投稿者「花見 正樹」のアーカイブ

56-青森県弘前市「岩木山神社」

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開運スポット巡りー56

開運招福、無病息災、念願成就、
青森県弘前市「岩木山神社(いわきやまじんじゃ)」

東北の霊峰、津軽富士の名で知られる岩木山は山全体が霊場です。
この山をご神体として拝むような形で社殿を持つのが岩木山神社です。
青森で「お岩木さま」と呼ばれ、親しまれている岩木山神社は、奈良時代の宝亀11年(780年)の創建です。
およそ千二百年の歴史を持つ由緒のあるこの神社は、本州最先端の鎮守さまであり、室町時時代には山伏たちが霊力を求めて修行に励んだ修経道の中心地でもありました。
9世紀の初頭に、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷を平定した時、この神社を再建したといわれ、古くから陸奥、津軽の開拓の神、農海産物の守護神、そして祖霊の座するところとして崇められてきました。
そして現在も、開運の神様として宗派を超えて崇敬されています。
さらに、この岩木山神社は、直感を研ぎ澄まし霊的な感性を高めてくれるという気質を持っています。
したがって、さらにスピリチュアルな能力を高めるたまに、岩木山神社の正しい気をきちんと受け、さらに白雲大竜神のパワーを借りることをおススメします。現在の社殿は、江戸時代に津軽藩主が初代より四代に渡り造営したもので、極彩色の華麗な彫刻が施された朱塗りの6棟の建物があり、周囲の老杉の緑がよく映え荘厳であり、全て重要文化財に指定されています。これらの全ての霊力を借りることで、大きなパワーを身に着けることが出来ます。

岩木山神社の御祭神は、顕国玉神(ウツシクニタマノカミ)多都比姫神(タツヒメノカミ) 宇賀能賣神(ウガノメノカミ) 大山祗神(オオヤマヅミノカミ)そしてこの神社を再建した坂上田村麻呂命も祀られています。
白雲という名の由来は、岩木山の山頂がいつも雲で覆われている所から来ており「白=浄化」のパワーを持つ白雲大竜神のエネルギーが、霊障や邪気などに対して守護の働きをしてくれるのです。
本殿の後に白雲大竜神の社を参拝し、二つの気が合わさることで初めて直感力を現実世界で活かす事ができるのです。
さらに直感を研ぎ澄ますためにお手水の所から流れてくる水を自分の頭にかぶったり、眉間にある第三の目に当てたりするのが有効です。
岩木山は、山全体が信仰の対象で標高は1625メートル、歩くと4~5時間ほどですが、神社から車で30分走った所に リフト乗り場があり、そこからリフトで十分ほど乗りますと頂上近くまで行けます。
リフトを降りてから40分ほど歩くと岩木山の磐座があり、ここが岩木山の真のパワースポットです。
ここに立つと、日常の疲れた魂も癒され、岩木山の神聖な大自然のパワーを全身で受け取ることが出来ます。
この素晴らしいスピリチュアルな直感力を磨き高めてくれるパワースポット岩木山をあなたも是非体感してみてください。
もちろん、山は拝むだけで登らずに、神社だけに訪れても、そのパワーは充分に感じ取れます。

アクセス
青森県弘前市百沢字寺27
電話0172-83-2135
JR奥羽本線、弘前駅より弘南バスで枯木平行き約40分
岩木山神社下車すぐ


56-山形県「鈴立山若松寺」

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開運スポット巡りー56

縁結び・永代供養・
山形県天童市の「鈴立山若松寺」は、寺歴によると、今から約1300年前の奈良時代、の和銅元年(708)に行基菩薩が開山した霊場です。
その後、150年ほどを経た平安時代の貞観二年(860)に、慈覚大師(円仁和尚)が当山の山頂付近にあった御堂を現在の地に移して、大規模な造営工事をしして現在のような伽藍配置をしました。
慈覚大師は、山寺の立石寺を開山された方で、この時期に奈良仏教の法相宗から平安仏教の天台宗となり、開山が行基菩薩、中興の祖が慈覚大師として祀られています。
室町時代には西国の観音巡礼信仰が東国にも普及し、最上三十三観音札所の第一番に位置づけられていて、現在も毎年多くの巡礼者が訪れています。

