました。
 それ以降、美術鑑賞はお時間に余裕(ゆとり)のあるときに限らせていただいております。
 お車の前方をごらんください。
 別荘地として人気の高い大室高原のシンボルともなる大室山が目の前に近付いてまいりました。ケーブルもみえますね。緑の草に包まれた標高五百八十一メートルのこのお山は、リフトを利用しますと料金は往復四百十円、お時間は四分で頂上に着きます。
 深さは七十メートル、直径三百メートルのすり鉢状の火口の周囲をめぐりますと、はるか海上には伊豆大島がくっきりと浮かび、近くは天城連山、富士のお山、遠くは南アルプスの峯までが眺望できるというすばらしい見晴らし台になっております。
 なお、山頂の浅間(せんげん)神社は縁結びの神様としてしられています」
「そこへは行けないんですか?」
 と、赤木ひとみ先生が勢い込む。
「まだ、これから先にも縁結びの名所はありますのでご安心ください」
 かおり自身が神様にお願いしたいぐらいなのに……。
「先ほど話にでました伊豆シャボテン公園には、メキシコ政府から贈られた石像三十三体などもありまして入園者の目を引きますが、ピラミッド型の温室にある世界各国のシャボテン三千五百種類にはどなたも驚くこと間違いありません。
 メキシコ民芸の店などの他に、レストランもあり、二十万平方メートルという広大な敷地には、大小百二十種にもおよぶ動物や小鳥などが自然の状態で遊んでいます。
 チンパンジーのショーも人気を呼んでいますし、その他にも、公園の一角には、カンムリヅル、ショウジョウトキなど世界中の珍鳥を集めたバードパラダイスハウスもございます。
 大室山の西側に広がる四万平方メートルの敷地にあるのがさくらの里公園です。
 この公園には、兼六園の冬桜など春の桜以外にも伊東桜、河津の桜、初春の桜など三十五種で約三千本の桜が植えられていて、花の絶えることのない公園として知られています。
 変わったところでは、大室山のリフトにあるパラグライダーのお店。最近では若い女性が伴れだって気軽に一日体験コースで大空を羽ばたき、空中散歩としゃれこんで、行くそうです。
 ハーブに興味のある方には、先ほど通り過ぎた池田二十世紀美術館前を林の中に少し入ったところにあるハーブビレッジ、平成四年にオープンしたばかりですが、約百種におよぶ香りの違うハーブが園内狭しと並んでいます。甘い香りの漂うハーブの御堂もぜひ一度は行ってみたいところでございます。
 ハーブの料理、ハーブティーなどもあります。
 これからお車は、遠笠山道路経由で国道一三五号線に戻りますが、その途中に、こちらも平成四年オープンという伊豆高原切り絵美術館が見えます。
 小じんまりしたアットホームな雰囲気のスペースに色和紙などを切り抜いて出来た作品が四、五十点づつ展示されていて、入館料は五百円、水曜日がお休みになっています」
「なんだ、あの車は?」
 黒川主任が外を指さし、全員が目で追った。
 アンティークな角型の古風なバスだった。
 ワインレッドの車体も飾り屋根もシックだが、古典的なのは車だけではなかった。
 鐘の音が車と共に遠ざかって行く。
 かおりが疑問に答えて説明した。
「ただいま通り過ぎたバスは、伊豆高原名物のリンガーベル号と申しまして、伊東駅とシャボテン公園間を一日に八往復、城ケ崎に近い富(ふ)戸(と)港からシャボテン公園間を六往復してお客を運んでいます。
 メキシコの路面電車をモデルに制作されたもので座席はベルベット張り、板張りの床、金色の手すり、そして、先ほどのキンコンカーンという鐘の音が名物になっているのでございます。
 遠笠山道路をお車と反対の天城高原に向かいますと、亜熱帯植物の中でもひときわ美しい花でもあり、「この世で一番美しい花」ともいわれるベゴニアを一年中絶やすことのない天城高原ベゴニアガーデン・プランティオがあります。
 南米アンデスの山中で発見された七種の原種から交配された数千種のベゴニアが、中世ヨーロッパの宮殿をイメージした建物いっぱいに、優雅で気品あふれるファンタジックな世界をつくり出しているユニークな温室です。
 エントランスホール、大温室、ギャラリー、クリエイトホールと歩いていますと、直径三メートルの回転するベゴニアのシャンデリア、花の流れるせせらぎ、ゴンドラの花壇など色とりどりの美しい花に包まれて、その移り香がいつまでも残ります。
 そして仕上げは、天井から足許まで花いっぱいのティールーム・ピコティでの楽しい語らい。ご同伴の女性はうっとりとなります」
「そ、そこへ行きましょ」多田女史があせる。
 あわてて隣り席の名取所長がなだめた。
「例外もあるんやろ」
「このベゴニアガーデンの周囲一帯は天城高原ファミリーパークと呼ばれています。テニスコートが三ヶ所合せて十数面あり、プール、ロッジ、レストラン、パターゴルフ。他に春から秋にかけてはテニスマシンを設置し、冬期になると全天候型インドアスケートリンクに変わるという天城高原アイスパレスもあります」
「面白そうね」
「今度、そこへ行ってみようか?」
 川口ヒロ子達が仲間内で語り合っている。
「天城高原ファミリーパークへはJR伊東駅よりバスで五十分、一日四便の定期路線がございます」
「帰りのバスもあるよね」
 と、石毛青年。ときどきとぼけた質問をするが、本気なのかどうかは誰にも分からない。
 思わずかおりもペースを乱された。
「多分、あるような気がしますが……」
 と、迷いながら答えていた。