江戸時代には観音堂を大改修し、三代将軍徳川家光が御朱印として保証しています。
若松寺は、「縁結び」観音として知られ、旧正月に行われる「鬼やらい」は「色力安穏」と いう人間の本願を祈念する行事として有名です。
また、縁結びの若松寺で結婚式を挙げると、末永く夫婦円満との説があり、ここでの挙式もお勧めです。

所在地・アクセス
鈴立山 若松寺
山形県天童市大字山元2205-1
電話・023-653-4138
Fax・023-653-2700
JR「天童駅」から車で15分。


55、岩手県・盛岡八幡宮

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開運スポット巡りー55

開運招福、厄除除災、念願成就、技芸上達、良縁成就
岩手県・盛岡八幡宮(もりおかはちまんぐう)

盛岡八幡宮の歴史は古く、延宝8年(1680)、第29代藩主・南部重信公によって建立されました。
ここに祀られている神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと=第15代応神天皇)で、農工業、商業や学問、衣食住など人の生活の根源を司る神として地域の人々の多大なる崇敬を集めています。
過去の盛岡大火などの災害などで社殿は再建され、現在の社殿は平成9年12月に新八幡宮として建て直されたものです。
彫刻の施された色鮮やかな朱塗りの大社殿が、県下一の大社として人々の生活に根ざした信仰や祝い事の拠りどころとなっていて、多くの参拝者で賑わっています。
とくに賑うのは秋の例大祭(9月13日~16日)です。
盛岡の秋祭りでもある八幡宮例大祭は、9月13日の宵宮祭からはじまり、14日の神輿渡御、15日の例大祭・崇敬者大祭、16日の神事流鏑馬(やぶさめ)と4日間続き、盛岡市全体が盛り上がります。
このほか、献茶祭、稚児社参など、さまざまな行事があり、期間中は、10万人以上の参拝者が訪れます。
盛岡八幡宮の正面階段を登ると拝殿が見え、拝殿の正面には扉があり。ここは誰もがいつでも参拝できるように24時間扉が開けられるようになっています。
拝殿の中では、各種の祭事や神前祈祷が執り行われますが、その内外には、岩手県の「県花」の桐の花の彫刻が随所にほどこされて華麗な装飾となっています。さらに、正面扉の上には旧拝殿から引き継がれた「八幡宮」の額があります。

ここでは、巫女の舞いや祝詞奏上、初宮参りや七五三、厄除けなどの各種の祈祷も執り行われます。
ここでの結婚式は、約100人収容の大広間がある檜(ひのき)の香る儀式殿で厳粛に行われ、ここで結ばれた夫婦は末永く幸せに暮らすといわれます。
この八幡宮には珍しく、狛犬の代わりに神に仕える2体で一対の鳩の木像があります。一方の鳩は阿形(あぎょう)で口を開け、もう一方の鳩は吽形(うんぎょう)で口を閉じ、阿吽(あうん)の呼吸を表しています。
手水舎(てみずしゃ)に使われているのは「水堀石」といわれる大石で、もとは岩手郡内・北の浦の滝壺にあった石で、流水によって自然にくぼみが形づくられた珍しい石で、明治21年の八幡宮再建時に、八幡町の人びとから奉献されています。
神宝殿(しんほうでん)には八幡宮に古くから伝わっている宝物など重要な品々が数多く保管、 展示されています。
その一つに「蛇切丸」の異名をもつ宝刀の脇指(わきざし・岩手県指定有形文化財)があります。
初代国義(現在の福岡県出身、延宝年間の初めに南部重信に仕えた)が制作したと伝えられています。
この宝刀「蛇切丸」の名の謂れは、玉山氏の先祖である大和の守が、陸奥三戸蓑ヶ坂において大蛇を退治したと伝えられている名刀で、延宝9年(1681)8月の八幡宮のはじめての祭礼のときに藩主が寄贈したといわれています。
その他、この盛岡八幡宮には延宝9年(1681)から現在まで3000年以上も用いられてきた旧神輿と、漆仕上げの上に螺鈿(らでん)をほどこした東北唯一の重厚な新神輿があり、これも人々に知られています。

さらに、盛岡八幡神社の境内には、数多くの神社があります。
中でも笠森稲荷神社(かさもりいなりじんじゃ)は、八幡宮が建てられる前から八幡山の山頂に祀られていて、主神は宇迦之御魂命(うたのみかたのみこと)で、五穀豊穣・商売繁盛、さらに瘡病(そうびょう=吹き出物)の守り神として知られています。
つぎは神明社(しんめいしゃ)です。
神明社に祀られている神さまは天照大神(あまてらすおおみかみ)です。
伝承によると、延暦の昔、坂上田村麻呂が盛岡の仁王に建てたのがはじまりで、元禄時代に煙草丁(現在の明神町)、その後で八幡山にと移され、明治17年(1884)の大火で焼失、昭和43年(1968)に現在の盛岡八幡神社に祀られたものです。
さらに、岩手護國神社(いわてごこくじんじゃ)があります。
戊辰戦争で亡くなった岩手県関係者をお祀りしている神社です。
明治2年に当時の県知事・南部利恭が岩手郡東中野村茶畑(現在の盛岡市内)に社殿を建て、戊辰戦争で亡くなった将兵を祀りました。 その後は、戊辰戦争だけでなく西南の役、日清・日露、第一次世界大戦、太平洋戦争にいたる戦没者、約3万5千柱以上の英霊をお祀りし、明治39年に盛岡八幡宮境内に移され、昭和14年に「岩手護國神社」と改称されています。

さらに、境内にある末社に、男女の縁結びで知られる「縁結美神社(えんむすびじんじゃ)」があります。
こちらは、男女の縁、人と人のご縁を結ぶ神社で、赤い結び紐を境内に結び、良縁成就、恋愛成就を願う人たちで賑わいます。
つぎの末社は、高倍神社(たかべじんじゃ)で、磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)と四条中納言藤原政朝卿(しじょうちゅうなごんふじわらのまさともきょう)のを神さまとして、醤油や味噌などの調味料や料理、飲食の守り神として有名です。
とくに、調理によいということから女性の守り神でもあり、調理を仕事にする人々の守り神として敬われています。

高倍神社の例祭および包丁式は例年、6月15日に行われます。
料理の守り神の高倍神社の例祭ですから、例祭の終盤には岩手県内調理師会の人々によって、包丁式が奉納されます。
魚に直接手を触れず、息もかけずに長包丁で魚をさばいていく伝統的な儀式です。
盛岡八幡神社の境内をひと回りすると、まだまだ沢山の末社や碑や記念物があり過ぎて説明に困るほどです。
料理人が詣でる「庖丁塚(ほうちょうづか)」、交通事故撲滅を願う「交通安全祈祷殿(こうつうあんぜんきとうでん)」、安産祈願の「梅宮(うめみや)」、農耕の神、豊漁の守護神として尊ばれ、縁結びにも欠かせない「大国・恵比寿様(だいこく・えびす)」、生まれ年の12支それぞれに守り神のいる「十二支神社(じゅうにしじんじゃ)」、受験生の合格祈願の神様・菅原道真公を祀る「盛岡天神社(もりおかてんじんしゃ)」、五臓六腑の守り神「健康神社(けんこうじんじゃ)」など、まだまだ続いて切りがありません。
ここ盛岡八幡神社は、岩手県一のパワースポットと言われるのにも納得です。

所在地
〒020-0872  岩手県盛岡市八幡町13-1
電話・019-662-5211
交通アクセス
JR盛岡駅からバスで20分
八幡宮下車・徒歩すぐ。


福島市・羽黒神社

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開運スポット巡りー54

縁結び、無病息災、開運多幸
福島市・羽黒神社(はぐろじんじゃ)

福島市の北部にある羽黒神社は、羽黒・月山・湯殿の三神社が祀られていて、信夫三山のひとつ、羽黒山山頂に銀座する神社です。
山形の出羽三山よりも歴史が古く、中世山岳信仰の面影を今に伝える古社です。
伝承によると羽黒神社の創建は、欽明天皇の代に王位継承の内乱が起こり、后である石姫命が皇子・渟中太命を伴いこの地に逃れてきて、二人共この地で亡くなりました。それを憐れんだ地元の有力者が、石姫命を黒沼大神に、渟中太命を羽黒神として祀ったものです。
羽黒神社は古くから信仰された信夫三山の一つである標高268mの羽黒山に鎮座し、中世に入ると信夫山は修験僧修験の場として発展したそうです。参道には寺院建築の要素である仁王門の跡があります。
歴代領主からも崇敬され、伊達政宗公が仙台に移った時、城下町に分霊を勧請したことで新たに羽黒神社を建立しました。
その後、明治に入って神仏習合から神仏分離への発令で、御神体の渟中倉太珠敷命の聖観音像も真浄院に移されました。
社殿は、弘化2年(1845)の建築でしたが、昭和51年(1976)の火事で焼失し、現在は新しく建て替えられています。