5、ユキとエミリー花柄のTバック

城ケ崎海岸それぞれの楽しみ方

「お車は間もなく対馬(たじま)中学前を左折しまして、相模灘に面して断崖の続く伊豆の名勝、城ケ崎海岸に向かいます」かおりが続ける。
「湖のボートで適度な運動をしてお腹の虫まで空腹に泣いている方もいらっしゃるようですが、その虫を騒がせるのも今しばらくの辛抱でございます。
 これから参りますお食事処は、ボラの家(や)と申しまして、今を去る三百六十数年の昔の寛永三年とかに紀州徳川家が幕府の庇護のもとに、ボラ漁の納屋を建てたという古い歴史を秘めて復元されたカヤ葺きの建物でございます。
 ボラというお魚は出世魚でして、幼魚をオボコといい、若い娘をオボコ娘というのはここから来ています。十五センチぐらいまでをオボコ、三十センチぐらいまでをイナ、その上をボラといいますが、ボラの成長が止まった大物をトドといい、これをトドのつまりという俗言にも用いることになったのです。
 このボラ漁の根拠地の小屋に常時見張りの者がいて、ボラが回遊する季節に群れを見つけるとホラ貝を吹き鳴らし、旗をなびかせた漁船の軍団が沖に漕ぎ出し、漁をしたそうでございます。
 その勇壮な漁のために、網の手入れ、船の手入れをする人達の飯場としてもこの納屋が必要だったのです。
 こうして獲れたボラは、江戸城に運び込まれて、将軍さまの食卓を飾ったといわれております」
「おいしいお魚なんですか?」と片山美佐。
「とても、食べられませんよ」と、紅女史。
「そうなんです。あまり美味しいお魚という話は聞いたことがありません。こちらの磯料理にもボラはございません」
「なにがありますの?」
「こちらで獲れる季節の魚はすべてありますが、メニューで人気のありますのは、真鯛や石鯛、伊勢えび、鮑、さざえなどの活造りと、伊勢えび料理などですが、本日は、車えびとお刺身、かにの味噌汁などでお晝をいただきます」
「さざえのつぼ焼きはないの?」と、紅女史。
「食事に付いて来るかも知れません」
「腹へって死にそうだよ」と、ヤス主任。
「晝食と休憩の時間は一時間半です。食後はご自由にお過ごしください」
「わあ、海が見えた」三宅先生がはしゃぐ。
 道路脇に松の木が多くなる。
 潮の香りが車内まで漂って来る。
 道の左手に城ケ崎の漁港がある。
 小さな漁船が堤防の内側に肩を寄せ合って並んでいるだけの小じんまりした漁港だ。
 その堤防の外側は見渡す限りの相模灘、水平線の彼方に夏の終りを告げる入道雲が湧いていた。
 観光バスが駐車場に入ると、窓の外をかもめがかすめ飛んだ。
 エンジンを止めると、波の音が耳に届く。
 鳥の鳴き声が聞こえ、車から降りると高い樹木のはるか上をトンビが番(つがい)で舞っていた。
「あら、ここがトイレ?」と、ユキちゃん。
“潮騒の手水処”と看板のある立派な建物がある。ご一行の一部がぞろぞろと近付く。
「シオサワギのテミズドコロ?」
 エミリーが声に出す。
「潮騒(しおさい)、手水(ちょうず)って読むのよ。トイレのことを手水場(ちょうずば)っていうでしょ」と、春代ママ。
「そんなの知らないわ」と、ユキちゃん。
 その反対側のカヤ葺き屋根の磯料理の店の横の看板を眺めているのは、教員グループ。
「ボラが回遊する三月~五月、九月~十一月に漁師が住みこみ、ホラ貝を合図に百人以上が……。へえ、大げさだったんだなあ」
 と、三宅先生が妙に感心している。
「こちらで、お食事になりますのでお入りください」
 建物前の広場を横切ると、海辺の岩の上に古い船を改造した建物や海の家、休憩所があり、その下に岩の凹みを上手に活用して作られた二十五メートル規模のプールがある。その先の岩場の下にかすかに砂場があって海水浴場になっている。本来はもう遊泳禁止だ。
 海の家は、八月いっぱいで保健所の許可が切れるから閉鎖され、プールの水も干されている。しかし、海辺に人は多い。
 ハイレグ姿の若い女性がプール脇で腹這いになって日光浴をしているのを見て、カズが喜び、冷たい視線を浴びている。
「食事ですよう」
 敦子が必死で叫んだので、ようやく海を眺めていた一同が食事の用意された店内に集結した。
 乾杯の音頭は、加藤教頭が推(お)されて立った。
「みなさん、お腹の空いたところでビールは効きますが……」
「もう効いてますよう」と、紅女史。車内で遠慮しながらもかなり飲んでいる。
「僭越ですが、それでは、これからの旅の幸せを祈念しまして乾杯!」
「カンパーイ!」 全員、声高らか。
 豪勢な磯料理にビール付きだから、盛り上がる。歌も出たし、きわどい冗談の笑いも出る。
 すでにお互いの顔と名前も一致するようになっているから遠慮もなくなる。
 お互いにワイワイガヤガヤ飲み始めた。
「オレ、今回は海パン持って来てるんだ」
 内藤主任がいい出すと、
「うちも、みんな持って来てるんよ」
 と、ユキちゃんがいう。
 宿泊するホテルにプールがあると聞いているから、ほぼ全員が水着持参で参加している。
「ちょっとだけ泳ごうか?」と、ミッちゃん。
「おっ、オレ達も泳ごう」と、カズが叫ぶ。
 昼食のパーティが一気に盛り上がった。
 甘えび、イカ、真鯛、アジ、サザエ、マグロ、ハマチなどの刺身の盛り合わせに、カニとエビがゆでられて真っ赤になって皿の上にいる。サザエのつぼ焼きも小粒ながら付いていた。味噌汁にもカニの足が入っている。
 それに天ぷらが付いた。食後の果実もある。
「お昼はとりあえず五ツ星ね」
 グルメを自負する多田女史も大満足のご様子。全員かなり空腹だったのか、きれいにテーブルの上が片付いた。
「半四郎落しの橋を渡ってみようか」
 中田裕子の発案で、ギャル組は食事のあとピクニカルコースに出かけることになった。