仁王門にあった大草鞋は、信夫三山暁参りの大わらじ奉納、という形で引き継がれています。
毎年2月10、11日に開催される信夫三山暁参りでは、長さ12m・重さ2トンという日本一の大わらじが奉納されます。
その大わらじが、8月に行われる「わらじ祭り」で山から福島市の市街地に下ろされて、市民の健康と多幸を祈願して練り歩きます。
羽黒神社は、今では「縁結びの神」として知られ、3年続けて「暁参り」にお参りするとどんな恋でも結ばれるといわれます。
さらに、その恋を確実にするには、信夫山から福島市内の夜景をバックにしてプロポーズするといいそうですが、その状態でメールするのも有効だという説もでていて、ここが意外な恋愛パワースポットになっています。
さらに五穀豊穣、無病息災にもご神徳があり、地元の人々の信仰を集めています。

ACCESS
〒960-8023 福島県福島市御山字羽山
電話 024-535-0519
JR福島駅東口→福島交通バス市内循環線で10分
バス停:福島テレビ前下車、徒歩30分
車: 東北道福島飯坂ICから国道13号経由10km15分
駐車場: あり. 料金: 境内自由


宮城県仙台市・二柱神社

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開運スポット巡りー53

無病息災、恋愛成就、良縁祈願
宮城県仙台市・二柱神社(ふたはしらじんじゃ)

平安時代の万壽2年(1026年)に市名坂の修林壇(現七北田東裏)に創祀(社蔵記録)され、ご祭神は伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の夫婦神二柱をお祀りしています。
その後、国分氏の荘園内の8ケ村の総鎮守として祀られるに至りますが、国分氏の没落後は伊達氏が宿場を開設して、神社もまた市名坂冠川沿いの清浄な岩壁上の霊地に移り、さらに寛文2年(1662年)4月に現在地に遷座しました。

昔から恋愛の神様として知られ、別名「仁和多利(にわたり)大権現」といわれ、特に子どもの無病息災をお守りくださる「おぼつ子(子ども)神様」として霊験あらたかな神様といわれています。
遠くは関東方面から、良縁祈願、子授けを願う夫婦、登校拒否などで悩む親が参拝される神社です。
先年の東日本大震災で大きな被害に見舞われましたが、ようやく復興を遂げました。
若者たちの参拝が途切れることがありません。

所在地&アクセス
宮城県仙台市泉区市名坂西書61
JR「仙台駅」から地下鉄にて「泉中央駅」下車、徒歩約8分。


京都 御寺・泉涌寺

 

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開運スポット巡りー52

夢を結び夢を叶える
、美人祈鹸・貴妃観音のご神徳

御寺・泉涌寺(みでら・せんにゅうじ)

京都東山にある御寺泉涌寺。月輪山の麓にたたずむ総門を入ると、長い参道の両側には山内一円の塔頭寺院が並び、奥まった境内には大門(重文)、仏殿(重文)、舎利殿を配し、そこに天智天皇以降の歴代天皇、皇族方の霊明殿が建っています。
ここは唯一の皇室の菩提所であり、昭和31年までは一般に公開されず、それゆえ「御寺」と呼ばれる所以となっています。
寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めたとのことです。
仏殿に安置されている仏像は、運慶作と伝える弥陀・釈迦・弥勤の三尊像で、過去、現在、未来の3世にわたって人々の平安を見守っています。泉涌寺には、ぜひ訪ねておきたい場所があります。楊貴妃観立日像は、唐の玄宗皇帝が当時絶世の美女と謳われた楊貴妃を寵愛し、亡くなった後も楊貴妃を偲んで像を遣らせたという伝承があり、それを日本からの僧侶が宋から持ち帰り、ここに「楊貴妃観音堂」を造りお祀りしたとのことです。

端正な顔立ちと気品あふれるな容姿をもち、日本一と呼ぶに相応しい楊貴妃観音像の美しさにあやかろうと、今では多くの女性たちが「美人になりますように」とそのご利益に期待を込め、連日訪れています。