「でも、相当時間がかかるわよ」と、川口ヒロ子。
「海岸公園まで行かないで橋を渡れば満足じゃない」と、間中ジュン。それで決まった。
 一リュウクラブ組が海水浴を楽しむということで、ユキちゃんに誘われた黒川主任が内藤主任を誘い、エミリーに誘われたカズがゴンを誘う。
 ヤス主任が迷った。
 そっとミッちゃんを見て、間中ジュンに視線を移した。二人共、美人で可愛いい。
 ミッちゃんは、大きな口を開け歯まで見せて、食後のデザートに出た西瓜にかぶり付いていた。ジュンは上品な仕草でお茶を飲んでいる。これが逆なら考えも変わったかも知れない。
「よしっ、オレはジュンちゃんと一緒に行くぞっ。カズ、おまえも来い」
「あれ、ヤス兄貴、オレたちと泳ぐんじゃなかったの?」裏切られたカズが愚痴る。
「お食事いかがでしたか?」
 別のテーブルで運転手の浜田やかおりと他社の乗務員と一緒に食事をしていた敦子が先に一人で出て来て、料理の味を聞いた。
「ベリーグーよ」
 セイ子チイママがお腹を叩いた。
「船に乗って観光する時間あるやろか?」
 と、名取所長、歩くのも泳ぐのも大儀そう。
 実は、ビールだけでは物足りず冷や酒をコップで数杯呑んで大分出来上がっているから酔い冷ましに海の上など、と考えたらしい。
「船酔いしちゃいますよ」
 と、紅女史が気を使ったが、すでに酔っているのだから、どうでもいいことだ。
「快速のクルーザーがあります……」
 敦子が時計を見た。
「この先の漁港からセンチュリー号という遊覧船が出ていますが、時間が半端のようです。
 臨時の出航があるか聞いて見ましょうか?」
「いや、行ってみるから」と、名取所長。
「おいくらかしら?」
 セイ子チイママ。さすがに主婦だ。
「お一人、千三百円です」
「そのぐらいなら払えるわ。私も行こう」
「あら、チイママ、泳ぐんじゃないの?」
「ユキちゃん、ごめん。私、船に乗るわ」
「じゃ、私もそっちにしょう」と、春代ママ。
 だぶつき気味のプロポーションを衆目にさらしたくないらしい。
 かくして、食後のレクリエーションは三班に別れることになった。
 名取、相田、中川、佐山、加藤、カメ部長の男性陣と、春代ママ、チイママ、紅、多田の両女史、片山美佐、宮崎先生の十二人が連れ立ってぼらの家料亭から北側の漁港めざしてゾロゾロと、しかし、口だけは達者に歩き始めた。春代ママがすでに感極まっている。
「海から城ケ崎を眺めるなんてステキよね」
 水泳組は、早くも着替え場所を探し、和気あいあい水着姿を見せ合ったり、眺めたりしてから岩場に出た。真夏同様の厚い陽ざしだ。
 岩場にパーッと花が咲く。
 細田久美江が赤、ミッちゃんが黄を基調に派手な水着で肉体美を競う。スリムで色白のエミリーとユキちゃんは華やかな花柄のTバック、お揃いの水着。四人共、それぞれ「カッコイイ!」から目立つ。
 坂本、福原、赤木の教員グループも水着姿となると魅力的。内藤、黒川、ヤマカン、タケ、マサ、サダの面々、すでに目が血走っている。早く水に入って冷やさないと危ない。
 ぼらの家裏の坂道からピクニカルコースに向かったのは、敦子とミカ、裕子・ヒロ子・ジュン・エミの四人組、ヤス主任、カズ、ゴン、三宅先生、石毛青年の総勢十一人。
「しーずかーなうみべーのもりのなかから、もうおきちゃいかがとトリがなく、カーア」