泉涌寺の大門をくぐった左手に建つ常書聖には、楊貴妃観音坐像が安置された楊貴妃親書堂があり、一般参拝者のために厨子の扉を開放しています。さらに、境内にある舎利殿に描かれた狩野山雪の天井画も12年に一度特別公開され、静かな舎利殿の中で手をたたくと、天井画の籠が鳴いているような反書音が返ってくるのです。

所在地&交通
京都府京都市兼山区泉涌寺山内町27
JR「京都駅」から市パスで「泉涌寺道」下車、徒歩7分。


埼玉県さいたま市・調神社

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開運スポット巡りー51

小林 永周

開運、金運財運、家庭円満、家業安泰
埼玉県さいたま市・調神社(つきじんじゃ)

調(つき)神社の別称は「月の宮」ともいい古くから月待ち信仰の神社で知られ、狛犬代わりに狛兎が神社を守ります。
しかも、この調神社には、次の七不思議が伝わっています。
1、鳥居がありません。その代わりに注連縄が張られています。
この地に伊勢から参向した倭姫命(やまとひめ・三重県伊勢市・倭神社祭神)の命で、調物の運搬の妨げとなる神門・鳥居を除いたことによるそうです。
2、境内に松の木が一本もありません。
当社祭神の姉神・天照大神(あまてらすおおみかみ)が弟神・素盞嗚尊(すさのおのみこと)の帰りを待ちわびていたのですが、弟神は大宮の氷川神社の祭神になってしまい、戻って来ません。それを知った姉神は「もう待つのは嫌じゃ」と言われたことに由来する説と、弟神を待つ姉神の片目に松の葉が刺さって目を怪我したことで松を排除したとする説があります。以後、ここでは松を植えません。
3、御手洗池(ひょうたん池、今はない滅)の池に魚を放つと、その魚は片目になるそうです。
これも姉神の片目怪我伝説によるものと思われますが、実際に片目の魚を見た人がいるそうです。
4、狛犬に替えて狛兎を神社の使姫とした理由。
調神社の別名が「月の宮」てすから月への使者なら兎が適任、当然です。
5、日蓮聖人駒つなぎのケヤキとは?
佐渡が島に流罪への途中、当地に立ち寄った日蓮聖人が、ここで難産に苦しんでいた女性のためケヤキに駒を繋いで安産祈祷をしたことに由来するといいます。
6、夏でも蝿がいないこと。
7、夏でも蚊がいないこと。
6と7は、清潔志向の現代ならいざ知らず、昔からの言い伝えなのですから不思議、謎は解けません。

調神社の創建は古く、紀元前百年以上前の第9代開化天皇の乙酉年3月に創建されたと社記(寛文8年(1668年)の『調宮縁起』)にあるとされます。
その上、第10代崇神天皇の時に、伊勢神宮斎主の倭姫命(やまとひめのみこと)が来訪し、当地を選んで神宮に献上する調物を納める倉を建てた上で、武蔵、上総・下総・安房、上野・下野)など関東一円の初穂米の集積所と定めました。
なお、倭姫命は第11代垂仁天皇の第4皇女で、一部の歴史研究家の間では、その活躍した時代からみて倭の国の卑弥呼と同一人物とも見られています。さらに、前述の開化天皇は欠史八代天皇の一人で、歴史上からは抹殺されていますが、各地の神社仏閣の歴史に名を連ねていますので、いくら記紀からその存在を抹消しても否応なしに名は残り、その時代の事蹟は残ります。
、歴史じぃうからはではないか? とされています。こそ、
さらに宝亀2年(771年)6月20日には勅使として藤原朝臣某が訪れて奉幣を行い、今も新暦の7月20日に大祭を行っています。
これらからみて、神社名の「調」は、朝廷への貢ぎ物=調物からとみて間違いないようです。
と、なれば、調神社に鳥居が無いのも、倭姫命の命で調物の運搬の妨げとなるから無用だったとみることが出来ます。

取り払ったことによると伝えており、この伝承も調神社の前身が御倉であったことを表すものとされる[3]。そして伝承中で奉幣があったと伝える宝亀2年(771年)には武蔵国の所属が東山道から東海道に変更されていることから[5]、この街道変更により調物が通らなくなって役割を終えた御倉が神聖視され、神社として奉斎されるようになったのが実際の創建になると推測されている[3][4]。
さらに、文献などによれば、祭神を瀬織津姫(せおりつひめ)や調玉命などの祭神名もあり、祭神大所帯で賑やかなのかも知れません。
立派な祭神が仲良く在位されているのですから、その分霊験あらたかなのは言うまでもありません。
とくに、倭(やまと)朝廷の軍用米を蓄えたことからも蓄財や生活安泰ご利益が多大にあるとされ、良縁、安産、健康にも吉とされます。
その古い時代から、月待ち神社として知られた調神社には、文人墨客の来訪も多く、寛政3年(1791年)4月11日には、俳人の小林一茶が来て、「月よみの宮」として紀行文に載せています(一茶全集第5巻)。
社殿は本殿と拝殿が一体となった権現造りで安政5年(1858年)の造営、その一部は今でも使われていて、社殿はさいたま市指定文化財です。さらに、境内のケヤキやムクノキの古木の林は「調神社の境内林」として、さいたま市指定天然記念物に指定されています。
さいたま市指定文化財としては、有形文化財・旧本殿(建造物)で江戸時代の建立。さらに、扇面三十六歌仙絵 18面(絵画・江戸時代)があります。さらに、室町時代作の神輿鳳凰(工芸品)で、神輿の頂に取りつけられていた鳳凰が文化財に指定されています。
その他、まだまだ文化財に指定されている物はありますが、ここまでにします。
それにしても、さすがは月の宮神社、月待信仰を反映してか多くの兎の彫物が建物のあちこちに施されていました。

所在地
埼玉県さいたま市浦和区岸町3丁目17-25
交通アクセス
JR東日本鉄道・京浜東北線・宇都宮線(東北本線)・高崎線・上野東京ライン・湘南新宿ライン
浦和駅 (西口から徒歩約10分)


東京・築地本願寺&開運道サロン

 

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明けましておめでとうございます。
 本年も宜しくお願いします。
  平成30年元旦
     小林 永周

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開運スポット巡りー50

開運、恋愛、愛情、家庭円満、家業安泰
東京・築地本願寺&開運道サロン
  NET上での初詣は築地本願寺で!
本年の年明けは、愛情パワースポットの隠れ名称で知られる築地本願寺からのスタートです。
これが「お寺?」と怪訝な表情で参拝される方もいますが、インド洋式のユニークな建物も見慣れると落ち着いていいものです。
築地本願寺は、京都・西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派の直轄寺院で、大正12年(1923)の関東大震災で本堂が焼け落ちたため、帝国大学工学部教授の伊東忠太博士の設計によって、昭和9年(1934)に現在の地にインド様式の石造りで建てられたものです。

外側はインド風ですが、中に一歩入ると、その荘厳な真宗寺院の伝統的造りになっていて身が引き締まる思いがします。
この築地本願寺は、平成26年(2014)年に国の重要指定文化財に指定されていて、さらに「ひらかれたお寺」をキャッチフレーズに10年間で約40億円を投じての大プロジェクトを進めている最中です。 築地を代表する本願寺には、都心に近いこともあり全国から集まる門徒や日本人観光客だけでなく外国人観光客も多く訪れ、とくに、昨平成29年11月8日にリニューアルオープン後は、連日大勢の観光客で賑わっています。
築地本願寺は、冒頭で触れた初詣でも賑わうお寺ですが、他の神社仏閣のように押し合いへし合いというほどの混雑はありません。
本堂内でのお参りのピーク時でも5分ほど待つ程度ですから楽です。
ただし、親鸞聖人は加持祈祷をおこなわないことで知られていて、築地本願寺では初詣におみくじはなく、屋台も出ません。その上、ご朱印もありません。
その代わり、築地本願寺の文字と愛嬌のある龍のデザインのスタンプが、本堂入口脇に用意されていて自由に押すことが出来ます。
これは、浄土真宗をはじめとする鎌倉仏教の特徴で、他の古代(平安を含む)仏教の唱える超能力的な加持祈祷によって病気や悩みが解決するなどの迷信を否定したことに始ります。
親鸞上人は、人々が手軽に求める現世利益ではなく、人生を一所懸命生き抜いてこそ幸せな明日がある、として自力更生による現世利益を人々に教え伝えたのです。
親鸞上人が説いた阿弥陀仏へのご利益は「死後の極楽往生」「輪廻の苦悩の解脱」「御仏のご加護」であって、いくら念仏を唱えても、自分自身の努力を惜しむ者には「現世における幸福と栄光、富みや成功」は縁遠いものである、と現代でも納得できる教えなのです。