「キャア、イヤヨ、そんなうたー」
 林の道から海が見下ろせる。

6.三宅先生ウクレレ身代わり事件

城ケ崎ピクニカルコース散策

上空から眺めれば、大きな鷹が鋭い爪を海の底に突き立てでもいるように見える筈だ。

 岬は岩を剥き出して鋭い爪先のように太平洋から押し寄せる荒波が押し寄せ豪快に砕け散り白泡を噴いている。
 その鷹の爪のような岬には、それぞれ名称がある。「まえかど」「こずり」「おおずり」などと呼ばれている。その景色は美しい。
「ここは、昔、大室山の噴火で流れ出た溶岩が冷え固まって出来た岩礁の岬が入り込み、このように美しい景色を……」
 と、つい敦子の口調がガイド調になり、ハッとしたように照れ笑いをして口調を変える。
「ほら、あそこを見て! 韮山の代官だった江戸川太郎左衛門が築いた黒船撃退用の砲台跡があるのよ」
「城ケ崎ブルースの歌碑もあるの?」とエミ。
 ヤス主任が反応した。
「オレ、あの二番が好きだな。
いのちのかぎり、愛せたならば
たったひと夜の 夢でもよいと……」
「あら、あなた、それ、男の発想でしょ。ズルイわよ。一晩だけで逃げるなんて」
 ジュンがムキになって抗議した。
「でも、ゆかねばならぬ男が一人って歌なんだから仕方ないんじゃないのか」
 と、未成年のゴンが生意気に兄貴分の援護をする。三宅先生がウクレレを奏でた。
「でも、生命がけで好きだったら連れて行けばいいじゃない。ねえ、そうでしょ?」
 と、ジュンがヒロ子に訴える。
「そうよ。二人の恋の城ケ崎っていうじゃない。これじゃ、いい思いして逃げる城ケ島よねえ」と、ヒロ子も手厳しい。
「灯台まで行く?」と敦子が聞く。
「橋を渡ったらすぐ戻って泳ごうぜ」
 カズはまだ海水浴にこだわっている。
「天候によっては、この吊橋は通行止めになるのよ。風で揺れると危険なの」
 敦子がおどかす。橋までは十分ほどで着く。
 長さ四十八メートル、海面から約二十三メートル、鉄鎖の手摺りを握りながら板敷の狭い吊橋に、腰を引いたり声を上げたり十一人の男女がそろそろと足を踏み入れた。
 そのとき、突風が襲った。
 九月になると天候も気まぐれになる。
 丁度、橋の中央に全員で立ち止まり、絶壁に打ち砕け散る荒波を眺め歓声をあげていたところに強風が来たから吊橋が大揺れに揺れた。
「キャアー!」
 絶叫した小岩井エミがとっさに身近にいた石毛青年にしがみついた。
 それを見た間中ジュンが、真似をして、
「こわーい!」
 と、ヤス主任にしがみつく。
 さらに、それを見ていたカズが、
「オレもこわーい!」
 と、狙い定めてヒロ子に駆け寄り、抱きついた。ヒロ子は鉄ロープにしがみついている。
 ゴンまでが裕子にとびつき肩を抱く。
 三宅先生は一瞬あせった。
 敦子とミカのどちらにしようか、と迷ったがこの際、準ミス東京に選ばれたほど美人の敦子に狙いを定めてとび付こうとした。
 しかし、橋は大揺れに揺れている。
 三宅先生がよろめきながらも敦子の肩に手を触れそうになったとき、敦子がミカに手を引かれて一歩二歩横に動いたから三宅先生は、宙に右手をかざしたままロープとロープの間にからだを乗り出した。ウクレレが落ちた。
「た、たすけてぇー!」
 目の下に荒波が牙を剥(む)いて獲物が落下して来たら一呑みとばかり広い波頭を踊らせている。ロープを掴んだ左手も千切れそうだ。
 スカイダイビングならパラシュートがあるし、バンジージャンプには命綱がある。
 異常に気付いた石毛とヤスとゴン、それぞれ天変地異で舞い込んだ千載一遇の大チャンスで頬も張り突ばされずに抱きついた肌のぬくもりと三宅先生の生命とを一瞬、ハカリに掛けた。結論はすぐ出た。
「三宅先生! ガンバレッ!」
 と、口と耳だけは救助に向かったが、手とからだはそれぞれ抱えた美女を離すまいと、その場から微動だにしない。
 三宅先生は見捨てられ、宙に舞った。
 いや、舞う寸前にミカと敦子がしっかりと足首をつかんだから、岩場から腰にロープをつながれて逆さまにされ度胸を試される修験僧が先輩にしごかれる状況同様になった。
「親に孝行するかー!」
「世のため、人のためにつくすかー!」
「ハイ、します。なんでもしますー」
 と、涙をポロポロ流すシーンに似ている。
 二人の女性が必死で引き上げようとするが、スリムでも長身だから体重はあるらしく意外に重く感じられる。
「離しちゃう?」と、ミカ。
「バカ、なにをいうのよ。あんたたち、何してるのっ。早く手伝いなさいよ!」
 イヤイヤ、女性から離れた三人の男たちがよろよろ近付き、長身の三宅先生の身体を乱暴に一気に引き上げた。風は止んだ。
 それまで涙を流して絶叫していた三宅先生、まだ揺れている橋の上でまっ蒼になって放心状態。ミカがかがんでティッシュで涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れたその顔を拭いてやる。
「しっかりしろよっ」
 ヤス主任が口をとんがらせてカツを入れた。
 他の二人も同じような顔で見下ろしている。
 無理もない。三宅先生が立ち上がった。
 神風が吹いて、棚ボタで獲得したラッキーチャンスが中断させられ、救出後、再度抱きついたカズはビシッと頬を張られ不満顔だった。
 ゴンはやんわりと肩を押され、ヤス主任も
「ありがとう。もう大丈夫よ」
 感謝はされたが、手を握らせていただくのがせいいっぱい、抱きつきは拒絶された。