親鸞上人の教えはとにかく、築地本願寺を参詣してのご利益は「恋愛、縁結び、結婚、家庭安泰、家業発展などで、とくに人間愛に効力が発揮されるとされています。
親鸞聖人は、天災や戦乱による飢餓に喘ぐ民衆の無力感や絶望を、阿弥陀仏の本願である救済を信じさせることで、絶望感を打ち消し、自信と安心感を取り戻し、現世を頑張れるように導きました。
したがって、築地本願寺のご利益は、失恋の痛みや悩み事を全て切り替えて、絶望を希望に、挫折を再起に、無縁を良縁に変えるものと考えられます。
さて、築地本願寺が昨年11月8日にリニューアルオープンしたことは前述しましたが、その時完成して開業したインフォメーションセンターについて説明します。
一階に併設された築地本願寺カフェ「Thumugi」では少々変わったメニューがあります。
本願寺の庭に向けて片面ガラス総張りの明るい店内は座席数82と広々とした空間が広がっています。なお、ガラスを通して中央に見える白い建物の13階に「開運道サロン」があります。

本願寺カフェ店は朝8時から午前11時までが朝メニュー、阿弥陀如来の四十八願の根本の願いである本願の第18願にちなんで、おかゆと味噌汁に加えて色とりどり16種類のおかずの全18品目、この「18品目の朝ごはん」が卓上に出るとなかなかの壮観です。価格は税込み1944円と値は張りますが滋養満点、欠点は注文してからかなり待たされたことですが、味わいも良く話の種にはなります。

その他、寿司、懐石料理、和食などもあり、五穀米などを用いての和食も、さすがにお寺さんです。
カフェですから、コーヒーやドリンク類もまずまず、安心して恋人やご家族・友人などをお誘いできます。
その本願寺正門と道路(新大橋通り)を隔てて真正面のマンション13階の絶景の一室が「開運道サロン」です。
当然ながら、本願寺と同化作用での開運スポット、講師陣にも錚々たるメンバーが連なっています。
写真は、開運道サロンから見た本願寺風景です。

開運村HP、開運道スクールなどを主宰する人物は、長寿の研究や運勢学などで知られ、82歳と高齢ながら意気盛ん、機会があれば会ってみて、その開運パワーをそっくり頂く手もあります。今までも開運道サロンに訪れて教えを乞い、願望達成などで幸せな人生を迎えられた人は数多く実在します。
ともあれ、今年は築地から目が離せません。

築地本願寺アクセス
所在地
東京都東京都中央区築地3-15-1
カフェ電話番号03-5565-5581  .
営業時間月~日 08:00~21:00  .
定休日無休  .
地下鉄日比谷線築地駅1番出口、階段を上がって0分
東京メトロ・新富町(東京都)駅4出口から徒歩約6分
都営地下鉄・東銀座駅5番出口から徒歩約7分


神奈川 鎌倉・明月院

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開運スポット巡りー49

開運、子授け、蓄財の寺

神奈川 北鎌倉・明月院(めいげついん)

鎌倉の「あじさい寺」で知られる明月院は、長谷寺、成就院と並ぶ鎌倉三大あじさい寺でも最も著名なお寺です。
6月は鎌倉が一年の内で最も混雑する時期と言われますが、その一因は明月院を訊ねるあじさい見物の大勢の観光客にあります。
鎌倉幕府が開いた古都の山あいの古刹・明月院の広大な庭に、梅雨に濡れたあじさいの花はやはり絵になります。
明月院へは北鎌倉の駅から歩いて10数分、南の建長寺方向に向かって線路沿いの道を左に折れ、途中、葉祥明・美術館を左に見て、緑濃い北鎌倉の風情を愉しみながら歩くとすぐ明月院に着きます。
明月院は、臨済宗建長寺派の寺院で、山号は福源山、本尊は聖観世音菩薩。応永元年(1394)、関東管領であった上杉憲方が創建した寺として知られます。