「どちらでも同じじゃないか?」と、疑問を持つ女性がいたら、この際、彼等の気持を正直に正しく伝えたい。男なら理解出来る。
 手を握るのと、やわ肌をしっかりと抱きしめるのとでは天と地どころか、ダイヤモンドと砂粒以上の差がある。
 抱きしめたときのぬくもり、息づかい、かすかな肌のにおいが城ケ崎のリアス式海岸にそよぐ相模灘の風にのって、日頃は困った人の息の根を止めるような高利の金融と回収で多忙なヤス主任の心をおだやかなやすらぎと幸福感で包んでくれ、欲求を満たしているときに近い満足感を与えてくれたのは事実だ。
 しかし、握手ではイメージも湧かない。
 それでも、それを顔に現わすと手を振りほどかれるから、一応、笑顔で橋を渡りきる。

 三宅先生は、未練たらしく海面を覗き込んだ。豆粒のように小さい木片が見える。
 ウクレレは荒波に翻弄され、今にも粉々に砕け散るかのように漂っていた。
「ボクの大切なウクレレが……」
 今にも泣きそうな表情で橋を渡る。
 渡り切ったところで、ふと敦子は他のメンバーが気になった。すぐ戻らねば。
 あの強風で突然のように海は荒れたが、海水浴のグループはどうしているだろうか。

「さあ、戻りましょ」
 風は凪(な)いだ。海はまた牙をかくした。
 石毛とエミ、ヤスとジュン、カズとヒロ子、ゴンと裕子が手をつなぎ、愛するウクレレを失った失意の三宅先生もミカに手を添えていただいて嬉しそうに橋を渡る。
 若者たちの恋心を乗せて橋がゆらいだ。
 敦子だけは一人で橋を渡る。海も空も青い。