6月になると、明月院への参道は、あじさい見物の観光客で長蛇の列が出来、鎌倉石が敷き詰められた山門から方丈に通じる参道に茂るあじさいの群れに写真を撮る人達でいっぱいになります。
明月院のあじさいの特徴は「明月院ブルー」と呼ばれる「ヒメアジサイ」の鮮やかな空色にありますが、他の種類のアジサイも見事な花を咲かせています。しかも、同じ時期には、方丈の裏にある菖蒲園に咲く菖蒲の花も見ごろなのです。
明月院は臨済宗建長寺派寺院で、北条時宗が建立した禅興寺の塔頭であり、開基は上杉憲方、開山は密室守厳です。
境内を埋める数千本のアジサイは見事なもので、アジサイ寺の名に恥じない名刹です。
古色蒼然とした階段を登って境内に入ると、竹林や庭園などもあり、月の広場と呼ばれる周辺は秋になると紅葉スポットとして人々で賑わいます。
庭内には、抹茶や和菓子などを頂ける「お休み処・月笑軒」があり、こちらで一休みしながら紅葉を楽しむのも癒しのひと時になります。その上、接客を含めて仕事に携わっている女性が一様に品が良くて美人、これも明月院ならではの接遇法なのかも知れません。

さらに風情のあるのは茅葺屋根の開山堂で、この手前に佇む「花想い地蔵」共々、こちらも紅葉の季節には特に絵になります。
しかも、名月院はアジサイ、紅葉、菖蒲だけではありません。見事な竹林があり、さらに梅があるのです。
総門や開山堂など境内のあちこちに梅の木があり、初春には紅白の梅の花を楽しめるのも明月院ならではで、とくに寒い季節に咲く明月院の蠟梅(ろうばい)も梅ファンの間では有名で、この明月院の蠟梅が大好きというマニアもかなり存在します。
しかも、暮れから正月にかけても水仙の花が見ごろですから、名月院を訪れる人たちは1年を通じて楽しめるのです。
明月院は、鎌倉三十三観音と鎌倉二十四地蔵霊場、鎌倉十三佛霊場などの札所としても知られ、縁結び、子授け、蓄財にご利益があるとされています。

本堂の方丈の間からは「悟りの窓」と呼ばれる丸窓を通して庭園を見ることが出来ます。ここからは、初夏の緑、秋の紅葉、それぞれが見事なもので、何を悟るかは本院次第です。
境内の入口に架かる茶々橋の畔にウサギとカメの像があり、これも何やら「悟り」の境地に無縁ではなさそうです。
6月の公開時間は、8:30~17:00で、6月以外は、9:00~16:00です。

所在地
〒247-0062  神奈川県鎌倉市山ノ内189
0467-24-3437
JR横須賀線北鎌倉駅から南東に徒歩で約10分。


兵庫・大本山中山寺

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開運スポット巡りー48

小林 永周

安産・子育て、開運祈願
兵庫・大本山中山寺(なかやまでら)

この大本山中山寺は、わが国最初の観音霊場です。
この寺には、重要文化財に指定されている、ご本尊の木造十一面観世音菩薩立像があります。
安産、子育てのご利益があるとされています。
宝塚線中山駅から徒歩わずか1分の至近距離にあり、堂々とした構えの山門にはたくさんのわらじが吊り下がっています。大本山中山寺は西国33の巡礼で24番の札所として知られています。
参道を行くと、女性や幼子を連れた夫婦が多く見受けられます。古来より無事安産を祈る霊跡としての伝統を持ち、ことに中山一位局が当寺のお鐘の緒という腹帯を受けて明治天皇を安産されたことから霊徳を高め、「鐘の緒」(祈祷済の腹帯)を授かろうと多くの人が訪れています。創建は聖徳太子と伝えられ、わが国最初の観立日霊場です。


ご本尊は木造十一面観世音菩薩立像で、女人救済を願われた古代インドのアシュジャ国王妃の19歳の姿を模写したものと伝えられています。本堂は平安時代に建立されたものの度重なる火災により焼失、
現存のものは慶長8年に豊臣秀頼によって再建されたものとか。内部は極楽浄土の童女や飛天、雲龍、花鳥図など極彩色で描かれています。
本堂左手にある石段を上がると、ひっそりと建っている小さなお堂が目に入ります。ここは知る人ぞ知る「子授け地蔵」という霊験あらたかなお地蔵様、真剣にお参りしている女性たちの姿が印象的でした。

;ACCESS
…兵庫県宝塚市中山寺2-11-1
;阪急電鉄宝塚線「中山駅」から北へ徒歩約1分。
;JR「中山寺駅」から徒歩15分。